三ヶ根山のエンジン   第 9 章 あ と が き

   この度の、三ヶ根山エンジンの謎解きは、日米・電縁合同調査チームの活動のおかげです。ご協力ありがとうございました。

これら二つのエンジンは、太平洋戦争の日本の責任者と多くの戦死者の慰霊碑と共に、日米を代表する歴史に残る 軍用航空機エンジンとして30余年祀られて来ました。

既に多くの参拝者が、零戦のエンジンと信じ、B-29のエンジンと信じ、それぞれに複雑な思いの中で当時を偲び、 参拝されたことと思います。

次に、日米・電縁合同調査チームの一員としての思いを述べさせていただきます。

1)三菱OBの思い

 三ヶ根山頂から望む遠州灘の空は、爆撃を終えたB-29が帰投する道筋にあたり、 これを追撃した日本軍機が最後の一戦を試みた空域でした。 その海底から引き揚げられたエンジンがこの山頂に保存されて来ました。

 B-29用及び零戦用として展示されている二種のエンジンは調査の結果、 共に旧三菱重工名古屋発動機製作所で製造されたものと分りました。

ついては、次のように掲示板を変更するのが良いと思います。

■ 三菱「A18(ハ-104)」エンジンについて

星型空冷複式18気筒: 気筒口径150ミリ、行程170ミリ 、馬力 1900
この航空機エンジンはかっての大東亜戦争中 (昭和20年頃)四式重爆撃機(飛龍)等に搭載されて活躍し、生産基数は2860基を数えました。
遠州灘上空で墜落し、渥美半島沖で海中より当地の漁船が航海中に網にかかり拾い上げたものです。

戦後30有余年海中に没したまま最近まで太平洋の海底に眠っておりました。 まだ、日本軍米軍の航空機の残壊が海中に没していることと思われます。 日本軍、米軍を問わず戦死者の御冥福をお祈り申し上げます。

  殉国七士奉賛会

■ 三菱「瑞星」エンジンについて

空冷星型複式14気筒 : 気筒口径140ミリ、行程130ミリ 、馬力 1,080
このプロペラ付エンジンは、 第二次大戦中に100式司令部偵察機(新司偵)や2式複座戦闘機(屠龍)などに搭載されたものです。

2)編集者の思い
 編集者は、何故三ヶ根山のエンジンの謎解きを進めたか、それは、私が、何故、日米からの情報に基ずく 『B-29の追憶』のHPを10年も続けてきたかという思いと重なります。

B-29を深く学べば、日本の戦争責任者の判断の過ちが浮かびあがります。 B-29の日本本土無差別爆撃は、軍需施設のみならず、多くの一般市民を巻き込み、世紀の大虐殺行為であったと思います。 しかし、その戦果は、日本の無条件降伏を早め、米兵と日本国民の無益な死を抑制したとして、米国では称えられています。

私は、20年ほど前の三ヶ根山散策時に、それらのエンジンを見つけ、知っていました。 当時は、何の疑いもなく素直に信じていました。

この度、B-29の縁で、B-29エンジンの謎解きを進めて思うことは、

@何故間違えて、B-29のエンジンとなったか?
A何故、航空エンジンの専門家に相談しなかったのか?
B何故、B-29のエンジンを展示したかったのか?
という素朴な疑問です。いまさら、その理由を調査する気は毛頭ありません。

三ヶ根山頂に、慰霊碑群が出来始めた、S50年代は、高度成長の最中であり、 先の大戦の犠牲者の霊を偲ぶ経済的余裕も出てきたと思います。

そして、全国各地から南方へ送られて玉砕した部隊、連隊の帰還兵が中心となり立派な慰霊碑建設の動きが 始まったと思います。

その墓地の一隅に、戦争の遺産をそっと展示し、子々孫々の参拝者にも、往時を偲んでいただきたいという思いが あったと思います。 そのような、遺産は、敗戦時に軍の命令で、軍需工場の社長も同意させられ、全ての軍需品は破壊、焼却し、 苦難のエンジン開発資料も焼却させられたという。

したがって、海中から航空機のエンジンが見つかったというニュースに飛びつくのも無理はないと思われます。

かっての軍人は、大戦中の時代精神が蘇ったかもしれません。軍の命令は絶対です。そんな空気の中で、 必然的にB-29のエンジンになり、零戦のエンジンになったのかも知れません。

この、時代精神=軍上層部の強圧的な姿勢 は、かっての大戦の過ちの根底です。 技術的なことは、航空エンジンのことは、地元では、三菱発動機のOBに相談すればよかったのです。

私は、三ヶ根山のエンジン調査に3回出かけました。そのエンジンを参拝し、かっての、三菱発動機で、これらエンジンを 造っ多くの方々を思い浮かべました。工学部出身のエリート技師、社員、熟達した旋盤工、鋳物工、徴用工、学徒動員、朝鮮半島から、 日本へ行けば女学校へ行けると騙されて終日の労働に怯えた少女まで、当時40,000人の職場は、 B-29の日本爆撃第一目標となり、第1章の ”愛知爆撃総括”に書いたように、延べ8回の爆撃を受けた。そして、多くの方々が肉片となった。

殉国七士廟のエンジンは、終戦までの5年間に、2860基生産され、軍用機に搭載され、出撃し、 多くの搭乗員が運命を共にした。 そのエンジンの前には、このような説明をした、掲示板を立ててその方々の慰霊碑としたらよいと思う。

殉国七士廟の広場に建つ巨大な石碑を思うと、銃後の受難者の巨大な石碑があってもよいと思う。 三ヶ根山のエンジンも、廟に建つ、湯川秀樹直筆の碑『世界は一つ』(写真)も願っています。 B-29も、零戦も、原爆も人殺しの道具です。 それらを造った人類の愚かな行為を謙虚に受け止めるこことが出来る日本に、そして、世界になることを願っています。

おわり、2010.8.15 編集者 岡田邦雄


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