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第4章、「終幕」
<初音>
柏木家に一人残った初音は、明かりもつけずに居間にいた。
初音は居間の真ん中にあるテーブルに両肘をつき、祈るような格好で座っている。
そしてその合わせた手の中には、耕一の叔父からもらった青い石が握られていた。
梓が出て行ってから20分。
梓が出てって以来、なんの音沙汰も無いので初音は自分も行こうと何度も思った。
しかし、その度に梓の言葉が頭の中を駆けめぐり、思いとどまった。
「…大丈夫かな、みんな」
もう何度目かの言葉を初音がつぶやいた時、中庭のほうからドサっという鈍い音が響いた。
「なに…今の音」
初音が恐る恐る居間の障子を開け中庭を見ると、ボロボロになった千鶴が立ち上がる姿が見えた。
「千鶴お姉ちゃん!!」
初音は履き物も履かずに千鶴の元に駆け寄った。
「大丈夫、おえね…」
「初音っ…早く…早く逃げなさいっ!!」
千鶴は、初音が最後まで言い終わる時間すらもどかしいといった感じで初音にそう言った。
「えっ…でもお姉ちゃん酷いケガしてるよ!!」
「いいから早く!!」
そう千鶴が叫んだ刹那――。
「きゃあっ!!」
初音の目の前を黒い物体が横切ると同時に、千鶴の身体が宙に舞った。
千鶴のはそのまま吹っ飛んでいき、中庭に生えていた大きな木に当たって地面に落ちた。
初音には、その様子がまるでスローモーションを見ているかのように見えた。
そしてハッと我に返ると、目の前には先程の黒い物体が立っていた。
人間より一回りも二回りも大きい身体。
鋭い爪。
頭に生えた角。
その姿はまさに「鬼」だった。
「あ…あ…」
初音は目の前の鬼に対する恐怖のあまり、身体が震えだした。
怯える初音を見て鬼はニヤっと笑うと、鋭いツメを初音に向かって薙ぎ払った。
「うわっ…!!」
その衝撃で初音の身体は先程までいた居間まで吹き飛ばされた。
畳の上を滑って、初音の身体はドンという音と共に奥の壁に叩きつけられる。
同時に、手に握られていた青い石が初音の手から離れ、血のついた畳の上に転がった。
初音が滑った痕には、赤い鮮血が尾を引くように延びていた。
「はぁ…はぁ…」
壁にもたれるような格好になっている初音は、激しい痛みが襲ってくる両足を見た。
太腿の部分が切り裂かれ、かなり出血している。
意識は朦朧とし、もう身体には力が入らない。
心臓がドクンと鳴る度に、傷から大量の血が流れ出しているような感覚に襲われる。
そんな初音の瞳に、壊れた障子の隙間から見える月が映った。
月は蒼く、満月。
寒気がするほど綺麗な満月。
だが、初音の瞳から満月がふっと消えた。
月の光を遮ったのは、もちろん鬼。
鬼は月の光を遮り、初音の前に立った。
その鬼の後ろでは、千鶴が這いつくばりながら居間の廊下まできていた。
もう立ち上がる力すら残っていない、そんな感じだった。
「や…やめ…て……おね…がいだか…ら」
千鶴の消え入りそうな声での嘆願。
しかし、それが鬼に受け入れられるはずはない。
鬼は千鶴のほうを見ると、顔をいやらしくゆがめるだけだった。
その間、ガタガタと身体を震わせる初音。
だが、初音の身体を震わせているのは恐怖と痛みからだけではなかった。
「は…ああっ…」
身体中が熱く火照り、汗が次から次へと吹き出してくる。
朦朧としていた意識は徐々にはっきりとし、身体に力が戻ってきていた。
身体の奥底から沸き上がってくる「何か」が、初音の身体を支配しようとしていた。
鬼は千鶴に一瞥をくれると、再び初音のほうを向いた。
そしてその大きな腕を、高く振り上げる。
「やめてぇ〜〜〜〜〜っ!!」
千鶴の絶叫。
鬼は、その言葉を待っていたかのように、初音に向かって高らかに上げた腕を振り下ろした。
刹那、初音の瞳の色が変わった。
<絆>
千鶴の眼前には信じられない光景があった。
初音に向かって振り下ろされた鬼の腕は、初音に届いていない。
初音もまた、先程から動いていない。
だが、明らかに違うのは初音と鬼との間に割って入った黒い影。
鬼と一緒の形をした影だった。
鬼の腕はその黒い影の左肩を切り裂き、黒い影の腕は鬼の身体を貫いていた。
黒い影の左肩から落ちてくる血が、初音の頬に一滴、二滴と吸い込まれるように落ちてくる。
初音の瞳の色は元通りに戻っており、身体に起きた異変も治まっていた。
「こう…いち…おにいちゃん…だよね?」
初音は小さな声で、でもハッキリと影に向かってそう言った。
すると黒い影は鬼を貫いた腕を抜くと、ぐったりとした鬼を中庭まで蹴り飛ばした。
凄まじい勢いで中庭に転がった鬼は、塀にぶつかりドンという音を立てた。
そしてそのまま動かなくなった。
「あなたは…こういちさん…なの?」
今度は千鶴が初音と同じ質問を向ける。
しかし初音の質問とは違い、千鶴の質問には二つの意味が含まれていた。
一つは単純に耕一かどうか、もう一つは鬼の力を制御した耕一なのかという意味だった。
しかし、黒い影…もう一人の鬼はその質問に答える間もなく、その場に倒れた。
それと同時に、鬼に変化していた身体が元の人間に戻っていき、やがて男の姿に戻った。
「耕一…お兄ちゃん…!!」
「耕一…さん…!!」
それは紛れもなく耕一だった。
千鶴は畳を這いつくばりながら耕一の元へ行った。
初音は両足に深い傷を負っているので、その場から動くことが出来ない。
「こういち…さん…」
もう一度その名を呼ぶ。
すると、耕一の目がゆっくりと開いた。
「へへ…何とか…間に合ったみたいですね…うっ!!」
「耕一さん!!」
「千鶴さん…梓と楓ちゃんは…梓の部屋に運んであります…すぐに救急車を…」
耕一はそう千鶴に言うと、顔だけ初音の方へ向けた。
「初音ちゃん…足は…だいじょう…ぶ…かい」
「わ…私は大丈夫…だけどお兄ちゃんの傷のほうが…!!」
「大丈夫だよ…こんな傷…鬼の治癒力があれば…」
耕一はそういって傷口を押さえる。
だが、耕一の押さえた傷は鬼に切られた左肩ではなく、腹部の傷だった。
その腹部の傷を見て、千鶴は愕然とした。
その傷は先程、河原で千鶴が耕一を殺そうとした時の傷だった。
左肩の傷は浅く、千鶴自身が付けた傷は素人目に見ても致命傷だと思わせるほどだった。
それもそのはず、千鶴は耕一を殺すつもりで付けた傷なのだ。
千鶴は改めて自分がやろうとした事の間違いを悟った。
耕一は殺人犯などではなかった、楓の意見は正しかったのだと。
「ごめんなさい…私…貴方を…」
「千鶴さん」
耕一は千鶴の言葉を遮った。
「俺…千鶴さんのことが…好きでした…昔も…今も…大好きでした…」
耕一は言葉を続ける。
「初めて千鶴さんに会った時から…大好きでした…」
その言葉を聞いたとたん、千鶴の目から涙があふれでる。
その涙には色々な意味が含まれすぎていて、千鶴自身にもよく分からなかった。
「最後に…これだけは…言っておきたくて…」
「え?……最後…ってどういうことですか…ねぇ耕一さん…ねぇ!!」
「千鶴さん…貴方は…間違ったことしていない…自分を責める必要は…無いん…です」
耕一はそう言うとふっと笑った。
そして今度は初音に向かってこう言った。
「初音ちゃん…ごめんね…一緒に花火できなくなっちゃった…」
「そんな…おにいちゃん…傷が治ったらできるよ、一緒にやろうよ…みん…なで…一緒にっ…」
初音の最後の方の言葉は、涙で言葉にはならなかった。
「いや…耕一さん…死なないで…お願いよ…お願いよっ!!」
千鶴は耕一の手を握りしめた。
だが、耕一の握り返すその力は弱々しかった。
「梓と…楓ちゃんに…よろしく言っておいてください…」
耕一のその言葉を聞いて、初音が「死なないでお兄ちゃん!!」と叫ぶ。
「じゃあ俺……親父と…お袋のところに…行きます…へへ…向こうでは…さんにんいっしょ…に…」
「いやーっ!!死んではダメェーーーっ!!」
千鶴が叫ぶ。
「泣か…ないで…千鶴さん…俺…千鶴さんの笑顔が…大好き…だから…だいすき…だか…ら……」
耕一の手がゆっくりと千鶴の顔の前まで来ると、その手で千鶴の涙を拭おうとした。
――が、その手が千鶴の涙を拭うことはなかった。
千鶴の頬に触れるか触れないかのところで、耕一の手は畳の上に落ちた。