8.エジプト遠征

21世紀エジプト浪漫紀行9日間(2001/2/18〜2/26)


ミステリアスな国エジプト、現代文明人がいくら調べても尽きない謎、1798年ナポレオンのエジプト 遠征をきっかけに多くの西欧人が挑み、今も発掘調査が続くと言う。 エジプト文明とは如何なるものか?早稲田大学の吉村作治先生の影響もあってか急に思い立ち 出かけることにしました。ナポレオンのエジプト遠征隊が引き上げてから今年で200年が経ちました。 ナポレオンの偉業(彼は167人の非凡なる専門家集団・学者を同行させ学術調査を行い、 後にエジプト誌を発行)を称え、21世紀の初頭に豊田の暇人がナポレオンの遠征時に思いを馳せ、 現地現物をデジカメに納めてHPで公開することにしました。


〔遠征隊ルート〕
@第1日目:名古屋発、クアラルンプール・ベイルート経由 カイロヘ・・・機中泊
A第2日目:ギザのピラミッド・カイロ市内観光・・・カイロギザ地区泊
B第3日目:AM:空路アブ・シンベルヘ、アブ・シンベル観光 PM:空路アスワンヘ、アスワン観光・・・アスワン泊
C第4日目:AM:空路ルクソールヘ、ルクソール東岸・・・ルクソール泊
D第5日目:ルクソール西岸観光・・・PM:空路カイロ経由・・・陸路アレキサンドリアヘ・・・アレキサンドリア泊
E第6日目:アレキサンドリア市内観光・・・陸路バスでカイロへ・・・夕刻ナイル川ディナークルーズ・・・カイロ泊
F第7日目:PM:空路カイロ発、ベイルート経由クアラルンプールヘ・・・機中泊
G第8日目:クアラルンプール デイツアー・・・PM:空路クアラクンプール発・・・機中泊
H第9日目:AM:成田経由、名古屋着


@ギザのピラミッドとカイロ/Giza's Pyramids and Cairo

”エジプト遠征隊記念写真”

はじめに遠征隊の陣容を紹介します。豊田の暇人とボケ老人1人を含む総勢35名です。 隊長は、エジプト人のモハメッド(通称ハマチャン・写真左端)の現地ガイドです。 副隊長は、添乗員の村井さん(写真右端)です。 どうやら頼りになるのは隊長だけのようです。 この陣容ではエジプト征服は困難と判断して、観光旅行に切り替えました。



”隊長のプロフィール”

彼はカイロ大学の日本語学科を卒業し6年目です。大学では最初フランス語を学んだが こらからは日本語の方が金になると判断したというしたたかな青年です。 川端康成の伊豆の踊り子を読破し、その映画のビデオを見たと言う。 いま日本人相手に儲けているが、日本がだめになったらエジプト人の金持ちを日本に連れて行く ことを考えているそうです。将来は独立し観光事業を起こすと企んでいました。 彼は流暢な日本語を話しますが、まだ日本へは行ったことがないそうです。 左の女性が副隊長の村井さんです。



”クフ王のピラミッドの積石

ここが古代の世界7不思議で唯一現存する大ピラミッドの前です。 使われた石の大きさは、約1立方メートルです。 この石灰岩のブロックが230万個も正確に積まれています。ピラミッドの頂上には 旅人が自分の名前を彫り込んだ文字があるそうです。 ナポレオンも頂上に登り征服感に慕っていたと思われます。現在は軍隊の警備も物々しく、 またその角度は52°で危険なため登頂は禁止されていました。 かってこの表面は美しい外装材で覆われていたそうです。 それを4000年かけて盗人により剥がされたそうです。 私は、国家的・組織的な活動でなければ剥がす事は困難であったと思いました。 我々はとなりのカフラー王のピラミッドの地下の玄室にもぐりました。立派な石室がありました。 途中ファラオの呪いのためか3回も頭をぶつけさんざんでした。ここでは頭は下げるのが一番です。



”ナポレオン遠征時のスフィンクス”

この記録絵はナポレオン遠征隊に随行したフランスの画家が1798年に書いたものです。 肩から下は埋もれています。このとき既にスフィンクスの鼻は砕かれていました。 ここでナポレオンは、戦士を前に”諸君、4000年の歴史が諸君を見ている”と語った。 また、随行の学者たちが石像を発掘し、有名なトトメス4世の石碑を発見した。
しかし、我々の隊長は、スフィンクスの鼻を砕いたのはナポレオンであり、 エジプト人はフランスを快く思っていないと説明した。 賢いナポレオンがそんな無謀はしないと私は思う。

当時フランスは英国と戦う運命にあり、フランス政府は1798.7ナポレオン遠征隊をエジプトへ派遣した。 これはフランスがエジプトを占領し、中東スエズエリアをおさえてインド洋へのルートを確保し英国を 懲らしめる為であった。しかし、ナポレオンはピラミッドの戦いでエジプト軍を破ったものの、 1798.8フランス艦隊が英国海軍に壊滅され、更に1801に英国とオスマントルコの連合軍に敗れ、 ナポレオン遠征隊はエジプトから追放された。 しかし、かれはこの3年間の占領期間中にエジプトの貴重な学術調査を行なった。その膨大な貴重な 資料を英国に渡すこともなく後にエジプト誌の発行を可能にした。



”現在のスフインクス”

その後、発掘と修復が進み、現在はこのようにな姿です。このスフィンクス前にスフィンクス神殿がありますが、 それは1925年に発見されたそうです。



”エジプト考古学博物館”

世界有数の大博物館、写真が取れなかったためイラストで失礼します。 この中身は一言で書けません。その遺物は、古王国時代(BC3000)からローマ時代に及びます。 ツタンカーメンの黄金のマスクから牛・猿・ワニのミイラまで多彩です。 強烈な印象は、多くの王のミイラとラムセスU世(BC1304即位)が使用したというコンドームでした。 ラムセスU世はハーレムの女性に不必要に子供を作らない様に配慮したと隊長は説明した。 しかし、彼の王子と王女は100人はいたというからおもしろい。



”カイロの朝もや”

”エジプトはナイルの賜”です。カイロ市はそのナイルの朝もやと自動車の大洪水にはじまります。 その車の多くが年代物で30年位前の有毒ガス垂れ流しの車です。 空港から市内へ入るとこのスモッグが鼻をつきました。聞いてみるとこれはナイルの朝霧だと言う、 それにしてはいやな匂いでした。早くなんとかしないとスフィンクスが病むと思われました。



ピラミッドの土産店 ナイル川クルーズのディナーショー ナイル船上の夜景 ホテル前ナイル河畔の歩道
目が合えば執拗に買えというので、うっかりウインクも出来ない なまめかしいベリーダンス、カイロの夜はふけて ここは2FでJap専用のフロアー、1Fが欧米人のフロアーでした この突起物が除去されるのは何時の日か



Aアブ・シンベル/Abu-Simbel

ここはカイロ南方900Kmのヌビア砂漠の奥地です。 カイロ発アスワン経由アブ・シンベル行きのエジプト航空機は満席のため急遽直行便になる。 巨大なナセル湖が眼下に海の様に広がるとやがてアブ・シンベル神殿上空をかすめて空港へ。 空港から神殿へはエジプト航空のシャトルバスで直行した。

”アブ・シンベル大・小神殿全景”

写真の左が大神殿、右が小神殿。 これらの神殿は、アスワンハイダム完成とともにナセル湖底し沈むことになり、 当時世界中を驚愕させた。 1963年にこの湖岸への移築が始まった。そして近代科学を駆使し、砂岩層に造られた神殿を 1036個のブロックに切断し、西へ110m、北へ64mのこの場所へ移築した。 これらの神殿は、今から約3200年前に来るだけでも大変であったこの地にラムセスU世の 強大な権力をもって造られた。ナポレオンのエジプト見聞録にもここまで遠征したという情報はない。 したがって我が遠征隊はナポレオンを凌駕したことになる。



”アブ・シンベル大神殿”

大神殿の正面にこのようなラムセスU世の巨像が4体で飾られている。 この中央に神殿への入り口がある。巨像の高さは20mです。



"台座に刻まれた王のカルトゥーシュ”

台座にかかれたヒエログリフ(象形文字の記号)はカルトゥーシュといい、王様の名前を刻んだもの。 左から2つがセットで、ラムセスU世のカルトゥーシュ?



"大神殿の大列柱室"

神殿に入るとこのようなラムセスU世の立像を模した列柱(オシリス柱)8本で天井を支えている。 壁には一面にラムセスU世の武勇伝を伝えるレリーフとヒエログリフで語られている・



"大神殿奥の至聖所"

これは神殿の奥の院に安置された神々である。その内の一つが神格化したラムセスU世の像です。



"アブ・シンベル小神殿の入り口"

ラムセスU世が王妃ネフェルタリのために建造した岩窟神殿です。 なにやら持った男がナビア人の門番です。なかにも数人の警備員がいてフラッシュ をたくとカメラを取り上げるという。

これらの神殿はナセル湖岸の僻地にありますが、観光客へのテロ防止のため自動小銃を構えた 軍隊が24時間の警備に当たっていました。目の前はナセル湖です。対岸にも砂漠地帯があり、 その先はスーダンです。周辺は草も生えない赤茶けた荒野でした。 参道にはヌビア人の土産物店がぎっしりです。 10歳程の少年が日本人に、”もうかりまっか、ぼちぼちでっか”と客引きに懸命でした。 なにも買わなくても”さらばじゃ”といってニッコリしたので、遠征隊も皆んなニッコリでした。 ヌビア人はヌビア語で、文字を持たないそうです。エジプトの70%が文盲というのもうなづけます。 かれら同士の会話は隊長も全く分からないそうです。




Bアスワン/Aswan

アスワンの町はカイロの南700Km、人口15万人ナイル川の東岸にありナイルは青く ファルーカ(帆掛け舟)が似会う避暑地のような町でした。町はヌビアの農産物で溢れ アフリカそのものでした。 しかし、近くに巨大な水力発電所があり、エジプトの工業の中心地でした。

"アスワン・ハイダム"

旧ダムの南7Kmにある。長さ3600m,高さ111m、頂上部で40mある。ここは、沖積土の層が200mもあり、 アーチ型のダム建設が困難なため、岩と砂で出来た巨大な人口の山のダムとなっている。 体積は2億379万立方メートルでギザのピラミッドの約92倍である。ちなみの私の家の近くに建設中の 第2東名の豊田東ICの盛土工事は97万立方メートルです。 このダムはナセル時代に、ドイツが測量調査をし、工事は旧ソ連の援助で1964年に完成した。 その結果、洪水は無くなり、人口は倍増し現在約6000万人。 電力はシリアへ輸出し、農地も安定した。 この写真の発電所は、12基のタービンで黒四ダムの約8倍の210万Kwの能力がある。


"ダムの堤防の幅は3600m"

この堤防の上流がナセル湖です。幅は平均10Km,全長500Kmで、うち150Kmはスーダン領です。 面積は約5000平方Kmで、琵琶湖の7.5倍です。




"切りかけのオベリスク"

ここは赤色花崗岩の古代石切り場です。このオベリスク(上端が四角錐の角柱、BC2000からBC1500年頃に多く造られた) は亀裂が原因で切り出しが中止されたという。長さ41.75m、重さは1152トンで最大といわれる。 巨大岩盤からどの様に切り出したか? 先ず岩盤を平らにし、四方に人が充分に入れる位の溝が正確に掘ってあった。 さてその底をどの様にして切り出すか?現地の切り出し中の石と隊長の説明と ガイドブックを総合すると、古代のエジプト人は、先ず、石の切りだし線上に20cm位の間隔に 切りこみを付け、そこに木製のくさび入れる。くさびを濡らすと木が膨張し石は切りこみに沿って割れる。 この方法で切り出された石はほとんどみがかれたようななめれまな切口をしていたそうです。 この方法で実際に再現できるか?検証したかったが時間がなく無念であった。 私は、現代人の技能ではこの方法では再現できない様に思います。 さらに多くのノウハウがあったと考えられる。皆さんどう思いますか?




"ナイル川セイリング"

ファルーカ(帆掛け舟)によるセイリングに出かけました。 15m程の木製マストです。ナビアの青年2人で見事な舟さばきです。 古代から受け継がれたように思われました。 彼らは、手太鼓のリズムで見事にナビアソングをうたいます。 すぐに全員がリズムにのせられ踊り出しました。




"ナイル川セイリング風景"




"ナビアの青年"

彼は20歳の好青年です。 ナイルと共に素晴らしい人生を歩んで行くと思われました。




"イシスアイランドホテルにて"

このホテルはナイル川の中州にあります。アスワンの波止場からホテル専用の船で上陸します。 島全体がホテルの敷地で、まるでナイルに浮かぶ別荘地の様でした。 朝食後テラスでくつろいでいると隣室のベルギー人夫妻が出てきて情報交換しました。 いろいろ聞いてみると彼らは長いこと社会科の先生をしていたそうです。 今は年金生活を楽しんでいるという。Me tooと言うことで楽しい一時を過ごしました。





Cルクソール/Luxor

ルクソールはアスワンから空路30分で、約200Kmナイルを下ります。 そこは、”百門の都”とうたわれた古代都市テーベが繁栄したところです。 現在は人口約5万人の大観光都市です。 観光客を乗せた馬車が往きかう明るく活気溢れる町でした。 ルクソールと言う地名はアラビア語で城を意味します。 新王国時代(BC1570年)繁栄の極に達した古代テーベの町は、 ナイル川の東岸に市街地と大神殿群があります。 また、対岸はネクロポリス(死者の都)と言われ、大葬祭殿と王家の谷・王妃の谷などがあります。 我々はそこを一日半での観光です。


ナイル川東岸(古代テーベの遺跡)

"カルナック神殿入り口のゲートのウエイト"

空港からバスで直行した遠征隊を迎えたゲートです。 これはカルナック・アメン大神殿の自動車通行止のゲートのウエイトです。 それが歩道の中央に頑張っています。観光客は皆ぶつかりそうになります。 しかしゲートの上げ下げには有効であり、当分このまま活躍しそうです。 大神殿の建築技術も伝承技術に問題があったようです。



"ナイル川の灌漑装置/1798年ナポレオン遠征時"

この絵はナイルの水位が下がった時に灌漑用水を汲み上げているところです。 このように200年前はウエイト(当時は干し粘土の錘でバランスをとった)をうまく活用 していました。 古代は大きな石も大きな石のウエイトを使って上手に持ち上げたと思われます。 現在は、ダムが出来て水位が年間を通じ安定したので、このような風景は確認できませんでした。 しかし、地方に行けばまだまだ活用されているかも知れません。



"カルナック神殿の第1塔門とスフインクス参道"

歴代のファラオは、自己の権力と国家の繁栄を願いこのような大神殿を根気良く建造した。 この中に大列柱群、10に及ぶ塔門、オベリスクなど見るだけでも体力の消耗が激しい。 古代、彼らは膨大な日干しレンガで築いた斜面に沿って巨石をずり上げたという。 ナポレオン遠征隊の画家も多くの記録絵を残している。当時は神殿は倒壊した巨石などが散乱し 危険な状態であった。その後の発掘と修復の状況が確認できた。



"カルナック神殿の列柱室"

列柱室入り口から見たところ。 このようなパピルス頭柱をもつ巨石柱がこの室だけで148本もある。 そのほとんどにラムセス2世のカルトゥーシュが刻まれている。 中央の大列柱12本の大きさは、高さ23m、柱頭の最大円周15mという巨柱です。 この室の総てに歴代ファラオによって柱や壁にレリーフ描かれている。 ツタンカーメン王の戴冠式もここで行なわれた。 神殿には約2000年間にわたるアメン神信仰の歴史がある。 建物の造営はグレコ・ローマン時代まで続いたという。



"カルナック神殿/ ナポレオン遠征時"

列柱室出口に巨石が横たわっている。 ナポレオン遠征隊の学者は、巨大な建造物の瓦礫の散乱をみて『ロマンチックな大廃墟』と 表現している。それは人類の略奪の結果でもあったと思う。 そして19世紀なってようやく再建と修復の作業が始められた。



"ハトシェプスト女王のオベリスク"

カルナック神殿に残存するハトシェプスト女王のオベリクスです。2本中1本が健在でした。 他の1本は横たわっていました。この他にトトメス1世のオベリスクが健在でした。




エジプトの豪華ランチを紹介します。
レストランのパン焼き女 主食のパン スープと前菜 メインディッシュはエジプト名物の”はと料理”
古代は小麦粉を練り駱駝の糞で焼いたと思う 先ず薄ぺらいパンをちぎり、胡麻だれをつけて食べる 油で少し炒めたような前菜です これはハトの中に焼き飯が詰めてある姿焼きです。香ばしく美味しい。


"ナイル河畔の朝の散歩"

ルクソールのホテルもナイル河畔です。エジプトは全部ナイル河畔です。 ここの空気は清清しく5000年前と変らないように思いました。 対岸遥かにネクロポリス(死者の都)の砂漠の尾根が見えました。



"ホテルの中庭のプール"

ルクソールのホテルはコテージ風でナイルに沿った広大な敷地にありました。 庭内には、プール・テニスコート・バレーコート・お花畑さらにワニ園までありました。 川岸からは観光船や帆掛け舟が出ています。 2月ですが西欧人は泳いでいました。




"ルクソール神殿の全景"

この神殿は、アメン神の年一回の祭りの為にカルナック神殿の付属神殿として新王国時代 (BC1570年)に建てられたいう。それぞれの神殿間は2.5Kmで、その間はスフィンクスの参道で 結ばれていたそうです。神殿の一角にはイスラム教のモスクが建てられ、古代から近代に至る 3000年の歴史を見るようだ。



"ルクソール神殿第1塔門とオベリスク"

第1塔門前には、ラムセス2世の一対の座像がある。右側にあったオベリスクは現在パリの コンコルド広場に立っている。また、この神殿の発掘調査は1883に始まり、現在も続けられていた。 年一回の祭りの為にこのような巨大神殿を建造したエジプトは、外部からの侵略への備えも無く 滅亡したと思われる。それは、ナイルのお蔭でそれなりに平和に暮らしていたので侵略の必要が なく、軍備の必要性を見出せなかったと思われる。



"ルクソール神殿第1塔門とオベリスク/ ナポレオン遠征時"

ナポレオン遠征時には、オベリスクは2本あった証拠の記録絵です。 この絵では、オベリクスの台座部分はかなり土に埋もれている。 ナポレオンは遠征の土産にこのオベリスクを持ち出したか? 敗北で追放された彼にそんな余裕はないはず。その後宅急便で送ったか? 今なら宅急便で楽に送れるか?送料はいくらかかるか。



"ルクソール神殿上のイスラム教のモスク"

神殿の上にモスクを造ったのは、当時(AC600年頃から)この神殿がそこまで土砂で埋まっていたためです。 当時は、この写真のモスクの入り口は1階であったそうです。 その後、約7m掘られたことになります。



"ルクソール神殿の石柱廊"

ラムセス2世の中庭です。このような石柱を”開花式パピルス柱”とよびます。



"ルクソール神殿の石柱廊"

このような場所の神殿は、洪水期には毎年浸水し多量の土砂に埋もれていた様です。 そして毎年土砂の搬出をしていたと思われます。 その証拠にナイロメーターと呼ぶナイル川の水位計が神殿内に組み込まれている。



"ルクソール神殿のスフィンクス参道"

かってこのような参道がカルナック神殿まで2.5Kmも続いていたという。



"ルクソール市街"

町は明るく活気にあふれていました。



ナイル川西岸(ネクロポリス・テーベ・クルナ村)

"メムノンの巨像"

この巨像は、ナイルの川岸から王妃の谷の方向へ約3Kmの平野にあります。 これはアメンヘテブ3世(新王国時代の最盛期、BC1500年頃)の像で、 彼の葬祭殿の入り口にあったそうですが、後世の王が葬祭殿 をことごとく持ち去ったそうです。この像の高さは21mです。 遠方の砂漠の山がネクロポリス(死者の都)で、ツタンカーメンの王墓が見つかった王家の谷です。



"メムノンの巨像/ ナポレオン遠征時"

当時の記録絵を良く見ると、座像のある地面は洪水で運ばれた土砂が乾燥してひび割れている 様子がハッキリと確認できました。ナポレオン遠征時はこのあたりは毎年雨期の洪水で泥地となり、 行軍(調査)も難航したと思われます。現在はすぐ隣を観光道路が走っており観光バスが続々とやってきます。



"ハトシェプスト女王葬祭殿"

第18王朝、ハトシェプスト女王が父王トトメス1世と自らのために立てた葬祭殿で、絶壁を背景に、 高台の上に築かれている。

この写真のように後ろから撮ればチップは不要です。 ここは3年前にテロの銃撃戦があり、日本人も10名の犠牲者がでました。 その対策と思われる軍隊の警備・検問は幾重にも設けられていました。 その写真の撮影は厳禁です。



"ハトシェプスト女王葬祭殿"

彼らも石工で仕事中ですが、何故かここを行ったり来たりしています。ニッコリしてポーズをとり 写真を撮れと合図する。チップは2人で1ポンド(約30円)で商売繁盛でした。 エジプトの物価は、現地で合った日本のバックパッカーの学生によると、 かれらの宿泊は一泊100円というのでご想像下さい。



"お土産店の水タバコ"

生まれて始めてトライしました。意外とかるくすーっとはっかの香りがしました。



"王家の谷"

王家の谷は草木一本も生えない砂漠の山でした。その砂岩の岩壁の奥深く王家の墓は造られ、 そして封印され、永遠の眠りについた。やがて王国は侵略され滅亡し、盗掘の時代を迎える。 現在もところどころで発掘作業が行なわれていました。



"王家の谷の新幹線"

このような新幹線でツタンカーメンの王墓を目指します。



"王墓の発掘はぼつぼつと進む"

このペースで行くとあと5000年はかかると思われました。



"ツタンカーメン王墓の入り口の銘板"

ツタンカーメンは英語で書くとこのようになり、トゥト・アンク・アモン と書きます。 1922年に英国のH・カーター氏の発見です。遠征隊は王墓玄室までもぐりました。 カーターさんが再封印された王墓に到達するまでの莫大な資金と苦難と時間が実感できました。 多くの副葬品・遺品は無傷で発見されました。 その多くは現在カイロのエジプト考古学博物館の2階に展示されています。 もっとも有名なものが”ツタンカーメンの黄金のマスク”です。 その後、彼が宝物をこっそり持ち出した疑いがあり話題になっています。



"ツタンカーメン王墓の案内板"

入り口に内部の構造を示す案内板があります。この中ではエジプト人ガイドは、多くの言語で説明奮闘しています。 写真はフラッシュ禁止でしたのであきらめました。




Dアレキサンドリア/Alexandria

アレキサンドリアは地中海に面した明るい近代的な都市であった。 現在はカイロまで砂漠の中を高速道路がのびています。 ナポレオンは1798.7.2にここを陥落させたという。当時のレキサンドリアの多くは廃墟であったそうです。 そして、200Km彼方のカイロを目指した。また兵士が1799年に河口の町のロゼッタで防衛工事 (塹壕でも掘っていたと思う)中に ロゼッタ石を発見する。こらは兵士が報告・隊長(責任者)は取り上げ・学者が判断したからこそ偉大な発見となった。 異国の戦時下でこのような行動がとれたナポレオンの遠征隊を私は偉大と思う。 これが古代エジプトの謎解きの原点となる。 我々遠征隊は、”砂漠高速道路”でカイロを目指しました。したがってロゼッタ石のような大発見はできませんでした。

ロゼッタ石:ナポレオン遠征隊がアレキサンドリアの東30マイルのナイル河口の町ロゼッタで発見した碑文。 同じ内容をヒエログリフ・ギリシャ語・デモティック(大衆文字)で書かれたエジプト語の3種類で併記されている。 後にフランスのシャンボリエが解読。ロゼッタ石は現在英国の大英博物館にある。 それは、フランスが英国に敗れたためその戦利品として没収されたためである。 この碑文をエジプト政府は再三にわたり英国に返還交渉するも日本の北方領土と同様だめだそうです。 と我々の隊長は説明した。

"カント・ベイの要塞"

この要塞は新しい。かってこの地にあったファロス島の大燈台跡に その資材を使い15世紀末アラブ支配下で建てた城塞です。 そこは港を囲む半島の先端にあり地中海の景色です。



"ポンペイウスの柱"

アスワン産の花崗岩でできたこの一本柱は、ギリシャ・ローマ世界でも最も重要な遺物といわれています。 この柱の高さは30mあり、下部の直径は2.7m、頂部は2.3mです。その柱がリサイクルの建築材料 を集めた上になんなくのっかっているだけです。大地震もあったのに何故倒れないのか不思議です。 現在は、数年前に造り直された台座の上に立っている。 過去多くの人がこの石柱の上へ登りました。ナポレオン遠征隊も登ったそうです。 また、ロバを担いで登り、そのロバを置いて下りたが、ロバは終日じっとしていたそうです。 そのロバは賢いと誉められたようです。 頂面は凹んでいるそうで、この上に何かの像が上がっていたという説もあるそうです。

はしご車なしであなたはどうして登りますか?
答え:凧で糸をかけ、順次太い紐に替えて行き、最後に縄ばしごをかける。



"ポンペイウスの柱/ ナポレオン遠征時"

ナポレオン遠征時の台座はこの絵の様に角張っていた。数年前に台座を直したといっているので その時に変ったか?その後の200で丸くなったのかは不明です。 人間も年をとると丸くなるという。 それならローマ時代に建てたのでもっと早く丸くなってもおかしくないのだが?



"ポンペイウスの柱を守るスフィンクスとアパートメントハウス"

現在、この遺跡公園のすぐ隣はこのような住宅街が迫っていました。



"カタコンベ(墓地)上部"

少し前に、人口密集地のこの場所で、ロバ(ヤギ?)の足がめり込んだので、調べてみたら 古代アレキサンドリアの地下ミイラ団地(墓地)が出てきた。 この写真はその墓地の上部で、ここから遺体・ミイラをロープで20m下のミイラ団地へ降ろす場所です。 周囲の螺旋階段を100段ほど降りると、そこは古代のアレキサンドリアそのものです。 整然と墓室が掘られています。そこには死者の食堂が岩の中に掘られ、 葬儀日・40日後・命日・祭日に会食が行なわれていたそうです。



"カタコンベ"

下から見上げたところ。



"現地旅行会社Travcoのバス"

今回の遠征でお世話になった現地旅行会社のバスです。Travco社は従業員600人の会社で、 エジプト各地にも支社がありました。バスも自社所有で頑張っていました。 我々の面倒は、専属のガイド(日本語OK)・アシスタント(英語)・運転手(アラビア語)が各1名で 対応してくれました。 今回のカイロとアレキサンドリア往復は400Kmあり、道中は砂漠で反政府テロの危険があるため 軍隊(自動小銃で武装したツーリストポリス4名)の先導車で護衛されたドライブでした。 更に、バスの降車口にも実弾のスペアーを抱えたツーリストポリス1名が同乗した。



"ナイル川デルタの眺め"

21世紀の遠征隊もエジプトから撤収する時が来ました。 ナポレオン遠征隊ですら占領3年後に敗北しエジプトから追放されたわけです。 我々の占領期間1周間は体力の限界もあり適当であったと思います。 カイロ空港、何処までも滑走路が続きます。広大な空港です。 ここから57年前に米軍のB29が日本本土爆撃のため、この滑走路からインド経由で中国の成都へ 発進したという。マレーシア航空のパイロットも余裕でテイクオフしたと思われます。 眼下はナイルデルタです。ここでナイルは数本に枝分かれして地中海へ注ぎます。 ナポレオンはこのくねくねのナイルをファルーカで上流のカイロを目指したのでしょうか? それとも陸路駱駝での遠征であったか?いずれも困難を極めたと思われました。 我々はそれを上空から眺めつつあっという間に地中海上空です。 近代200年の人類の進化は、われわれにエジプト遠征を可能にしてくれました。 お世話になった皆さんに感謝感謝です。ありがとう。




〔あとがき〕
古代の7不思議エジプト、それが唯一現存するピラミッド、世界の誰もが知っているピラミッド、 だれも解らない謎、だれもが見てみたいピラミッドを21世紀の遠征隊は全員自分の目で 確認できました。これは素晴らしいことです。これはナポレオンの遠征隊の隊員と同じです。 違いは周囲の環境だけです。当時はだれもが知らなかったピラミッドです。 そして、茶の間のテレビに毎日映るピラミッドの現物を見て感じたことは。
@約5000年前のエジプトの土木工学技術・技能の水準の高さに驚かされた。
A王国の滅亡は外敵への危機感の不足であり、技術を伝承できないほど壊滅的な滅亡であったと思う。
Bピラミッドが5000年経っても崩れない訳は、地盤が石灰岩の台地でしっかりしている。
高い土木技術、さらに湿度が低く、凍らない気候が維持された。 使用された石灰岩の表面を見てその風化崩壊がほとんどない。
Cエジプトの王国時代から5000年の歴史を実感できた。 ローマに侵略されるまで3000年間も続いたエジプト文明は、 当時はISO9000シリーズよりも素晴らしいシステム(維持管理体制)であったと思う。
Dエジプトはアフリカであった。そして現在も”ナイルの賜”そのものであった。


今後も、楽しい旅の想い出をこのページに掲載します。お楽しみ下さい。
I publish the recollection of an enjoyable trip in this page. Please have fun.


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