第2章 B-29の真相を求めて
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1.B-29の真相を求めて
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"B-29写真博物館"・・・ 超空の要塞の先進性を探る ・・・
『I saw your B-29 website and you did a tremendous amount of work. I wish you
had an English website.
Thank you,
3人の生存米兵は、救出後、軍に拘引、その日のうちに焼け野原の東京に移送され、 その内の重症の1人は皇居周辺の東京外国語学校敷地(現毎日新聞本社)で、陸軍本部将校と憲兵の6人がかりで処刑(斬首)、他の2人は1945.5.20の空襲による陸軍刑務所(現NHK本社)の火災で他の多くの捕虜とともに焼死した。 これが当時の現実であったようです。これから考えて、 ”そだめ墜落B29生存米兵が”無事に帰還できたことが事実としたらそれは非常にまれな出来事で あったように思われてなりません。 この他にも、インターネットのお蔭でB29の生々しい墜落機の2事例を、5項の”B-29関連リンク集”で紹介します。それぞれに、2~3名の生存米兵がいた模様ですが、何れも悲惨な最期をとげています。
あなたは自分の親兄弟友達の命を助けようとは思いませんか、助けたければこのビラを良く読んでください。数日の内に裏面の都市の内4つか5つの都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。 この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米軍は破壊しますけれども爆弾には目がありませんからどこに落ちるか分かりません。ですから、裏に書いてある都市から避難してください。 アメリカの敵はあな方ではありません。あな方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。アメリカの考えてゐる平和というものはただ軍部の圧力からあなた方を解放する事です。そうすればもっと良い新日本が出来上がります。 戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか。この裏に書いてある都市だけでなくても爆撃されるかも知れませんが少なくともこの裏に書いてある都市のうち必ず4つは爆撃します。 予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難してください。』 ビラの裏には爆撃中のB29編隊の写真を背景に青森、西宮、大垣、一宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田、の11の都市の名が挙げられていた。 ビラは各都市に6万枚ずつ投下されたがが、こうしたビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、所持した場合3ヶ月以上の懲役又は10円以下の罰金、内容を第3者に告げた場合無期又は1年以上の懲役という罰則が定められ、拾っても中身を読まずに警察、警防団に提出することが国民の義務とされていた。 実際北海道庁警察部の内務省宛て報告によれば、函館に投下されたと推定される36,000枚の内、約28,000枚を回収したとしている。 1945.7.28、青森市役所が「避難者は28日までに復帰しなければ、町会台帳より削除する。したがって一般物資の配給が停止される。」と告知していた事もあり避難先から続々と戻る市民で街は久しぶりに賑わっていた。一方で「近い内に大きいのが来る」という噂も広まっていた。・・・略 21時30分、仙台湾にB-29の大編隊が来襲。B-29は牡鹿半島から秋田県男鹿半島へ本州を縦断、鮫ヶ沢から青森県を目指した。22時10分、空襲警報のサイレンが青森市に鳴り響いた。敵機の来襲を告げるラジオアナウンサーが「青森市民の皆さん、津軽魂を発揮して頑張って下さい」と悲鳴にも似た連呼を繰り返す頃には、12機の誘導機が市民の頭上に飛来していた。 誘導機は目標に照明弾を投下、目標の周囲を焼夷弾で囲み、後続部隊に爆撃範囲を指示する任務があった。それは結果として市民の逃げ道をふさぐ事になった。 灯火管制も意味をなさない真昼のような照明弾の揺らめきの中、焼夷弾は無機的にばらまかれていった。攻撃は4,230~4,410mの高度から、22:37から23:48の71分に亘って・・・略 この結果、かって人口10万人を誇った青森市は地上から消滅した。一夜明けた市内には至る所に焼死体が散乱していた。治安維持の任にあたる海保良夫県警部長は「これくらいの被害は取るに足るものではない。県は被害に対する各措置につき万全を期しつつあるから県民各位におかれてはいよいよ必勝の信念を堅持し、徒な流言に迷うことなくあくまでも冷静沈着に各職場を守り防空に生産にその本分を尽くされんを切望す」と声明した。・・・略 敗戦直後来青した合衆国戦略爆撃調査団の報告によれば、79,116発の焼夷弾が投下され、市街地の88%が焼失していた。警告ビラには軍事施設を破壊すると明記されていたが、同調査団によれば、貨物飛行機の着陸装置と翼の部品を製造していた東洋製罐工場は見事に焼け残っていた。・・・略』
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出撃30回で無罪放免、B-29搭乗員は、通常11名の運命共同体です。Chester Marshall操縦士のCrewは何回も被弾しながら、後何回、後何回と無事を祈りながらギリギリで、爆撃任務飛行30回を1945.6.8に達成した。そして、日本軍の相次ぐ玉砕を尻目に祝杯をあげての帰還であった。彼らのギリギリは生還への希望であり、日本軍のギリギリは片道燃料がギリギリの絶望への出撃です。
第3章では、日本上空で被弾した墜落機の捕獲搭乗員は、どのように取り扱われ、処置されたかを究明していく予定です。そして、彼ら(B-29&P51パイロット)の情報に迫ります。ご期待下さい。 訪問者のご支援に感謝です。
4.〔出典〕 (注1)・・Boeing B-29 Superfortress (注2)・・世界の傑作機 BOEING B-29 NO-52 1995.5 ㈱文林堂、 岡崎市在住 磯谷 進氏提供 (注3)・・B29墜落ー米兵を救った日本人ー 草間秀三郎著、 墜落事件追跡調査 論創社1999.7.30発行 (注4)・・B29撃墜記 -夜戦「屠龍」撃墜王ー 樫出 勇著 空戦記録、 光人社NF文庫、1998.7.12発行 (注5)・・B-29操縦マニュアル 米陸軍航空隊編著 仲村明子 + 小野 洋 訳 野田昌宏 監修 光人社1999.7.30発行 (注6)・・B-29日本爆撃30回の実録・チェスター マーシャル著・高木晃治訳・㈱コネ・パブリッシング、三島市在住 岡田 実氏提供 (注7)・・・トヨタ自動車20年史/1958.11.30発行 (注8)・・青森空襲を記録する会の編集者 中村和彦氏 提供情報 (注9)・・白い航跡/青函連絡船戦災史/北の街社/青函連絡船災史編集委員会/編集者:中村和彦氏 本人より贈呈 (注10)・・戦略・戦術・戦史Magazine ”歴史群像”APR.2002 No52 学習研修社 青柳安彦氏提供 (注11)・・Nagoya Aviation Enthusiasts Society 所属 丹羽八十氏 提供
5.B-29関連リンク集
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