アラカルト [ A la carte ]
 直訳すると「カードにある」「献立表に載っている」という意味になります。仏料理では食事で単一
の料理だけを指すという習慣がありません。常に前菜・パン・スープ・メインというコースで食事をす
る事が前提となっています。例えば学生の食堂一つを取っても、日本のように単品メニューが主流とな
るのではなく、一つの膳にコースの造りになったものが乗っている、というような感じです。それでも
たまには決められたコースではなく、自分の好きなものを組み合わせて食べたいと思ったり、コースに
自分の好きなものを加えたいと思ったりする事はある筈です。その時に献立表に載っている単品の料理
を注文するわけです。つまり「アラカルト」というひと括りの熟語は、日本語で言うところの「一品料
理」を意味する言葉であるという事です。 (教養課程第一外国語仏語1C講義ノートより)





 窓から差し込む陽の光が、人に見捨てられた廃屋のような寂れた外観のその部屋の印象をいつもより
もやや和らげていた。まるで温かいものに包まれて穏やかな眠りにつくような安らいだ空気。部屋の中
には簡素な家具と僅かばかり転がる紙屑だけ。隔離された病室のようにも見える。簡素なパイプ造りの
ベッド、小さなチェスト、動いているのか止まっているのか分からない古ぼけた冷蔵庫。部屋の中には
それらのものしかなかったから。陽の光がそれらの物たちを優しく包んでいる。静謐。まどろんでいる
物たち。そんな止まった時間の中に彼女はいた。まるで部屋の中の物言わぬ家具たちの一部であるかの
ように、彼女の姿はその部屋の空気の中に溶け込んでいた。無造作なショートカットの髪は淡いブルー。
小柄で細身の身体つき。濃いグリーンを基調とした制服を身に纏い、パイプ造りのベッドに独り腰掛け
ている。幾分か冷たさを感じさせる端正な顔付きの中で印象的に光る朱い瞳は、今は手元のブロック型
の携帯固形食品に向けられていた。ゆっくりとした手付きで包装を取り、暫しその乾パンのような外見
の固形食品をじっと見つめる。それからゆっくりとそれを口へと運ぶ。が、途中でふとその手が止まる。
再び手を戻し、自分の手にあるその固形食品を見つめる。今まで気にも止めなかった事。何という事の
ない事柄が彼女の中に小さな波紋を残す。
(・・・物を食べるということ・・・「食べる」という行為・・・)
 掌に収まる程の大きさの固形食品を見つめながら、綾波レイはふと物思いに耽る。彼女はいつでも自
分の時間の中に生きている。問い、返答。他者との触れ合いではない。そこから生まれ出ずる苦しみも
悲しみも、そして喜びも彼女は知りはしない。
(・・・「食べる」という行為・・・生命を維持する為の必要手段・・・)
(・・・ひとは身体を造る素材を継ぎ足さなければ生きゆく事は出来ない・・・)
(・・・必要に迫られた行為・・・生命に課された義務・・・)
(・・・何故・・・?)
(・・・好きじゃない・・・)
 手の中の固形食品を眺めながら宛てもなく思いを巡らす。ふとものを食べるという決められた事象を
煩わしく感じる自分の一面を見る。ひとの一生の中のそんな時間たちを集めれば、もっと別の事をする
自由を得られるのに。
(・・・水の中に身を委ねる・・・それは心地好いこと・・・良いこと・・・)
(・・・夜の空の淡い光を眺める・・・それは心地好いこと・・・良いこと・・・)
(・・・命じられることじゃない・・・自分がしたいと思うこと・・・)
(・・・でもひとはものを食べる・・・命を守る為だけに食べる・・・)
(・・・必要なこと・・・課されたこと・・・仕方のないこと・・・)
(・・・分かっていること・・・でも何故・・・?)
(・・・好きじゃない・・・)
 ゆっくりと掌の固形食品を口に運ぶ。微かに感じるバターの味。それすらも必要ない事だと思った。
味など感じなくてもいい。それは食することの束縛を隠す為の幻に過ぎない。食の時間は短ければ短い
程いい。そうすれば少しでも自分の時間を広げる事が出来る。自分の生活管理を行う赤木リツコから命
じられた一日の食事量は、固形食品が4つ入ったこのパックを最低一箱。それ以上食べる事などまずな
い。必要最低限の栄養素はこの乾パンで十分な筈だった。後は水を飲む。そんな食生活をもう何年も続
けてきた。
 固形食品をもう一つ口に運ぶ。後は夜に食べる。食物の小片をゆっくりと咀嚼しながら、ふと別のこ
とに思いを寄せる。それでも唯一煩わしいと思わない食の時間がある。毎日繰り返される汎用人型兵器
の試験。その後に限られた人間だけで行われる、レイという存在そのものを用いた様々な作業。全てが
終わった後、組織体の総指令の碇ゲンドウが声をかける。“食事にしよう”。
(・・・それは心地好い時・・・温かい時・・・)
(・・・嫌いじゃない・・・“食べる”時間なのに・・・)
(・・・あのひとがそばにいるから・・・?)
(・・・分からない・・・でも何故・・・?)
(・・・同じ食の時間なのに・・・課された時間なのに・・・)
 包装紙を丸めて屑篭に捨てる。それで食の時間は終わり。後は夕方に本部に出かけるまで本を読んで
過ごす。今日は午前中に偏頭痛と原因不明の身体全体の痛みがひどかったので、学校には行かなかった。
彼女はいつでも自分の時間の中に生きている。他者との触れ合いや邂逅はその中にはない。彼女はまだ
知らない。


 そこから生まれ出ずる悲しみも苦しみも、そして喜びも。




A la carte




 長椅子に腰掛け、レイは手元の紙コップに視線を落としていた。紙コップの中には水。珈琲や清涼飲
料水ではない。ただの水がいい。余計な味は必要ない。白のプラグスーツ姿。テストの合間の休憩時間
だった。この後は環境設定を変えて起動試験を行う。いつも休憩時間を過ごす試験場構内の小部屋が内
装工事中だったので、自動販売機のある階下のロビーに降りてきた。別にそこが好きだという訳ではな
かった。ただ居場所がなかっただけだった。手元のコップを眺めながら、ただ何となく水のイメージを
頭の中に描いていた。漂う自分。心地好い感触。
 ふと無音だった廊下に足音が響いた。ゆっくりとした歩調。それはロビーの方へ近付いて来た。
「あ、やっぱり綾波もここにいたんだ。」
 名を呼ばれたので顔を上げる。視線は合わなかった。レイが着ているものと同じようなデザインの青
いプラグスーツに身を包んだその少年は、背後の自動販売機に磁気カードを挿入するところだったから。
成長期に差しかかったとは言え、まだ幼さを残した細身の体型。やや茶味かかった頭髪は流れるような
直毛。端正な顔立ちは寧ろ女性的なものさえ感じさせる。紙コップを手にして振り返った碇シンジはレ
イの方に笑いかけた。ふと微かに動揺を覚える。不思議な感覚。何故心が揺れるの・・・?
「あの休憩室がないと困っちゃうよね。ここまで降りてこなきゃいけないから。あの、隣座ってもいい
かな?」
 反射的に頷く自分の姿があった。軽い動揺。なぜすぐに頷くの、私・・・?シンジはまた少し笑ってレイ
のいる長椅子にゆっくりと腰掛ける。2人の間には微妙な間隔。決して近い訳でもないが、そこにもう
一人座れる程空いている訳でもない。不思議な間隔。間の取り方。
(・・・何?この気持ち・・・)
 初めて対面してから数ヶ月が過ぎようとしていた。その間に碇シンジという少年に対する関心のよう
なものが自分の中で少しずつ広がっていくのを確かに感じていた。不思議なひと。今まで自分の周りに
いたどんな人間とも違うひと。彼は命令を受けた訳でもないのに他のパイロットを案じて病院に見舞い
にやって来る。彼は自分の父を信じようとはしない。彼は自分の内面を何故か打ち明けてくる。彼は他
人の生活習慣を把握して、わざわざ学校のプリントを部屋の中に置いてゆく。彼は命じはしない。彼は
初めて“笑う”ことを望んでくれた・・・。
(・・・でも嫌じゃない・・・)
 物音。何かを破るような小さな音が響く。音のした方を見る。シンジと目が合う。少し照れたように
笑う。何故かそれはとても彼らしい表情だと思った。先程は気付かなかったが、手に小さな袋を持って
いる。透明な袋。それを開けた音だった。中味が透けて見える。薄茶色の平べったいものが幾つも入っ
ている。
「あ、今日ここに来る途中で買ってきたんだ。エヴァの試験が遅くなるとなんだかおなかすいちゃうし
ね。あの、よかったら綾波も食べる・・・?」
 そう言いながら袋をレイの方に差し出す。笑顔。断ることも出来た。いつものレイなら断っていただ
ろう。彼女の生活を管理している赤木リツコからは、余計なものを摂取しないように、と命じられてい
た。が、何故か頷きながら差し出された袋に手を入れる自分の姿があった。また軽い動揺。手に取った
それは意外に固かった。表面はでこぼことしている。あまり目にした事はない。そのまま手に持って視
線を落とす。不意に横で噛み砕く音。顔を上げると、シンジが袋の中のそれを無心な笑顔で食べていた。
そう、そのまま口にできるものなのね・・・。また視線を落とす。頭の中のスクリーンには今さっき目にし
たシンジの表情が映し出されている。なぜ・・・?なんとなく穏やかな気持ちになる自分にまた軽く動揺す
る。
「普段はあんまりお菓子なんか食べないんだけどね。店先に並んでるのを見てたら何となく買っちゃっ
たんだよ。あの、綾波はお菓子とか食べるの?」
 その言葉で自分が手にしているものが菓子類であるという事を知る。無論レイは間食などしない。菓
子のこともよく知らない。ただ問われてるので答えなければならないと思う。それと共に不思議な感覚。
なぜそんな事を聞くの・・・?
「・・・あまり食べないわ・・・」
 本当は全く食べないのに「あまり」という言葉をつけていた。何故?何となく手元の平べったい菓子
に目を落とす。
「ふーん・・・。じゃあ、僕と同じだね。」
 そう言いながら長椅子に置いていた紙コップを口に運ぶ。湯気。決して香ばしいとは言えない珈琲の
匂い。レイはまた視線を落とす。それで会話は終わり。ただ今シンジの口から零れた言葉が心の中に小
さな波紋を落とす。“僕と同じだね”。私と碇くんに同じ部分があるということ・・・。
 ふと無音になった廊下に足音が響く。少し速めの歩調。それはロビーの方へ近付いて来た。
「あーあ、疲れちゃったなー。あっ、シンジおせんべ食べてるー!」
 赤色のプラグスーツを身に纏った少女が駆け寄ってくる。綺麗にまとめられたロングの髪は美しい赤
毛。西洋の血が入っているせいか、同年代の少女達に比べてやや背丈が高く、既に女性らしい身体つき
を備えている。端正な顔に満ちた笑みはとても華がある。花に例えれば向日葵のように。
「あ、今テスト終わったんだね。アスカもお煎餅食べる?」
 シンジが顔を向ける。2人が座る長椅子の前までやって来た惣流・アスカ・ラングレーは、腰に手を
あててシンジに言葉を返す。何処となく勝気な印象を与える表情。レイは目線を落としたままアスカの
方を見ようともしない。だって話し掛けられてるのは私じゃないもの・・・。
「あったりまえじゃない。あたしがお菓子大好きなの知ってるでしょー?」
 不意にアスカがレイとシンジの間の狭い間隔に腰を降ろそうとする。座れないという事はない。僅か
にレイの身体が外側に押される。それよりもより多くの力をシンジの方にかけたらしく、シンジの身体
が大きく突き放されるようになる。レイは自分でも身体をずらしながら、ふと先程よりもやや固くなっ
ている自分の感覚に気付く。・・・好きじゃない・・・。
(・・・騒々しい・・・いつも自分の周りに不必要な壁を作ってる・・・)
(・・・いつもはそんなに気にならないのに・・・何?この気持ち・・・)
(・・・好きじゃない・・・優しさが消えた・・・)
「ちょっとぉ、もっと離れてよバカシンジ。いやらしいわねー。」
「あ、ご、ゴメン。」
 慌てた表情でシンジが身体を離す。碇くんのせいじゃないのに・・・。そんな考えを持つ自分にまた軽
い動揺を覚える。何故そんな事を思うの・・・?
「おいしそー。あたし、結構お醤油の煎餅って好きなんだー。珍しいわね、あんたがこんなもの買うな
んて。」
 そう言いながらシンジの持つ袋に手を入れる。レイは独り視線を落としながら思う。そう、これが煎
餅というお菓子なのね・・・。アスカは上機嫌な表情で煎餅を口に運んだ。
「あ、これおいしい。なんだか今までに食べたのと違う感じ。何処で買ったのよ、これ?」
 少し驚いたような表情でアスカが尋ねる。シンジが少し笑って答える。
「アスカもそう思う?僕もなんだか普通の煎餅と違うなって思ったんだ。ほら、いつも乗るリニアの駅
の近くに小さな駄菓子屋さんがあるじゃない?今日その前を通りかかったら店先にこのお煎餅の袋が出
てて、何だかおいしそうで気が付いたら衝動買いしてたんだよ。」
「へー。あんたにしては上出来じゃない。もう一枚ちょうだい。」
 返事を聞く間もなく当然のようにアスカが袋の中に手を入れる。シンジはただ笑って取りやすいよう
に袋を差し出した。レイはその表情をそっと垣間見る。セカンドチルドレンと話す時の碇くんはとても
自然な感じがする・・・。ふとそんな事を考えたりした。
「あーあ、何でいつも弐号機の立ち下げが一番最後なんだろう。ね、そう思わない?結局あたしの休憩
が一番短くなっちゃうんだから。たまには順番逆にすればいいのに。」
「仕方ないよ、上の人達が決める事なんだから。」
 伸びをしながらぐちをこぼすアスカにシンジが何でもないように答える。その返事を聞いてアスカが
呆れたようにシンジの顔を覗き込む。
「ほんっとにあんたってつまんない男ねー。あんた程“仕方ない”って言葉が似合う男もいないわよ、
きっと。全国“仕方ない”コンテストとかあったら、間違いなく優勝ね。」
「馬鹿な事言わないでよ。アスカだって使うじゃない、“仕方ない”って。」
 アスカの言葉にシンジが苦々しい表情で言い返す。その言葉が何らかの琴線に触れてより大きな事柄
になって返ってくる。
「あたしはたまにしか使わないじゃない。ごくフツーよ。あんたなんか何でも“仕方ない”じゃない。
そういう所がダメなのよ、あんたは。」
「もう、変なことでからまないでよ・・・。」
 そうやって二人の会話は始まってゆく。いつも通り。時にはどちらかが本当に怒ってしまう事もある。
が、それで懲りる訳でもなく、次に顔を合わせた時もまた同じような会話を始め出す。レイは黙ってそ
んな二人の会話を聞き流している。いつも通り。何故そんな無駄な会話を繋いでいけるの・・・?
 ふと廊下に足音が響く。落ち着いた安定感のある歩調。それはロビーの方へ近付いてきた。
「おや、今日は3人仲良く休憩かね?」
 中背の初老の男性が3人に声をかける。年齢のわりには弛んだ肉もなく細身の身体つき。いつも試験
中に見せるような厳しい印象は姿を隠し、彼本来の性質であろう柔和な表情で3人を見ていた。
「変なこと言わないで下さい、副指令。あたしがこのバカシンジと仲が良い訳ないじゃないですか。」
「もう、アスカ。副指令になんて事言うんだよ。」
 丁度言い争いが佳境に達していた二人の言葉に冬月コウゾウは大人らしい笑みを返しながら、自動販
売機の方へ足を向けた。液体の零れ落ちる音。レイはその背中をふと見つめる。このひとは時々私に遠
い目線を送る・・・。
(・・・あのひとと同じ・・・副指令は碇指令と同じ・・・)
(・・・私の中の私じゃないひとを見ている・・・)
(・・・何?・・・わからない・・・)
(・・・何故?・・・わからない・・・)
(・・・でも分かる事がひとつだけある・・・)
(・・・私はそのひとの為に生きてる・・・それがあのひとの望み・・・)
 紙コップを手に冬月が振り返る。レイはそっと目線を外す。3人の座る長椅子の近くまで来た冬月は
ふとシンジの手にある煎餅の袋に目を止めた。
「おや、シンジ君。何だか随分と懐かしいものを持っているね。」
「えっ?このお煎餅の事ですか?」
 少し驚いたようにシンジが言葉を返す。冬月は紙コップの茶を口に運びながら頷く。
「ああそうだよ。ほら、袋のここの部分に昔の家紋のようなマークがあるだろう。昔、まだ私が子供の
頃によく近所の菓子屋で買ったものだよ。いや、懐かしいなあ。まだあったんだ、これ。」
「えー!副指令が子供の頃?」
 シンジとアスカは驚きの声を上げる。寸分違わぬタイミングで同じ言葉を発する。前に行ったユニゾ
ンの訓練の名残だろうか。2人の驚きの表情を見て、冬月は苦笑する。
「それは失礼だな。私にだって子供の時分はあったさ。君達のような歳の頃もあったんだよ。」
「あ、すいません。そう言う訳じゃ・・・。」
 シンジとアスカはほぼ同時に申し訳なさそうな表情になる。今度もまた言葉がぴったりと重なる。そ
の姿を見て冬月はまた少し笑う。
「まあ、今の時代ほど便利な世の中でもなかったがね。それにしても懐かしいなあ。今でもまだ売られ
ていたのか・・・。シンジ君、悪いが一枚頂いて良いかね?」
「あ、ど、どうぞ。」
 ぎこちない仕種でシンジが煎餅の袋を差し出す。冬月は小さめの煎餅を一枚取り、そのまま口に運ん
だ。少し考えるような顔付きで味をみていたが、やがて満足そうな表情で頷いた。
「ああ、やっぱりそうだ。味も昔と全然変わっていないな。ここの煎餅は他のものと違って特別な醤を
使っていてね。私の祖母なんかもとても気に入っていたよ。いや、本当に懐かしい。」
「副指令が子供の頃って言ったら、セカンドインパクトのまだ前ですよね。」
 アスカが興味深そうな表情で尋ねる。冬月は笑いながら紙コップを口に運ぶ。
「セカンドインパクトの頃はもう私は職についていたからね。そう考えるとこの煎餅は相当な寿命だと
いう事になるかな・・・。こう見えても私は小さい頃はおばあちゃん子でね。祖母は私の好物を見抜いて
よくこの煎餅を買ってきていたものだったな。シンジ君、よく見付けたね。」
 冬月の言葉を受けて、シンジは少し照れたように頭を掻いた。
「いえ、僕も偶然買ったようなものですから・・・。」
 それからアスカとシンジに問われるままに冬月は、自分の幼い頃の話などを語って聞かせた。傍で話
の進行だけをただぼんやりと聞き流していたレイは、今日の副指令はよく話す、とだけ思った。それは
不思議な郷愁を思い起こさせる光景であったかも知れない。まるで老人が囲炉裏端で歳の離れた孫達に
昔語りを語って聞かせるように。
 ふと廊下に足音が響く。落ち着いた張りのある歩調。それはロビーの方へ近付いてきた。
「おや、珍しい。今日は子供達と一緒ですか、副指令。」
「あ、加持さん!」
 やや大きな体格の男性が微笑みながら声をかける。伸びた頭髪を無造作に後ろで縛り、シャツの腕は
いつものように肘のところまで捲ってある。いかにも無精者を装っていながら、その実自然に身に付い
た優雅さと安定感を漂わせている。アスカは憧れの男性の登場にいち早く声を上げる。振り返った冬月
は笑いながら言葉を返した。
「やあ、君か。私もたまには子供達にサービスしておかないと、と思ってね。多分彼らの頭の中では君
や葛城君は話しやすい人間で、私など偏屈な老人と思われてるのじゃないかと心配だったよ。」
「そんな事ないですよ。」
 笑いながらそう返して加持リョウジは自動販売機に磁気カードを挿入した。不意にアスカは長椅子か
ら立ち上がって加持の傍らへ行く。いつもの様に甘えるような仕種で加持の腕に寄りかかった。
「ねえ加持さん、シンジが珍しくお煎餅なんか買ってきてるの。加持さんも食べた方がいいわ。すっご
くおいしいんだから。」
「へえ、そいつはいいな。シンジ君、俺ももらっていいかな?」
 缶の珈琲を手に加持が振り返る。シンジは自然な笑顔を湛えながら手に持った袋を差し出した。レイ
の心がまた微かに揺れる。碇くんの笑顔・・・優しい感じがする・・・。
「ええ、どうぞ。」
 加持は袋の中から一枚取り出した煎餅を面白そうな表情で暫し眺めた後、大きく噛った。彼らしい剛
胆な食べ方だった。そのまま味をみる加持に、ふと気付いたように冬月が言葉をかける。
「そうだ、君なら見覚えあるんじゃないかね?ほら、この袋のここの部分にあるマーク。昔よくあった
だろう、この煎餅は。」
 冬月の言葉に加持は笑いながら言葉を返した。彼らしい、嫌味のない気持ちのいい笑い方だった。
「生憎、僕は副指令ほど昔の人間じゃありませんからね。ちょっと見覚えはないですね。ただ一つだけ
確かなことは、この煎餅は今まで食べた中でも数本の指に入る味だってことですよ。」
 加持の言葉に、冬月は思わず苦笑する。優しげな表情。まるで実の息子を見るような。
「相変らず一言多い男だな、君は。」
 そのものの言い方が可笑しくて、シンジやアスカも声を上げて笑った。何となく場が柔らかな雰囲気
で包まれた。その中でふとレイは気付く。いつの間にか自分とシンジの座る間隔がアスカが来る前の状
態に戻っていた。決して密着する程近いわけではない。が、1人その間に入れる程あいている訳でもな
い。レイは全く動いていない。恐らくシンジがいつの間にか身体を移動させたのだろう。また微かに心
が揺れる。何、この気持ち・・・?
(・・・でも嫌じゃない・・・)
 ふと廊下に足音が響く。狭い歩幅の2人分の足音。それはロビーの方へ近付いてきた。
「あー、シンジ君、おせんべ食べてるー!」
 アスカが来た時と同じような言葉が不意に飛んできた。若く華のある女性の声。シンジが目を向ける
と、丁度ネルフの制服を見に纏った女性が駆け寄ってくる所だった。整ったショートカットの髪は薄く
茶味がかった黒。シンジ達よりも一回り以上は年上である筈なのに、何故か“可愛らしい”という印象
を受けてしまう。
「あ、マヤさん。よかったらいかがですか?ただの煎餅ですけど。」
「ありがとう、丁度おなかすいてたんだー。珍しいわね、シンジ君がお菓子持ってるなんて。」
 笑顔で言葉を返しながら伊吹マヤはシンジの差し出す袋に手を入れた。その後ろから同行していた女
性がゆっくりとした歩調で歩いてくる。短めのストレートヘアは鮮やかな金髪。普通の職員とは違い、
彼女の組織内での位置を示すように白衣を身に纏っている。冷たい美しさのようなものを感じさせる顔
は、今は幾分か和らいでいた。
「マヤ、いいの?間食なんかして。今ダイエット中だったんじゃないの?」
 後ろからかけられた声に一瞬マヤは反応する。ややばつの悪そうな笑顔を浮かべて声を発した赤木リ
ツコの方を振り返った。既に手にある煎餅は一部欠けていた。
「あ・・・せ、センパイ。一応ダイエットは明日からにしようかなって・・・。ダメなんですあたし、こんな
風にお菓子があるとどうしても手が延びちゃって・・・。」
 うろたえるマヤの姿を見てリツコは苦笑いする。まるで歳の近い妹を見るような表情。
「やれやれ、本当にしょうがない子ね。それにしても本当に珍しいわね、シンジ君がお菓子なんか持っ
て来るなんて。あら、このマーク・・・シンジ君、随分懐かしいお煎餅買ってきたわね。」
 シンジの手にある袋の表面に気付いて、思わず言葉を発する。リツコのその言葉を耳にして、加持が
不意におどけたような渋面を作ってみせる。
「リッちゃん、もしかして君、歳を誤魔化してないかい?」
 加持の言葉にリツコは一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。何の事、一体?加持はすぐ隣に
いる冬月と目を合わせる。暫しの間をおいて2人は声を上げて笑い出す。事情が掴めないままリツコは
笑い続ける2人を眺めて呆れたように呟く。「変なひと達」と。
「あ、よかったらリツコさんもいかがですか?」
 シンジが袋を差し出しながら声をかける。リツコは袋の中を見て少し意外そうな顔になる。
「あら、ありがとう。でもいいの?もうあと2枚ぐらいしか残ってないわよ。」
「ええ、構いません。どうせみんなで食べようと買って来たものですから。」
 シンジは笑って答える。リツコは安心したように袋から煎餅を1枚取り出した。一口噛って優しげな
笑みを浮かべる。美味しいわよねこのお煎餅、とシンジに声をかけながら。一瞬リツコの目が傍らに座
るレイの方に移った。手にある煎餅のことで何か言われるかも知れないと思ったが、別にリツコは何も
気に止めず、レイから視線を外した。
 ふと気付く。いつの間にかロビーには何人ものひとが集まり、そのいずれもが楽しそうに笑って会話
の輪を作っていた。加持が軽い冗談を飛ばす。全員が可笑しそうに笑う。場の空気が和んでいた。不思
議な事だ、とレイは思う。つい数分前までは自分ひとりしかこの場にいなかったのに。
(・・・これは何?・・・ふとしたことでひとが集まってゆくということ・・・)
(・・・ふとしたことでひとの繋がりが出来てゆくということ・・・)
(・・・それはたったひとつの事で始まった・・・碇くんの持ってきた菓子・・・)
(・・・「食べる」ということ・・・それが全ての始まり・・・)
(・・・何故?・・・)
(・・・「食べる」ことは生の手段に過ぎないのに・・・それは課されたことなのに・・・)
(・・・何故?・・・)
(・・・分からない・・・)
 ふと傍らに目を遣る。丁度シンジが1枚残った最後の煎餅を噛るところだった。和んだ表情。笑顔。
レイの心がまた微かに揺れる。何?この気持ち・・・でも嫌じゃない・・・優しい・・・。ふと自分の手にある
煎餅に気付く。そう言えば口にするのをすっかり忘れていた。ゆっくりと口に運ぶ。固い感触だと思っ
た。やがて口の中に独特の醤の味が広がってゆく。初めて食べた菓子、初めて口にした“お煎餅”。
(・・・・・・)
 レイはそれを“美味しい”と思った。


「・・・・・・!」
 不意に隣で激しく咳き込む音が聞こえた。思わず目を向ける。木の長椅子の隣に座っているシンジが
青い顔で咳き込んでいた。
「・・・!・・・・・・!」
 天空から舞い降りる使徒。かつてない程強大な敵。直属上司の葛城ミサトは励ましの意味も込めて3
人のパイロットに食事の約束をした。最初は高価な肉料理にする予定だったが、肉類が苦手なレイに合
わせる形でアスカが別の場所を提案した。そして首尾良く使徒の殲滅に成功し、4人は今この場末の屋
台ラーメンの店に腰を落ち着けていた。
「・・・!・・・・・・!」
 尋常でない咳き込み方だった。多分気管に何かが詰まったのだろうか。それぐらいの事は想定できた。
ただ、対処の仕方がよく分からなかった。こんな時どうすればいいの・・・?レイはただじっと咳き込み
続けるシンジの苦しげな横顔を見ていた。その時、不意に反対側から声がした。
「ちょっと、どうしたのよ。大丈夫?」
 そう言うや否や、シンジの傍らに座るアスカがかなりの強さでシンジの背中を叩き始めた。何度も何
度も平手で背中を叩く。結構な大きさの音に横に座るミサトや屋台の主人は何事かと思わず目を丸くし
た。それにも構わずアスカは咳き込み続けるシンジの背中を叩く。いつになく心配そうな表情。
(・・・そんなに力を入れても効果はあまりないのに・・・)
(・・・碇くんが痛みを覚えるだけなのに・・・)
(・・・何も分かっていないの?・・・)
 何とはなくアスカに反感を覚える自分の姿があった。動揺。なぜそんなことを考えるの・・・?暫しそ
のような状態が続いた後、不意にシンジが、うっ、という呻き声をあげた。それを境にシンジの咳き込
みが一気に軽い感じのものになった。それはアスカも感じたらしく、深刻だった表情がようやく和らい
だものになった。
「・・・ったく、何やってんのよあんたは。本当にカッコ悪いんだから、もう。すぐ隣にこんなに親切な
女の子がいた事に感謝しなさいよっ。」
 それまでの心配そうな表情から一転して咎めるような顔でアスカが声をかける。シンジはまだ断片的
に咳き込みながら、笑顔で言葉を返した。激しい咳き込みのせいか、涙目になっていた。
「あ・・・ありがとう、アスカ。」
 シンジのその表情がレイの心に小さな波紋を残す。どうして感謝の言葉を返すの・・・?アスカの叩き
方は必要以上に乱暴だった。誰が見てもそう思う。碇くんは痛みを覚えていた筈なのに・・・。
(・・・これが喉にものを詰まらせた人への正しい対処なの?・・・)
(・・・それは違う・・・違うような気がする・・・)
(・・・でも碇くんは感謝していた・・・あのひとに・・・)
(・・・分からない・・・)
 その後、シンジは普通に食事を再開した。レイの中には小さな疑問が燻り続けた。


(・・・・・・)
 ふと顔を上げる。古びた小さな木のテーブル。こじんまりとした店内の壁には、崩し字で書かれた品
書きが幾つも打ち付けられている。目の前にはゆっくりと食事を続けるシンジの姿。やや大きめの器の
中の白い麺。レイも同じものを食べていた。シンジの視線は今は器に落とされていた。今日はいつもの
制服姿ではなく、シャツにジーンズ。
(・・・・・・)
 晴れた日だった。久しぶりに一般の休日と任務の休日が重なった。朝シャワーを浴びて浴室から出る
と、そこにはうろたえるシンジの姿があった。レイが学校を休んだ時の返却レポートを届けに来たとい
う事だった。それからどういう訳か2人一緒に書店へと足を向ける事になった。そこでレイはシンジに
薦められた本を一冊購入した。今傍らに置いてある小さな包みがそれだった。
(・・・・・・)
 何故2人で外出する事になったのかはよく分からなかった。が、2人は今一緒に少し遅い昼食をとっ
ていた。小さなうどん屋。肉料理ではなかったのでレイにも食べられた。何となく食事を続けるシンジ
の姿をじっと見つめる。ふと数週間前に自分の中に燻った事柄がレイの中に蘇ってきた。
(・・・もしもまた碇くんが喉を詰まらせたら・・・)
 麺類を食べていたので思い出した。レイの中に様々な考えが広がってゆく。もしもそんな状況になっ
てしまったら・・・。シンジの顔をぼんやりと眺めながらそれらの思いに身を委ねていった。
(・・・今日はあのひとはいない・・・そばにいるのは私しかいない・・・)
(・・・碇くんが喉を詰まらせたら私が対処しなくてはならない・・・)
(・・・どうすればいいの?・・・)
(・・・あのひとのようにすればいいの?・・・)
 その時のことを思い出す。必要以上の力でシンジの背中を叩き続けるアスカの姿。それと同じ方法を
自分も採らなくてはならないのだろうか。
(・・・そんなに力をいれてはいけない・・・碇くんが痛みを感じる・・・)
(・・・でもある程度の力を入れないと効果がないのかも知れない・・・)
(・・・どのぐらいの割合で力を入れればいいの?・・・)
(・・・分からない・・・)
(・・・私にそれが出来るの?・・・)
(・・・分からない・・・)
「あ、あの綾波、何?顔に何かついてる?」
 不意に声をかけられて我に返る。気が付くと目の前のシンジが顔を上げてレイの方を見ていた。不思
議そうな表情。レイは瞬時に視線を落とす。
「・・・別に・・・」
 止めていた箸を動かし始める。言葉はごく普通に返した。が、何故か顔が少し熱くなってくる様な感
触を覚えた。何?この気持ち・・・。それと共に今まで考えていた事をふと思い返す。
(・・・ただ食の時間を過ごしているだけ・・・)
(・・・なぜあんななことを考えるの?・・・)
(・・・分からない・・・)
(・・・碇くんが思い起こさせるの?・・・)
(・・・碇くんは不思議なひと・・・)
(・・・分からない・・・)
 ただ黙々と箸を動かし続けていった。


(・・・!)
 鐘の音を模写した電子音がスピーカーから響く。週番の生徒が声をあげる。起立、礼。途端に安堵の
溜息のような空気が教室内に満ちた。今まで規律正しく升の目に並べられた座席に身を収めていた生徒
達が、それぞれ思い思いの動きを始めた。同級生と喋る者、教室を出ていく者、鞄を開く者。
(・・・今日は風が涼しい・・・)
 ノートブックを折り畳んで机の中にしまう。レイの座席は窓側なので、外の風が直に感じてとれる。
強い日差しが照り付ける毎日。時にこうした涼しげな日がある。風は心地好い。何もなくなった机にレ
イはうつ伏せる。このまま1時間ぐらいは眠ることができる。学校の時間では昼食も含めた昼休みの時
間。レイはこれまでにこの時間に食事をしたことはない。本を読むか居眠りをして過ごす。誰もそれを
気に止める者もいない。彼女の中だけに流れる時間。
「シーンジ、おべんとちょーだい!」
 少し離れた場所からアスカの跳ねた声が飛んでくる。毎日ある光景。レイは目を閉じたままその声を
聞き流す。少し遅れて、うんわかった、というシンジの声が聞こえてくる。なぜあのひとの分の昼食ま
で碇くんが持ってくるの・・・?何とはない問い。別にどうでもいい事。ふと気付く。朝方に相当酷かっ
た偏頭痛と全身の痛みが殆ど去っていた。この頃レイは学校を休むことが少なくなった。何故か分から
ないが学校に来た方が体調を整え易くなっていたから。何故・・・?
(・・・そこにはあるから・・・微かに心地好く感じるものが・・・)
(・・・それは何?・・・)
(・・・分からない・・・上手く言えない・・・)
(・・・・・・)
(・・・温かく・・・感じるもの・・・)
(・・・・・・)
(・・・優しく・・・感じるもの・・・)
(・・・それは何?・・・)
(・・・上手く言えない・・・笑顔・・・)
(・・・誰の?・・・)
(・・・・・・)
「あら、何でランチボックス3つあるのよ?」
 アスカの声が聞こえてくる。今日はいつもよりも眠りに入るのが遅いように思う。ただ何となくうつ
伏せて目を閉じているだけ。本を読んだ方がいいのかも知れない。そう思いかけた時、不意にシンジの
声が耳に入ってきた。
「あ、これ綾波の分だよ。」
 突如自分の名が出てきたので思わず顔を上げた。何のこと・・・?それと同時にアスカの驚いたような
声が飛び込んでくる。
「えー、何よそれー!何であんたが優等生の分のおべんとなんか作ってくるのよ。もしかしてあんた達
そーゆー関係なの?あーいやだいやだ、ひとに内緒で。」
「ち、違うよ。そんなんじゃないよ。」
 目を向けると、少し離れた所でアスカとシンジは立ったまま会話を交わしていた。アスカの手には薄
いピンクのランチボックスが一つ。シンジの手には同じデザインのそれぞれ色違いのランチボックスが
二つ。片方は白、もう片方は水色。
「ほら、昨日夕食の時にミサトさんがたまにはお弁当が食べたいって言ってたじゃない。それで今朝3
人分作ったんだけど、ミサトさん、今日急に仕事絡みの食事会に出なきゃいけなくなったって言ったか
ら1人分余っちゃったんだよ。それでふと思い出したんだ。そう言えば、綾波はいつもお昼食べてない
なあって。もし良かったらってぐらいの軽い気持ちで持って来たんだ。」
「へー。大好きな彼女の事はよーく覚えているのねー。」
 アスカはふざけたような口調で言葉を返す。シンジはそれと分かるような大きな溜息をつく。
「だから、そんなんじゃないってば・・・。」
 その言葉を無視するかのようにアスカはふっと踵を返し、レイの方に歩み寄って来る。いかにも“仕
方ない”という顔をつくりながら。レイの心が少し固くなる。彼女に向き合う時の自分が何故そんな風
になるのかはよく分からない。
「優等生、いとしのシンジ様があんたの為におべんと作ってくれたわよ。たまにはあたし達と一緒にお
昼でも食べない?」
 軽い感じで話し掛けてくる。何故か少し見下したような印象を持ってしまう。問いにはすぐに答えは
しない。“あたし達”って誰と誰のことなの・・・?そのまま目の前のアスカと視線を合わせる事もなく
ただじっと黙っていると、不意にアスカの後ろの方からシンジの声がした。
「あ、綾波。もしよかったら食べてもらえるかなあ?そんな大したものじゃないんだけど・・・。」
 目を向ける。控えめな笑みを浮かべた姿がそこにある。戸惑い。気付くと小さく頷く自分の姿があっ
たから。断ることは出来た。これまでのレイだったら即座に断っていただろう。だって余計なものを摂
取してはいけないもの・・・。が、この同意には実は意味があったのかも知れない。彼女の思わぬ同意に
シンジが顔を綻ばせたから。安堵の笑顔。・・・優しい・・・。
「じゃ、たまには3人一緒にお昼食べない?いい機会だし。こんなこともう二度とないかも知れないわ
よ、学校ではきっと。」
 アスカが指を立てて、いかにもいい事を思いついた、というように少し得意そうな感じで提案する。
シンジは笑いながら、うんいいよ、と言葉を返す。レイはアスカの言ってる事がよく分からなかった。
そうすることにどんな意味があるというの・・・?不意にシンジは周りを見回し、すぐに顔を上げて離れ
た所にいる女子生徒に声を送った。
「あ、島野さん。ちょっとお昼の間だけ机借りてもいいかなあ?」
 話し掛けられた女子生徒は笑顔で、別にいいわよ、と声を返してくる。そして即座に彼女の友人達の
方に振り返って、きゃあ碇くんに話し掛けられちゃった、と黄色い声を上げた。彼女の友人達の輪の中
からは、えーいいなー、という声が上がる。そんな事には全く気付かぬように、シンジはレイの座席の
すぐ前にある机を動かして、レイの座る机にくっつけるようにした。アスカは少し不思議そうな表情で
声をかける。
「ちょっと、何してんのよあんた。」
「え?ああ、机をくっつけてみんなで食事しようと思ったんだよ。日本の学校ってよくそんな風にして
たから。」
 その言葉を受けてアスカは感心したように、ふーん、と声を上げる。そしてすぐに、それじゃあたし
も、と言いながらレイの隣の座席の机を動かしてレイの机にくっつけるようにした。そうした簡単な作
業をおこなっていると、不意に背後から声がした。
「お、なんや楽しそうやな。わいもまぜてんか?」
 シンジが振り返ると級友の鈴原トウジが笑顔で立っていた。愛用の黒ジャージ上下を身に纏い、両手
いっぱいにコンビニエンスストアで買い求めたパンやおにぎり等を抱えていた。アスカは瞬時に表情を
歪める。そして強い口調。
「ちょっと何よ、あんたなんか誰も呼んでないわよ。邪魔しないでよ。」
 その言葉を受けてトウジも瞬時に表情を歪める。どうしても売り言葉に買い言葉、になってしまう。
「なんやうるさい女やなー。おどれに言うとるんとちゃうわ。シンジに言うとるんじゃ。おどれこそ邪
魔せんといてや。」
 関西弁のトウジのものの言い方は必要以上にきつく聞こえる。それがアスカの琴線に触れる。
「なによ!体育会系バカ、ちゃんと制服着てきなさいよ!」
「なんやと!」
「あ、アスカ、別にいいじゃない。みんなで一緒に食べた方が楽しいよ、きっと。」
 正面衝突しそうな勢いの2人の間にシンジが割って入る。まだ残り火が燻っているトウジをまあまあ
となだめ、取り敢えず持ってるものを下ろしたら、と話し掛ける。トウジはすぐに機嫌を直し、すぐ近
くの机を動かしてシンジ席の隣に持ってきた。丁度レイから見ると斜めの位置。一方のアスカは、何と
なく自分だけが抑えられたような感じで暫し不機嫌そうにしていたが、丁度教室に入って来た洞木ヒカ
リの姿に気付いてすぐに笑顔に戻った。
「ヒカリ、みんなで一緒にお昼食べない?」
 アスカの声に気付いて、長い黒髪を綺麗に後ろでまとめた温厚な印象のその少女は、うんいいよ、と
明るい声を返した。自分の座席から小さな包みを取り出して、窓際のレイの席の方へとやって来る。
「あ、みんな机くっつけてるんだね。」
 ヒカリはすぐに近くの空いている机を探し、その座席の男子生徒に一応断った後、トウジの隣の位置
にそれを動かした。そうしている間にトウジはもう一つの机を動かしてアスカの隣の位置に置いた。ヒ
カリが不思議そうな顔で尋ねる。
「鈴原、それ誰の席?」
 トウジは笑いながら言葉を返す。普通に笑う時の彼の顔は少し大人びて見える。
「ケンスケの分や。あいつ今パン買いに行っとるんやけど、すぐに戻って来るやろ思うてな。」
「えー!あたしの隣にあいつが座るのー?」
 アスカが露骨に嫌な顔をする。それを見てトウジがまた顔を歪めるが、いち早く場の雰囲気を察した
ヒカリがすぐに別の提案をする。
「じゃあ、私がアスカの隣に座るわ。それでいいでしょ?それで鈴原の隣に相田くんが座ればいいわ。
鈴原もそれでいいでしょ?」
 返事も聞かぬ間にヒカリは自分の弁当の包みを持って移動する。アスカとトウジはすっかり毒気を抜
かれてポカンとしていたが、やがてきまり悪そうに苦笑いを浮かべた。
「なんや、男一列女一列で向かい合うて、お見合いパーティみたいやな。」
「馬鹿なこと言わないで!」
「馬鹿なこと言わないで!」
 何気なく発したトウジの言葉にアスカとヒカリが全く同時に反応する。2人のきつい目線に責められ
て、トウジは思わず肩をすくめる。レイはただ何となく無関心そうに級友のそんなやり取りを眺めてい
た。「お見合い」という言葉の意味はよく分からない・・・。
「あ、ゴメン。これ綾波の分なんだ。その、あまりおいしくないかも知れないけど。」
 レイと同じように暫し級友達のやり取りをぼんやりと見ていたシンジが、不意に気付いたように手元
の白いランチボックスを差し出した。少し照れたような控えめな笑顔。彼らしい表情だと思った。受け
取ってじっと視線を落とす。初めてのこと。誰かが自分の為に作ってくれた食事。
「ケンスケの奴遅いなあ。先に食ってしまおか。」
 トウジがじれたような顔で腰を降ろす。それをきっかけにアスカとヒカリも椅子に座った。トウジは
いち早くクリームパンの袋を破る。せっかちね、と笑いながらヒカリが自分の弁当の包みを解いた。
「あ、すっごい綺麗。いつも思うんだけどヒカリのおべんとってすごくおいしそうだよねー。」
 蓋を開いたヒカリの弁当を覗き込んで、アスカが思わず言葉を洩らす。割と小さめのランチボックス
の中には驚くほど多くの色彩が溢れていた。パエリヤ風に軽く色をつけた御飯の所々に小さく刻んだ野
菜が顔を出す。照焼きのチキンとカレー粉で味を付けたスパゲティが主菜。隅にプチトマトが2つ3つ
置かれている。“美味しそう”という素直な感想がよく似合うような取り合わせ。ヒカリは少し照れた
ような笑みを浮かべて言葉を返す。
「そんなことないよ。私の作るものなんて殆ど残り物が主なんだから。結構手抜きしてるんだよ。」
「でもいいわよねー。あたしなんか何にも作れないもん。やっぱりヒカリは偉いよ。」
 アスカが溜息をつきながら言葉を洩らす。ヒカリはまた少し笑った。
「それより私は結構碇くんのお弁当に注目してるんだよ、いつも。男の子なのにとてもセンスがいいし、
栄養のあるものも考えて入れられてるし。私はお弁当だったらクラスで誰にも負けないって思ってるけ
ど、碇くんは好敵手って言ってもいいかな。アスカはいいよね、いつも碇くんが作ってくれるから。」
 ヒカリの言葉を聞いて、ランチボックスの蓋に手をかけていたシンジが照れたようにこめかみの辺り
を掻いた。
「そ、そんなことないよ。僕の場合、必要に迫られてやってるだけだから・・・。」
「何よ、まるであたしが何にもしてないみたいじゃない。」
 アスカが少したしなめるような口調で言葉を投げながら、自分の手元のランチボックスを開く。中を
見て一瞬、あら、と声を上げた。隣のヒカリも覗き込み、あら、と声を上げた。
「今日は頑張ったじゃない。あんたにしては上出来よ、これ。」
 アスカが笑顔で声をかける。自分でも気付いていないだろう、幾分か優しげな表情。言葉につられる
ようにレイもそこに目を向ける。ランチボックスの中で綺麗に区切られた3つの色が輝いていた。黄色
の部分はいり卵、橙色のものは細かく刻んだ人参のグラッセ、そして茶色の部分は挽肉のそぼろ煮。端
の方にピクルスと巨峰の粒が添えられていた。とてもベーシックな形の三色弁当。シンジはより一層照
れたような表情になった。
「今日はちょっと早く起きちゃったから凝ってみたんだよ。いつもこうならいいんだけど・・・。」
 言いながら自分の手元のランチボックスを開く。中はアスカのものと全く同じ。そこに視線を向けな
がらレイは思う。卵と人参の部分は別に問題はない。が、ひき肉の部分は自分には食べられないだろう。
例え加工したものであっても肉類はやはり身体には合わなかった。
「あーあ、ええなー弁当があるのは。わしもたまには心尽くしの弁当っちゅう奴を食ってみたいわ。」
 パンを頬張っていたトウジが、ヒカリとシンジのランチボックスを交互に見比べながら羨ましそうな
表情で呟いた。ヒカリが笑いながら、鈴原はいつもジャンクばかりだもんね、と声をかける。
「ほんまやで。男は料理なんかするもんじゃないっちゅうのがわしの料簡やったけど、シンジを見とる
と撤回してもええかなって思うてしまうわ。食いもんだけは別やからなー。」
 一瞬、ヒカリが何か言いたげな表情になる。が、言葉は出なかった。不意に別の方向に視線を向けた
トウジがそちらに向かって大きな声を上げたから。
「おうケンスケ、こっちや。遅いから先に皆で食っとったで。」
 小さな紙袋を抱えた相田ケンスケはすぐにその声に気付き、了解の意味で片手を上げた。そうしなが
らもトウジの手は次のパンの袋を破っている。
「珍しいなあ、みんなで一緒に食事かい?でも丁度よかったよ。今日は思わぬ収穫があったんだ。」
 トウジの隣の空き席に腰を下ろしながら、ケンスケは持っていたパンの袋に手を入れた。何かを隠し
ているような思わせぶりな笑顔。それに引き付けられるように一同の視線が集まった。
「ジャーン!これさ。今日は運がよかったよ。3年生が社会科見学でいなかったからね。」
 勢いよく出されたケンスケの手にあるものを見て、一瞬全員が呆気にとられる。別に何の変哲もない
ラップ包みのロールパン。暫し妙な沈黙が辺りに漂ったが、目の前に座るヒカリがふと気付いたように
小さく言葉を洩らした。
「あ・・・それってもしかして“お好み焼きロール”?」
 ヒカリの言葉にケンスケは満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。それを契機に先程までの妙な雰囲気
が消える。シンジが会話を繋げるように言葉をかける。
「へー、すごいなあ。それって確か1日に3つしか作られないんだよね。」
「半月前に通いのパン屋が初めてこのパンを売り出してからずーっと狙ってたんだ。今日やっと手に入
れる事が出来たよ。ほんと、長い闘いだったね。なんせ“伝説のお好み焼きロール”だから。」
 ケンスケは誇らしげな笑みを浮かべながらパンのラップを解き始める。その姿を見て思わずトウジは
苦笑する。
「ほんま、お前も好きやなあ・・・。」
 一連の会話を黙って聞いていたアスカが不意にそれと分かるように大きく溜息をついた。
「何よ、バッカみたい。たかがパン一つの事じゃない。大袈裟なのよ、子供じゃあるまいし。」
 その言葉に動じることもなく、ケンスケは余裕げな笑みを浮かべてアスカを見返した。眼鏡のレンズ
に陽の光が反射して一瞬キラリと輝く。
「甘い、甘い。シロウトさん程そんな風に言うけど、何も分かっちゃいないのさ。1日に数個しか作ら
れないパンって事は既にそれ自体がブランドなんだよ。それを追い求めるっていうのはコレクターのロ
マンって言っても過言じゃないね。まあ惣流には無理だね、このパンをゲットするのは。」
 ケンスケの挑発的なものの言い方が明らかにアスカの琴線に触れる。瞬時に目線が強くなる。持って
いた箸を置いて両手で強く机を叩いた。他の場所にいる生徒達が一瞬、何事か、という視線を向ける。
すぐ隣に座るレイは無関心そうに目線を自分の手元に戻した。白のランチボックスの蓋を開く。そして
その小さな“変化”に気付いた。
「言ったわね!なーにが“コレクターのロマン”よ。そんなパンの一つや二つすぐに買ってみせるわよ。
あんたが一生懸命やってたのがいかに無駄な事か分からせてあげるわ!」
 アスカが身を乗り出してケンスケを睨み付ける。ケンスケは全く表情を変えずに、まあ頑張ってみて
よ、と涼しげに言葉を返した。そのすぐ隣でレイは開いたランチボックスの中味をじっと凝視していた。
シンジやアスカのものと殆ど変わらぬ三色弁当。ただ、その小さな“変化”だけがあった。黄色の部分
は煎り卵、赤の部分は人参のグラッセ。そこは変わりはなかった。が、本来挽肉が乗っている筈の部分
には全く別のものが乗っていたのだ。
「明日には白黒つけたげるわよ。シンジ、あたし明日はおべんといらないからね!」
「はいはい、分かったよ」
 アスカのきついものの言い方に、シンジは苦笑いしながら軽い感じで言葉を返した。多分、明日にな
れば今言ったことなど綺麗に忘れて、いつものように自分の所へ昼食を取りに来るだろう。そんな事は
既に承知している、というような笑顔だった。そのシンジの表情をレイは見つめる。挽肉の代わりに乗
せられていたのは醤油で濃い色に味付けされた油揚げを細かく刻んだものだった。これでレイの分のラ
ンチボックスの中には全く肉類が入ってない事になる。
(・・・私の分だけ中味が変わっている・・・)
 葛城ミサトに渡す筈だったものをそのまま持ってきた訳ではなかったのだろう。わざわざ具を別にす
る意味など何もない。そう考えると、シンジが肉類の苦手なレイの事を気遣って別手間で具を1種類付
け足した、という事になる。1人分の別の食材を。
(・・・私の為に手間をひとつ増やした・・・)
(・・・私の食べるものだから碇くんが配慮した・・・)
(・・・もしかしたら断っていたかもしれないのに・・・)
(・・・何?この気持ち・・・)
(・・・・・・)
(・・・でも・・・嫌じゃない・・・)
(・・・心地好い・・・)
「でも本当に久しぶりよね、こんな風にしてお昼食べるのって。小学校の時はいつもこうやって食べて
たんだもんね。何だか懐かしい。」
 ケンスケのパンの話題が一段落したところでヒカリがふと言葉を洩らす。それを聞いたトウジがおに
ぎりのパッケージを破りながら言葉を返した。
「せやなあ、今から思うたらあの頃はほんま良かったで。なんせ一月の給食費さえきっちり入れとけば
何杯おかわりしても誰も何も言わんかったしなあ。今の食費にかける金額のこと考えたら、もう一度小
学校に戻りたいくらいや。」
 トウジのその言葉に全員が声を出して笑う。レイは独り手元のランチボックスに視線を落としたまま
ふとその場の空気をぼんやりと感じる。何?この気持ち・・・。
(・・・食卓・・・ひとが集まって食事をする・・・)
(・・・食の行為・・・自分の身体を守る為の行為・・・)
(・・・でも・・・何故?・・・)
(・・・それだけじゃない・・・この空気・・・)
(・・・何故?・・・)
 トウジの冗談にシンジが笑う。ヒカリとアスカが放課後の買い食いの計画を立てる。シンジが借りた
ビデオの感想をケンスケに告げる。トウジが真面目な顔でヒカリの弁当を、一口、と頼み込む。笑いな
がら小さなシュークリーム1つと交換という事で話がまとまる。それを横からアスカが茶化す。
(・・・食事・・・食の行為・・・でもそれだけじゃない・・・)
(・・・この空気は何処からやって来るの?・・・)
(・・・分からない・・・でも確かにここにある・・・)
 和んだ感覚。誰もが笑っている。何かが通じ合っている時間。優しげな絹の感触にも似たその空気を
レイは確かに感じていた。独りの場所にはない、温かな感覚。
(・・・“食事”をするということ・・・)
(・・・それはただの食の時間ではないのかも知れない・・・)
(・・・それは何?・・・)
(・・・分からない・・・でも確かにここにある・・・)
 自分の中だけに流れる時間。少しずつそれは遠ざかっていく。レイはふと気付いたように手元の箸を
持つ。細かく刻まれた油揚げのかけらを2つ、3つ。ゆっくりと口に運ぶ。独特の煮汁の味が徐々に口
の中に広がっていった。
 レイはそれを“美味しい”と思った。


「あー!シンジ、ほっぺにおべんとついてるよ。」
 霧島マナがシンジの顔を覗き込む。チェックのスカートに無地のシャツという簡素な服装がかえって
彼女の美しい身体付きを引き立たせている。無造作なショートカットの髪の色は濃いブラウン。端正な
顔は笑うととても華がある。
「え、どこに?」
 シンジが慌てて頬を触る。が、米粒はシンジが触っているのとは逆の方に付いている。口元の少し上
の辺りに。シンジのその姿が可笑しくてマナは明るい笑い声を上げる。
 数日前に、戦略自衛隊が極秘に進めていた人型兵器に関するトラブルが発生し、その捕獲及び掃討の
任務がネルフに依頼された。軍とネルフが共同で行った大掛かりな作戦だった。最終的にパイロットご
と逃亡を計った人型兵器を追い詰めたのは3体のエヴァンゲリオンだったが、同時に軍は人型兵器の空
爆を決定、N2爆雷の直撃を受けて人型兵器は完全に消滅した。
 霧島マナはその時姿を消した。誰もがその死を確信していた。奇跡的に命を取り留めた彼女を小さな
港町の病院で見付け出し、軍の粛正の手が延びる前に連れ出したのは一人だけその生存を信じて疑わな
かったシンジだった。
 そして今マナはミサトの家にいる。つい半時間ほど前に訪れた加持を加えて、ミサト、アスカ、シン
ジ、レイ、マナの6人で今後の事を話し合った。話し合いに一応の決着がつき、マナが加持の提案を全
面的に受け入れた。その後、皆で食事をしようという事になった。この地から離れる事となったマナに
とってはそれは文字通り“最後の晩餐”だっただろう。
 不意にマナが手を伸ばし、シンジの頬についていた米粒を指先で取る。そしてそのまま指先の米粒を
口へ運ぶ。笑顔。一瞬呆気にとられていたシンジはすぐに照れたような笑みを浮かべてこめかみを掻い
た。顔が瞬時に赤くなる。
「あ、ご、ゴメン。そ、その、ありがとう・・・。」
「あー、シンジ赤くなってるよ。かわいいー。」
 そう言うマナの顔もほのかに上気して薄紅色に色付いている。2人のそんなやり取りを見て加持とミ
サトが明るく笑う。傍らで自分の分の食事にただ黙々と専念していたレイはふと箸を止める。小さな疑
問が頭をよぎる。そのままそれは心の中に根付く。
(・・・今の動作は一体何?・・・)
 微かに目線を上げ、自分の目の前に座るアスカの表情を覗く。アスカはいかにも無関心を装い箸を動
かし続けていたが、明かに不機嫌だという事は見て取れた。眉間に微かに皺が寄っている。このひとは
怒っている・・・。
(・・・ここ最近ずっとそうだった・・・)
(・・・あのひとと碇くんが仲良くしているとセカンドは不機嫌になる・・・)
(・・・碇くんが自分を見てくれなくなったから・・・)
(・・・でもそれだけじゃない・・・そんな気がする・・・)
 目線を動かしてシンジのマナの姿を眺める。何か楽しい話をしながら食事を続けている。シンジの軽
い冗談にマナが笑って軽く肩を小突く。シンジがまた照れたような笑みを浮かべる。ふとレイは胸に小
さな痛みを感じる。ここ一月ばかりいつもそうだった。殆ど感じない程度の小さな痛み。それは身体の
痛みではない。レイにはそれがなんであるのか分からない。自分でもよく分からない心の痛み。今まで
自分の周りに満ち溢れていた優しさのようなものがほんの少し消えたような、言葉にできない不思議な
想い。
(・・・碇くんとあのひとは恋人同士・・・)
(・・・言葉の意味はよく分からない・・・)
(・・・互いに親愛の情を持っているということ・・・信じているということ・・・)
(・・・よくわからない・・・でも今の行為はその顕れなの?・・・)
(・・・親愛の情の顕れなの?・・・)
 疑問がいつの間にかレイの心を捉えてしまう。マナが何気なくとった行為。シンジの頬についた米粒
を取って口に運ぶということ。それにどんな意味が含まれているのだろうか。レイは未だ考え続ける。
その直後の2人の表情の変化。確かにその行為には何かしらの意味があったということを示している。
考える。が、答えは一向に出てはこない。
(・・・他人の口元に付着した米粒を取って食するという行為・・・)
(・・・それが親愛の情の顕れだというの?・・・)
(・・・本には書いてない・・・どうやって知ればいいの?・・・)
(・・・わからない・・・)
(・・・わからない・・・)
 結局その問がレイの心の中から去る事はなかった。不思議な疑問と微かな胸の痛みを心の中に抱えた
まま、レイは淡々と食事を続けた。


「・・・レイ、頬に米粒がついているぞ。」
 テーブルの向かい側に座る碇ゲンドウが声をかける。本部の指令室にいる時から比べるとやや和らい
だ雰囲気。それでも彼独特の陰欝な空気は離れる事はない。レイは手元に視線を落としたまま短く言葉
を返す。
「・・・はい・・・」
 そのまま暫し頬の米粒を付けたままにしておく。が、ゲンドウは別にそれを気にする事もなく、ただ
黙々とフォークとナイフを動かしている。レイは待つのをやめて自分で頬の米粒を取り、小皿にそっと
落とした。再び疑問が心を捉える。そう単純な事ではないのかも知れない・・・。
(・・・碇指令は私の頬の米粒を取らなかった・・・)
(・・・親愛の情の顕れではないということなの?・・・)
(・・・確かに碇指令の大事なものは私自身じゃない・・・)
(・・・私の中の誰か・・・そのひとを碇指令は見ている・・・)
(・・・それは知っている・・・)
 深夜まで営業しているレストラン。各々の席が個室然としていて他の者に気兼ねすることなく食事を
することが出来る。接客のレベルもかなり高く、ゲンドウはこの店を気に入っているようだった。セン
トラルドグマにて行われるレイだけを対象にした極秘の作業。その後に大抵ゲンドウはレイを食事に連
れて行く。2回に1回は必ずこのスペイン料理のレストランに来る。やはり贔屓にしているのだろう。
 レイは故意に自分の頬にパエリヤの米粒を付けてみた。数日前に葛城ミサトの家で見た光景が未だ疑
問として心の中に引っ掛かっていた。親愛の情の顕れとしての行為。それが暫定的なレイの中での結論
だった。が、今夜のゲンドウとの食事で得た結果がまたレイを疑問の出発点に押し戻した。ゲンドウは
レイの頬についた米粒を取って口に運ぶという事はしなかった。それは何故なのか。ゲンドウにとって
レイは親愛の情を持つ相手ではないという事なのか。それともその行為にはもっと別の意味が含まれて
いるのか。もう数日間この疑問はレイの心を捉えていた。取るに足らないこと。が、一旦考え込んでし
まうとその事ばかりに気をかける自分の姿があった。
(・・・碇指令は私の中の他のひとだけを見ている・・・)
(・・・だから米粒をとろうとしなかったの?・・・)
(・・・それとも別の意味があるの?・・・)
(・・・もしかして全く別の意味を持つ行為なのかもしれない・・・)
(・・・分からない・・・)
(・・・わからない・・・)
(・・・わからない・・・)
 レイの思考はそのままループ状に固定されかのようにただ疑問を発し続けた。ただ手だけが黙々と食
事の手順を踏んでいた。

 ふと食事の手を止め、碇ゲンドウは目の前に座る少女を見た。いつもと変わらぬ無表情な顔の中で印
象的な朱い瞳が輝いている。それは今は手元の野菜のスープに集中されていた。不意にゲンドウの心に
和んだ空気が流れてくる。先程レイが米粒を頬に付けていた事を思い出して。遠い記憶が幻燈のように
頭の中に映し出される。温かな、優しい光に満ちた記憶。
(・・・そう、確かそんなこともあったな。)
 若い頃のゲンドウはいつも何かに対して焦っているようだった。生き急ぐ、丁度そんな言葉が当て嵌
まるような性癖に周囲の誰もが閉口した。いつも独りで急いていた。何かに追われるかのようにその日
その日を懸命に生き抜いていた。
 そんな彼と好んで食事を共にする女性がいた。職場の食堂の昼食を急いでかき込むゲンドウと向き合
い、彼女はゆっくりとしたペースで自分の食事を楽しんでいた。息をつく為に途中僅かに顔を上げたゲ
ンドウに彼女は笑いながら声をかける。
“あらあら、おべんとうがほっぺについてるわよ”
 そして手を伸ばしゲンドウの口元についた米粒を口に運ぶ。笑顔。その瞬間、いつも猛スピードで進
んでいるゲンドウの中に、僅かに優しく和んだ時間が流れる。ふと自分自身に帰ることが出来る瞬間。
その中でゲンドウは確かに彼女と自分の間に何か大切なものが通じている事を感じていた。
 今、ゲンドウはその時間がどれ程大事な掛け替えのないものであったかを痛切に感じている。運命の
残酷な悪戯だった。彼女を失って初めてゲンドウは自分の犯してしまった過ちを悔いた。あの僅かに流
れた優しい時間。それをもっと大切に守らねばならなかった。全ては自分に非がある。もうあの時間は
戻って来ない。
 ふと我に返り、またレイの方に目を向ける。端正な顔付き。そこには確かに彼女の面影がある。それ
がゲンドウに僅かばかりの潤いを与える。レイは彼女から生まれ出たもの。彼女を確かに内に秘めたも
の。それが今のゲンドウの全てだった。その為だけに彼は生きていた。
 ふとレイ自身の事に思いを向ける事がある。ゲンドウは思う。レイは自分に対する“罰”であると。
その存在自体が罰であり“原罪”であると。それが自分に課された十字架。問わず語らず、自分はただ
それを背負うのだ、と。
 造られた魂、造られた身体。レイはただ“目的”の為だけに生み出された存在。ゲンドウはレイを人
間ではなく人形として扱う事を最初から自分に課していた。レイはこの世のものとして生きなくてもよ
い。寧ろ人間として生きた時、そこには苦悩と絶望のみが待ち受ける。時に激しい呵責の苦しみと痛み
がゲンドウを襲う。ゲンドウはそれを全身で受け止める。決して逃げたりはしない。それは自分に課さ
れた罰であるから。最後の約束の日までそれは延々と続くだろう。ゲンドウは進んで罰を受けることを
自分の掟とする。自分はきっと地獄に堕ちるだろう。人でなしの自分。それでいい。そうしてレイはこ
の世から去ってゆくのだ。
 思わぬ計算違いが起きてしまったのは、最初の使徒が現れてからだった。シンジを呼び寄せた。ゲン
ドウが呼び寄せたのではなかった。エヴァンゲリオン初号機がシンジを求めたのだ。“彼女”がその中
に眠る初号機。妙なタイミングでレイが再起動試験のトラブルで重傷を負った。初号機に搭乗していた
訳ではなかった。専用機の零号機だったにも関わらず未曾有のトラブルが生じたのだ。今考えると、確
かにそこには“彼女”の意志が働いていた。シンジの参入を切望したのだ。
 ゲンドウは思う。シンジは“彼女”に似た力を持っている。心を閉ざしたものや心を失ったものに何
かを与え育んでゆくような不思議な魅力を。レイと同じようにシンジにも確かに“彼女”の面影が残っ
ている。そしてそれがゲンドウをより一層深い苦しみへと突き落とす要因となっている。
 シンジが現れてからレイが徐々に変わりつつある。レイに生身の表情が顕れてきた。それは他人であ
れば殆ど気付かないようなものであっただろう。が、確かにゲンドウは感じていた。恐らくシンジも感
じているだろう。レイは少しずつ人形から“ひと”へと目覚めつつある。もう容物ではない。レイは自
分自身として生き始めようとしている。
 シンジとレイが一緒にいる。それを見るだけで背筋が凍り付くような悪寒を感じる。シンジはこれ以
上レイに近付くべきではない。レイはこの世のものとしては生きられない。彼岸のもの、夢と現実の狭
間のみに存在するもの。シンジはひとであり、自分の息子だ。最後の瞬間にシンジがレイの元へと行っ
てしまえば、全ては無に帰することとなる。そう、シンジ自身も。そしてレイもこれ以上シンジに近付
くべきではない。レイは決してひとにはなり得ない。約束の日まで“彼女”を内に秘め続けるだけの容
物に過ぎないから。ひとの領域に入ってしまった人形。ひとの心を知ってしまった“もの”。それは悲
劇以外の何物でもない。レイには何も残らない。
 自分だけが全ての罰を受けるのは構わない。それは自ら望んだことであるから。が、シンジとレイの
接触はゲンドウの身を乗り越えて彼等自身にこの世のものとは思えぬ業を与える結果を導いてしまう。
それだけは耐え切れなかった。ゲンドウは急いた。自分の目的だけを完全に貫き通せるように。その為
に周りの全てを駒とし道具とした。シンジの心を蹂躙し、必要とあれば次のレイを用意する事さえ考え
た。ひとの関係を全て断つ。自分と関わりがあろうとなかろうと。それがゲンドウの限界点の良心の結
果だった。レイとシンジの心を未完成にしたまま全てを終わらせること。父親として自分が出来る最後
の手段。
 ふと目の前のレイを見る。かたちにならぬ疑問。“彼女”がシンジを呼び寄せた訳。自分の踏み込め
ぬ領域で母と子が互いに引き付け合ったのだろうか。それも自分に対するひとつの罰であるのなら、進
んで受けよう、と思う。自分の犯した最も重い罪は“彼女”を失った事であるのだから。が、シンジと
レイは“罪”であってはいけない。それだけは何としても避けなければならない。ゲンドウは取り留め
のない考えを続ける。そしてその末にいつも辿り着く結論へと至る。
(今はもう考える段階ではない。後はいかに事を運ぶか、だ。)
 丁度良いタイミングでウェイターが姿を現す。食後の珈琲とレイの為にハーブティーを注文する。か
しこまりました、という初老のウェイターの落ち着いた返事を聞きながらふと一瞬考える。
(策を尽くした。力を尽くした。最後に出来ることと言えば・・・)
 レイが顔を上げる。以前はゲンドウと目を合わせると僅かに表情を和ませたものだった。無機質な笑
みを浮かべて。が、今ではレイは全くの無表情でゲンドウを見る。その中に微かに生身の表情の固さが
顕れている。ひとの表情。ひとのこころ。ゲンドウは心中で天を仰ぐ。そう、ひとという存在に許され
た最後の手段。
(・・・祈ることだけだ。)
 レイは心から生ずる固い表情でじっとゲンドウを凝視し続ける。


「あら碇くん、ほっぺたにごはん粒が付いてるわよ。」
 ヒカリがシンジの顔を覗き込みながら声をかける。言われたシンジは慌てて頬を触る。
「え、本当?どこに?」
 頬の辺りをしきりに擦る。が、実はシンジが触っているのとは逆の方に米粒は付いている。口元の少
し上の方に。そんなシンジの姿が可笑しくて、目の前に座るトウジとケンスケが思わず吹き出す。
「なんやセンセ、ごっつう可愛らしいで、その格好。」
「ホントだよ。しっかりしろよ、初号機パイロット。」
 家庭科の調理実習の時間だった。たまたま班の組み合わせでいつもの5人とレイが同じ卓で調理する
ことになった。肉野菜炒めと御飯と味噌汁。ヒカリとシンジがここぞとばかりに張り切り、他の班に比
べて凝ったものが出来ていた。味噌汁を主に担当したヒカリは手作りのつみれと暖色の野菜をふんだん
に使った田舎風のものをこしらえ、野菜炒めをメインで担当したシンジは夏野菜を使いながらソースを
別に作ったりして工夫を凝らした。盛り付けまで行ったシンジはレイの分だけ密かに肉を取り除いてお
いた。だから今レイの目の前にある皿には食べられるものだけが入れられている。
「何やってんのよ、あんたは。ほんっと進歩ないわねー。」
 アスカが苦笑いしながら声をかける。丁度シンジを間に挟んで右隣にアスカ、左隣にレイが座ってい
る。レイの位置からはシンジの左頬についた米粒は見えるが、アスカの方からは見えないのだろう。シ
ンジはまだ気付かずに逆側の頬をしきりに触っていた。ふとレイの心に先日来の疑問が蘇る。
(・・・数日間考えてきた・・・でも分からなかった・・・)
(・・・自分でも試してみた・・・でも分からなかった・・・)
(・・・今はひとつの機会なのかもしれない・・・)
(・・・考えても分からなかったこと・・・)
(・・・分からない時は・・・)
(・・・・・・)
(・・・そう・・・やってみる・・・)
 決心した時には既に手が動いていた。シンジの頬に付いた米粒を指先で取り、そのまま口へ運んだ。
別に味が変わっている訳ではなかった。自分の心の中に何らかの変化が生じた訳でもなかった。解決し
きれぬ心を抱いたままふと顔を上げ、レイは不意にその空気の変化に気付いた。
「・・・・・・!」
 向かいに座る3人が驚愕の表情でレイの顔を見つめていた。言葉を失い呆然としている。目線を動か
して横を見てみた。アスカが3人よりもより激しい驚きの色を見せている。シンジだけがやや普通げに
頬を触り、少しばかり不思議そうな顔でレイを見つめていた。あまりに急な空気の変化。その原因は恐
らく自分の今の行為にあるだろうという事は明かだった。
(・・・私、何か間違ったことをしてしまったの?・・・)
 沈黙と凝固が長く続いた。暫しの間の後、ようやく我に返ったケンスケが極端にぎこちない口調で言
葉を発した。
「・・・あ、そ、そうだ。ほ、ほらトウジ、この間見た映画さあ、あ、あれ面白かったよな。ホント。」
 突如話を振られたトウジがようやく呪縛が解けたように過敏に反応する。
「え?映画?一体何の事や、よう分からんで。」
 見当はずれの答えを返すトウジに慌てて小声で声をかけるケンスケ。バカ、何でもいいから話を合わ
せろよ、と。言われたトウジはようやく気付いたように、ああそうか、と手を打った。
「ああ、あの映画やろ。ほら、何やロボットが出てくる・・・。ろ、ロボットが未来から人を殺しに来て
どうのこうのっちゅう、まあつまり、あれやろ。」
「違うよ、それは大分前に見たビデオじゃないか。ほら、えーと・・・そうだ、確かイインチョウも同じ
やつ見たって言ってたよね、あの映画だよ。」
 すっかり舞い上がって支離滅裂な答えを返すトウジを見捨て、ケンスケは早々に話題をヒカリの方へ
振る。ヒカリも不意に呪縛が解けたように慌てて言葉を返した。
「あ・・・あの、あれでしょ?ほら、あの、豪華客船が沈んだ話。ラブロマンスで主人公の俳優がすごく
格好よくて。わ、私ね、あれ見て何度も泣いちゃったんだ。」
「うーん、それも結構古いけど・・・。ま、いいや。それでね、その映画が・・・」
 まるで綱渡りのようなぎこちなく間の危うい会話が滔々と続いてゆく。空気が明かに凝固している。
レイはその全ての原因は自分にあると確信していた。ようやく驚愕の呪縛から解放されたアスカが極端
に不機嫌そうな顔で食事を再開する。シンジだけがまだぼんやりとした顔でレイを見つめていた。
(・・・何か取り返しのつかない間違いをしてしまったのかもしれない・・・)
 結局、実習の時間が終わるまでそのぎこちない空気は場を占め続けた。


「・・・あ、綾波。その、今日の家庭科の時間のことなんだけど・・・」
「・・・ごめんなさい・・・」
 シンジが言葉を続けるより先にレイが謝りの言葉を発した。ネルフの本部に向かうリニアの中。乗客
はいつものようにそれ程多くはない。今日はアスカは週番の仕事があるのでシンジとレイの2人だけが
一緒に本部へと向かうことになった。途中、2人の間には会話はなかった。リニアに乗って暫く経った
後、不意にシンジが言葉をかけた。レイは道すがらずっと考え続けていたことをそのまま口に出した。
だって間違いを犯した時には謝らなければいけないもの・・・。
「あ、べ、別に綾波が謝ることはないよ。だって何も悪いことなんかしてないもの。その、実を言うと
僕は少し嬉しかったんだ。綾波が僕のこと見ていてくれたんだなあって。自分ではあんまり気付かない
事だしね。ありがとう。」
 そう言ってシンジは少し笑った。優しげな表情。レイは戸惑いのような感覚を覚える。誤りであると
思っていた事がそうではなかったという事。そして思いがけない笑顔がそこに零れ落ちたという事。疑
問がまた振出しに戻ってしまう。碇くんが嬉しく感じたということ・・・?
(・・・何?この気持ち・・・)
(・・・・・・)
(・・・でも嫌じゃない・・・)
「あ、ゴメン。何だか変なこと言っちゃったよね。あの、僕も今日ちょっと見てて思ったんだけど、綾
波って出てきたものは結構きれいに食べちゃうんだね。ちょっと多く作り過ぎたかなあって思ったんだ
けど。」
 その言葉を聞いて、レイの心の中に微かな変化が顕れる。確かに自分は出されたものを一応全て食べ
たような気がする。それをシンジが知っていたということ。シンジが見ていたという事。不意に身体の
温度が少し上がる。特に顔の辺りが集中して熱くなってくる。何故そのような状態になるのか分からな
い。そのレイの姿を見てシンジが慌てたように言葉を繋ぐ。何故シンジが慌てているのかも分からない。
「あ、ご、ゴメン。また変なこと言っちゃった。女の子にこんな事言っちゃいけないよね。」
 そこで会話が途切れる。シンジが少し気まずそうな表情で目線を向かい側の窓の方へ戻す。レイはま
だ火照ったようになっている自分の顔を不思議に感じる。鼓動も僅かに早くなっている。何故こんな状
態になったのだろう。碇くんが私を見ていたということ・・・。それとは別に頭の逆側であるひとつの確
信を作りつつあった。そう、そういうことなのかも知れない・・・。長い時間自分の心を捉え続けた疑問
が緩やかに氷解してゆくのを感じた。
「あ、あのさ。綾波っていつもどんな食事をしているの?」
 暫しの沈黙の間の後、不意にシンジがレイの方に顔を向けて声をかけた。その頃には顔の火照りも殆
ど直っていた。レイは先の2つの言葉よりも今の質問の方がより不思議だと思った。どうしてそんなこ
とを聞くの・・・?
「・・・支給されている携帯食品・・・」
 気付くと普通に答えを返している自分の姿があった。それ以外ではゲンドウと共にとる食事もあった
が、シンジに対してはそれは告げない方が良いと思った。別に言う必要もない。自分の食事の大半を占
めているのが固形食品であるのは確かだったから。そのレイの言葉を聞いて、シンジは少し神妙な顔付
きになった。
「ふーん。でもそれじゃ何だか片寄っちゃうよね・・・。」
 そう言ってシンジは少し考え込むような顔になる。携帯固形食品には栄養素がバランス良く配合され
ているから全く問題はないのに・・・。何故か思ったことは口には出なかった。どうして言葉を控えたの
か自分でもよく分からなかった。何となくシンジの思考の流れの邪魔をしたくなかった。以前ならそん
な事は考えなかった。ひとのことを気にかけるということ。ひとのことを思うということ・・・。不意に
シンジがパッと明るい表情になる。
「あ、そうだ。今はちょっと無理だけど、そのうち時間が出来たら一度、綾波の家に何か食事を作りに
行くよ。たまには温かいもの食べた方がいいしね。」
 そう言った後、急に照れたような表情になって、少し控えめな感じで言葉を続けた。
「あの、もし綾波が良ければ、だけどね。」
 少し照れたような笑顔。彼自身の優しさの顕れ。レイは何故かその表情がとても彼らしいと思う。そ
れと共に今シンジの発した言葉を反芻する。碇くんが私の部屋で食事を作る・・・何故・・・?
「・・・わかったわ・・・」
 新たな疑問に戸惑う心とは裏腹に冷静に返事の言葉を発する自分の姿があった。それがまた新たな戸
惑いを生む。何故すぐに答えを返したの、私・・・?思いがけないレイの返事を聞き、シンジは思わず笑
顔になる。いつって約束は出来ないけどね、と言葉を付け加えながら。そしてそれで会話がまたひと段
落する。また静寂。柔らかな静謐の時間。レイは自分の手元に目線を落としながら様々なことに思いを
馳せる。
(・・・ひとつ知ったことがある・・・)
(・・・誰かの頬についた米粒を取って口に運ぶという行為・・・)
(・・・意味のあること・・・意味のある行為・・・)
(・・・ひとのことを気にかけるということ・・・)
(・・・ひとのことを思うということ・・・)
(・・・その顕れとしてあの行為はある・・・)
(・・・そう・・・そんな気がする・・・)
(・・・だから碇くんは感謝の言葉を言う・・・)
(・・・・・・)
(・・・私が碇くんを見ていたということ・・・)
(・・・私が碇くんのことを思ってたということ・・・)
(・・・・・・)
(・・・碇くんが私を見ていたということ・・・)
(・・・・・・)
(・・・・・・)
 ふと先程のシンジの言葉が心の中にこだまする。“いつか、食事を作りに行くよ”。小さな波紋を心
に残す。それは静かな広がり。優しい心のうねり。レイは何度もその言葉を反芻してみる。自分の住む
部屋の風景を思い描きながら。
(・・・あの台所に碇くんが立つ・・・)
(・・・碇くんが食事を作る・・・)
(・・・・・・)
(・・・何を作るの?・・・)
(・・・・・・)
(・・・・・・)
 不意に以前にシンジから貰った昼食のランチボックスの形が心の中に現れる。挽肉の代わりに入れら
れていた油揚げの醤煮。何かかたちにならない安らぎのようなものがレイを包む。時間が緩やかに流れ
てゆくような優しい感触。静謐。
 レイはその感覚を“心地好い”と思った。




 窓から差し込む陽の光が、人に見捨てられた廃屋のような寂れた外観のその部屋の印象をいつもより
もやや和らげていた。まるで温かいものに包まれて穏やかな眠りにつくような安らいだ空気。部屋の中
には簡素な家具と僅かばかり転がる紙屑だけ。隔離された病室のようにも見える。簡素なパイプ造りの
ベッド、小さなチェスト、動いているのか止まっているのか分からない古ぼけた冷蔵庫。部屋の中には
それらのものしかなかったから。陽の光がそれらの物たちを優しく包んでいる。静謐。まどろんでいる
物たち。そんな止まった時間の中に彼女はいた。まるで部屋の中の物言わぬ家具たちの一部であるかの
ように、彼女の姿はその部屋の空気の中に溶け込んでいた。無造作なショートカットの髪は淡いブルー。
小柄で細身の身体つき。濃いグリーンを基調とした制服を身に纏い、パイプ造りのベッドに独り腰掛け
ている。幾分か冷たさを感じさせる端正な顔付きの中で印象的に光る朱い瞳は、今は手元のブロック型
の携帯固形食品に向けられていた。ゆっくりとした手付きで包装を取り、暫しその乾パンのような外見
の固形食品をじっと見つめる。それからゆっくりとそれを口へと運ぶ。が、途中でふとその手が止まる。
再び手を戻し、自分の手にあるその固形食品を見つめる。今まで気にも止めなかった事。何という事の
ない事柄が彼女の中に小さな波紋を残す。
(・・・食事をするということ・・・「食事」という行為・・・)
 掌に収まる程の大きさの固形食品を見つめながら、綾波レイはふと物思いに耽る。彼女はいつでも自
分の時間の中に生きている。問い、返答。他者との触れ合いではない。が、今彼女は少しずつ“ひと”
を思い始めている。別の時間の中にも生き始めている。
(・・・食の行為・・・自らを維持する為だけの行為・・・)
(・・・それだけだと思っていた・・・)
(・・・・・・)
(・・・でも違う・・・)
(・・・食事をする・・・ひとは“食事”をする・・・)
 時が動き始めた。彼女は何となくそう感じる。自分の中が少しずつ変わり始めている。ひとの心に少
しずつ近付いてゆく自分。ひととして生きる自分を見つめ始めている自分。何故そのように移ろいでゆ
くのだろう。が、今はとても自然にその気持ちを受け止めている。
(・・・ひとは食事をして笑いを生む・・・)
(・・・ひとは食事をして喜びを得る・・・)
(・・・ひとは食事を通じてひとを見る・・・)
(・・・ひとは食事を通じてひとを思う・・・)
 様々な記憶の断片。それらひとつひとつがレイに小さなメッセージを送る。今レイは気付いていた。
以前ほど“食”という行為に煩わしさを感じていない自分を。それは食の行為ではないから。それはひ
とが集まる食事の場であるから。食卓。それは物自体を指す言葉ではない。場を表す言葉。ひとが集ま
り互いを伝え触れ合わせる場を。
(・・・食事の場・・・ひとが食事をするということ・・・)
(・・・・・・)
(・・・嫌じゃない・・・そう思う・・・)
(・・・温かい・・・そう思う・・・)
(・・・優しい・・・そう思う・・・)
 ふと目線を上げ、部屋の敷居の向こう側のキッチンを眺める。たまに湯を沸かす程度のことはするが
それ以上の事には使った事もない台所。今は柔らかな陽の光を浴びて静かに眠っているようだった。眠
りについた流し台。風景の一部。そう、いつかそこで食事を作ってくれるひとがいる。いつか眠ってい
る彼等を起こして蒸気や火でそこに命を吹き込んでくれるひとがいる。レイはその人物の姿を微かに思
い浮かべる。記憶の中の彼はいつも優しげな表情で笑っている。
(・・・いつか・・・そう、いつか・・・)
(・・・・・・)
(・・・待てばいい・・・いつか・・・)
(・・・・・・)
(・・・約束だもの・・・)
(・・・・・・)
 柔かな陽の光の戯れの中で、レイはおぼろげにその姿を感じる。流し台の前に立ちまな板の上に乗せ
た野菜を刻む。空いた手で鍋の中味をゆっくりとかき回す。いつかそこに立つだろう彼の姿。止まった
時間の中でレイはその幻想を確かに心に刻み込む。
 目線を手元に戻す。ビスケット状の携帯固形食品。そう、今自分がこうして独りで食しようとしてい
る事も“食事”であるのだろう。そう思う。食事、という言葉でいつでも自分はその場にいる事が出来
る。そう、だから。
(・・・私は食事をする・・・)
(・・・だからその言葉を言ってみる・・・)
(・・・・・・)

 それはたったひとつの小さな言葉。いつかこの部屋で食事を作ると言ってくれたひとりのひとへ向け
ての、そして“食事”という行為そのものに対しての感謝の言葉。







いただきます・・・。









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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です


Written by "Kame" from "Kame's Text Space".