共同ぶろ(おじいちゃんの子供のころ) 今の鋼業所があるところに共同ぶろがあった。たしか主に西側に住んでいた25軒ほど の人たちでやっていた。 トタン屋根の建物の入り口に土間、男女のだつ衣場と浴そう、うらの方にかまのたき口、 手押しポンプなどの作業場からできていた。 当番ふだが回ってくると、その日は午後1時ころから出かけてだつ衣場などのそうじか ら始め、手押しポンプで水くみ、午後3時ころからは石炭を燃やしてお湯をわかしたんだ。 みなさんが入浴に来ると石炭を燃やしたり、水を入れたりして大変だったが、毎日家で わかすことを思えば、いそがしい農家の人たちにとって便利な仕組みだった。もちろんお じいちゃんたち子供も手伝ったんだよ。 自動車はかり(おじいちゃんの子供のころ) 国道一号線の鹿乗橋の西三河ダイハツ岡崎営業所のあたりの道路わきに、自動車重量計 量所というのがあったよ。トラックが1台荷物ごとのっかって重さを計れるお化けのよう な台ばかりだった。 今考えるとふしぎな気もするのだが、そのころはまだほそう道路があまりがんじょうで はなかったし、第一橋が木で作られていたりして重い荷を積んだトラックが通ると落ちて しまう心配があったらしい。 お化けの台はかりは横に小屋があって、目もりを読む部分が外から見えていた。 おじいちゃんたち子供は5人、10人して台ばかりに乗って遊んでいたよ。 常夜灯(おじいちゃんの子供のころ) 南屋下の鉄工所の前に常夜灯があったよ。もちろんおじいちゃんの子供のころは明かり はつけなかったね。今は宇頭神明社の境内に移転してあるが、あれは昔夜道を歩く時たい へん大事な物だったんた。 昔は道路に明かりはないし、夜道はたいへんだったので、ところどころ目印になるよう に常夜灯が立てられたんだ。夕方うす暗くなってくるといちばん上の火ぶくろにナタネ油 で明かりをつけ遠くから見えるようにしたんだ。 それと常夜灯は石積みでできているので、50年でも100年でももちこたえられるよ うになっていたんだ。昔の人もなかなかちえがあったと思うよ。 ポンプ小屋(おじいちゃんの子供のころ) 村にも消防団があり、手押しポンプがあった。国道の地下道を北へ上った薬王寺の前付 近だった。 火事がおきると消防団の人がポンプ車を人力でひいて現場へかけつける。放水も人力で ワッショイ、ワッショイとやる大変なものだった。 建物の西半分がポンプ小屋で、残りの半分は新聞じゅうらん所だった。そのころ新聞を 家でとれる人はほとんどなく、村で1部とって読みたい人はじゅうらん所まで出かけて読 んで来るんだった。 ここがまた青年団や村の人たちの交流の場にもなっていたようだ。大人たちがここでよ く話しこんでいたよ。 北町の昔(おじいちゃんの子供のころ) 宇頭北町は今よりずっとさびしい所だった。そのころ家なみは国道の北側にそって1軒 どうりあっただけで、そのうらは畑ばっかり、畑の中央に墓地があってそのずっと向こう は竹やぶだった。 墓地には火そう場があって、人が死ぬとここで家族や親せきの人たちの手で火そうされ た。 だから北町は、そのころ北うらといっていたが、全くさびしく、暗く、こわい所だった。 子供のころ北うらの墓地できもだめしがあったりして、本当にこわかった。 1年に一度、お盆の日だけは墓参りのたちでにぎやかになる所だった。 屋下(おじいちゃんの子供のころ) 屋下(やした)の道の上は南屋下から国道をこえて北屋下、さらに安城市の柿崎町まで ずっと竹やぶが続いていたよ。家は竹やぶの西側にかくれるように建っていたよ。きっと 自然に生えた竹で風よけをしてもらっていたんだ。 地形からいうと、大昔は屋下まで海がきていたかもしれない。 また矢作川も昔はきちんと堤防がなく、大雨がふると流れがあっち、こっち変わったら しい。だから川がはんらんした時は、こっちへきて屋下を流れたんだと思うよ。 屋下にはいも穴がたくさんあった。やぶのしゃ面に穴をほり、いもを入れるとあたたか いのでくさらないんだよ。 塚(おじいちゃんの子供のころ) 宇頭にあった塚は、もっと木や笹がしげってこわいような所だったよ。何でも宇頭町に は九塚といって九か所に塚があるそうだ。 薬王寺の所も昔は塚だったそうだし、北町には大きな塚が2つもあるね。 塚は昔の人のお墓だから、子供のころはてっぺんに上ってはいけないと言われ、一度も 上ったことはなかったよ。また塚にはいろいろ言い伝えがあって、かってに草をかったり、 くずしたりするとバチが当たるとか、けがをしたり、死んだりすると言われているよ。 宇頭山のかん音寺に行くと中に小さな草むらがある。あれも昔の塚だそうで、草かりす るとけがをするという言い伝えがあり、真ん中まで草かりしたことがないそうだ。 |
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