〔HP開設5周年記念特別企画〕 ・・・安城歴史研究第28号 抜刷 2003.3.31発行・・・
第3章 明治基地誕生の経緯とその戦後

著者: 鈴木 丹 先生


第2次世界大戦、日本海軍史


1.はじめに

明治航空基地と、 とそこに配備された海軍航空隊の概要については、本誌第20号掲載の『明治基地と海軍航空隊』において、またその戦歴の一部であるB29邀撃戦の経過については本誌第27号掲載の『明治基地とB29邀撃戦』において、それぞれ紹介させていただいたところであるが、今回は主として基地誕生の経緯と戦争終期から戦後に掛けての基地の状況、ならびに今に残る基地の遺構・遺跡等についてその概要を紹介させて頂き、後世における郷土史研究の参考に資したいと思う。

2.明治基地誕生の経緯

明治基地誕生の経緯を伝える史料 としては、防衛研究所図書館所蔵の戦史史資料(以下略して「防研史料」という) の一冊、『海軍航空軍備関係綴』の中に『実用航空隊配備計画(外戦基地兵力)』と標題の記された表があった。この表の最上段『05(改)軍令部商議案』の欄に『伊勢湾附近』と記入された行中段、『航本実行計画案』の欄に、航空隊名『明治』、配備飛行隊数『陸戦4、0、』、基地能力『母艦1艦分ノ宿泊施設ヲ附加』、 開隊予定期日『20,4,1』と印字されている。

また、同じ綴りの中に、昭和17年4月15日 に海軍部内で行われた研究会で使用されたと思われる 『昭和22年4月ニ於ケル海軍航空兵力ニ関する研究』と表記された資料があった。 この資料は海軍罫紙にタイプ打ちされたもので、航空基地整備の将来計画について記載されているが、その中の、『(二)母艦機航空隊』の項を見ると、表形式で記された下段『艦攻』の欄に印字されていた『伊勢湾附近(未定)』の文字が抹消され、上段『艦戦』の欄に『明治』と手書きで記入された跡が残っている。

そして、『母艦機航空隊ハ母艦機ノ母隊ニシテ其ノ詳細ハ所見ノ項ニ記載ス』と註記され、さらに 『第4 所見』の項には、『母艦機ヲ以テ航空隊ヲ編成シ之ヲ艦隊ニ附属セシメ艦隊長官ノ権限ニ於テ母艦出動毎ニ適宜搭載ヲ為ス案ニ就テハ賛否ノ意見アランモ将来艦載機ノ溜航空隊ヲ内地ニ求ムルコト全ク不可能ノ状況ニ於テハ本案ハ好ムト好マザルトニ拘ハラズ実行スルノ外ハナカルベシ』と記載されている。

更に別の史料綴『05及改05計画航空軍備関係』にファイルされていた昭和16年9月1日付で海軍航空本部の作成した『D航空兵力増勢計画実行案摘要』の『第3節 航空基地』の項には『艦隊航空部隊ノ集中訓練ヲ考慮シ整備スベキ常設作戦基地』の一つとして 『明治』 の名が登場している。

これら史料に記載された事項を総括してみると、『明治基地』の整備は、太平洋戦争の始まる前から海軍部内において『伊勢湾附近』に整備する空母搭載機搭乗員訓練用の航空基地の一つとして検討が始められ、海戦直前の1941年9月の段階で、部内大方の合意を得て成案を得ていた『旧D 計画(第5次軍備充実計画)』の中に含まれていたものが、 ミッドウエイ海戦の大敗 を機に急遽改定された『改D計画』に継承され、以後、 1945年4月の開隊 を目指して積極的に整備が推進されたものと理解するのが自然かつ妥当であろうと思う。


軍用航空隊配備計画書


なお、史料中に登場する用語のうち『陸戦』の陸は、水上機(浮舟/フロート/付きの飛行機)に対する陸上機(車輪付きの飛行機)という意味で、この場合、『陸戦』と『艦戦』は同意語と理解して差し支え無い。

いずれにせよ、前記史料を見る限り、明治基地は、当初、空母搭載の艦上戦闘機搭乗員の訓練を目的とした部隊の配備を計画していたようだ。前記資料中にある、基地能力『母艦一艦分ノ宿泊施設ヲ附加』とは、空母搭載機の搭乗員を、空母一艦分ずつ纏めて集中訓練が行える陸上基地とするための配慮である。当時、空母一艦分の搭乗機数は、飛行隊にして、ほぼ3隊分または4隊分航空機定数に一致していた。

3.『絶対国防圏』

そうした流れの中で建設工事は計画どおり1943年4月に着工 された。建設工事の始まった頃、『ここへ出来る飛行場は航空母艦の飛行機乗りのためのものだそうだ。』という噂を耳にした。 そして、その年の秋から冬にかけての頃であったと思うが、『戦争が厳しくなったため工期が短縮され、工事を急ぐために工事の責任者が代えられたそうだ。』という噂が流れた。

噂の真偽は定かでないが、この時期は、政府・大本営が、米軍のガダルカナル島上陸以降、予想をはるかに上回る米軍の反撃力を背景に、年余に亘って展開された航空消耗戦による深刻な戦局の悪化に歯止めを掛けるため、広大な戦域を思い切って縮小し、太平洋及びインド洋方面において 戦争遂行上絶対確保すべき要域、いわゆる『絶対国防圏』を設定して米英の進攻に対処する方針に、戦争指導方針の大転換を行い、同年9月30日の御前会議 (天皇の臨席を得て行う会議)で決定し、それを実行に移した時期とほぼ一致する。

事実を確認する史料は見つからないが、こうした流れの中で明治基地の開隊時期が半年繰り上げられると共に、配備航空隊の性格も『母艦機航空隊』から、多機種搭乗員の急速養成を主任務とする『練成航空隊』に変質されていったものと思われる。近隣中等学校生徒の勤労奉仕への動員が強化されだしたのもこの頃からである。

年が明けて 1944年2月の末には、陸軍の二式単座戦闘機『鐘馗(しょうき)』 が一機、完成間近の滑走路不時着を試みて失敗、根崎の民家に墜落、搭乗員と共に幼児一人が 倒壊した民家の下敷きとなって死亡するという痛ましい事故が発生した。
筆者が西尾中学校(旧制)3年生のとき、勤労奉仕で滑走路近くで作業をしていたときの出来事であった。
そして、なんとか飛行機の発着が可能となった5月下旬には、当時、訓練用基地の確保に苦慮していた第345海軍航空隊の一部の飛行機(主力機「紫電」)が取り敢えず戦闘機搭乗員の操縦訓練用の基地として使用を開始した。この飛行機はその後、戦闘第402飛行隊となり、9月の初頭には 九州の宮崎基地に移って行った。

そして、9月15日には、この基地の主役となる第210海軍航空隊(略して「210空/ふたひとまるくう」という)がこの基地で開隊し、戦争終結に至るまで、搭乗員の練成教育と本土の防空にあたった。これら部隊の活動については既に本誌第20号において紹介したとおりである。

4.『空地分離』

いささか文脈がずれるが、この辺で航空隊の 『空地分離』 について若干触れさせて頂くことにする。従来海軍の航空隊は、飛行業務に当たる隊員と基地業務を担当する隊員とが一体となって編成されていた。従って航空隊が基地を移動する際に、その都度両者が同時に移動する必要があり、移動に要する業務が膨大となり部隊移動の大きな障害となっていた。

そこで、隊員を、飛行隊(主に搭乗員、整備員)と基地隊(基地の警備、施設の管理、隊員の給食・医療等に従事する隊員)に分離し、基地隊はその基地に固定し、飛行隊のみが作戦の要請により機敏に基地間を移動できるように制度を変える案が浮上した。これを当時、海軍では航空隊の『空地分離』と呼んでいた。

そして、航空隊を飛行隊のみを持つ航空隊と各地区の基地隊を統括する航空隊とに分け、前者を 甲航空隊、後者を乙航空隊と仮称した。この方式が制度として実施に移されたのは 1944年7月10日 付けで行われた航空隊の大規模な編成替えの時であったが、ことの性格からして直ちに全域にわたって実行に移されたわけではなく、東海地区の基地隊を統括する東海海軍航空隊が明治基地を原駐基地として開隊したのは 1945年6月20日であった。

しかし、当時、明治基地には司令部に当てる適当な施設が無かったため、取り敢えず藤枝基地に司令部を置き、必要な業務を開始した模様である。
戦争終期に、司令部にあてる建物を基地周辺に求めて歩いたという当時の隊員の話もあるので、 いずれは明治基地に司令部を置き、明治基地を東海地区を統括する中核基地にする意図があったように思われるが、結局は司令の着任を見ることなく終戦を迎えたというのが真相のようだ

そうした中で、明治基地自身の空地分離が実施に移されたのは、終戦直前ともいえる8月6日であった。その状況は、同年8月8日付けで作成された210空・明治基地隊の『現状申告覚書』(防研史料)に記されている。この段階で隊員数は、『210空』401名、『明治基地隊』3,205名に配分された。以後、 艦隊司令部の作戦方針が本土決戦に備えての徹底した『温存待機』 であったため、210空は殆ど活躍の機会を得ぬまま、8月15日の終戦と共にその任務を終えることになったが、明治基地隊の一部の隊員は、戦後の残務処理や兵器軍需品の連合国軍への引渡し準備等に忙殺されることになった。

5.基地の連合国軍接収部隊への引渡し

基地の連合国軍接収部隊への引渡しの行われたのは その年の11月 になってからのことであった。基地の引渡しに日本側の接収要員として直接立ち会われた当時の東海海軍付けの整備士植松昇氏(当時中尉、機54期)のお話によれば、 基地の引渡し式は、1945年11月3日(偶然ではあるがこの日は明治天皇の誕生日「明治節」に当たる)に行われ、式中、日本側の責任者であった当時の東海海軍航空隊明治基地隊基地長(兼第210海軍航空隊司令)柴田文三大佐(兵50期)が、自らの軍刀を連合国軍の接収部隊指揮官に手交し恭順の意を示した上で進められたという。 接収部隊は当時岐阜に進駐していたアメリカ軍の部隊であったと伝えられるがその詳細は不明である。

引渡しの内容については、防研史料の 『航空隊引渡目録』 の中にファイルされていた 『明治基地兵器目録』 に若干の記録が残されていた。参考までにその内容のごく一部を、読者の便を考え様式の一部を変えて紹介しておく。

(1)飛行長主管飛行機之部

・零式艦上戦斗機・・・・・・・・62型 20機
・    同     ・・・・・・・・52型 22機
・    同     ・・・・・・・・21型  1機
・零式艦上練習戦斗機・・・・・・・・・・2機
・彗星・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43型 1機
・彩雲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11型 1機
・二式艦上偵察機 ・・・・・・・・・・・・ 1機
・白菊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2機
・九○式機上作業練習機・・・・・・・ 1機
・陸軍一式双発高等練習機・・・・・ 1機


(2)内務長主管軍用建築物

@北地区
第一兵舎・・・2923,3立方米第二兵舎・・・2923,3立方米 第三兵舎・・・2923,3立方米
第四兵舎・・・2923,3立方米厠・・・529,2立方米 洗面所・・・231,1立方米
第一士官舎・・・2888.7立方米第二士官舎・・・2888.7立方米 兵員烹炊所・・・1386.0立方米
主計科倉庫・・・2053.0立方米浴室・・・852.9立方米 第四格納庫・・・6578.0立方米
第一病舎・・・2491.2立方米第二病舎・・・627.5立方米

A南地区
第一兵舎・・・2923,3立方米第二兵舎・・・2923,3立方米 第三兵舎・・・2923,3立方米
厠・・・529,2立方米洗面所・・・231,1立方米 第一士官舎・・・1948.3立方米
第二士官舎・・・2917.2立方米第三士官舎・・・3566.8立方米 第四士官舎・・・2888.7立方米
兵員烹炊所・・・1945.8立方米主計科倉庫・・・871.3立方米 浴室・・・699.7立方米
車庫・・・833.0立方米中央指揮所・・・1123.2立方米 第一格納庫・・・6578.0立方米
第二格納庫・・・6578.0立方米第三格納庫・・・6578.0立方米 酒保・・・1968.0立方米

これらのうち、建築物については、連合国軍への引渡しの時点で完全無傷の状態にあったもの に限って記載された模様で、空襲によって損傷を受けたものや、工事中で未完成であったものなどはすべて省かれた模様である。
したがって、当時を知る人々にとっては、いささか疑念を抱かれる向きがあるかも知れない。 建物の規模も容積(単位 立方米)で表示されており、いささかなじみの薄い面もあるが、資料の紹介という立場からそのまま記載することにした。
なお、この中でいう『士官舎』とは、当時、隊員の間で『士官宿舎』と呼称されていたものである。

6.基地の転用・開拓・遺構・遺跡

いずれにせよ、以後、連合国軍接収部隊によって航空機の焼却、兵器・軍需品の処分、滑走路の破壊等、いわゆる基地の武装解除がおこなわれた。そして、これらがすべて終了し、連合国軍接収部隊が引き揚げ、日本側の残務処理の全てが終えられ、 名実共に基地が閉鎖されたのは1946年1月 の末頃であったと聞く。そして、残された土地・建物は国有財産として名古屋財務局の管理に移った。

残された建物のうち、北地区にあった居住棟(士官舎・兵舎)の一部は、戦後、この地に定着して 農耕に従事することになった隊員(復員農耕者)の用に供され、南地区にあった士官舎2棟と厠(かわや)は、内部を改装の上、戦後の教育改革によって新しくこの地に生まれた 『愛知県碧海郡明治村立明治中学校(現在の安城市立明祥中学校)』 の校舎として活用された。
また,根崎地区にあった零戦2機を格納出来るドーム型コンクリート製の『飛行機掩体』は根崎の火葬場となった。土地は、地元に払い下げられ、愛知県が事業主体となって行った元軍用地開拓事業の一つとして取り上げられ、そのほぼ全域が農地に復元された。

あと2年で太平洋戦争終結60周年を迎える。 戦後58年の時の流れの中で、 当時の基地の建物はその全てが姿をけした。今、基地の跡に立って四方を望見してもここに基地 (飛行場)のあったことを連想されるものは何一つ残っていない。戦後活用された施設もすっかりその姿を変えた。 今残る遺構・遺跡はといえば、前稿(本誌27号掲載)のおいても取り上げた 『油缶倉庫』 と、明祥中学校東を通る道路沿いに残る 『格納庫の跡(コンクリートの基礎)』 、それに明祥中と農村公園の間に残る 『爆弾庫跡(赤レンガの側壁)』 くらいしかない。

『油缶倉庫』については、海軍部内で正式にはどう呼ばれていたのか、当時の隊員にお聞きしてもはっきり答えは返ってこなかった。追い詰められた戦況下、海軍としてはとっさの思い付きで急遽造った応急施設、取敢えず付けられたであろう名称も末端まで徹底しなかったのかも知れない。


しかし、幸い、防研史料『第210空現状報告綴』にファイルされていた『昭和20年1月1日調』分の中の『施設・前月中工事竣成ノモノ』の欄に次の記載があった。『燃弾庫(第一期分)・掩体(第一期分)』。いうまでもなく『掩体』は飛行機格納庫の掩体壕、そして 『燃弾庫』 が問題の油缶倉庫を示すものと思われる。この名称は他の基地の位置図の中でも使われていたのでまず間違いはない。 以後、本稿においてはこの名称を使うことにする。

前出の植松昇氏からお聞きしたお話を一つ、『敵小型機の空襲を受けたある日、燃弾庫近くに造られた待避壕の中から庫内の様子を見守っていたところ、敵機が燃弾庫の入り口目掛けて機銃掃射を始めたので、とっさに壕を飛び出し、入り口付近の燃料入りドラム缶を奥に移動しようとしたところ 、部下の隊員がすぐ飛び出してきて手伝ってくれたのを覚えている。』と。ドラム缶を1メートル動かすのも命懸けの時代であった。

また、当時、艦爆(彗星)隊の整備しをしてみえた小山敏夫氏(当時中尉・機54期)のお話によると、当時、航空燃料は、燃料廠から米津駅まで鉄道で送られ、米津駅でドラム缶のまま軍用トラックに積み替えて基地に移送し、現在東端農村公園になっている場所に一旦集積した後、燃料車(タンクローリー)に詰め替えて各飛行隊の飛行機に給油していたとのことであった。

筆者も、当時、八剱神社東の林の中(今、農村公園になっているところ)で、整備兵がドラム缶から燃料車に青色に着色された航空ガソリンを移しているのを見た記憶がある。 燃弾庫の残骸が農村公園の周辺に見られるのはその為であり、これらはいずれも航空燃料入りドラム缶の保管に使用されたものと思われる。

しかし、燃弾庫はその名の示すとおり、もともとは、燃料と弾薬(爆弾・機銃弾等)を収容する目的で造られたものと思われ、根崎町石谷に残る一つは、あるいは爆弾の保管場所として利用されたものかも知れない。しかし、それを証する隊員の証言は得られていない。

また、コンクリートの基礎の残る格納庫は、最も早い時期に建てられたもので、この基地を最初に使用した345空の飛行隊が飛来した日、この格納庫の前(北側)に銀色に輝くピカピカの『紫電』 が整然と並べられて居たのを見た記憶がある。210空となってからは、甲戦(零戦)隊の整備用格納庫として、専ら『零戦』の整備に使用された模様である。なお、赤レンガの側壁の残る建造物は 、爆弾の保管に使用した『爆弾庫』であったと伝えられるが、詳細は不明である。

これらのほか、遺構・遺跡の範疇からは漏れるが、現在南紀白浜の『零パーク』に一機の『零戦』 が展示されている。この機は1976年1月、琵琶湖の湖底に沈んでいた機体を引き揚げ復元したものであるが、尾翼に記された数字は『210-118』、終戦間近の1945年8月初頭、明治基地を飛び立った210空附の搭乗員吾妻常雄中尉(兵73期)操縦の『零戦』であったと伝えられる。


〔琵琶湖から引き上げられた零戦〕
〔追記1〕  本文中に紹介した「南紀白浜の零パークに展示中の零戦」は、その後広島県の呉市に買い上げられ、現在、2005年春、呉市宝町にオープン予定の「呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)」へ展示を予定して機体の本格的な復元作業が進行中である。

〔追記2〕 零戦は、2005年春、予定どおり開館した 『呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)』 に展示され公開した。下記の写真は、鈴木先生が今夏、同館を訪問された時に撮影した写真二葉です。


また、当時の北地区兵員居住区域一帯は戦後の区画整理で地名を東端町『用地』と名付けられ、『海軍用地』の名残を止めている。

明治基地の歴史を伝える碑 としては、1996年3月、太平洋戦争終結50周年を記念して東端町内会によって建立された 『明治航空基地之碑』 があり、戦後の開拓事業を伝えるものとしては 『開拓記念碑』 がある。いずれも東端農村公園の一隅に建てられている。また、和泉町八兵エにある三河地震死没者の共同埋葬墓地に建てられた 『精霊碑』 には、配備航空隊の隊員が被災死没者の埋葬に協力した旨、刻まれている。

戦後58年、今なお太平洋戦争を本音で語ることは誠に難しい。言葉を誤ると大臣の首も飛ぶ。 明治基地とて例外ではない。『君子危うきに近寄らず』の想いは誰にもある。しかし、いずれ時が経ち、時代が変われば『明治基地』の歴史を『桶狭間の合戦』や『関ヶ原の古戦場』と同じスタンスで語られる時代も訪れるであろう。
そうなった時に、郷土史教育の参考になればとの思いも込めて一連の基地史を書いた。戦争体験者の思いは千差万別である。そして、その全てが貴重な心の遺産である。不適切な表現もあったかも知れないがお許しを願いたい。

なお、『戦後、中学校校舎に転用された明治基地の建物(士官舎)』の写真は、筆者が明治中学に勤めていたころ、学校出入りの写真屋さんが撮影されたものを頂いたように記憶している。 バックネットの形態からみて、校舎として使用を開始した直後、1948か49年に撮影されたものだと思う。

今回も、防衛研究所図書館史料閲覧室には大変お世話になった。戦史史料原本の写真は、同館のお許しをえて記載させていただいたものである。また、基地管理の事務方の責任者として基地が閉鎖されるまで残留され、基地の最期を見届けられた、当時の210空主計長甘利裕(優佳)氏(主計大尉・短期7期)からも終戦前後の状況について貴重なご教示をえた。ご指導ご助言を賜った皆様のご好意に対し、改めて厚くお礼を申し上げる次第である。

7.明治航空基地遺構遺跡跡等位置図




《主な参考文献》 (防研資料)は、防衛庁防衛研究所図書館資料の略

・海軍航空軍備関係計画調査綴 (防研史料)
・D及び改D計画航空軍備関係 (防研史料)
・第210空現状報告綴 (防研史料)
・第210空明治基地隊関係綴 (防研史料)
・航空隊引渡目録 (防研史料)
・防衛庁戦史室編 『戦史叢書31 海軍軍戦備(1)』
・防衛庁戦史室編 『戦史叢書88 海軍軍戦備(2)』
・防衛庁戦史室編 『戦史叢書39 大本営海軍部・連合艦隊(4)』
・防衛庁戦史室編 『戦史叢書71 大本営海軍部・連合艦隊(5)』
・日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史 (2)軍備編』
・日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史 (3)制度編』
・三河地震犠牲者遺族会体験手記編集委員会編 『恐怖の1月13日』
・昭和53年5月11日付 『読売新聞』


『明治基地誕生の経緯とその戦後』の訪問ありがとうございました。
次ページで、第4章・・・岡崎基地と海軍航空隊・・・
を公開していますので是非訪問して下さい。


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