小学校の教室(おじいちゃんの子供のころ) 小学校の建物は全部木造だった。がんじょうな太い柱とゆか板、階段。そとの囲い板なども 厚い板を打ちつけた立派な建物だったよ。 教室はしけないように縁が高く、ろうかからの入口の戸もがんじょうな板戸だった。ここの 木造の机と椅子で勉強したね。今のコンクリートづくりとくらべると、あたたか味があったよ うな気がするね。 卒業式や学芸会は、3教室のさかいをとりはらって式場を作ったよ。 ゆかや机の上は毎日ぞうきんがけをしたので大変だったが、今とくらべると昔の人はもっと 物を大切にしたと思うね。 小学生の服装(おじいちゃんの子供のころ) 小学校へ通う時の服装は、男は黒の折りかえりの学生服、女はセーラー服というのが普通だ った。夏は上衣なしの半袖でよいのだが、冬の寒い時はそうはいかない。今のように石油のス トーブであたためるわけでもないし、オーバーやジャンバーがあるのでもない。 だから、冬の子供たちは学生服の上から綿入れのハンテンを作ってもらい、オーバー代わり に着て通学したんた。 ハンテンを親に作ってもらう時に、ポケットをななめにつけてもらって、かっこうが良いと 喜んだものだ。 もっとも、おじいちゃんが小学校入学の時の写真を見ると、着物を着て写っているね。50 年前は着物の通学もめずらしくなかったんだ。 海人草(おじいちゃんの子供のころ) 子供たちの体の中には、回虫などの寄生虫がよくいたようだ。人間のふん尿を直接田畑にま くので、食べ物から体の中に寄生虫の卵が入ってしまうらしかった。 回虫が体の中にわくと食べ物の栄養を取られてしまい、顔色が悪くなって元気が出ない。 小学校ではこの回虫を取るために、1年に一度海人草という海草をせんじて飲ませてくれた。 いや、にがい薬なので飲まされたと言った方がよいだろう。 用務員室の大がまに海人草を入れて、ぐつぐつと煮立てて、にがい汁が出来たところでひと 組ずつ呼ばれ、湯飲みに1ぱいずつ飲んだ。しかしあとで検便はなかったので、虫が取れたか どうかは分からなかった。 通知表(おじいちゃんが子供のころ) 学期の終りや学年の終りには、今と同じように通知表をもらう終業式があった。そのころは 通知表と言わず通信簿と言っていた。 通信簿はたて書きで、修身・国語・算術・理科という順に成績が記入してあった。 今のようにA・B・Cとか5・4・3・2・1ではなくて、甲・乙・丙・丁(こう・おつ・ へい・てい)という字が書いてあった。甲がいちばん良くて、丁がいちばん悪い点というわけ だ。 おじいちゃんはいま、大変残念なことに小学校以来の通信簿をすっかりなくしてしまった。 こういう大事なものは大切にしまっておくべきだったと反省しているよ。 弁当あたため器(おじいちゃんが子供のころ) 小学校はほとんどの子供が弁当を持ってきた。中には家が近くて食べに帰る子もいたが。 冬になり、寒くなると弁当は冷たくていやだね。そこで学校では、みんなの弁当を大きな箱 に入れて炭火であたためてくれた。2時間目の放課になると箱をかまどの上におく。かまどに は箱が3、4段積んであり、炭火でお昼までにあたたかくなる。 アツアツの弁当とまではいかなかったけれど、毎日あたたかいご飯が食べられてうれしかっ たよ。 だけど、だれかがお采にたくあんを入れてくるといやなにおいがして、閉口したことを覚え ているよ。 お茶の木(おじいちゃんが子供のころ) 小学校のグランド南のはしがお茶の木の生けがきだった。その外側に今もある農業用水が流 れており、子供たちのよい遊び場だった。 木の下をもぐってかくれんぼや鬼ごっこをしたり、根元の穴でへびの卵を見つけたりした。 6月ころ、お茶の芽が大分伸びたのをみはからって、小学校では上級の生徒を使ってお茶つ みをおこなった。つんだ葉はより分けられて、大がまの上でむし上げ、あとお茶もみをした。 そのころは、昼食に生徒が飲むお茶がかなり作られていたんだ。今思うと大変だったけど、 1回でも体験すると一生忘れないもので、ためになることが多いんだよ。 飛行機(おじいちゃんが子供のころ) 飛行機はもちろんあったよ。民間機と軍用機があった。ときどき頭の上の高い所を飛んで行 くのを見ていたが、近くで見ることはなかなか出来なかった。 いつだったかしっかり覚えてないけど、矢作橋駅の南の広い草原へ着陸したことがあった。 学校から見学に出かけたと思うが、それが近くで飛行機を見た最初だったよ。 主翼が2枚の複葉機で、小型だった。エンジンをかけるのも、人間がプロペラを手で回して いたよ。 草の生えたでこぼこの所をすーと走って行って、飛び上がった時はみんな歓声を上げたよ。 矢西小学校の周り(おじいちゃんが子供のころ) 矢西小学校の周りは畑や田んぼばかりだったんだよ。学校の周りが大変静かだったので、校 地のいちばん北側に校舎があっても授業には何にも邪魔にはならなかったね。 いまプールのへりを流れている農業用水はそのころもあって、お茶の木が生けがきがわりに たくさん植えてあった。もっとも校地が昔より広がったから、場所は少し南へ変ったらしい。 南門の入口にある石の門は、そのころ東門に立っていた。 そして、尾崎・柿崎・宇頭茶屋の人たちは北門から、宇頭・西本郷の人たちは東門から入っ て通学していた。もちろん南門や西門はなかったよ。 |
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