B-29トヨタ爆撃写真集

 『豊田市平和を願い戦争を記録する会』編集資料より抜粋



@標的No.1139・トヨタ自動車工業・挙母工場(第393戦隊のターゲット・航空機産業)



A標的No.1140・トヨタ自動車工業・刈谷工場(第393戦隊のターゲット・航空機産業)



B第509混成軍団(原爆投下極秘軍団=シルバープレートと呼ばれた)



C-1 出撃命令書(8月14日9:30、7機離陸名古屋エリアへ、内3機がトヨタ爆撃)


C-2 爆撃最終報告書(1発 良好=命中、2発 貧弱=目標外)



D爆撃・トヨタ挙母工場( 炸裂するパンプキン爆弾・可鍛鋳物工場1945.8.14 15:01) 

・ボック大尉機は2度目の照準操作で高度9000mから命中させた



E爆撃・前山社宅前クレーター(8.14 14:53) & 今町・矢作川河右岸河川敷(8.14 14:58)

・高度9000mから挙母工場を標的に投下したパンプキンの着弾点



Fパンプキン爆弾(原爆投下訓練用10,525ポンド=4,774Kg、高性能火薬2,858Kg充填)

パンプキンは1000個発注、486個納入で終戦、約半数をテニアンへ搬入、訓練他、49発日本本土投下、
標的投下訓練効果大、残数は終戦後テニアン沖海中に投棄, コスト:1500〜2000ドル/個



Gパンプキン投下マップ・日本本土へ49発投下



Hボック大尉 & クルー(長崎原爆投下機のボックスカーは彼の名前から命名)

彼は、原爆投下作戦とパンプキン投下作戦で活躍した指揮官兼パイロットの英雄




ボック大尉 & クルーとトヨタ爆撃時の搭乗機 B-29 44-27298/Full House(右)



Iボック大尉の豊田英二氏宛 書簡(翻訳版は”ボックの書簡と解説”をご覧ください)



J豊田英二氏『決断』・・・8月14日当時のトヨタの状況記述・・・

 この本は、昭和59年9月18日から日本経済新聞の『私の履歴書』に掲載され、その後大幅に加筆・補強し昭和60年9月に発行された。内容は、トヨタを育てた豊田英二氏の半世紀の回顧録である。その後、米国でも翻訳発行され、やがてボック大尉の目に留まり、トヨタ挙母工場に自分が投下したパンプキンの思いに日米間での大きなずれを知ったのが、豊田英二氏宛てに送った”ボック書簡”のいきさつと思われます。

 私は、”ボック書簡”のお陰で1945.8.14のB-29トヨタ爆撃の真相が明らかになって良かったと思っています。史実を正確に伝えることの難しさを痛感しました。

それでは、豊田英二氏の『空襲を』をお読みください。

『決断』空襲(121ページ)から転載



Kトヨタ20年史・202 & 189ページ転載・空襲の被害と戦闘機用エンジン製作始動



Lシルバープレート

 この本の題名は、THEY WERE CALLED SILVERPLATE 『彼らはシルバープレート(銀の器)と呼ばれた』と書かれています。 著者は、元第509混成軍団の指揮官リチャード・H・キャンベル氏で、内容は、原爆投下のための1943年から1960年にかけてのシルバープレートB-29の配備と作戦の歴史がまとめられています。

この本(243頁)は、日本では発売しないを条件に米国で発行され、私は、友人の元B-29搭乗員のHap Halloranさんから入手しました。 その後、IT Friendの 『史跡探訪』 のWebsite編集者Mr Hayashiが著者の承諾を得て許可された一部の章に付いてその翻訳Siteを公開しました。その翻訳Siteは貴重です。前頁右の”関連リンク”で紹介しますので興味のある方は是非クリックしてください。

次に、この本の序文を翻訳紹介します。

                  『序文』

 原子爆弾やボーイングB-29スーパーフォートレス(超・空の要塞)爆撃機の製造に関する開発プログラムについては多くのことが書かれてきた。また,われわれが原子爆弾投下の任務をどのように準備したか,とか,どのようにその任務を果たしたか,などについて書かれた,多くの本や雑誌の記事が出版されてきた。現時点までになお欠けていることといえば,原子爆弾の投下を実行したB-29特殊モデルの製品寿命とか開発の歴史である。シルバープレートB-29についてのこの物語は,その空隙を埋めるものである。

 私は,日本やヨーロッパに原子爆弾を落とすことに責任を持つであろう部隊を編成・指揮するよう選任された。それは1944年であった。私は,優先権記号で“シルバープレート(銀の器)”という言葉を使うことによってなされる仕事を遂行するのに必要なものはすべて手に入れることができると教えられた。特殊仕様のボーイングB-29超・空の要塞が,われわれが使用するであろう航空機であった。そして,結局は,それがシルバープレートB-29として知られるようになった。私は,ほとんどまる1年,そのB-29をテストし,任務に就くことになるが,そのときには,この航空機の弱点を把握し,そのいくつかの弱点の矯正方法を知りえたと確信していた。

 われわれは,1944年の秋に,ウェンドーバー陸軍航空隊基地において,後に,第509混成隊となる部隊の編成を始めた。特殊仕様のB-29は,シルバープレート(銀の器)仕様として知られる内容に設計変更されてからは,諸所に分散して配属された。この航空機は,燃料直接噴射エンジン,急速作動爆弾投下室ドアを備えていた。また,すべての銃座や装甲板を取り除くことにより,7,200ポンド(2,700キログラム)軽くなっていた。最後尾の銃は残された。これらの変更により,この航空機が,30,000フィート(9,000メートル)以上の上空を,平均時速260マイル(416キロメートル)の速度で,10,000ポンド(4,540キログラム)の原子爆弾を搭載し、ほぼ,2,000マイル(3,200キロメートル)飛行させることを可能にした。この性能は,これまでに知られた,いかなる戦闘機の性能をも上回るものであり,また,対空砲火の危険をも超越するものとなった。

 原子爆弾を運搬するための仕様変更とは,爆弾投下室の変更であった。爆弾の留め金を,一個のひっかけで保持するため,H型骨材が取り付けられた。そして,爆弾を激しい気流の中へ確実に送り出すため,揺動するメカニズム(sway braces)が付け加えられた。最も重要な変更は,キャブレター付きエンジンを燃料直接噴射エンジンに置き換えることであった。この新しいシルバープレートB-29は,また,ピッチを逆にできるカーチス・エレクトリック社のプロペラを装備していた。これによって,機体の制動力が改善された。

 われわれは,この時点で,陸軍航空隊の全部隊の中で最高のB-29を持つに至った。そして,われわれに指令された任務をいつでも遂行できる状態にあった。われわれはテニアンへいった。そして,特命飛行を行った。戦争は終わった。シルバープレートB-29は課せられた任務を遂行した。そして,戦後何年もの間,われわれの核抑止力であり続けている。

 シルバープレートB29スーパーフォートレスについてのこの物語は フレデリック・C・ボックおよび第509混成隊の隊員たちに奉げられる。 かれらは,テニアンのウェンドーヴァーおよびローズウェルにおいて,祖国のために奉仕した 彼らの努力とこの航空機が,第2次世界大戦を終わらせ,かつ,原子力の時代を開いた。

以上、翻訳は、元大学教授 井上治樹氏による。


『B-29トヨタ爆撃写真集』の訪問ありがとうございました。


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