地図模様

2 農業・暮らし


 レンゲとナタネ(おじいちゃんの子供のころ)
 春になると田んぼにはレンゲやナタネの花がいっぱい咲いて、とてもきれいだったんだよ。
 田んぼへ行った時に、つかれてレンゲの上にごろりと横になり、青空を見てるというのも良
いものだったよ。
 レンゲは前の年の取り入れがすんだ後、種をまいておくと、田んぼ一面に育って花が咲く。
これを田植えの前に土の中へうちこんで肥料にしたんだ。もちろん種を取って売ったこともあ
ったんだ。
 ナタネも前の年から植えつけておいて、田植え前に取り入れをする。1ミリくらいの小さい
種が実るから、これを取って油屋さんに売るんだよ。油屋さんはこの実から天ぷら油をしぼり
取って食料にしたり、ずっと昔は明かりに燃やしたりしたんだ。

 モミガラ焼き(おじいちゃんの子供のころ)
 いねの取り入れが終った冬の始めのころや、春先きの田植えの少し前、農家の庭先きでモミ
ガラのむし焼きをしていたよ。
 火種を下におき、モミガラを山につんで真ん中に土管を立てておくと、土管がえんとつにな
って、モミガラがむし焼きされるんだよ。
 むし焼きしたモミガラは冬、火鉢に入れて木炭の代わりに燃やしたり、なわしろに入れたり
したんだ。
 モミガラのむし焼きは、えんとつへ空気がよく流れ込まないので、けむりがのどをさすよう
だったよ。だけど風のない冬の日に、農家のおもてでむし焼きのけむりがすっと静かに流れて
いたのはなんとなくのどかだったよ。

 大八車(おじいちゃんの子供のころ)
 家は農家だったので、リヤカーや大八車があったよ。大八車は、木で作った荷台に木の車輪
をつけてあり、箱型でないので長い物をのせるのに便利だった。木の車輪の外側には鉄のリン
グがはめてあり、砂利道をひいていくとガラガラ大きな音がしたよ。でも車輪の直径が大きか
ったから、ひくのはわり合楽だったよ。
 秋、いねの刈り入れのころ、水のたまった田んぼにハザを作ったんだが、この大八車に10
メートルくらいの長竹を20本あまり積んで、国道をひいていったんだよ。
 この大八車も、ゴムタイヤのついたリヤカーが出てくると、だんだん数が少なくなったよ。

 農協(おじいちゃんの子供のころ)
 農協は矢西小学校の北側、柿崎町のいすず自動車のところにあったよ。五つの村が共同でや
っていた。
 木造の大きな倉庫があって米や麦を貯蔵したり、肥料の販売をしていた。広い作業場があっ
て粉をひいたり、うどんやひやむぎを作ったりしていたよ。
 農協へおつかいに行くと、粉ひきやうどん作りがおもしろくて、機械からすっと細くなった
うどんが出てくるのをいつまでも見ていたよ。その後うどんはさおにかけて、そとのかんそう
場に干してあったよ。
 農協は今JAと名前を変えたね。

 農休み(おじいちゃんの子供のころ)
 農休みというのがあったよ。しばらく前から聞かなくなったようだけれど、ずっと長く続い
ていたよ。
 農家は、動物や野菜など生き物相手の仕事だから、年中大変いそがしい。朝早くから起き出
し、夕方おそくまで仕事をする。田植え時や取り入れ時は、また特にいそがしい。だから年中
体の休まるひまがない。
 しかしそれでは体をこわしてしまうので、田植えのすんだ後、2日だけ日を決めて農休み、
つまり農家も村中、仕事がお休みという考えでやっていた。
 今では農業機械もあり、この休みは姿を消してしまったということだね。

 牛(おじいちゃんの子供のころ)
 農家では馬はあまり見かけなかったが、牛を飼う家は多かったよ。たいてい納屋の横に牛小
屋があって、牛車や田をおこすすきなどが置いてあった。
 今のように、こう運機やトラクターのない時代だったので、農はん期は牛の力が役立ったわ
けだ。牛は田や畑のすきおこしや、荷物の運ぱんなどいろいろな仕事をしていたよ。だから農
家の人は牛を大変かわいがっていた。
 それでも、ときどきにげ出す牛があって、大さわぎした。牛小屋の入口のマセボウという横
ぼうを角で外して、夜どこかへ行ってしまった。
 何しろ、真っ黒な牛がまっくらやみににげ出すのだから、よく見えないし、そんなとき農家
の人は大変だったよ。

 山羊(おじいちゃんの子供のころ)
 農家では山羊やうさぎを飼っている家がたくさんあったよ。山羊やうさぎは畑で取れた野菜
を食べるし、あまり物だけでも食べさせていけたんだと思う。
 うさぎは育てて大きくなると売ったり、子供が生まれると育てたりして収入の助けになった。
 山羊は育てて売るというよりも、子供を生ませた後、お乳をとって人間が飲んだ。牛乳はそ
のころまだ高かったし、乳牛を飼っている家もなかった。代わりに山羊の乳が飲まれたんだ。
 夕方になると入れ物を持って山羊の乳をもらいに行った。ちょっとにおいがあったが、新せ
んなお乳ということだったね。

 もみ干し(おじいちゃんの子供の頃)
 秋の取り入れが終ると、だっこくしたもみを、おもてのむしろに広げてかんそうする仕事が
あった。かんそうがよく出来ていないと、もみすりの時にもみがらがよくとれなくてこまった。
 農家では、朝天候を見て、おもていっぱい、足らなければ近くの畑にも干し場を作ってむし
ろを広げ、ここへもみをまいて干したんだ。
 お昼ころに一回「手かえし」といって、もみを集めてまた広げる作業があった。
 そして夕方になるとまたもみを集めて、家ののき下に竹みですくって運び入れる。
 あとむしろをたたんだり、下のこもをまき取る作業もあった。
 たいてい、終ると日がくれた。おじいちゃんたち子供もよく手伝ったんだよ。

 かや(おじいちゃんの子供のころ)
 今よりも蚊がずっとたくさんいたよ。夕方になると蚊の音が「ウォーン」と、モーターの回
る音のように聞こえたよ。
 そのころ蚊が出てくると、6月から9月までは、かやをつらないとねられなかったよ。
 かやは底のぬけた箱型で、うすい布で出来ていた。上の6ヶ所をつり上げて、中へふとんを
しいてねた。
 おじいちやんの家は、かやをつって雨戸をしめたので、風通しが悪く、とても暑くてねられ
なかったことを覚えているよ。
 いまはあみ戸もあるし、せん風機、クーラーもあるし、暮らしよくなったね。

 お金(おじいちゃんの子供のころ)
 家が貧しかったので、あまりお金がなかったね。収入といっても米、麦、菜種、いも、大根、
にんじん、白菜などの売り上げではしれたものだ。でもお金なしでは日はくれないので、家に
も少しはお金がおいてあった。
 そのわずかなお金は、たいてい戸だなの中の小銭入れか、少しまとまったお金は仏だんの下
なんかに入れてあったよ。どろぼうにいわせると、仏だんの下はいちばん危険な所で、いなか
の家なら仏だんの下をさがせばたいてい金が出てくるということだったらしいよ。
 それと、むしろの下なんかに小銭がよく入れてあったよ。

 懐中電灯(おじいちゃんの子供のころ)
 単一のかん電池を2本入れた懐中電灯があったよ。今のように丸いつつ型でなく、四角い箱
型だったよ。
 そのころ、自転車につける発電ランプはまだなくて、懐中電灯をハンドルの前へつけていた
よ。
 電池が今みたいに長持ちしなくて、使わずにおいてもすぐなくなってしまったね。
 電池は自転車屋さんで2本ずつ買って来たものだった。
 それとそのころの電池は、使わずにおくとすぐにふいてしまい、薬がこぼれてよごれたり、
箱がくさってしまった。今の電池は本当によくなったと思うよ。

 半しょう(おじいちゃんの子供のころ)
 近くで火事がおきると、半しょうというつりがね形の小さなかねをたたいて知らせたよ。
 そのころ、サイレンは正午を知らせる岡崎の大きなのだけだった。半しょうは薬王寺の集会
所に今もつり下げてあるよ。
 火事というと、その半しょうを決められた人が、「カーン、カーン」と鳴らすわけだ。その
音を聞いた消防団の人たちがポンプ庫へかけつけ、手押しポンプを引き出し、火事場へかけつ
けるんだ。
 今だったら自動車の音がやかましくって、少しはなれてもよく聞こえないだろうと思われる
半しょうの音も、そのころはとてもよく聞こえたね。

 電灯(おじいちゃんの子供のころ)
 もう電灯はどこの家にもあったよ。だけど、たいてい1灯か2灯あったたげで、コンセント
はなかったね。
 電灯は、もちろん白熱灯つまり電気ダマで、けい光灯ではなかった。長いコードをつけても
らって、2部屋か3部屋ひっぱっては使っていた。しかし遠い所まではとどかないので、おふ
ろは石油ランプかカンテラだった。
 電気ダマも今みたいに長もちしなくて、よく切れた。切れるとそのばんは真っ暗で、あくる
日1個ずつ買ってきて使ったんだったよ。
 たまにヒューズがとんだりすると、電気屋さんをよばって修理してもらった。
 今考えると、みんなまずしい生活をしていたことになるね。

 井戸(おじいちゃんの子供のころ)
 井戸はどこの家にもあったよ。この辺は周りに水田もあるし、水みゃくも良かったようで、
どこでもほればコンコンとよい水が出たんだ。
 井戸水は、夏は冷たく冬はあたたかいので、水道水よりはずっと使いやすかったよ。顔を洗
うのでも夏はひんやりと気持ちよいし、冬は手がきれるほど冷たくない。
 井戸をほるには職人さんが来て、土を出しながら太さ90cm、長さ60cmくらいのコン
クリートの管をうめこんでいけば、よい水が出たよ。
 くみ上げは いもの製の手押しポンプが使われた。少し重いが、バケツ一杯の水はすぐにく
み出せたよ。
 大きな工場が出来て、井戸が干上がり、水道水を使うようになって30年もたつが、今でも
井戸水はなつかしいよ。

 足袋(おじいちゃんの子供のころ)
 大人も子供も、まだかなり足袋をはいていたよ。もちろん、暑い時は大人だって毎日はいて
いたわけではない。
 今君たちに足袋と言う字を読めと言っても、読めない人が多いのではないかな。はいたこと
のある人も少ないだろう。
 そう、お母さんが和服の時にはくあれだよ。コハゼがついていて、うしろできちんと止めら
れるようになっていた。
 おじいちやんの子供のころは、くつ下と足袋と半々くらいだったかな。学校へ行く時はくつ
下で、家では足袋をよくはいたよ。下駄やぞうりをはくのに、くつ下でははきにくいからね。

 下駄(おじいちゃんの子供のころ)
 はき物には、くつのほかに下駄、ぞうりなどが多く使われていたよ。
 そのころ下駄をつくる職人さんがいたり、下駄やぞうりを売って、商売できたくらいだから、
毛打をはく人が多かったということだね。
 家のとなりにも下駄屋さんがあって、子供のころよく遊びに行ったよ。おやじさんが台をけ
ずったり、はを打ち込んだり、鼻おをすげたりしているのが面白くていつまでも見ていたよ。
 お盆のころ、下駄をはいてゆかたを着た姿は、今見てもすてきだと思うよ。
 下駄屋さんも、機械で加工して安く出来るようになったら売れなくなり、すたってしまった
ね。

 台風(おじいちゃんの子供のころ)
  今みたいに台風はよく来たよ。でも、記おくに残るほど大きなものは少なかった。
 昔は、ラジオやテレビで台風情報を聞くなどということはできなかったので、風が強くなり
出すと、それっ、台風とばかり雨戸をしめたり、釘のゆるんだ所を打ったりして、準備をした
んだ。あとは頭の上を台風が吹きぬけるのを、じっとがまんして待っていたんだ。
 台風でたくさん雨がふると、川がぞう水して橋が流されたり、堤防がきれたりした被害をテ
レビでやっているのを見るね。矢作川も何回か危険な時があった。古い矢作橋の時、ぞう水し
た川の水で手が洗えるほどだったそうだよ。一度は矢作川の堤防を水がのりこえたので、水防
団の人たちが土のうを積んだりして大さわぎになったことがあったよ。

 天気がわり(おじいちゃんの子供のころ)
 家には新聞もラジオもなかった。もちろんテレビなんかあるはずはない。だから、みんな仕
事や学校へ出かける時にかさがいるかどうかは、お年寄りに聞いたり、西の方の空を見たり、
気温の具合などで判断した。
 いつもまちがいなく当たったのは、朝JRのSLが矢作川の桟橋をわたる音がよく聞こえる
と、きっと雨になることだった。
 天気が悪くなる時は雲が低くなるので、遠くの音がよく聞こえるというのは理科でも勉強す
るが、5Kmも6Kmもはなれた鉄橋をわたるSLの音がよく聞こえるなんて不思議だね。
 今は周りがさわがしいので、全く聞こえなくなってしまったね。

 雷(おじいちゃんの子供のころ)
 今より、もっと雷が多かったような気がするね。
 大きな雷雲が発生し、ゴロゴロとやたらに鳴り出すと、女の人や子供は大変こわがるが、こ
れは昔も今も同じだね。おじいちゃんの家も安ふしんだったのでこわかった。
 夕立がザーときて、ピカッ、ゴロゴロとくるとたいていかやをつって、ふとんをかぶりかく
れていたね。
 1度なんかは、家から15mくらいの電柱に落雷して、トランスの油が焼けてしまったよ。
さすがにこの時は音が大きくってびっくりしたよ。何しろガラスがビリビリいったんだからね。
だけどそれ以来、今度はこのくらいなら落ちないなどと言って、雷がこわくなくなってしまっ
たね。


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