「傘がない」

Written by Nam-Nam 1998/8/16


雨は突然降り始めた。

日中の日差しで焼かれたアスファルトが湯気を立てはじめ、
騒がしかった蝉たちも街路樹の葉の陰に避難している。
次第に強くなってくる雨は空気を容赦無くブルーグレイに染めてゆき
何時しか辺りは雨の音だけになっていた。

シンジは丁度、トウジたちと別れたところで、
ひとりでコンフォート17マンションへ向かって歩いているところだった。

「雨か…」――― やっぱり傘を持ってくるべきだったかな…
とりあえずシンジは雨を避けるため、カバンをあたまにかざしていた。

―――― 「あ、綾波…!?」

正面の交差点で、やはりカバンで雨を避けるようにした綾波レイが、
急ぎ足で渡ろうとしていた。

シンジは一瞬ためらったが、すぐに大声でレイに声を掛けていた。

「綾波! 待ってよ」
レイは交差点を渡ったところで立ち止まり、カバンをあたまにのせたまま
こちらを振り向いていた。

――――「碇君…」

シンジはレイの元へダッシュで駆け寄ってきていた。
―――「ハァ、ハァ、ハァ… あ、綾波… か、傘は?」

息をつきながらであったが、シンジはレイに問い掛けていた。

――――「傘… 持ってない…」

「え、そ、そう、… 実は僕も今日は持ってないんだ… けど…
そこのコンビニで買おうかなって… その、良かったら綾波も… いっしょに…」

――――「別に、必要無いから… シャワーを浴びればいいから」

「でも、そんなんじゃ綾波、風邪ひいちゃうよ! …ダメだよ、
とにかくこのままじゃ二人ともビショビショだよ ……
 それじゃ…今日は僕が買うからさ、ちょっと付き合ってよ…」

そう言うとシンジは先に立って歩き始めた。
レイはどうしたら良いか解らずにその場で立ち尽くしていた。

「綾波! 何やってるの? 綾波も来るんだよ?」

レイはきょとんとした顔でシンジのほうを見ていたが、
やがてシンジが歩き始めると、ヒョコヒョコとついてきた。

――――50メートル程行ったところにある、
全国チェーンのコンビニにシンジは入った。

―――僕は透明の安いので良いか… 綾波は…

「ごめんね待たせちゃって。あんまり良いのがないから迷ってたんだ…
でも、ないと困るから… 買ってきた。 …はい、これ」
――――「えっ …これを…私に……」

―――――― それはレイの瞳のような赤い透明な傘だった。

――――「……」

「安物でごめん…だけど… この色が似合うかなって思って… ダメかな?」

――――「う、うん、そんなことない。ア、アリガト…」

シンジは笑顔でレイの方を見ていたが、
レイの頬が一瞬赤く染まったことには気付かなかった。

――――「それじゃあ、私帰るから…」
そう言いながら新品の赤い傘を広げていた。

「えっ、送っていくよ」
――――「いい。一人でダイジョウブだから…」

「そ、そう。じゃ、明日またネルフで…」

―――「……」
レイは無言で傘を差すと雨の中を出ていった。
傘の赤が蒼い街にコントラストを作っていた。

―――綾波、怒ってるのかな… やっぱり青い傘の方が良かったかな…

―――― 翌日 ――――――――――
ネルフロッカールームにて

起動試験を終えたレイとアスカが顔を合わせた。
丁度レイは着替えを終えて出て行くところで、
いろいろと愚痴をこぼしながら着替えていたアスカは、
まだプラグスーツを半分脱いだところだった。

「それでね、シンジったらまだ言い訳するからアタシもついカッとなって……」

――――「先、帰るから…」

「ちょっと、ファースト… 待ちなさいよ。って 
えっ……アンタ何で傘なんか持ってるわけ? 今日、快晴じゃないの…」

レイはいつもの制服で少し赤い顔で振り返っていた。

――――「べ、べつに、いいじゃないの… サ、サヨナラ…」
そう言うとレイは足早にロッカールームを出ていった。

「なに〜? ヘンな子ねぇ…」

帰りの道を歩きながら、レイはなんだか良い気分で自然と笑みがこぼれてきた。

―――― これが「笑う」ということ?
―――― なぜ? 可笑しくなんか無いのに…

先程、アスカに傘を見られた事もなぜかむしろ逆にそれを増幅していた。

―――― 碇君に貰った傘
―――― 傘、それは雨を避けるもの
―――― なのに… なぜ? なぜこんなに嬉しいの?

レイはそんなことを考えながら、笑顔で雲ひとつない空を見上げた。
快晴の強い日差しは、再開発地区の建造中のアパート群に大きな影を作っていた。
その間を抜けながらレイはおもむろに赤い傘を広げ、
最初はゆっくり歩いていた。そして、
やがてスキップするような足取りになり、
ついにはくるくる回りながら声を上げて笑っていた。

「フフフ… ハハハ… ハハ… 碇クンに貰った傘! ハハハ…」

グレーのアパート群と工事機械のノイズだけがそのドラマの観客だった。
天使の笑う声は、いつまでもコンクリートに共鳴していた。

.

.

END


ご感想を!

Nam-Nam/ybt56253@sun-inet.or.jp