〔HP開設5周年記念特別企画〕 ・・・安城歴史研究第20号 抜刷 1996.3.31発行・・・

第1章 明治基地と海軍航空隊
著者: 鈴木 丹 先生

第2次世界大戦、日本海軍戦史
旧、愛知県碧海郡明治村/現、安城市東端町・根崎町・和泉町

1.『明治基地』とは

太平洋戦争の末期に、 当時の愛知県碧海郡明治村(安城市南部)の東端、根崎、和泉の三つの部落に挟まれた約 200ヘクタールの平地に存在した日本海軍の航空基地(飛行場)のことである。海軍での正式名称を『明治航空基地』という。

この基地の建設の経緯等については、既に『明治村史』および『本誌第3号』に詳述されているところであるが、何れも当時、この基地を使用した部隊についてはほとんど触れられていない。従って今回は、主としてこの基地を使用した海軍航空隊とその活動の状況について概述し、前期2文献の空隙を埋めさせて頂きたいと思う。

衆知のとおり、開戦劈頭(へきとう)、ハワイ・マレー沖開戦の大戦果により、華々しく緒戦を飾った海軍航空部隊ではあったが、翌1942年には、5月から6月にかけて行われた珊瑚海開戦とミッドウエイ海戦により、主力空母4隻を含む5隻の空母を失い、空母航空戦力に壊滅的打撃を受けるに至った。

この事態を受けて軍令部は、航空兵力の急速な建て直しと増勢を迫られ、同年6月30日付けで 『昭和17年度戦時航空兵力増勢及艦船建造補充ニ関スル件商議』をもって、それらの増勢補充を海軍大臣あて商議した。この計画は、海軍部内で『改D計画』と呼ばれ、建造途中の『大和』型大型戦艦3番艦の空母への改装、4番艦の建造中止と即時解体等を含む空母・潜水艦の建造増加と航空隊、搭乗員の大幅な増隊、増員等を内容とする大規模なものであったが、その中に、1945年4月の開隊をめざして整備する外戦部隊用の常設作戦基地の一つとして『明治』の名が含まれていた。商議を受けた海軍省は、1ヶ月にわたる検討の結果、商議通りの計画を認め、必要な予算を 同年12月26日召集の第81帝国議会に提出、議会の協賛を経て、翌1943年3月3日公布された。

基地の建設工事は同年4月より始めれ、文字通りの突貫作業で進めらた。土木機械の導入の遅れていた当時のこと、近隣の中等学校の生徒も動員しての人海戦術であったが、翌1944年初頭にはどうやら飛行場らしい形態を整えるに至った。

2.明治航空基地位置図


3.初飛行

1944年5月下旬には、 工事半ばのまま、飛行隊が使用を開始した。飛来した飛行機は、同年1月15日鳴尾基地で開隊 し、鳴尾、伊丹の両基地で訓練中であった第345海軍航空隊(略して345空『サン・ヨン・ゴ・クウ』 という)の一部(派遣隊指揮官 園田美義少佐)であったようだ。
345空は、当時、ほぼ開発を終え、ようやく量産に入り始めていた最新鋭局地戦闘機『紫電』 によって装備され、ガダルカナル島の攻防を中心に展開された年余に及ぶ慢性的な 航空消耗戦で、老練搭乗員の大半を失い、搭乗員の錬度・術力の低下に苦慮していた 軍令部が、搭乗員の急速養成を目的として編成した第62航空戦隊(司令部 香取司令官  杉本丑衛大佐 のち少将)所属の航空隊で、教育を担当する一部の隊員を除き、ほとんどが 練習航空隊の教育を終えたばかりの新進隊員で編成されたいわゆる練成航空隊であった。

また、この隊は、隠語(防諜用ニックネーム)として『光』が使われ、外部者には『光部隊』と称していた。6月15日には、第62航空戦隊は解隊され、345空はその直率となった。

4.海軍戦時編成の大改訂

1944年7月10日付けで、 海軍戦時編成の大改訂が行はれ、345空は解体され、新たに特設飛行隊制度による戦闘第402 飛行隊が明治基地において編成された。そして、同時に館山基地で編成された戦闘第401飛行隊(同じく『紫電』で装備)とともに、第2航空艦隊直率の第341海軍航空隊(館山)所属の飛行隊(明治派遣隊)となった。
またこの時、航空隊の空地分離制度も併せて実施され、航空隊を持たず、基地業務のみを担当する航空隊(乙航空隊という)が新たに設けられることになり、明治基地の基地業務は、制度上は第3航空艦隊直率の乙航空隊として開隊した関東海軍航空隊(木更津)の所管となった模様である。 乙航空隊に対し、飛行隊を持つ航空隊を甲飛行隊といった。

マリアナ沖海戦の完敗、 サイパン島の失陥等、悪化する戦況に押され、7月20日には第2航空艦隊は錬度完熟を待たず、作戦兵力として連合艦隊に編入された。
9月1日現在での明治基地の配備機数について、保有53(内実働23)の記述があるが、配備機数 には主力機の紫電11型の他に零戦や中間練習機等も若干含まれていたようだ。9月に入って、 第2航空隊の台湾、比島への展開に備え、明治基地で練成中であった戦闘第402飛行隊(飛行隊長 藤田怡与蔵大尉・のち少佐)は、南九州の宮崎基地に転進した。

以後、この飛行隊は341空所属の飛行隊として、台湾沖航空戦に参加、ついで連合軍の猛攻を受けていた比島へ渡り、悪戦苦闘の末、全航空機を失い、生き残り搭乗員・整備員は、翌年1月から2月にかけて『陸攻』 『輸送機』等で台湾へ転進、内地で飛行隊を再建し、343空、601空を経て、終戦は筑波空で迎えたようだ。

5.第3航空艦隊

1944年9月15日には、 第3航空艦隊(司令部 木更津、司令長官 寺岡謹平中将)直率の第210海軍航空隊(略して210空『ニ・イチ・マル・クウまたはフタ・ヒト・マル・クウ』という)が明治基地で開隊した。210空は、多機種の実用機搭乗員を一箇所で効率的に養成するために編成された練成教育を主任務とする実用航空隊であった。
そのため、艦戦(甲戦)、局戦(乙戦)、夜戦(丙戦)、艦爆、艦攻、陸偵の6種の飛行隊を持ち、当時の小型実用機のほとんどの機種が配備された異色の大航空隊でもあった。
初代司令は田中義雄大佐、飛行長は眞木成一少佐(のち中佐)、飛行隊長は着任時期は前後するが、完整期には艦戦(零戦)隊が塩水流俊夫大尉、局戦(紫電)隊が三森一正大尉、艦爆隊が野村浩三大尉、艦攻隊が佐藤善一大尉(のち少佐)、陸偵隊が佐久間武大尉(のち少佐)、そして夜戦隊は佐久間大尉の兼務であった。

各飛行隊の配備機種は、時期により若干の出入りがあるが、主なものを挙げれば、艦戦隊が零式 艦上戦闘機と零式練習用戦闘機、局戦隊が局地戦闘機『紫電』、夜戦隊が夜間戦闘機『月光』 と『彗星(夜戦仕様の12戌型・液冷)』、艦爆隊が艦上爆撃機『彗星(33型・空冷)』と99式艦上爆撃機、艦攻隊が艦上攻撃機『天山』と97式艦上攻撃機、そして陸偵隊が艦上偵察機『彩雲』と『彗星 (艦偵仕様の11型12型・液冷)』、等であった。
その他に、機上作業練習機『白菊』や90式機上作業練習機、93式中間練習機等も配備され、時折、双発の96式陸上攻撃機や零式輸送機(ダグラスDC-3)も飛来し、誠に多彩な航空隊であった。

基地は、北地区(和泉側)と南地区(東端側)に分かれて施設が配備され、本部機能は北地区に置かれ、南地区は分遣隊のような形なっていたようだ。夜戦隊、艦爆隊、陸偵隊は北地区に、 艦戦隊、局戦隊、艦攻隊は南地区に配備されていた。
各飛行隊の航空機定数は、艦戦48、局戦48、夜戦12、艦爆24、艦攻24、陸偵24、の計180機となっていたが、実配備機数については、翌1945年3月の時点で、零戦52型29機、同32型2機、 同21型3機、錬戦8機、紫電11型26機、(徳島派遣隊)、月光11型9機、彗星12戌型5機、彗星33型23機、99艦爆22型11機、天山12型21機、97艦攻11型2機、同12型1機、彩雲11型2機、彗星11型18機、同12型12機、の実用機計172機(内、完備機87)と、他に各種練習機等45機、との記録がある。

6.超長距離爆撃機B-29の邀撃(ようげき)

210空は開隊以来、専ら練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対する練成教育に努めていたが、 1944年12月13日以降、主として名古屋地区に来襲した米陸軍の 超長距離爆撃機B-29の邀撃に当たるようになった。邀撃戦には、艦戦隊の『零戦』、局戦隊の『紫電』、夜戦隊の『月光』と『彗星12戌型』のほか、艦爆隊の『彗星33型』も3号3番爆弾(敵編隊の上空より投下し、編隊付近で爆発させ、飛散する弾子により敵機に損害を与える目的の30Kg爆弾)を搭載して参加したようだ。出撃回数は翌年2月13日までに計14回、その後、艦載機の邀撃にも参加したとの記録がある。

・・・B-29邀撃の実相については、第2章『明治基地とB29邀撃戦』をご覧ください・・・

1945年1月5日には、阪神地区の防空のため、徳島派遣隊(指揮官 三森井一正大尉)が編成され紫電隊は徳島基地に移った。

7.三河大地震

また、1945年1月13日早朝、この地を襲った三河大地震の際は、隊を挙げて周辺地区の被害者の救助救援活動や災害の復旧にあたった。

米軍の硫黄島への上陸により戦局は更に急迫、3月に入ってからは、210空の主任務は本格的な作戦任務に変わった。この時期での隊員数について、士官202(内、練成員120)、特務士官28、準士官38、下士官702(内、練成員355)、兵3,105(内、練成員71)、雇庸人3、の隊員総計4,078名 の記録がある。

8.天1号作戦発動/米軍沖縄攻略

米軍の沖縄攻略の企画が明白となった1945年3月26日、 連合艦隊は敵の南西諸島方面への侵攻に備えた天1号作戦発動を下令、これに基づく同日付けの第1機動基地航空部隊指揮官(第5航空艦隊司令長官 宇垣纏中将)の命により、210空は、菊水作戦(沖縄特攻作戦)参加のため、司令、飛行長以下南九州の展開基地(出水基地ほか)に進出した。

しかし、進出の途中、田中司令の乗機(零式輸送機)が四国土佐沖で敵艦載機の攻撃を受け、司令が機上負傷(左下腿部盲貫銃創)されたため、乗機は高知基地に不時着、九州進出後の指揮は眞木飛行長がとられた模様である。
何事によらず、計画通り、予定通りに事の進むような状況ではなかった。残された記録や隊員の回想もまちまちで、今となっては進出状況の正確な記述は難しいが、とにかく、3月の28日から31日にかけて、南九州各地の基地に進出し、最終的には 、零戦隊(約32機)紫電隊(約14機)、彗星隊(約14機)は第1国分基地に集結、601空司令杉山利一大佐の指揮下に、また、天山隊(約13機)は串良基地に集結して131空司令濱田武夫大佐の指揮下に入り、それぞれ必要な作戦行動に参加したと見て大きな間違いは無いように思われる。

米軍が沖縄本島に上陸を開始する直前の3月末日以降、進出機はいずれも沖縄周辺及び南西海域の索敵や制空、敵艦船の攻撃、特攻機の直掩などに参加すると共に、神風特別攻撃隊 としての出撃にも参加し、4月6日には、第1国分基地より発進した500キロ爆弾爆装の第210部隊彗星隊の『彗星』7機が徳之島東南方海面の敵機動部隊に、 また、串良基地から発進した800キロ爆弾爆装第3御盾隊天山隊の『天山』1機が沖縄本島周辺の敵艦隊に、それぞれ体当たり攻撃を敢行。

また、11日には、第1国分基地より発進した250キロ爆弾爆装の第210部隊零戦隊の『零戦』3機が沖縄東方海面の敵機動部隊に、また、時間差はあるが同じく第1国分基地より発進した500キロ爆弾爆装の第210部隊彗星隊の『彗星』2機が徳之島東南方海面の機動部隊に、それぞれ体当たり攻撃を敢行した。

その結果、神風特別攻撃隊員として出撃戦死された210空隊員は、計23名となった。作戦に参加したのは、18日までの約2旬であったといわれているが、その間に210空の失った航空機は、地上大破も含めて、各機種合わせて40数機、戦死搭乗員数も、特攻を含めて40名を越えたものと思われる。

一応の作戦に区切りのついた4月下旬、飛行隊は原隊に復帰した。4月22日には、横須賀海軍病院へ入院された田中司令に代わって、薗川龜郎中佐が二代司令として着任された。

9.210空の再編成

1945年5月5日付けで、210空は新編の第53航空戦隊(司令部  豊橋・明治・木更津、司令官 高次貫一大佐・のち少将)所属の戦闘機単独の航空隊 (航空機定数 艦戦96)として再編成されることとなり、多機種の飛行隊は解隊となり、搭乗員のほとんどは航空機共々順次他の基地へ転属となった。
そして、5月16日には、航空戦隊司令部が豊橋空より移され、明治基地に将旗が翻った。

なお、燃料逼迫のため、3月以降、搭乗員の空中教育は原則として中止されていたが、枯渇した搭乗員を少しでも補うため、最小限必要な実用機による練成教育を、第53航空戦隊麾下の航空隊で行うこととなり、210空は、戦闘機搭乗員の操縦教育を担当することになった。 そこで、明治基地配備の零戦を使い、空襲の合間を縫って飛行訓練を再開した。

しかし、当時は、燃料の欠乏と本土決戦兵力の温存のため、210空は邀撃戦に参加しなかったため、基地周辺の住民からは、『明治基地の飛行機は、敵機が来ると掩体壕に隠れ、敵機がいなくなると飛び上がる。一体何のための航空隊だ。』などと陰口をたたかれたこともあったという。いずれにせよ、明治基地は、最初から最後まで、搭乗員練成教育のメッカであった。

210空になってからこの基地で練成教育を受けられたのは、主として、飛行学生は42期(兵学校73期が主体)、飛行科予備学生は13期、飛行訓練生は37期(甲種飛行予科練習生12期、乙種飛行予科練習生18期が主体)の方々であったようだ。345空や戦402の時は、それぞれ1期または2期先輩の方々と思われる。

10.210空の搭乗員戦死殉職者数

210空所属搭乗員の戦死殉職者数は筆者の調査で氏名・出身母体が判明した分だけでも70名を越えるが、その中に、13期予備学生出身者31名、甲飛12期出身者17名が含まれている。 前者は、当時大学・高専を出たばかりの20歳から24歳、後者はそれより若く、18歳から19歳の若者達であった。

1945年6月20日には、 東海地区の航空基地を統括する司令部機能を持った乙航空隊として東海海軍航空隊(司令 江島久夫大佐)がこの基地で開隊した。しかし、これも制度上実態に先行して発令されたもののようで、直ちに機能した訳ではなく、実際に空地分離がこの基地で実施に移されたのは8月6日からであったようだ。この時点で、初めて基地の管理運用業務は東海海軍航空隊明治基地隊(基地長 薗川中佐兼務)の担当となった。

11.米軍戦闘機延べ150機による空襲

1945年7月25日から 30日、8月2日から5日にかけて、米軍P-51戦闘機、F6F戦闘機、TBF攻撃機、延べ150機の 空襲を受けた。特に8月2日の空襲では、北地区の地下通信室壊滅、兵舎2棟消失等の大被害を受けた。その他、南地区の格納庫1棟大破、航空機炎上等の被害もあり、この間の隊員の死亡は15名に上がったと伝えられる。8月12日には、元第2航空艦隊首席参謀の柴田文三大佐が名古屋 空司令より、210空3代司令(東海空明治基地長兼務)として着任された。

12.戦争終結の詔書発布

1945年8月14日23時、 戦争終結の詔書発布、15日正午には玉音放送が流され戦争は終わった。しかし、この日の夕刻 、第5航空艦隊司令長官宇賀纏中将自ら率いる500キロ爆弾爆装の『彗星』9機が大分基地を飛び立った。これが日本海軍航空隊最後の出撃となったが、この中には、かって210空艦爆隊の搭乗員として明治基地で訓練に励んだ伊藤幸彦、北見武雄の両中尉が含まれていた。

16日には大本営は即時戦闘行動の停止を発令、その後発せられた大海令、大海指により、 8月24日18時以降は特例を除き一切の飛行が禁止となり、全ての航空機はプロペラと気化器をはずし、飛行不能な状態にした上、残留員を残して大部分の隊員は順次復員、郷里に帰った。

残留接収要員(柴田基地長以下約170名)は、以後全ての施設、兵器類を整理し、11月3日、連合軍の接収部隊に引き渡した。このとき引き渡された兵器・軍需品の主なものは、

・・・接収部隊に引き渡した兵器・軍需品リスト・・・

整理NO兵器・軍需品名品目別引渡し数量 品名別計
1航空機飛行可能零戦45機
2同上その他4機
3同上破損機16機65機
4航空機銃20ミリ航空機銃177丁
5同上13ミリ航空機銃108丁
6同上7ミリ9航空機銃101丁
7同上7ミリ7航空機銃78丁464丁
8高射砲10センチ高射砲2門2門
9機銃25ミリ機銃36丁
10同上13ミリ機銃7丁43丁
11爆弾500キロ爆弾21発
12同上250キロ爆弾693発
13同上60キロ爆弾156発
14同上30キロ爆弾605発1,475発
15機銃弾25ミリ機銃弾23,120発
16同上20ミリ機銃弾104,500発
17同上13ミリ機銃弾228,250発
18同上7ミリ9機銃弾128,000発
19同上7ミリ7機銃弾182,000発665,870発
20航空燃料・・・40キロリットル40キロリットル

等であった。その後、航空機等が焼却処分に附された後、土地建物は国有財産として名古屋財務局の管理に移され、慌しく生まれ育った『明治航空基地』は、ひっそりとその歴史を閉じた。

13.住民の思い

『明治基地』 がこの地につくられ、存在したことに対する住民の思い出や評価は複雑かつ多様であろうと思う。 或いは招かれざる客であったかも知れない。

しかし、当時、何の変哲もない農村であったこの地に、突如として、広大肥沃の農地をつぶして飛行場が造られ、それを海軍航空隊が使用し、ここから直接、敵機の邀撃に戦闘機が飛び立ち、ここで訓練を受けた多くの若者達が、祖国の国益を信じて死んでいったという事実は、戦後、明治村が、三つに分裂し、三つの市に解村合併して消滅した事実とともに、『愛知県碧海郡明治村』の昭和史にとって、正に特筆されるべき歴史的事件であった、という認識に異論を唱える人は少ないであろう。出来得れば、一つの史跡として、後世に伝える配慮がほしいと思う。

14.調査及び参考文献

この一文を作するに当たっては、 主として後掲の文献を参考にするとともに、当時の210空の飛行長眞木成一氏(兵57期・当時中佐)や軍医小林清氏(当時海軍大尉)をはじめ、当時の隊員の方々から、基地の状況について貴重な御教示をえた。また、海軍航空の草創期に海軍航空術研究委員会の委員として、搭乗員養成の基礎を築かれた碧南市鷲塚御出身の山田忠治少将(兵33期)の御令息山田忠男氏(兵65期終戦時少佐)をはじめ、海軍の先輩各位から暖かい御指導を賜った。

挿入した写真は、当時210空艦爆隊の整備分隊士をしておられた小山敏夫氏(機54期、当時中尉、終戦時東海空附)が自ら撮影し保存してみえたものであり、また、連合軍に引き渡した兵器の数量等については、当時、接収要員として引渡しに立ち会われた艦攻隊整備分隊士の植松昇氏(機54期、当時中尉、終戦時東海空附)が保存してみえた目録からの抜粋である。紙面の制約もあり、皆様から御提供頂いた資料・情報の全てを御紹介できないのは誠に残念であるが、この場をお借りして厚くお礼申し上げる次第である。

しかし、文献の記述や隊員の回想は、人により相応の幅があった。混乱の時期のことでもあり、年も経ている。やむを得ないことだと思う。それらについての取捨選択は、すべて筆者自身の判断で行った。従って記述内容についてのすべての責任は、当然のことながら筆者のみにあることを改めて確認しておく。

私自身も基地の思い出は多い。西尾中学校(旧制)3年生のときには、勤労奉仕で建設作業に従事したこともある。しかし、終戦を迎えたのは海軍兵学校江田島本校であった。当時、同校の3号生徒(1年生・77期)齢16歳の少年であった。あれから半世紀を経た。太平洋戦争終結50周年を迎え、その全てが歴史となりつつある今、改めて当時を偲ぶと共に、あの時代に、祖国の期待と要請に応え、何疑うこともなく、この基地で一生懸命真面目に生き、真面目に死んでいった多くの若者達の御冥福を、心からお祈りしたいと思う。 なお、文中( )内の、兵は海兵学校、機は海軍機関学校の略である。

《主な参考文献》 ( )内の『防研』は、防衛庁防衛研究所図書館の略

・防衛庁戦史室編 戦史叢書(全102巻)
・海空会編 日本海軍航空史(全4巻)
・薗川龜郎編 写真図鑑 日本海軍航空隊
・零戦搭乗員会編 神風特別攻撃隊々員之記録
・D及び改D計画航空軍備関係(防研・戦史資料)
・第62航空戦隊戦時日誌 (防研・戦史史料)
・第341海軍航空隊戦時日誌 (防研・戦史史料)
・第210海軍航空隊戦時日誌 (防研・戦史史料)
・第210海軍航空隊現状報告綴 (防研・戦史史料)
・第210海軍航空隊戦闘詳報 (防研・戦史史料)
・第210空・明治基地隊関係綴 (防研・戦史史料)
・第53航空戦隊戦時日誌 (防研・戦史史料)
・航空基地図綴 (防研・戦史史料)
・大海令・大海指綴 (防研・戦史史料)


著者・航空隊OB・東端町住民の想いが、東端農村公園に建てた
『明治航空基地之碑』


写真:2004年3月23日、JA2TKO撮影


・・・Website訪問者の声・・・

 1.富山県の岡本様からの『210空』戦闘情報追録

( 岡本達也様は、明治航空基地のSiteを訪問、特に『210空』戦史に注目され、 1945年4月11日の喜界島沖の米海軍機動部隊の戦艦群に対する 通常攻撃=通常の急降下爆撃に関する記述の追録を提案いただきました。 2004.11.12付、Mailにて )

210空、 菊水1号作戦に参加するために、現・鹿児島県国分市の 第1国分基地に進出していた210 空艦爆隊の搭乗員たちの一員で あった斉藤巌中尉(操縦員)と浅川正兵曹(偵察員)のペアは、 4月11日の午後1時50分頃、喜界島沖の米海軍機動部隊に対する 攻撃のため、艦上爆撃機「彗星」(三三型)に搭乗して第1国分 基地を出撃し、中之島を経由して、奄美大島の西方を回り、喜界 島から180 度91浬の位置にいた敵戦艦を攻撃した。

午後4時40分 頃、攻撃目標を戦艦に定め(後方を巡洋艦が追従)、反航(反対 の航路)にて左30度、高度3000mより急降下を開始し、真横より 高度400mで500s爆弾を投弾し、敵戦艦の艦尾から20m付近に弾 着を認めた。帰途、午後4時45分頃、雲間より輪型陣の前半らし いもの−空母2隻、駆逐艦7〜8隻、その他不明−を発見した。 接触しようとしたが、グラマン戦闘機(F6Fヘルキャット)の 追従を受けて雲間に退避し、午後5時25分、喜界島上空に到達し た。この喜界島上空でもグラマン戦闘機(F6Fヘルキャット) の追従を受け、約15分間の退避後、午後5時40分に、味方の掩護 射撃の下に喜界島飛行場に降着したという。

 このように、1945年3月28日、菊水1号作戦(沖縄航空作戦) の発令に伴い、明治基地から第1国分基地に進出した210 空艦爆 隊(彗星三三型装備)の隊員たちの一員である斉藤中尉と浅川兵 曹のペア(終戦時は、ともに、明治基地と同じく愛知県にあった 名古屋海軍航空基地−挙母基地、伊保ヶ原飛行場ともいう−に展 開していた601 空攻撃第3飛行隊に所属)は、4月11日、沖縄方 面の米海軍機動部隊に対して特攻出撃して突入した神風特別攻撃 隊210 空部隊零戦隊(爆装零戦)3機、ならびに、同部隊彗星隊 (空冷「彗星」)2機とともに、この日の午後、彗星三三型に搭 乗し、喜界島周辺の米海軍機動部隊に対する攻撃に出撃したが、 斉藤中尉と浅川兵曹のペアが搭乗する彗星三三型は、特攻ではな く、米海軍機動部隊の戦艦群に対して、通常の急降下爆撃を敢行 した(惜しくも、投下した爆弾は、戦艦から至近距離の海面に着 弾したという)。

これについては、浅川兵曹とは予科練時代の同 期生である宮本道治氏(鹿児島県串良基地に展開していた931空 攻撃251飛行隊に所属し、沖縄戦では、艦上攻撃機「天山」の搭 乗員として沖縄方面への夜間雷撃に幾度も出撃。

香川県・観音寺 基地で終戦を迎える)の著書『沖縄の空〜予科練生存者の手記』 (新人物往来社・刊)や、『第210 海軍航空隊戦闘詳報』[1945 年4月11日対機動部隊攻撃・第2小隊1番機]などにも詳細が記 述されている。

・・・2004.11.12(金) 岡本達也様からの、Mail投稿全文・・・


明治基地関連ニュース

2004.7.22: 旧第210海軍航空隊13期会(飛行科予備学生)一行16名が明治基地跡を訪問

2017.11.6: 中日新聞記事、”はっくつ・新・三河遺産 39 ”明治航空基地の燃弾庫”を紹介


『明治基地と海軍航空隊』の訪問ありがとうございました。
次ページで、第2章・・・明治基地とB29邀撃戦・・・
を公開していますので是非訪問して下さい。


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