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私にとっても

アイビーは青春だった

 

〜 私が欠陥住宅を正す会をオートクチュールにしたいわけ♪ 〜

 

欠陥住宅を正す会

代表幹事 澤田 和也

 この5月24日に石津謙介さんが亡くなったと報じられた。この訃報に接して、長い間忘れていた昔のことが思い出された。それは、現在の私のある部分を構成しているものを再確認させられたと言いかえてもよい。

 同時代に生きさまざまな感銘を与えてくれた人たちの死、たとえば文化面では宇野千代さんや水上勉氏の死と並んで、この石津謙介さんの死が私の心をとらえるものであったのは、石津さんは年こそ20歳ほど上の私の母と同年代の人ではあったが、私が生まれ成長する中でいつも自分の文化として身近に感じていた人だからである。

 私は、昭和38年にいまは南船場といわれている大阪市南区の安堂寺橋通りの、長堀通りより2つ北で御堂筋より1つ西の佐野屋橋筋との出合いで事務所を構えた。当時は30歳そこそこで、自分で言うのもおかしいがまさに新進気鋭の時代であった。弁護士というのは人のトラブルを相手にするため、そのトラブルたちが自分の心身に溶け込み、仕事が終わればそのトラブルたちを吐き出さずにいられないというわけで、私はよく、佐野屋橋筋を長堀通りを越えて南に下り、今のアメリカ村、つまり周防町通りに近いところにあった「樽」という飲み屋に通った。飲み屋といっても、他家の庇を借りていた半屋台と言ったほうが正確で、母屋が何をしていたかは記憶がないが、道に沿って1間余りセットバックしたところにある3間ぐらいの幅の仮小屋のような店だった。

 この界隈は、御堂筋から西に入った静かな一帯ではあったが、各種問屋、ふろ屋、仕立て屋、骨董屋、ミナミで働くサービス産業の女性たちの住まい、周防町通りを渡った八幡筋には文化服装学院、「樽」の近くには伊東茂平の服飾研究所などもあった。当時は若い女性が洋裁学校によく通った時代で、界隈のOGも、仕事が終わればこれらの学校に通っていた。というわけで、繁華街ではないが、さりとておむつやエプロンの見られる生活臭のある街でもなく、いわば全く静かな大人の町であった。

 その当時、周防町通りの北炭屋町の角に「VAN」という石津さんの店があった。それは昭和38年ごろから40年過ぎごろまでのことであったと思うが、私が「VAN」という名前を意識し始めたのは、それよりやや後に石津さんが千日前を初めとする大阪の目抜き通りに「VAN」の直営小売店を出し、「VAN」という文字が目立ち始めたことがきっかけであった。物の本によると、石津さんは昭和26年に北炭屋町で「VAN」を始めたとあるけれども、当時はそれほど大きな店でもなかったらしい。当時、私の通っていた大学の校舎が米軍兵舎にとられて近所の小学校に仮住まいしていたので、この界隈を往来していたが、私は全く気づかなかった。私が知っている頃は周防町通りの角、今は「BIG・STEP」という大型商業施設になっているもと御津小学校跡、当時は南中学校になっていたが、その近くにビルをつくって看板をあげていたことが記憶に残る。まさに私が「樽」で酒を飲みながら大声でしゃべっていた頃、ほんの8人ほどで「VAN」の商売を始められたらしい。言うならば、当時の大阪で多々見られたファッション屋、つまり紳士服や婦人服の企画製造、販売業を本格的に始められた頃であった。

 なぜ「VAN、VAN」と今も懐かしく言うのだろうか。当時は敗戦後20年近くたったころで、「もはや戦後ではない」と言われ、高度成長政策が軌道に乗って日本経済も上向き、戦後の貧しかった衣食住からようやく脱却しつつあった頃のことである。今は中韓の問題がやかましく、我々日本国民の心を重くしているけれども、当時は中国も韓国も自身の内戦に追われ、今のように偉そうに、外国に向かって、特に日本に向かって恫喝するような言葉を吐くこともなかった。ちょうどアメリカの占領も終わり、全く春風到来といった感じののんびりとした日々で、時の内閣は佐藤栄作首相のそれであったと思う。佐藤さんの内閣はこの頃から10年余り続いた。確かに社共あたりから盾突かれてはいたけれども、振り返ると日本の保守党が一番安定して信頼感が持たれていたときではなかったかと思う。

 当時の若者を動かしたものとしては、ベトナム戦争、新左翼、そして石津さんのアイビーという3つの潮流があった。ベ平連をしていた人たちは――ベトナム戦争について(今から思うと)一方的な報道を繰り返しながら、当時のインテリの潮流であった左翼筋からもてはやされていたがそれも開高健氏らの死によって今やその運動もほぼ消減したのに対し、石津さんの始めたアイビー文化はいまだ日本の文化に残っている。

 初めてアイビールックに出会ったときはかなりショッキングだった。ちょっと詰まった三つボタンの胴長のジャケット、飾りのステッチが施された衿、大柄な格子縞の入った生地、ワイシャツの衿にボタンがついていて、これがボタンダウンというものかと驚き入るとともに、おしゃれでありながら、アイビーたちの知性を秘めていて、一度アイビールックを見たら忘れられないぐらいとりつかれた時期もある。

 しかし、石津さんの優れていたのは、単に男性の服飾の世界のことだけではなく、いま述べたように、左翼思想が蔓延し、平和であるのに悲壮がっているのがインテリの印のように思われていた時代に、そして反米が同じく格好のいい主張であった中で、正面きってアメリカ文化、特にアメリカ東海岸のアイビーリーガーズと呼ばれる著名大学の学生ルックだけでなく、アイビー文化そのものを日本に持ち込んだこと、これが大きかったと思う。それからもう40年が過ぎ、左翼は没落したが、アイビーは健在である。当時は、アイビーは軽薄なように、また思想を忘れたインテリでない者の奉じるセンスのように言われたが、結局石津さんが単に服装だけでなく、ちょっとおしゃれで、しかもウエスタンやサザンのようなものでなく、上品で知的な、まさしくアイビーリーガーズたちの感覚や知性を日本文化に持ち込んだのではないかと思う。

 こう言うとなんだか難しいし、またそんな難しい理屈を石津さんが言ったわけではないが、彼の手がけた服飾品は、ワイシャツ、ネクタイなどファッション小物はもちろんのこと、靴、鞄など多岐にわたっていた。それらのものが渾然一体となしたものに、当時左翼思想や反戦思想をマスコミから押し付けられ、インテリであればベトナム戦争の危機感を甘受して受け止めなければならないかのごとく仕向けられていた社会的な状況下で、前向きの朗らかで、そして明るく、しかしそこには知性のある文化をファッションという形で広めてくれたことに今さらながら感銘する。

 石津さんは、昭和53年に450億円ともいわれる負債を抱えて倒産したが、その後の整理の仕方がよかった。石津さんは、最盛期の昭和40年代、当時まだ珍しかった軽井沢の別荘をはじめヨットやその他、贅沢三昧しておられたが、その石津さんのぜいたく小物はすべて債権者に差し出して、青山の20坪ほどの家だけを手元に残し、そこで服飾関係や文化関係のコンサルティングをしておられたらしい。

 「アイビーが青春だった」という倒産後まもなく出された石津さんについての本があるが、私にとってもやはりアイビーは青春だったと思う。その後、私は欠陥住宅の消費者運動にかかわり、東京にも仲間を作ったりしていたが、先日その会の総会後の「同会創設期の思い出」と題する古い会員たちの思い出話の中で、長年東京代表をしてくれている木村孝先生から寄せられた文章の中に次のようなことが書かれていた。当時、我々の欠陥住宅を正す会は全くの小人数であった。実はそれ以前にかなり大きな組織になっていたのだが、業者との大衆団交や集団交渉を志向する人たちと別れたため、その当時はかなり小ぢんまりとした集まりになっていたのである。そんなとき私が木村先生に、『欠陥住宅を正す会は量販店ではなく、オートクチュールのブティックでなければならない』というようなことを言っていたというのだ。言っていた当の本人も忘れていたことが他人から思い出させてもらって恐縮だけれども、当時の私はアイビーであったから、そういったことはまさしく私の口から出たのだろうと思う。私も若いころは一般の事件、特に商事や会社関係の世話をしており、その中には著名な婦人服のメーカーもあったため服飾、繊維業界の人たちとの付き合いもあり、嫌いではなかったファッション界にのめりこんでいた時代であったから、そのような発言をしたのだと思う。そこで言っている量販店とは、大衆を扇動して集め、「安く、早く」を志向する大衆を、欠陥住宅を団交方式で解決するかのごとく仕立て上げていく団体(つまり量販店)のことであり、オートクチュールとは住宅の欠陥は個別性が高いので、じっくりと個別的な欠陥原因をただして、一つ一つのケースに合う解決を丹念に仕立て上げていくということなのである。この欠陥住宅の問題に関しては欠陥住宅を正す会はオートクチュ−ルにはなっていないかもしれないが、同種の消費者団体の中では理論レベルの高い、個別紛争解決の専門家を擁するスペシャリスト団体になったと自負している。

 「VAN」という名前も私は気に入っている。弁護士や建築士が欠陥住宅問題、特にその紛争の解決の具体的方法論に関心がなく、というよりは全く知識もなくて頭ごなしに毛嫌いをしていた時代に、私たち正す会は実際に被害者の解決に役立つハウツーを始めたもので、当今では割合皆さんに知っていただき、学者の先生からも「この道の先駆者である」などのお褒めの言葉をいただくことがあるが、私自身は、前衛だとか先駆者だとか言う言葉には若干抵抗があって、もし呼んでいただくなら「VAN」と呼んでもらいたいと思っている。

 「VAN」とはもともと、「VANGUARD」――軍隊の先陣ないし先鋒隊を指す意味で、多分石津さんも、この新しいアイビーの店を始めるときに自分は新時代の「VAN」であるというつもりで名付けられたのだと思う。先駆者であれVANであれ同じだと言われれば同じだけれども、言われる自分にとっては[VAN」と言ってもらうことが、やはりアイビーの時代を生きた自分にとってもっともぴったりとする言葉であると思っているからである。

 また、石津さんとの思い出のつながりはそれだけではなく、実はこの石津さんが活躍された北炭屋町の一帯が私の生まれ故郷で、石津さんの店から少し行くと、私の産土の八幡さんがあり、先ほど述べた文化服装学院はそこを右に入った路地の中にあった。私は子供のころ、そこにあった御津幼稚園に通っていた。先ほど書いた「BIG・STEP」はもともと御津小学校の敷地で、私が幼稚園に通っているころ、幼稚園自体は三ッ寺にあったけれども、改築のため一時小学校に同居していたころがあった。そして私自体が子供のころからこの界隈に出入りしていたことから非常に懐かしいところで、後年、弁護士になってからこの近くで事務所を開いたのも、子供のころの思い出や、何とも言えぬ生まれ故郷の「文化的な呼び寄せ」があったのではないかと思っている。参考までに、北炭屋町の南側が久左衛門町といわれた町で、私はそこに住まっていたし、久左衛門町には和田久左衛門さんという旧家が有る静かな町であった。今はアメリカ村となっている一帯で喧騒を極めている。

 何が私に石津さんを懐かしがらせるか。それはやはり、当時の大阪がファッション文化の発信地、製作地で、婦人服メーカーが輩出した時代であったからで、私も若い頃は服飾繊維業界のトラブル解決の仕事をさせてもらっていたからでもある。当時は、ちょっと夢のある若い人なら、一本立ちしてファッションメーカーをやって一旗揚げて石津さんのようになりたいという青年がごまんといたし、ミナミから船場にかけてはそのような野心と希望が渦巻く街でもあった。しかし、今やそのような繊維業界の活況は中韓に行き、繊維産業を中核としていた大阪はどんどん地盤沈下していっている。大阪に生まれ育った自分にとって、石津さんの死を悼むこの文章は、地盤沈下していく自分の生まれ育った大阪の良かりし過去の時代への鎮魂歌であるとも思っている。

 最後に石津さんの言葉で終えたいと思う。石津さんは絶えず、「おしゃれな男になるのではなく、しゃれた男になれ」と言っておられたという。まさしく「VAN」を通じて、アイビーというおしゃれで知性のある、そして自分のあり方、生き方あるいは挙措動作の一切がおしゃれである人間になること、しゃれた人間というのはそういう品性を持つことを指して言うのではないかと思う。そういう意味で石津謙介氏は、単に服飾文化だけでなく、アメリカのアイビー文化そのものをも日本に輸入した「しゃれた男」であったとも思うのである。

 

※〔この文章は石津さんが亡くなられた直後の平成17年6月2日に書いたものです。従って冒頭の「この5月24日に・・・」というのは平成17年5月24日を指しています。〕