○研究心と探究心を取り違えると、個性なき善人集団が生まれる
これも数年前の出来事です。私のスタッフの一人が、ある40代半ばの超能力者のセミナーに参加しました。その超能力者は、Nという名の男性でした。彼に病気を治してもらい命が助かった人や、彼の講演を聞いて感銘を受けた人が集まり、セミナーを開催したり、彼の直観を生かして様々なエネルギー商品を開発していました。そのセミナーから帰って来るなり、早速スタッフのH君は私に向かってしゃべり始めました。
「いやー、本当に面白かったです。でも先生に聞きたいことが山ほどあります。いったいあのNさんがやっていることはどんな意味があるのか。Nさんが言うことは当たっているのか」
「順を追って、ゆっくり話してごらんなさい」と私はH君に言いました。
「まずセミナーの最初にNさんは、初めての参加者全員の死ぬ年を、一人一人に伝えました。このまま行くとその年に死んでしまうのだそうです。そしてその後でかなり浄化力の強いエクササイズを行ないました。それはかなり効果的だったと思います。セミナーが一通り終わった後スタッフに、『あの死ぬ年というのは変わったんですか』と聞いても、にこにこして答えてくれません。これは一体何なのでしょう」
私はこう答えました。
「それは私が十八歳の頃に起きた状態と全く同じです。その頃私は突然超能力が発現し、人がいつ死ぬか良く分かりました。それで、それを伝えることは良いことだと思って、周りの人に言い続けました。私は愚かでした。それを聞くことで相手の内側に何が起こるのか気づかなかったのです。私が死期を教えた人々は、ずっと心の底でそれを気にし続けました。それゆえ彼らは『私のところへ行かなくなると死ぬかもしれない』という恐怖を持って私のところに来続けました。根本が恐怖だから、そこにはどんな探究も分かち合いも起こり得ません」
彼はさらに言葉を続けました。
「なるほど。でも彼らのグループは様々な難病を治し、その技術を進化させています。さらには新しいエネルギー製品の開発にも取り組んでいます。これはどういうことでしょうか。彼らがやっていることが間違っているようには思えません」
「確かに彼らのアプローチによって、健康な人は増えるでしょう。しかし、肉体は健康になっても、それはさらなる肉体への執着を強めてしまいます。彼ら個人個人の生きざまが変わるわけではありません。非難するつもりはないのですが、身体が健康になって、だから何なのか?どんな意味があるのか?それを問いたいところです」
「うーん、しかし執着が強くなっても、すぐれた研究成果を挙げ続けてはいるのです。それは明らかに人に貢献しているように見えます。執着とは何なのか?執着と人間意識とはどう関わっているのか?ぜひもっと詳しく話を聞かせてください」
「この問題は意識の進化の核心に関わります。まず研究とは何か。研究とは外側の事象の構造を解明しようと試みる行為です。原爆を作った科学者、細菌兵器を開発している科学者、彼らには研究心は必要ですが、探究心は必要ではありません。では探究とは何か?それは、自分の心のさまを見詰めようとする意識の働きです。見ている対象物ではなく、まさに見ている主体である自分自身の状態を捉えようとすることです。自分の見方によって世界がその姿を変えることは、心理学では常識です。これはパラダイム・シフトと呼ばれています。
例えばこの図(老女と若い女性のパラダイムシフトの図)を見て、老女が見えるか若い女性が見えるか、どちらも正しいし、図自体は何も変わっていない。
見ている対象ではなくて、その見方自体に意識を向ける。その始まりが自分の心のさまを見詰めることです。心のさまを見詰めることで、心の全体像がやがて姿を現します。それは心の外側に広がる『沈黙』に気づき始めるからです。白い絵が黒の背景によってその姿を浮かび上がらせるように、思考はその周囲の沈黙によってその姿を浮かび上がらせるのです。その時初めて思考はその輪郭を露にします。
このようなプロセスを通して、人間的な深みとも呼びうるものが育まれていきます。深く自分自身を見詰める力によって、個性と呼びうる何かが開花していくのです。研究心がいくら強くても、それが人間性とは何の関係もないことはあなたにも分かるでしょう。仕事がいくらできてもつまらない人間とか、すごい才能の持ち主なのに人間的には最低の人とか。
探究心がなければ、一人の人間としての開花はありえません。しかし恐怖の強い人、即ち執着の強い人は、その恐怖が壁となっていて決して探究が起こりません。貢献は起きても探究が起こらない構造の中で生きることになります。そのグループの人で面白い人はいましたか?」
「確かに、この人とは友達になりたい、もっと深く関わりたい、と思える人は一人もいませんでした。みんな明るくていい人なのですが、深みがないんです。面白くありません」
「私が宗教の教祖だったとき、私の周りはいい人ばかりでした。彼らはいわゆる善人たちでした。しかし、そんな善人を何人生み出そうと、何の意味もありません。N氏がそれに気づくかどうか分かりませんが、私は気づきました。そして虚しくなりました。だから修行や宗教に終わりを告げたのです。
密教では『煩悩即菩提』と言います。『全ての煩悩は悟りの種である』と密教は見破りました。煩悩はエネルギーだ、と密教は説きます。煩悩を否定すること、抑圧することは、何の意味もありません。むしろ、無意識の中に隠蔽された煩悩が人の生を支配し続けているのが実状です。ですから煩悩は悪いものだ、という概念をまず捨てることです。煩悩がやってきたら、まずそれをあるがままに見詰めることです。すると煩悩はエネルギー変換を起こすのです。
しかし煩悩と執着は違います。こんなことは、どんな密教の経典にも、おそらくどんな精神的導師でも語っていないかもしれません。しかし、この理解は途方もなく重要です。ここに瞑想という現象の本質を緻密に理解する鍵があるのです。
執着とは思考のエネルギーが固まってできるしこりのようなものです。執着は硬くて鋭いのです。それは己と周囲を傷つける刃のようなものです。この執着の原料が煩悩です。煩悩とはガス状に広がる想念のようなものです。煩悩は動き続けます。この煩悩が固まって行く時、執着となります。
固まるプロセスは恐怖に基づいて行動することによって起こります。しかし恐怖に基づく行動を単にしないだけではそのプロセスは断ち切れません。恐怖から行動しないで、さらに見詰めたときに、その煩悩は気づきへと変容します。そして気づきが集まって爆発することで、真実があなたの内側で起こるのです。
だから、あなたがもしも何らかの恐怖に突き動かされて行うことであれば、それはたとえ多くの人に貢献するとしても、無意味なものとなります。行為の意味とは、煩悩を見詰めることが起こるかどうかにかかっています。それを私は『そこに瞑想があるかないかが重要だ』という言葉で普段表現しています。
だから『良いこと』をしている人たちと関わるときは、よくよく注意することです。ある特定の執着に支えられた善行は、ロボットのように画一的な人間を生みだします。それはある人々にとって都合のいい人間なのです。しかし、恐怖に支えられた善行は真の分かち合いが起こる妨げとなります。宗教団体の信者となっている人たちが、知らず知らずのうちに皆同じような顔になっていくことに気づくことはないでしょうか。彼らが燃えているとしたら、それは布教に燃えているのです。教祖ヘの依存と崇拝と恐怖、宗教が教える価値観に対する恐怖は、人間意識が垂直に昇ること、進化することを不可能にします。人間としては頭打ちになってしまいます。宗教はこうやって魂の犯罪とも言える精神の去勢を行い続けています。しかし最も問題となるのは、それをやっている当人が、自分のやっていることの意味に対して全く無意識である、という点です」