10.韓国B-29の旅

ソウルのハムとB-29を訪ねて
(2002.11/16〜11/19)


B-29:第二次世界大戦・韓国戦争(注)で、超空の要塞といわれた米空軍の爆撃機
注:Korea War=韓国では、韓国戦争という。日本では、朝鮮戦争or朝鮮動乱という。
:末尾に、韓国マップ追記 


私は、57年前のB-29の追憶を求めてHPを開設し2年半が経過しました。 米国のB-29情報によると韓国にもB-29が展示されているという。1年半前に韓国ソウルのハムDS1DHU李 東祐(イー ヒョンウー)さんに聞いてみると、ソウル市内のYoid PlazaにあったB-29は1995頃撤去されたらしい。その後の彼の調査で、今年の8月28日に慶尚南道の晋州(チンジュ)郊外のSa-chon市の韓国航空宇宙産業鰍ノ隣接する航空宇宙博物館がオープンし、あなたの見たいB-29が展示されたという知らせが入りました。

私は、晋州はソウルから遠いので、釜山経由で単身訪問する旨伝えました。彼は、最近は高速バスで3時間で行ける、是非訪韓されたいとの誘いもあり、 この度、ソウルの彼を訪問し、日韓親善と念願のB-29の現物を確認することにしました。



〔B-29,韓国 Sa-chonの航空宇宙博物館にて、2002.11.17撮影 〕


〔訪韓スケジュール〕
@第1日目:出発・李 東祐氏と面会・梨泰院洞のHamilton Hotel泊
A第2日目:高速バスでソウル〜晋州、航空宇宙博物館訪問・Hamilton Hotel泊
B第3日目:ソウル市内観光・Hamilton Hotel泊
C第4日目:帰国


”ソウルへの道”

仁川(インチョン)国際空港からソウルへは、出迎えの李さんのマイカーです。この橋を渡るとソウルですと李さんのガイドを聞きながらあっけなくホテルへ到着しました。
名古屋からの航空券は、JALの”前売り悟空”にしました。搭乗機は土曜日でツアー客で満席です。そのお蔭で、渡された搭乗券はエグゼクティブです。久し振りに前側のキャビンの特等席に陣取り何時もよりおいしいランチを食べながらの快適なフライトで仁川国際空港に到着です。


”親日家ハムのDS1DHU”

李 東祐さんを紹介します。彼は、韓国一番の親日家ハムです。2年程前に、日本のアマチュア無線の雑誌(CQHam Radio)に紹介されたほどです。 私と彼とは、14MHzのアマ無線での交信で、4年ほど前からのお付き合いです。彼は、ソウルツ子で現在61才です。子供のころ学校の先生に日本語の単語を聞き興味をもち、その後、独学でものにした努力家です。 また、今年の2月には、札幌の雪祭りに、奥さんと、親友ハムのカメラマン夫妻を従えて訪日し、 札幌・函館・青森・郡山・仙台・横須賀の各地のハムと日韓親善をされました。

”交信証(QSLカード)”

ハムは、無線で交信した後に左の写真のようなカードをお互いに交換します。

上のカードは、DS1DHU李さんが取得した所蔵AWARDの展示会での記念写真で、日本のCQ Ham Radio 誌に紹介された記念のカードです。

下のカードは、ソウルの夜景と北漢山を背景にした彼のQSLカードです。 左からDS1DHU李さん DS1ERJ奥さん、DS1ERK長男、 DS1ERL次男です。


”航空宇宙博物館”

今日は、李さん(写真)の案内です。瑞草区の高速バスターミナル6:40発のバスで328Km南の晋州を目指しました。バスは全席指定で、席は3列で、とてもゆったりです。便数はそれぞれ20分間隔で、各地へひっきりなしに出発します。何れのバスも皆満席です。
途中サービスエリア(錦山市の朝鮮人参の里)で15分の休憩があり、皆降りてスナックやコーヒーを買い込みます。 バスは時速100Kmコンスタントで走ります。韓国の山河を眺めながら李さんとの楽しい会話が弾みます。晋州市高速バスターミナルへは11:10頃に到着しました。昼食後、李さんは、私のトランシーバー(145Mhz)でタクシーハムクラブを呼び出しました。直ぐにハムが運転するタクシー/DS5PCPがきて仲良くなり20分で博物館へ着きました。


”航空機展示風景”

博物館の屋外にはこのように多くの航空機と共にB-29(右手前)が展示されていました。その多くは韓国戦争時に活躍した米国製とその後に韓国空軍が使用した飛行機です。
この写真の後方に白く見えるのが、韓国宇宙産業鰍ナす。飛行場も隣接しています。現在、軍用機の生産が行われています。今後、この地域は国策としての航空産業の発展が予想されます。


”B-29ご対面記念”

先ずは記念写真を撮り、そしてじっくり見物する事にしました。DS1DHU右とJA2TKO左です。


”B-29ご対面記念”

正真正銘のB-29です。尾翌の番号から、機体製造番号は、45-21739で、米国のB-29関連のHPに記載の番号と同じでした。展示説明板には、ハングルの他に英文で次ぎのように説明していました。
『世界的に有名なB-29は、第二次世界大戦と韓国戦争の3年間を通して任務を果たした。韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。
この超空の要塞は、18個に分解され、1972年3月にカリフォルニアのチャイナレイクからソウルへ輸送した。そのB-29は韓国空軍によって再組み立てされ、そして、1972年8月以来Yoid Museumに展示された。』その後、1995年から、この場所で再び組立て、外観を修復し、2002.8.28に開所式を迎え再展示となった。
朝鮮半島は、1950.6.25から3年間で、第二次世界大戦でのB-29延べ出撃数29,814機/損失403機に匹敵する悲劇があったことになります。韓国国民はそれを決して忘れないために大切に保存展示していると思われました。


”B-29内部”

フロントキャビン中央下側のハッチが開いていたので、そこからよじ登り、内部を探険できました。 中は、予想外に狭く、私は天井に頭をぶつけました。中央のトンネルは細く、彼らの巨体がよく通れたものと思われました。内部はぼろぼろでしたが各部の写真を撮り、操縦桿を動かしました。そして、撃墜された機体から彼らが脱出したのは、このハッチと、爆弾倉に通じるハッチがありそこを開けても容易に飛び降りることが出来るようになっていました。


”韓国戦争時にソウルを脱出する市民”

博物館の中には、朝鮮戦争時の写真や資料がたくさん展示されています。この写真は、1951.1.4中共軍が韓国戦争に参戦し、UN軍が後退した時にソウルを脱出する市民です。ソウルは北朝鮮軍が一気に攻め込み占領されたそうです。その時、李さんは9才の少年で、ソウル市内の西大門の近くに住んでいたそうです。 韓国戦争は3年間も続き、1953.7.27までの間に、200万人の方が犠牲になったそうです。李さんの父もその時になくなったそうです。


”戦利品の高級車”

これは。金 日成さんの専用車です。 その後、米軍の参戦で北朝鮮軍を押し戻し、平壌を占領した時持ちかえった戦利品です。 産地は、旧ソ連で、重量は2.2トンです。



”晋州城の矗石門”

晋州(ヂンジュ)訪問の記念に晋州城跡を散策しました。そこへはこの”矗石門”で木戸銭を払います。私が近づくと何故か日本語の話せるお嬢さんがでてきて、日本語のパンフレットを渡します。そこは壬辰倭乱の激戦地です。城は韓国最大級でしたが、韓国戦争で焼け落ちたそうです。現在の建物は1970年に復元した。 入り口にある石段は70年前に建てられた日本神社の石段でした。


”矗石楼(チョクソクル)”

ここは城内の南江のそばにある楼閣で、高麗時代には砦、李朝時代には宴会場として使われたそうです。現在は市民の憩の場です。
ここで有名なのが、論介祀堂(ノンゲサダン)です。言い伝えは、壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵) 時代の晋州に論介(ノンゲ)という名妓がいたという。故郷は忠清南道の山中の長水。論介はそこから晋州に売られてきたそうだ。その当時の日本軍司令官は毛谷村六助。六助は大酒のみで、毎晩美女をはべらせ河畔の矗石楼で大宴会を開いていた。その時必ず呼ばれたのが論介。 ところが論介は愛国者で日本人嫌い。ついにある夜、矗石楼の岩場で酒を飲んでいるときに、六助を抱きかかえて川の中へ飛び込んだという。これが義死とされ岩は義岩として名所になった。義岩の近くに建っている論介祀堂には、論介の肖像画が正面に掲げられていて、いつでも線香と花が絶えない。
この話しは、韓国の国民は全員知っているそうです。現在も、毎年この場所で、『Nongae Festival』が開かれ、民族問題・日本軍への従軍慰安婦問題などがテーマとなり多くの若者も集まるようです。


”KIM SHI-MIN将軍の像”

彼は、韓国の英雄です。立像の前には、ハングルと英文で次ぎのように後輩に伝えていました

『KIM SHI-MIN将軍は、1592年の日本の朝鮮侵略時の最も激しい戦で彼の軍を勝利に導いた。

彼は、Byeongcheon,Chungcheongnam-do村で1554年に生まれた。 彼は、Andongの開祖の一族で、父Kim Chung-gapは行政の役人であった。 彼は、1578年国軍に奉仕する試験に合格し、1591年には晋州の行政副長官の職にあった。 晋州の行政長官が日本の朝鮮侵略の時に病気で死亡したため、1592年の太陰暦4月に、KIMは行政長官の職を引く継いだ。町の人々と城壁を築き、掘りをめぐらし、その他の防衛と軍の兵士を組織し、励まし、武器を供給した。彼は、Sacheon, Goseong、JinhaeとGeumsanの戦で勝利し、行政長官の職務を推進した。

同年10月5日20,000人の強力な日本軍が晋州を攻撃した。彼の兵力はたったの3,800人。 KIM将軍は、晋州の偉大な戦いで知られている6日間を勇敢に戦い晋州の町の防衛に成功した。 しかし、将軍はその戦で敵の弾丸が頭に当った。そして、しばらく後に晋州の町でその傷がもとで死亡した。彼は死を前に、兵士を激励し、自国の将来を心配して亡くなった。もし、彼の早過ぎる死が無ければ、たぶん、その翌年に敵に負けることはなかった。

将軍KIMが総理大臣職の名誉と功績ある役人の名簿に登録されたのは彼の死後であった。 彼はまた、死後小さなSangnak Puwon-gunの王様の称号を与えられた。その呼び名はChungmu(勇敢な王様)。この立像は、彼の献身的な愛国心を思い出し、賞賛する多くの人々によって建てられた。』


”タクシーハムクラブ”

晋州の観光はこのタクシーのお世話になりました。ドライバーは、ハムでコールサインはDS5PCPです。 あちこち回り、用事が済むと145Mhzの私のミニトランシーバーで李さんがコールすると直ぐにお出ましです。まことに便利でした。かなり乗りまわしましたが、50,000won(5,000円)を2回で済みました。


”高速バス”

ここは晋州の高速バスターミナルです。16:30発のソウル便に搭乗します。このバスも満席です。 韓国の高速道路の建設はかなりのものです。主要な都市間は総て結ばれ、その間を20分間隔でバスが走ります。出発直前に、駅員が乗車券と人数を確認します。ソウルに到着するとまた人数を確認します。数が合えば無事に配達した訳です。途中での乗り降りはありません。正に国民の宅急便になっていました。運賃は、晋州とソウル間328Kmで、片道21,300won(2,130円)でした。この距離は、名古屋〜東京間に相当します。


”ソウルの戦争記念館”

翌月曜日の朝からソウル市内観光です。午前中は李さんのお世話になりました。 ホテルの近くの戦争記念館からスタートです。構内の飛行機を見学し、切符売り場へ行くと誰もいません。売店でコーヒーを飲みながら聞いてみると、月曜日は休館という。 案内によると、この記念館は、朝鮮戦争からベトナム戦争への派兵にいたるまで、韓国はさまざまな戦争を経験してきた。その体験を後に伝えるとともに犠牲になった人々を追悼するために、かっての陸軍本部があった場所に1994年6月に開館した。
写真の像は、韓国軍が、北朝鮮の兵士を抱きかかえている。同胞が南北で戦った悲しみ・祖国統一への願いをあらわしているように思われました。


”B-52”

この重爆撃機はB-29の後輩です。彼はベトナム戦争で奉仕した世界最大級の爆撃機です。 その重量は、221tonで、重量ではB-29の7.3倍でした。 その姿は、構内からでは全部写す事ができませんでした。

《B-52仕様》
全長:47.4m  翼長さ:56.4m  最高速度:マッハ0.9  
航続距離:16,765km、 搭乗員:6名、 重量:221,300kg
武装:12.7mm機銃X4、 爆弾:30ton、 空対地ミサイル・・・


”B-52”

220tonの巨体を支えるタイヤです。この設計もB-29の経験が活かされたと思われました。


”慶会楼”

ソウル中心部にある景福宮(ギョンボックン)ヘ出かけました。李朝時代に建てられた、ソウルで最も大きい宮殿。当時の行政府。正殿は修理中でしたが、宮殿内の国立民族博物館と宮殿内を一巡しました。
写真の慶会楼の遥か後方の青い屋根が、大統領官邸の青瓦台です。
韓国の宮殿造りの特徴は、基礎部の石組みが高くなっていました。慶会楼も石柱の上に木造で立てられていました。

韓国B-29の旅も大詰めです。中区のアンバサダーホテルで、李さん夫妻ご招待の昼食会に招かれました。韓国の珍味の数々をたっぷりご馳走になり、南大門の百貨店でおみやげを買って李さん夫妻とお別れしました。李さんのお蔭で韓国の素顔に触れ、日韓親善の楽しい旅となりました。


”ソウルタワー”

ソウルタワーは街のどこからで見えますが、未だ登っていません。ソウル訪問の記念にタクシーを拾って出かけてみました。タワーのどこに着くのか分かりません。たぶんケーブルカーの乗り場に着けると思っていました。しかし、ぐるぐる回るばかりでなかなか着きません。どうやら山の上のタワーの近くまで登ってくれるようです。お蔭で早く着きました。

タワーは、南山という山の頂上に立っています。海抜243mですがかなりの大きさです。 そこに236.7mの巨大なTV塔です。ここから電波を出せば、38度線の北側の方にも高画質のTV番組が届くと思われました。


”ソウルタワー”

タワーのパンフレットによると、タワーの高さ:135.7m、その上のTVアンテナ用鉄塔:101m です。 展望エリアは4階建てで、3、4階が食堂でした。1、2階の展望室からは、ソウル特別市と周辺の山河が一望できました。韓国の人口の20%が住むというかなりの過密都市です。高層ビルと高層マンションが林立していました。しかし、その背後(北方)には、北漢山をはじめとする山々が迫ります。そして、東方は漢江が海へと流れ、仁川まで展望できました。その先が、ワタリガニが取れる京畿湾のようです。


”北漢山”Bukhasan Mt 836m

中央の山がソウルの北17Kmにある北漢山です。この山は岩山ですがソウルから日帰りで登頂できると、李さんが言っていました。彼の友人のガイドで、名古屋の山学会のパーティー25人が挑戦したそうです。



”ソウル駅”

タワーを降りると、夕日はかなり下がっていました。南山公園を散歩しながら、ケーブルカー沿いの石段を降り、ソウル駅を徒歩で目指しました。1.6Km程の道のりですが、夕暮れとなり、行き交う人もなく冷え冷えとしてきました。 道路標識もハングルです。何回も曲がっているうちに方向が分かりません。4回ほど尋ねてやっとソウル駅の地下街までたどりときました。

私は、旅の思い出にどこへ行っても駅を訪問します。ソウルならやはりソウル駅ですよね。 最初に覗いたのが、駅構内の鉄道博物館です。到着が17:30で丁度閉館の時刻でした。 残念! 次ぎに、食堂街・地下街・構内をキョロキョロです。皆さんおいしそうに韓国食を食べています。 駅舎は日本統治時代に東京駅の設計者の設計で建てたそうです。外観はそっくりでした。

駅構内は、IT大国だけあってパソコンがあふれていました。コンコースの一角がITコーナーで、数十台のパソコンがフル稼働でした。彼らは、500won(50円)/15分間 払ってMailを打ったり、囲碁をしたり、さまざまです。地下鉄駅のインフォーメーションにも必ずITコーナーがありました。地元紙の日本語版は、ADSL加入率世界NO1(加入者1,000万人/人口5, 000万人)を告げていました。

月曜日の夕刻でしたが、駅構内は大変な熱気です。各地へ出かける人、列車を待つ人、切符売り場には会員価格の標識があり良く見ると運賃もさまざっまです。しかし、日本に比べて運賃はかなり安いようです。韓国は鉄道も国民の足になっているように思われました。


Hamilton Hotel

ここが3日間お世話になった梨泰院(イテウオン)のHamilton Hotel前です。近くに駐韓米軍基地があるために、国際色豊な大繁華街です。通りの両側には商品を満載した露天がぎっしりです。 ハングルと横文字、それに日本人観光客向けの『エステ・マッサージ』のカタカナ文字がちらほらです。

最後の晩餐は、このホテルのレストランで、特大カルビを注文しました。するとボーイは、お客さんには、こちらの当店自慢のカルビが良いという。はいそうします。そして出てきたカルビも結構大きく ビックリでした。本場のカルビと韓国の盛だくさんのおかず、いろんなキムチ、野菜の山に挑戦しましたが、私の体力では消化できません。しかし、おいしいカルビの思い出ができました。


〔あとがき〕
この度の韓国訪問は、趣味が国境をこえた日韓親善の旅です。今までと一味違った楽しい旅を体験できました。同時代に生きた韓国と日本のおじさんが趣味を通して心が通います。素晴らしい事です。

私はこれまで韓国の理解もなく生きてきました。たったの4日間の訪韓で、韓国民の気持が少しわかるようになりました。過去の日本の豊臣秀吉の朝鮮出兵、伊藤博文の朝鮮併合政策が人々に与えた苦痛を現在も決して忘れていないことです。そして、朝鮮半島独自の民族の真の独立を願っています。韓国民は、攻めずして攻められた立場です。日本人は攻めて攻められておあい子です。あっけなく戦争を放棄したことになっています。しかし、韓国は違います。過去の体験から攻められたら守らなければなりません。北の脅威を抱えながらも、日本との経済戦争に対抗しなければなりません。極めて困難な環境です。しかし、ソウルはそこを逆手にとって頑張っている様にも思われました。

韓国は現在も徴兵制です。李さんの次男も現在大学2年で、2年と2ヶ月の兵役中です。B-29を展示している航空宇宙博物館のパンフレットの表紙の中央には、ハングルと英文で『FREEDOM IS NOT FREE』と書かれています。国民に、自由を得るには義務を果たせ、と呼びかけているようです。 現在の日本は、『FREEDOM IS FREE』のようです。良い勉強になりました。李さんに感謝です。

・・・ご参考・・・韓国マップ・ Sa-chonの航空宇宙博物館の所在地・・・



〔B-29,韓国 Sa-chonの航空宇宙博物館、2002.8 Open 〕



今後も、楽しい旅の想い出をこのページに掲載します。お楽しみ下さい。
I publish the recollection of an enjoyable trip in this page. Please have fun.


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