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-------------------1999/09/21 vol.4----------------------

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☆発行者より

まだ残暑が続き、蒸し暑い毎日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

私はようやく九月十九日の「八つの真実セミナー」が終了し、一息入れています。

しかしやる事は無限にあるのだー。このメルマガ作りのように。

とにかく、今日も行きます!

 

◎煩悩と執着の違いとは

 

このお話の前提として、私が編集した「八つの真実」の中の過激につき削除された

部分を前文掲載させて頂こう。大分長くなるけど、九月16日更新分「八つの真実

番外編」を見てない人のために敢えて載せます。

 

○研究心と探究心を取り違えると、個性なき善人集団が生まれる

 

これも数年前の出来事です。私のスタッフの一人が、ある40代半ばの超能力者の

セミナーに参加しました。その超能力者は、Nという名の男性でした。彼に病気を

治してもらい命が助かった人や、彼の講演を聞いて感銘を受けた人が集まり、セミ

ナーを開催したり、彼の直観を生かして様々なエネルギー商品を開発していました。

そのセミナーから帰って来るなり、早速スタッフのH君は私に向かってしゃべり始

めました。

 

「いやー、本当に面白かったです。でも先生に聞きたいことが山ほどあります。い

ったいあのNさんがやっていることはどんな意味があるのか。Nさんが言うことは

当たっているのか」

 

「順を追って、ゆっくり話してごらんなさい」と私はH君に言いました。

 

「まずセミナーの最初にNさんは、初めての参加者全員の死ぬ年を、一人一人に伝

えました。このまま行くとその年に死んでしまうのだそうです。そしてその後でか

なり浄化力の強いエクササイズを行ないました。それはかなり効果的だったと思い

ます。

セミナーが一通り終わった後スタッフに、『あの死ぬ年というのは変わったんです

か』と聞いても、にこにこして答えてくれません。これは一体何なのでしょう」

 

私はこう答えました。

「それは私が十八歳の頃に起きた状態と全く同じです。その頃私は突然超能力が発

現し、人がいつ死ぬか良く分かりました。それで、それを伝えることは良いことだ

と思って、周りの人に言い続けました。私は愚かでした。それを聞くことで相手の

内側に何が起こるのか気づかなかったのです。私が死期を教えた人々は、ずっと心

の底でそれを気にし続けました。それゆえ彼らは『私のところへ行かなくなると死

ぬかもしれない』という恐怖を持って私のところに来続けました。根本が恐怖だか

ら、そこにはどんな探究も分かち合いも起こり得ません」

 

彼はさらに言葉を続けました。

「なるほど。でも彼らのグループは様々な難病を治し、その技術を進化させていま

す。さらには新しいエネルギー製品の開発にも取り組んでいます。これはどういう

ことでしょうか。彼らがやっていることが間違っているようには思えません」

 

「確かに彼らのアプローチによって、健康な人は増えるでしょう。しかし、肉体は

健康になっても、それはさらなる肉体への執着を強めてしまいます。彼ら個人個人

の生きざまが変わるわけではありません。非難するつもりはないのですが、身体が

健康になって、だから何なのか?どんな意味があるのか?それを問いたいところで

す」

 

「うーん、しかし執着が強くなっても、すぐれた研究成果を挙げ続けてはいるので

す。それは明らかに人に貢献しているように見えます。執着とは何なのか?執着と

人間意識とはどう関わっているのか?ぜひもっと詳しく話を聞かせてください」

 

「この問題は意識の進化の中心的な事柄に関わります。

まず研究とは何か。研究とは外側の事象の構造を解明しようと試みる行為です。原

爆を作った科学者、細菌兵器を開発している科学者、彼らには研究心は必要ですが

、探究心は必要ではありません。では探究とは何か?それは、自分の心のさまを見

詰めようとする意識の働きです。見ている対象物ではなく、まさに見ている主体で

ある自分自身の状態を捉えようとすることです。自分の見方によって世界がその姿

を変えることは、心理学では常識です。これはパラダイム・シフトと呼ばれていま

す。

例えばこの図(老女と若い女性のパラダイムシフトの図)を見て、老女が見えるか

若い女性が見えるか、どちらも正しいし、図自体は何も変わっていない。

見ている対象ではなくて、その見方自体に意識を向ける。それの始まりが自分の心

のさまを見詰めることです。心のさまを見詰めることで、心の全体像がやがて姿を

現します。それは心の外側に広がる『沈黙』に気づき始めるからです。

白い絵が黒の背景によってその姿を浮かび上がらせるように、思考はその周囲の沈

黙によってその姿を浮かび上がらせるのです。その時初めて思考はその輪郭を露に

します。

このようなプロセスを通して、人間的な深みとも呼びうるものが育まれていきます。

深く自分自身を見詰める力によって、個性と呼びうる何かが開花していくのです。

研究心がいくら強くても、それが人間性とは何の関係もないことはあなたにも分か

るでしょう。仕事がいくらできてもつまらない人間とか、すごい才能の持ち主なの

に人間的には最低の人とか。

探究心がなければ、一人の人間としての開花はありえません。しかし恐怖の強い人、

即ち執着の強い人は、その恐怖が壁となっていて決して探究が起こりません。貢献は

起きても探究が起こらない構造の中で生きることになります。そのグループの人で面

白い人はいましたか?」

 

「確かに、この人とは友達になりたい、もっと深く関わりたい、と思える人は一人も

いませんでした。みんな明るくていい人なのですが、深みがないんです。面白くあり

ません」

 

「私が宗教の教祖だったとき、私の周りはいい人ばかりでした。彼らはいわゆる善人

たちでした。しかし、そんな善人を何人生み出そうと、何の意味もありません。N氏が

それに気づくかどうか分かりませんが、私は気づきました。そして虚しくなりました。

だから修行や宗教に終わりを告げたのです。

密教では『煩悩即菩提』と言います。『全ての煩悩は悟りの種である』と密教は見破

りました。煩悩はエネルギーだ、と密教は説きます。煩悩を否定すること、抑圧する

ことは、何の意味もありません。むしろ、無意識の中に隠蔽された煩悩が人の生を支

配し続けているのが実状です。ですから煩悩は悪いものだ、という概念をまず捨てる

ことです。煩悩がやってきたら、まずそれをあるがままに見詰めることです。すると

煩悩はエネルギー変換を起こすのです。

しかし煩悩と執着は違うのです。

こんなことは、どんな密教の経典にも、おそらくどんな精神的導師でも語っていない

かもしれません。しかし、この理解は途方もなく重要です。

ここに瞑想という現象の本質を緻密に理解する鍵があるのです。

執着とは思考のエネルギーが固まってできるしこりのようなものです。執着は硬くて

鋭いのです。それは己と周囲を傷つける刃のようなものです。この執着の原料が煩悩

です。煩悩とはガス状に広がる想念のようなものです。煩悩は動き続けます。この煩

悩が固まって行く時、執着となります。

固まるプロセスは恐怖に基づいて行動することによって起こります。

しかし恐怖に基づく行動を単にしないだけではそのプロセスは断ち切れません。恐怖

から行動しないで、さらに見詰めたときに、その煩悩は気づきへと変容します。そし

て気づきが集まって爆発することで、真実があなたの内側で起こるのです。

だから、あなたがもしも何らかの恐怖に突き動かされて行うことであれば、それはた

とえ多くの人に貢献するとしても、無意味なものとなります。

行為の意味とは、煩悩を見詰めることが起こるかどうかにかかっています。それを私

は『そこに瞑想があるかないかが重要だ』という言葉で普段表現しています。

だから『良いこと』をしている人たちと関わるときは、よくよく注意することです。

ある特定の執着に支えられた善行は、ロボットのように画一的な人間を生みだします。

それはある人々にとって都合のいい人間なのです。しかし、恐怖に支えられた善行は

真の分かち合いが起こる妨げとなります。宗教団体の信者となっている人たちが、知

らず知らずのうちに皆同じような顔になっていくことに気づくことはないでしょうか

。彼らが燃えているとしたら、それは布教に燃えているのです。教祖への、あるいは

宗教が教える価値観に対する恐怖は、人間意識が垂直に昇ること、進化することを不

可能にします。

人間としては頭打ちなのです。宗教はこうやって魂の犯罪とも言える精神の去勢を行

い続けています。しかし最も問題となるのは、それをやっている当人が、自分のやっ

ていることの意味に対して全く無意識である、という点です」

 

以上。

 

上記の質問者はもちろん私です。老女と若い女性の図はメルマガなので割愛させて頂きました。

見たい人は「八つの真実」を買ってね!

さーて、これからが本題です。

そう、「煩悩と執着は違う」この解明にこれから取り組もう。

その前に、「洗脳」の専門化で「脱洗脳」のエキスパート、かのオウムシスターズの脱

洗脳にも成功した苫米地氏が「悪人志願」という本の中のインタビューで、「洗脳され

た人とは、映画館に入っていって、そこから出られなくなってしまった人である。つま

り一つの画面にくぎづけになってしまった」と説いている。

私は直感した。「脱洗脳」のプロセスと「悟り」のプロセスとは共鳴しているのではな

いか。

つまりある画面と自分の意識がくっつくことで、問題が起こる。このくっつくこと自体

が執着ではないのか。

画面を流れるのは煩悩である。ある煩悩に固着すること、それ自体が全体から物事を見

ることを妨げる。

ではどのようにして、この「煩悩」という言葉で総称される私たちの意識のスクリーン

を流れる「感情、感覚、思考」が私たちの自意識とくっつくのを防ぐ事が可能なのだろ

うか?

「くっつく」のは、両方の相互作用による。

感情や思考がどんなにくっつこうとしても、それに手を貸さなければやがてそれははが

れて行く。だから、思考や感情がやってきていて、くっつこうとしている、と捉え、

くっついてくる、くっついてくる、くっついてくる・・・・

と唱えながら、そのくっついてきているもの、やってきているもの、例えば悲しみの想

念や思考を見つづける。

するとそれらはやがて離れて行く。

やってみて下さい。

この事を阿闍梨に話した。

「執着する対象が問題ではなくて、まさに執着という現象そのものが問題なんですね。

例えば執着する対象が、女性であろうと金であろうと、悟りを開いた人であろうと、そ

こには何の違いもないのですね」

すると阿闍梨は「大分分かってきたねー」と言われた。

 

さあ、皆さん、この覚醒の極意、消化できましたか。

あとは実践あるのみよーん。

うん大分崩れてきた。

ちょっと今回は情報量が多いので、このくらいにしておきます。

質問等どしどし頂戴!

 

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