私の追憶の旅路は、2000.3に始まりました。それはITの旅路です。
そして、2年半の歳月が経ちました。
その間に、私のHPの訪問者カウンターは、10,000回近くにもなりました。
私の拙い”B-29の追憶”は地球を覆う蜘蛛巣をさまよいました。
そして、多くの方からあたたかい情報の提供をいただきB-29の真相に迫ることもできました。
そして、ついに日米から核心情報を提供しますというemailを相次いで受信しました。
2002.6.15 "B29site- very good"というemailを受信しました。
送信者は、サンフランシスコ地区に在住のRay 'Hap' Halloran氏81才(注1)です。
彼は、半年前に日本の歴史家からあなたのSiteの紹介があった。と前置きして、
自己紹介で、1945.1.27東京上空で撃墜されたB-29の捕虜生存者であり、
最初に上野動物園の檻に入れられたという。そしてあなたの助けになる情報を提供できるという。
早速お願いのremailです。そして情報交換は今なお続きます。写真はHapさん、本人提供。
2002.6.24 私のHPの掲示板(BBS)に”B29搭乗員について”と題し、詳細な核心情報が入りました。投稿者は、”中村和彦@青森空襲を記録する会”(注3)です。彼は、昭和21年4月第1復員省調整「国土防衛隊の連合軍飛行機搭乗員処置に関する調査」の中の、そだめ墜落B-29の捕虜と昭和20年7月に愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)に墜落したP-51の情報を提供してくれました。
以後、中村和彦氏からは、213頁にも及ぶ復員省とGHQ(注5)調書(英文)さらに当時の俘虜に関する処置情報の提供をいただくことになりました。
私は先ず、これらの情報をもとに、57年前に私が凝視した”P-51パイロット捕獲事件”の当時の状況を再現し、追憶の旅路の原点を訪ねてみたくなりました。
私のB-29追憶の原点は、57年前の夏の日に始まります。それは、後ろ手目隠しで郷中を引きまわされた米兵の姿が目に焼き付いたからです。当時の戦況から進めます。
時は、1945.7.15です。日本の主要な都市はB29の無差別爆撃でほぼ消滅しました。硫黄島そして沖縄も陥落しました。日本の近海には連合艦隊の艦船が空母を頭に群がっていました。米軍は硫黄島にP-51を配備し、B-29の掩護も軌道に乗せています。さらに硫黄島では東北・北海道を容易に爆撃するためにB-29の配備も進んでいました。
大本営陸・海軍は、B-29の爆撃など取るに足らない被害といい、徹底抗戦をゆずりません。そして連合軍の本土上陸に備えて、各地方軍に激を飛ばしています。7.15は、岡崎市街B-29空襲の5日前、終戦の1ヶ月前です。
1945.7.15午前7時頃からP-51マスタング(写真)が硫黄島を次々に離陸しました。
B-29の掩護に向う編隊もいます。岡崎海軍航空隊を目指す編隊は小笠原諸島上空を北上し伊良湖岬を目指し
北上します。
それを迎え撃つ第1岡崎海軍航空隊の配備状況は25mm機関銃合計25門と、
特訓中の若き訓練生60余名の機関銃員です。彼らはピラミッド型土盛り陣地で応戦の構えです。
07:30第1警戒配備、08:45第2警戒配備で機関銃員は全員配置につきました。
警戒警報発令と共に、小学校の児童は防空頭巾をかぶり運動場の真ん中に作られた防空壕へかけこみました。
その頃、伊良湖岬沖洋上を飛行中のP-51の5機編隊先導機のPaul E. Chism中尉は、
攻撃目標を航空写真で再確認しています。彼は伊良湖岬上空で真夏の日差しを浴び白く光る矢作川を確認。
岡崎上空を一旦北上して行きます。
09:20敵機来襲です。P-51の攻撃目標は岡崎海軍航空隊です。別の編隊は名鉄(当時は愛電)の車両を銃撃しています。
Chism中尉機の5機編隊は航空隊の北側から第1岡崎海軍航空隊兵舎めがけて急降下し機銃掃射を始めました。
その時なりをひそめていた岡崎航空隊の機銃が炸裂します。高度800m、射撃角度45度、撃て、の号令と共に
その初弾が見事に一番機のChism中尉機に命中します。機体は一旦上昇し1回転してパイロットはパラシュートで脱出しました。
機体は、第1岡崎航空隊内のPX、酒保建物に墜落炎上しました。
Chism中尉のパラシュートは航空隊の南の端から、国道1号線、さらに私の住んでいた大字”宇頭”、
名鉄本線の上空を遊覧飛行し、蓮華寺の南側の農地に無事着陸しました。
当日は晴れで猛暑の朝9:20から昼過ぎまでP-51の3から5機編隊が執拗に機銃掃射を繰る返しました。
13時45分空襲警報解除です。
それを見届けるように、第1岡崎航空隊の兵士(医務班)が、前田軍医中尉と共に急行しました。
Chism中尉はK主計兵曹に直ちに逮捕されました。前田軍医は彼を見渡しました。たいした怪我も無く
治療の必要は無いと判断したようです。
その時のChism中尉はカーキ色のショートパンツです。そしてピンク色に思えた彼の巨体は、
後ろ手目隠しで、ロープに繋がれて兵士を先頭に隊列は進みました。
蓮華寺の坂を登り、名鉄宇頭駅東側の踏切を渡り、郷中を抜け、R-1を横断し軍用道路に入り、
航空隊の中へ消えていきます。この隊列を多くの村人は何もせずにじっと見送りました。
当日の被害は、
・第1岡崎海軍航空隊、酒保建物一棟全焼、機銃員1名腹部被弾、第2機銃陣地被弾。
・その他、近郊での被害情報、名鉄電車4両が襲撃され、木製の車体を銃弾が貫通。
その穴は大型ドリルであけた様に周囲はギザギザであったそうです。
その結果下りはストップし、単線運転となりダイヤは終日混乱しました。
後の尋問調書(注3-8)の中で、第1岡崎航空隊所属大村キヨシ少将は、墜落後、
蓮華寺に前田軍医がきて診たといっていますが、当の前田軍医は医療行為を施していないといっています。
第1岡崎航空隊の主計長の近藤ショウザブロウ中尉は尋問に立ち合い、
パイロットの名前はChismだと記憶していると証言しました。
逮捕後のChism中尉は、岡崎航空隊で処刑されることも無く、3日後の7.18には海軍の
大船収容所に護送(収容所の名簿に7.18の記載)されています。
そして彼は135人の捕虜と共に終戦を迎えています。
それは、陸軍俘虜情報局がGHQの高級副官死傷者局に提出した捕獲搭乗員の名簿とその
収容先一覧(注3-4)にChism中尉を確認出来たからです。
Chism中尉自身の調書はまだ入手していません。従って彼の開放後の足取りも分かりません。
しかし、逮捕後直に処刑されたという噂をくつがえし、
彼が無事に終戦まで生きていたことは確かです。
”生還できたかという私の思い”は天に通じていました。
彼の情報は今後のお楽しみにしたいと思っています。
私は、P-51のパイロットを、そだめ墜落のB-29のパイロットと間違えて記憶し
半世紀を過ごしました。そうなったのも、当時のB-29の印象が如何に強烈であったかが
分かります。
そのお蔭でB-29を楽しむことができました。
Chismと言う名前を、Yahoo.comの people searchで調べると、全米で
14人と出ました(注3)。ますます楽しくなってきました。