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平凡社『大系』本の解説及び魯迅の『中国小説史略』をネタ元にして『三侠五義』の解説をまとめてみました。


『竜図公案』から『三侠五義』へ

『三侠五義』の主人公・包拯は実在の人物であり、北宋期の政治家である。清廉潔白で剛直な人物であったので、庶民から慕われたという。一般に官名などを取って包公・包待制・包青天・包竜図と呼ばれている。南宋の頃には早くも、名裁判官としての包拯の活躍を描いた物語が作られるようになった。これらの物語はいずれも講談師の手によって語られていったのである。元代になると元曲と呼ばれる演劇が流行し、やはり包拯の裁判物が数多く作られた。こうして明代には、膨大な数の包拯物が出来上がっていったのである。

これらの包拯物を書物にまとめた明末清初に刊行された『竜図公案』(包公案)である。「公案」とはこういった裁判物のジャンルの名称であり、多くは『竜図公案』と同じく名宰相・名裁判官が民衆の訴えを執り裁いていくという形式を取っている。他に則天武后時代の宰相・狄仁傑が主人公の『狄公案』、清代の政治家を主人公とした『施公案』・『彭公案』などがある。

この包拯の裁判談に、展昭や白玉堂といった義侠たちの活躍を取り入れて侠義(武侠)物の『三侠五義』へと発展させていったのが、清代の講釈師・石玉崑である。一般に『三侠五義』の作者とされる人物である。この時点で包拯の裁判談より、彼に仕える義侠たちの活劇のウェートが高くなり、あたかも義侠たちが主人公であると思わせる内容になった。そして彼の講談の内容は清末に『竜図耳録』という本にまとめられた。そして複数回の改訂を経て書名も『忠烈侠義伝』、そして『三侠五義』へと改められていったのである。


『三侠五義』の史実

『三侠五義』の物語は、どの程度史実に基づいているのであろうか?これについては、考えるだけ野暮のようである。そもそも実在の人物は包拯・仁宗皇帝などごく一握り。おまけに北宋・仁宗の時代には皇族が謀反を起こすといった事件など無かったのである。日本の時代劇で言えば、水戸黄門は実際は諸国漫遊をしなかったというのと一緒のことで、史実との整合性などどうでも良かったのであろう。襄陽王の謀反については、魯迅は明代の皇族の反乱をモデルにしているのではないかと言う。

ただ少し面白いのは「五鼠」の設定である。『竜図公案』では、「五鼠」は人間ではなく、精霊のような存在として描かれているという。これが『三侠五義』では義侠に変化したのである。「御猫」というのも、元々は包拯に仕える猫を指していたという。それが『三侠五義』では義侠の展昭となり、皇帝から「御猫」の呼び名を授かるという設定に変化したということである。


『七侠五義』とは?

現在、中国本土や台湾では、『三侠五義』の物語は多く『七侠五義』の題で知られている。数年前に台湾で『三侠五義』のパソコンゲームが発売されたが、そのタイトルも『七侠五義』であった。なぜ「侠」の数が三から七に増えることとなったのか?それを知るには、『三侠五義』が書かれた当時の人々の評価や反応を見ていくことから始めねばならない。

物語前半の包拯の裁判談(李妃の生んだ男子が猫とすり替えられた事件など)は多く『竜図公案』から取られたものであるが、当時から評論家連からは幽霊が出てくるなど荒唐無稽な要素が多いと評判が悪かった。逆に白玉堂や蒋平、艾虎といった個性的な義侠たちの活躍ぶりは『水滸伝』の遺髪を継ぐものとして評判が高かったのである。兪etsu.gif (137 バイト)(ゆえつ)という学者も『三侠五義』を読み、そういった感想を持った一人であった。

彼は手始めに『三侠五義』の第一回(李妃の男子を劉妃が取り替えさせた下り)を改作するなどの改訂を加え、冒頭に自らの序文を加え、題名を『七侠五義』と変更して世に問うた。義侠のうち、「五義」を盧方・韓彰・徐慶・蒋平・白玉堂の五兄弟とするのは良いとして、「三侠」を南侠・北侠・双侠の三つとするのは理屈に合わないというのである。そもそも「双侠」は丁兆蘭・丁兆宸フ二人を指し、これだけで侠客の人数が四人となる。更に黒妖狐の智化、小諸葛の沈仲元、小侠の艾虎も数に入れるべきであり、結局「七侠」としておくのが妥当と兪etsu.gif (137 バイト)は主張したのである。

しかし『三侠五義』とは「三皇五帝」と同じく多くの侠客を総称した呼び方であり、さほど侠客の実数にこだわる必要も無かったのである。ともかくこの『七侠五義』の発行は、『三侠五義』の物語の流行に更に拍車をかけさせた。


続編と類似作品

さて、本編が流行すれば続編が作られるというのは物の道理。しかも『三侠五義』の場合は結局中途の所で話が終わっていることもあって、余計に続編が求められたのであろう。

まず兪etsu.gif (137 バイト)の『七侠五義』の刊行後すぐに、『小五義』・『続小五義』が世に出された。二つとも全百二十四回から成る長編であり、石玉崑の門下の手によって作られたと考えられている。『三侠五義』を『大五義』と解釈し、その子孫が活躍する物語であるから『小五義』と題したと言う。『小五義』は前作の白玉堂と智化が冲霄楼に忍び込む場面から話が始まり、『続小五義』でようやく襄陽王が捕らえられることとなる。そのうち正編と続編を合わせた『正続小五義全伝』なんかも作られた。また『小五義』の続編がその後も次々に刊行され、それが二十四集にまで達したという。

『三侠五義』の流行は巷に侠義小説の一大ムーブを起こし、次々と類似の作品が作られた。『永慶昇平』・『英雄大八義』・『七剣十三侠』・『五剣十八侠』・『九義十八侠』・『仙侠五花剣』といった作品が清末から民国期にかけて作られたのである。また『三侠五義』と同時期に、女侠・十三妹の活躍を描いた『児女英雄伝』が作られ、これも好評を博した。

こういった侠義小説を礎にして、民国期以降は武侠小説が競って書かれるようになった。武侠小説では「武林」という武道家たちの世界を背景にした侠客たちの戦いが主なテーマとなり、格闘場面の描写が非常に凝ったものになっていった。ここから更に武侠小説はジャンルとしての発展を見せ、戦後になって金庸・古龍・梁羽生といった作家たちによって大成されるに至った。


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