11.スイス旅行
感動のゴールデンルート10日間
(2004/7/6〜7/15)

ローマ帝国も攻め入れなかった山岳地帯、九州ほどの広さのしたたかな永世中立国、 金融と精密産業と観光で、豊かな生活と老後も安泰なユートピアのスイス。 その、ゴールデンルートを一回りすることにしました。 出発前日から5日間の天気予報は曇り時々雨です。ジュネーブを振り出しに、観光地をぐるぐる巡る 10日間の旅です。名古屋空港に集まった参加者は総勢28人です。その足取りを報告します。

観光ルート(往復移動日は除く)
@第1日目:ジュネーブ・シャモニー・モントルー・ベルン泊
A第2日目:ベルン・ブリエンツ湖・ロートホルン・グリンデルワルド泊
B第3日目:グリンデルワルド・ユングフラウヨッホ・ハイキング・トリュンメンバッハ・インターラーケン・グリンデルワルド泊
C第4日目:グリンデルワルド・シーニゲラッテ・インターラーケン・峠越え・サースフェー泊
D第5日目:サースフェー・ゴルナーグラード展望台・マッターホルンハイキング・ツェルマット泊
E第6日目:ツェルマット・アンデルマット・フルカ峠・ローヌ氷河・氷河特急・サンモリッツ泊
F第7日目:サンモリッツ・マイエンフェルト・ルツェルン観光・ルツェルン泊
G第8日目:ルツェル・ピラトス山パノラマ観光・チュリッヒ空港・帰国


@ジュネーブ、シャモニー・モンブラン、モントルー・ション城、ベルン観光・・・2004/7/7

添乗員のユカちゃん

ベテラン添乗員のユカちゃんです。 10日間彼女のお世話になりました。彼女の趣味は、世界中を飛び回ること17年です。 すぐに仲良くなり、私は、添乗員補佐役です。

雨のジュネーブから国境をこえて、フランスとイタリアの国境の町シャモニに近づくと雨も上がり、 モン・ブランの峰が顔を出しました。険しい針峰がそそり立つアルプス山脈です。モン・ブランはヨーロッパの最高峰です。

モン・ブラン観光のロープウェーチケット売り場

当初は、エギュ・ド・ミディ展望台3842mに登る予定でした。ところが、そこへのロープウェーの鉄塔が修復工事中のミスで倒れたそうで、急遽反対側のヴレバン展望台2500mになりました。 チョットがっかりです。でも、エギュ・ド・ミディは雲の中でしたので、良かったかも。



ヴレバン展望台へ

シャモニの町1036mから、急峻なロープウェーを乗り継いで、2525mのパノラマ展望エリアに揚げられました。

途中、眼下に町並みとグランド・ジョラス4208mの針峰を眺めながらどんどん上がります。



グランド・ジョラス 4208m

ロープウェー駅終点から展望山に登ります。360°の大展望ですが、肝心のモン・ブランは、 ご機嫌斜めでした。モン・ブランは、グランド・ジョラスの右奥の雲の中あるという。

頂上で、30分ほど待ちましたが、確認できませんでした。



アルピニスト

展望台では、汗びっしょりで着替え中の青年に出会いました。 どの山に登ったのか?と尋ねると、周辺の山を指差して、ぐるっと回るのに1週間かかったという。 麓の方には、トレイルがありますが、何れの山もかなり険しい山容です。 迫り来る氷河もあります。休暇をとってアルプスをエンジョイしているようです。



ション城

ション城は、シャモニーからベルン(スイスの首都)への中間地点のレマン湖のほとりのモントレー にあります。9世紀にイタリアからアルプスを越えてやってくる東方商人たちに、通行税、物品税をかけるための関所として造られ、13世紀までの間に現在の形になった。湖に突き出た岩場の上に 建てられている。

城の中は、中世の武具、祭祀道具、生活品や厳しい牢獄と処刑場など、



ション城の日本人ガイド

彼女は、現地の方と結婚し、モントレーに住んでいます。拡声器を肩にかけて、他国語に負けないように、日本語で頑張ります。それは、城の中は観光客で混雑し多くの言語が飛びかっている為です。




Aベルン、ブリエンツ湖クルーズ、ロートホルン、グリンデルワルド・・・2004/7/8

ブリエンツ湖クルーズ

インターラーケンオスト駅11:45発の遊覧船で、ブリエンツ湖の湖岸の村々を巡りながら、 木彫りの町ブリエンツへ。コバルト色の湖面、アルプスの山並みを仰ぎながら約1時間の船旅でした。

しかし、どういう分けか、我々日本人は、上階の1等船室、欧米人は下の2等船室に見事に分かれました。そんなにしなくても皆んな一緒が、世界平和のためにも良いと思うんですが、



湖岸の村

アルプスを仰ぐ湖岸の村々のたたずまいです。家々の窓は、赤い花で彩られ、 湖面と雪を頂くアルプスの峰々に見守られての生活です。

遊覧船は村の人々の生活の足代わりにもなっていました。

SLでロートホルン・2298mヘ

ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、世界の鉄道マニアの憧れの的です。120年?前に出来たアプト式ミニSLです。最大勾配はユングフラフ鉄道と同じ25%。その機関車は、傾斜の分だけボイラーが傾けてあるそうです。SLとしては、世界一急勾配で、スイスの自慢です。

この客車に座れば、全員ニコニコ顔です。途中で水を足しながら、絶壁の尾根を、牧草地を1時間かけて登ります。それは、ベルナー・オーバーラントの壮大な展望台でした。



対向列車

対向列車が下りて来ました。車掌(彼女)が下りて、ポイントを切り替えます。その様子を山小屋の屋根裏部屋の窓から少年二人が行きも、帰りも眺めていました。
この辺りは、牧草地です。生活の場です。乳牛が草を噛み、少年がこの列車で湖畔の学校へ通っていると思いました。



山頂駅

100年前に、こんな所までSLを通したスイス人の熱意にビックリです。ここまでが牧草地で生活の場です。そのお陰の観光収入で、山村の生活が保障されるという。

村々は、今でも昔ながらの製法でチーズをつくります。


ロートホルン2298m

ここが、ロートホルンの頂上です。山頂駅から更に25分位登ります。晴れていれば、ここから ブリエンツ湖、その上空に、アイガー、メンヒ、ユングフラの白銀の峰が聳えているのです。

この日は、近場の山並みと、時々雲間に白銀の針峰が消え隠れしますが、カメラでは認知できませんでした。

ツアー客で、ここまで登ったのは、私一人でした。


Bグリンデルワルド、メンリッヘン・ハイキング、ユングフラフヨッホ、トリュンメルバッハの滝、
インターラーケン、グリンデルワルド・・・2004/7/9



ユングフラフヨッホ・3454mパノラマ写真

この氷河を眺めるために、スイスの人は、1895年(明治28年)に、アルプスの岩壁に穴を空けてヨーロッパの屋根の上まで列車を走らせる工事を始めた。最大勾配25°、7.1kmのトンネルを掘り 、線路の間に歯車を噛ませ、16年の歳月をかけて夢は現実となった。そして、ヨーロッパ最長のアレッチ氷河とアイガー、メンヒ、ユングフラフを登らずして眼前に届け、世界中の人々に開放した。

展望所全体は、地下鉄でアクセスできる近代的な巨大要塞です。 岩盤をくり貫いたエレベーター、氷河をくり貫いて造ったアイスパレス、 数々の展望エリア、レストラン、コーヒーバー、みやげ店、 各階にきれいな水洗トイレも完備でレジャーランドのようでもありました。

スイスの国土の3/4はこのような岩山です。東西冷戦時には、その懐深く多くのシェルターが掘られ、家々にも地下シェルターを設けることが義務付けられているいう。 山国では多くのトンネルがあります。1Km以上のトンネルは、大砲の弾丸が貫通しないように曲げることを義務付けるなど。列強に囲まれ、歴史に学ぶスイスの知恵を垣間見た思いです。

グリンデルワルドのホテル・サンスター、1034m

一行が2連泊したホテルです。その背後にアイガーの絶壁が迫ります。そこは、ベルナー・オーバーラントの前進観光基地です。ここから、登山電車やロープウェーで、ハイキングに出かけます。



ロープウェー乗場

ここから、ロープウェーに乗り、メンリッヒェンへ、



アルプスのハイキング

ハイキングは、メンリッヒェン・2239mから登山電車のクライネンシャイデック駅までの約1時間30分です。当日は、ガスが出て、アイガー、メンヒ、ユングフラフを眺めながらとはいきませんでした。



山野草ウォッチング

お陰で足元の山野草ウォッチングです。ガイドが次々に花の名を説明しますが、日本では聞いたことがない名ばかりで記憶できません。 唯一覚えたのが、グローブフラワーという黄色い花でした。



アイスメーア展望窓・3160m

登山電車は、トンネルの中間駅アイスメーアで5分間停車します。そこに覗き窓があり、外の様子を伺います。



アイスメーア展望窓・3160m

覗き窓は、このように、岩盤の中のシェルターに窓が空けられていました。 高山病の心配な方は、ここで一旦下車し、次の列車で登れば安心です。しかし、忙しいツアー客は、慌てて、電車に乗り込みます。



ユングフラフヨッホ展望

この峰は、アオガーか、それともメンヒか、あまりの至近距離で判断が出来ません。 パンフレットを見ても判断に困りました。後で冷静に見ると、メンヒ・4107mと思われます。



ユングフラフヨッホ展望

観光センターのようなロビーから、岩盤を100mほど垂直にくりぬいた立派なエレベーターで 昇った展望台です。ここが、3454mで、氷河を見下ろします。 少し晴れてはいましたが、真冬の気候でした。 この場所は、下図のNO16 スフインクス展望所(Sphinx viewpoint)です。



ユングフラフヨッホ展望台断面図

写真をクリックして、要塞の断面図をご覧下さい。



トリュンメルバッハの滝

滝は、どこにありますか? この山塊の中ですよ。

それは、ベルナー・オーバーラント三山の10の氷河から溶け出した水が、いったん地中の隙間 に入り込み、この山塊をほりひらきながら一気に300m落下します。



トリュンメルバッハの滝

滝の見学は、入り口の階段を登ると、岩壁に掘られた、エレベーター室前にでます。 係員の指示に従って、第6滝まで、揚げられます。そこから、さらに歩いて、第10滝?まで登り、 後は、ところどころライトアップされた遊歩道を歩いて、滝(氷河の溶けた濁流)とその水が造った造形美を眺めながら下ります。

ユングフラフに降った雪が、ここまで来るのに200から250年かかるという。この流れは、幾つもの川と合流し、やがて、ライン川となり、最後は、北海に注ぐ。



ディナーショー

滝見物の帰りに、インターラーケンを散策し、ディナーショーです。 スイス美人に誘われて、フォルンに挑みましたが、どうしても音がでません。満身の力で、やっと、プシュというおならがでました。




Cグリンデルワルド、シーニゲ・プラッテ、アルプス越え、サースフェー・・・2004/7/10

アイガー北壁

スイス入り5日目の朝です。5:30起床、雨模様です。 Yahooの天気予報もそれなりに正しいようです。 しかし、朝食後にホテルの庭へ出てみると、巨大なアイガーの北壁が現われていました。 しばし、見上げていましたが、皆さん忙しそうで、この景色を眺めているのは、私だけでした。 しかし、カメラを持ち合わせていません。残念。

この写真は、ホテルを出発した、7:15にホテル越しに撮影。

シーニゲ・プラッテ、高山植物園チケット売り場

シーニゲ・プラッテへは、インターラーケンの隣町ヴィルダースヴィルから、かわいい登山列車で出かけました。そこは、1967mで、ベルナー・アルプス全体の豪快な展望台です。しかし、当日は、ガスが多く近場しか望めませんでした。

山頂一体には、展望台と、沢山のトレイル(2から5時間のハイキングコース)が設けられています。 登山列車を下りると、登山靴とストックが並べてあり、夕方までに返せば無料です。 私は、一番大きな靴から二番目をはいてみましたが十分ゆったりでした。



高山植物園

チケット売り場の裏山一帯が高山植物園で。1929年に開園したという。時期が良く多くの花が咲き誇っていました。なぜか、皆さん注目の”エーデルワイス”は、葉ばかりでつぼみもありませんでし た。

とはいっても、そこは、自然に生息した山野草に独語の学術名の札を立てた感じの自然の園で、散策路と放牧牛が侵入しないように鉄線策があるのみです。そのお花畑から、アルプすを眺めるのが売りの観光スポットです。当日は、ガスは濃く雨模様で一列車早く下山です、残念! 。

高山植物園

山野草はこのように、少しずつかたまって、仲良く咲いていました。そのように種を蒔くのか、 それとも、毎年自然に生えるのか?

ガイドブックによると、このアルペンガーデンは、8323uの広さで、500種以上のスイスアルプスの 高山植物が集めてあるそうです。

カートレイン

ベルナー・オーバーラント地方からツェルマットとヴァリス地方への移動はアルプスの峠を越えなけ ればなりません。インターラーケンで昼食後、一行は、車幅が20cmほど狭いバスに載せられまし た。 このバスで峠越えです。しかし、峠に差し掛かると、全ての車は、鉄道の停車場で行き止まりとなります。

そして、このような、カートレインに載せられて、車ごとアルプスのトンネルをくぐりぬけます。 一般のバスは、車幅が20cm広いので、サイドミラーなどを外して、貨車に入ります。

最初に、オートバイを載せます。彼ら、オートバイは所定の場所にくくられ、ライダーは専用の客室に入ります。 一般の乗用車は、乗ったまま乗り込みます。

峠風景

サース・フェーへ抜ける峠越えの風景です。

サース・フェーSaas-Fee(氷河の村)

ツェルマットの北東20Kmの山岳リゾート、サース・フェーに4:00頃到着です。一行は、村の入り口でバスから降りて、ホテル専用の電気貨物車を待ちます。トコトコやってきたホテルの電気車で、 スーツケースのみ運びます。お客は、歩いて入場しますが、5分も歩けばOKです。

サース・フェーの村は、13もの4000m峰に囲まれていて、わざわざ展望台に登らなくても、ホテルから、通りからモルゲンロート(朝焼け)峰を見ることが出来ました。

写真の右上のピークが、ドーム/Dom4545mでスイスNO2です。 村は、観光・登山・スキーの基地です。沢山のリフトとロープウェーがあります。村自慢の展望台は、 3500mのミッテルアラリン/Mittelallalinで、そこからフェー氷河を見下ろします。その峰のピーク4027mへは、ここからガイドを伴って約2時間で行けるという。皆さん、Mt.Fujiで鍛えて挑戦しませんか。

サース・フェーのメインストリート

この通りを、スーツケースを満載した、電気車が行き来します。そこを、観光客や多くのハイカーがリックを背負って買い物です。

欧米人は、ホテルの前のテーブルでは、ライブバンドにビールを飲みながら氷河見物です。 われわれ日本人は、あちこちのお店を覗き買い物です。何れが楽しいか、価値観もいろいろです。


Dサースフェー、ツェルマット、ゴルナーグラード、ハイキング、ツェルマット・・・2004/7/11



ゴルナーグラード展望台パノラマ写真・3,130m

6日目にして、やっとツェルマット1620mに入場しました。ここも、ガソリン自動車乗り入れ禁止の村(町)です。
駅前は、日本人観光客のスーツケースを運ぶ電気車で溢れていました。 そこは、世界でも有数の山岳リゾートです。周辺には、4000m峰は29も集中しているが、村から見えるのは、マッターホルン4478mだけです。

その、ツェルマットの駅前から、観光客は、ゴルナーグラード行きの登山鉄道(1898年/明治31年開通のアプト式)に乗り込みます。そして、雄大なアルプスの風景を眺めながら、 40分後、ゴルナーグラード展望台駅に到着します。

この写真は、ゴルナーグラード展望台からの眺めです。左のモンテ・ローザ4634mからマッターホルン4478mまでの全景です。巨大で数枚の写真でも入りきれません。眼下の氷河を入れると、モンテローザのピークがはみ出します。縦に撮影すれば入ったのですが、後で気がつきました。

モンテ・ローザ4634m(左雲の中)とリスカム4527m

この二つの山の谷間が、ゴルナーグラード氷河です。この氷河がゴルナーグラード展望台の直下を流れます。誠に雄大です。



マッターホルン、ハイキング/山野草

復路、ローデンボーデンで下車し、リフェルベルクまで、マッターホルンを眺めながら、1時間30ほどのハイキングです。緩やかな下りで、誰でもOKです。 現地ガイドが足元のかわいい高山植物を説明します。 ほとんどがこのように小さな花です。



マッターホルン、ハイキング

マッターホルンの頂上は、なぜか雲が自然と湧き上がってきます。でも、皆さんもお馴染みの 逆さマッターホルンを見る事が出来ました。現地のガイドは、20回に1回位しか見れないというので、ラッキーの部類でしょうか。。



マッターホルン、ハイキング

一行28人と、現地ガイドと添乗員です。このようなグループが次々にやってきます。
地元?の少年や若者は、このようなコースをマウンティングバイクで下ります。

マッターホルンは、毎年多くの登山家が登ります。ガイド料は、日帰りで15万円、当日天候が崩れたら、5万円差し引いた残りが返却されるという。しかし、事前の登山テストがあり、それに合格しないとダメだそうです。

ツェルマット山岳博物館

午後のフリータイムで、ツェルマットをくまなく散策しました。そのひとつがこの博物館です。 受付の男性に日本人はどのくらい来るかと尋ねると、ほとんど(70%)日本の女性だという。 私の顔をみて、ニコニコしながら、日本語のパンフレットをくれました。

主な展示は、マッターホルン登山史のパイオニア達、遭難事故に関する展示、スイスの山の生活と自然、環境、かっての、生活道具、登山道具、スキーなどが、14室(コーナー)に展示されていまし た。

このパンフレットの表紙の絵は、”1865.7.14の部屋”と呼ばれる7番目の部屋で 見ることが出来ます。こらは、英国の挿絵師の登山家エドワード・ウインパーら7人が始めてマッターホルンを征服した模様を伝えるものです。そして、この直ぐ下を下山時に、1人が滑落しロープが切れて、繋がれていた4人が転落死したそうです。その状況も詳しく展示されています。



ツェルマット山岳博物館

博物館の様子です。入り口で大きな雄ヤギがお出迎えです。その壁にはツェルマットを訪れた著名な人々の情報が展示されていました。

その展示で、1881年にマッターホルンに登頂し『英国人に出来ることはヤンキーにもできるんだ』と述べたルーズベルトは、後に第32代の米国大統領になりました。 そして、大恐慌をニューディール政策と日本との戦争で克服し、ヤルタ会談から帰国した直後の1945.4.12に疲れ果て脳溢血で急死した。有名な話のようですが、ツェルマットで知りました。



Eツェルマット、フルカ峠越え、氷河特急、サンモリッツ・・・2004/7/12

朝焼けのマッターホルン

翌朝、ツェルマットのホテルからの眺めです。マッターホルンのグーテンロート(朝焼け)です。

早速、朝食前にマッターホルン見納めの散歩に出かけました。辻々にカメラマンがシャッターチャンスを伺っています。 台湾かた来た観光客は、厚手の防寒具で散歩します。地元の人には、グーテンモルゲンと挨拶も 流暢になってきました。




フルカ峠/ローヌ氷河

ツェルマットからティシュヘ、そこからバスでフルカ峠でを越えて、アンデルマットヘ向かいました。 現在は、鉄道でフルカ峠を迂回した新フルカトンネルで15分ほどで通過しますが、一行は、バスでの峠越えで、スイスの自然を余すところなく楽しみました。

写真は、峠にせまるローヌ氷河の先端です。手前は、氷河が削り取った岩肌です。


フルカ峠2431m/ローヌ氷河

峠には、氷河を見下ろす展望所があります。いまや世界的に有名になった氷河特急の『氷河』 という名前は、このローヌ氷河を眺めることに由来している。かっての鉄道は、ラックレールを使って ここまでよじ登っていました。その廃線の後が所々にありました。

また、この峠は、ヨーロッパの分水嶺として有名です。峠の西側に降った雨や雪はローヌ渓谷を下り、レマン湖から地中海へ、東側に降った雨や雪はロイス川からライン川を経て北海に注ぎます。


氷河特急

アンデルマットからサンモリッツまでは、『氷河特急』の1等です。僅かな距離を5時間と17分、平均速度は34Km/hの観光特急です。

面白いことに、ここでも日本人が1等車、欧米人は2等車です。 早くから、日本の旅行社が予約を入れるのでこのような結果になるのでしょうか。




氷河特急の食堂車

人生で、最初で最後の1等の食堂車です。




ランドヴァッサー橋
この橋は、氷河特急の中で、石組みの美しいことで有名です。近づくと、列車は速度を落とし、乗客はカメラを構えます。ところが、1等車は窓が開きません。ガラスには社内の様子が写るばかりで、きれいな写真は取れません。2等車は、窓が下がるのでこの問題はおきません。欧米人が2等車の乗る分けはこのあたりかも知れませんね。

また1等車は、冷房の習慣の無いスイスでは、晴天のときは、暑くて困ります。我々も乗り込んだら、暑くてたまりません。車掌にクーラー入れるように頼んだら、暖房が入っているので切るという。 冷房の習慣のないスイスでは、昨年の夏は猛暑で、1等車は蒸し風呂のようになり大変に困ったそうです。皆さん、お勧めは、2等車ですよ。


サンモリッツ

この写真は、サンモリッツ駅前の風景です。世界の高級リゾート、冬季五輪をイメージして来た我々には、簡素な駅前風景でした。

サンモリッツの空気は『シャンペンエアー』とか『シャンペン気候』といい有名という。先ずは、爽やかな空気を胸いっぱい吸うことにしました。

翌朝は、ホテル周辺の湖畔を散歩し、家々のきれいな花園を眺め、マイエンフェルトへ向かいました。



Fサンモリッツ、マイエンフェルト、ルツェルン・・・2004/7/13

ソリス橋Solis Bridge

8日目です。バスでサンモリッツからマイエンフェルト経由ルツェルンです。 マイエンフェルト手前のソリス橋で小休止です。

ハイジの家・Hidge's House

マイエンフェルトの丘の上で、 久し振りにハイジとペーターに逢うことが出来ました。
1880年に発表された『ハイジ』の物語は、過去100年にわたり50カ国以上に翻訳され、その数は 5000万部以上です。

近年の観光ブームにのって、駅から1.5キロの丘の上にハイジの故郷をしたてました。 ハイジ博物館(古い農家を利用)を中心に、ハイジの泉、レストラン、ハイキングコースが設けれれていました。丘の上は牧場と農家ですが、マイエンフェルトの町並みを見下ろします。

隣の農家

ハイジの家の隣の農家です。 スイスの農家は、コンパクトです。これが農家かと思われるでしょうが、よく観察すれば 農家です。すぐ前に家畜小屋、農機具、牧場もあります。近くに乳牛もいました。 そして、車が2台、窓に花を飾り、国旗を立てます。 このような農家でも、家々には、小銃と実弾が常備され、ご主人は予備役のスイス兵です。

丘の上の食堂

このハイジの丘の食堂は大盛況です。理由は簡単です。 日本人を載せた観光バスがランチタイムに、ここに集結します。 観光客は食事後、サンモリッツ、ルツェルンへ向けて出発します。

ルツェルンの現地ガイド

彼女は、在スイス37年の大ベテランのガイドです。既に子育ても終わり、現地のご主人と丘の上で 民宿を営むそうです。

ガイドの合間に、スイスの国情をいろいろ話されました。子育て、兵役、年金、老人介護制度などなど、身をもって体験した有益なお話でした。いずれも、無駄の無い、住民本位で、弱者に厚く、日本の制度に勝るように思われました。

ライオン記念碑

8日目の午後は、ルツェルン観光で、旧市街地の散策です。

この、ライオン記念碑は、フランス革命最中の1792年8月10日、パリのチュイルリー王宮でルイ16世一家を身をもって守ろうとして全滅した786人のスイス傭兵を記念して造られた。


カペル橋

ルツェルンは、中世の面影をとどめる静かな美しい町でした。
カペル橋は、フィーアヴァルトシュッテッテ湖から流れ出るロイス川の最初に架かるヨーロッパ最古の木造橋です。

水流の影響をやわらぐために、流れに対して斜めに作られていました。 今も、これからもルツェルン観光のシンボルです。

ルツェルン駅前

これは、ルツェルン駅前に建つアーチです。なにかの記念と思われますが分かりません。

私は、ルツェルン駅見学の記念に撮影しました。ルツェルン駅も始発、終着駅スタイルの 大きな駅で、ここから各地へ出発します。鉄道王国を実感しました。

ルツェルン市立美術館

駅舎の左隣にある美術館は、超近代的です。河畔に面して建てられ、音楽祭なども行われます。

その、アプローチのひさしは、驚くほど長大で、湖畔の噴水に届くほどです。 また、舞台と観客席の間を湖水が流れる特殊な構造です。



Fルツェルン、ピラトス山観光、チューリッヒ空港、帰国・・・2004/7/14

ピラトス山観光

いよいよ最終日です。ルツェルン駅構内には、立派なピラトス観光マップの日本語版が置いてあり、 それを持って電車に乗り込みました。

アルプナッハシュタッド駅で下車、そこに、世界一急勾配のケーブルカーのピラトス駅です。ここからピラトスゴールデン往復(縦走)ルートが始まります。山頂エリアを観光して、帰りは、ロープウェーでクリエンスヘ降りて、トロリーバスでルツェルン市街(ホテル)へ戻るコースです。

世界一急勾配のケーブルカー

世界一の説明です。
19世紀にエドゥアルド・ロッヒャー技師がピラトスに登山電車を建設するという考えを述べた際、人々は彼を狂人扱いしました。

しかし、1889年に全長4618mの鉄道が完成(1937年まではSLが運行)、48%の勾配を持つこの路線は今でも世界一急勾配のケーブルカーとして知られています。回転する2つの水平な歯車という優れた設計は、1889年パリ万国博覧会で紹介されました。(現地のパンフレットによる)

ピラトス山頂・2132m

ピラトスはどこかで聞いた名前です。

日本の蓼科高原から登る『ピラタス横岳ロープウウェイ』があります。スペルは、いずれも『PILATUS』です。ここが、本場のピラタスです。

そこは、現地のパンフレットによると”360°スイス”の見出しで、山頂からの素晴らしい写真の数々です。さすがは本家のピラトスです。一行は、この岩山を左回りで頂上まで登り、下から湧き上がるガスを眺めて、ロープウェーで下山しました。

最後の昼食

ピラトス山観光も無事に終わり、ロイス河畔のレストランで、 カペル橋を眺めながら最後の昼食です。 ご馳走は、スイス風のカレーがメインのここでしか味わえないおいしいメニューでした。 長かったスイスの旅の報告もこのへんで幕引きとさせていただきます。

”暇人のスイスの旅”に、お付き合いいただきありがとうございます。


〔あとがき〕

この度のスイス旅行は、実は、2年遅れの旅です。2002年の同時期に行く予定でしたが、天候不順などの理由もあり、中止しました。従って、盛り上がって、さめてからの再挑戦の旅でした。

2年前のスイスにわか学習も忘れてしまい、されど、学ぶ気にもなれず、自然体で臨みました。 スイスの山の天候は、崩れ気味でしたが、山の雰囲気は十分に味わえたと思っています。 皆さんがいう、”スイスは良いよ”も実感できました。

また、スイスをぐるっと巡り、現地現物で山岳国家の知恵を学び、 スイスの理解も少し深まりました。

参加者の中には、一時体調を崩した方も見えましたが、最後は全員元気で旅を終えることが出来てよかったと思います。気っ風のよい添乗員のユカちゃん始め参加の皆さんにもなにかとお世話になりました。楽しいスイスの10日間に感謝です。

思い出の花

これは、メンリッヘンハイキングで目にとまった花です。
現地では、グローブ・フラワーとガイドがいう。これは、英名です。多くの花の名前を聞いたようですが、記憶に残ったのはこの花だけです。後で調べると、日本名は”西洋キンバイ”というそうです。
なぜ覚えたか、花の下が異常に長かったので、




今後も、楽しい旅の想い出をこのページに掲載します。お楽しみ下さい。
I publish the recollection of an enjoyable trip in this page. Please have fun.


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