いずれにせよ、以後、連合国軍接収部隊によって航空機の焼却、兵器・軍需品の処分、滑走路の破壊等、いわゆる基地の武装解除がおこなわれた。そして、これらがすべて終了し、連合国軍接収部隊が引き揚げ、日本側の残務処理の全てが終えられ、
名実共に基地が閉鎖されたのは1946年1月
の末頃であったと聞く。そして、残された土地・建物は国有財産として名古屋財務局の管理に移った。
残された建物のうち、北地区にあった居住棟(士官舎・兵舎)の一部は、戦後、この地に定着して
農耕に従事することになった隊員(復員農耕者)の用に供され、南地区にあった士官舎2棟と厠(かわや)は、内部を改装の上、戦後の教育改革によって新しくこの地に生まれた
『愛知県碧海郡明治村立明治中学校(現在の安城市立明祥中学校)』
の校舎として活用された。
また,根崎地区にあった零戦2機を格納出来るドーム型コンクリート製の『飛行機掩体』は根崎の火葬場となった。土地は、地元に払い下げられ、愛知県が事業主体となって行った元軍用地開拓事業の一つとして取り上げられ、そのほぼ全域が農地に復元された。
あと2年で太平洋戦争終結60周年を迎える。
戦後58年の時の流れの中で、
当時の基地の建物はその全てが姿をけした。今、基地の跡に立って四方を望見してもここに基地
(飛行場)のあったことを連想されるものは何一つ残っていない。戦後活用された施設もすっかりその姿を変えた。
今残る遺構・遺跡はといえば、前稿(本誌27号掲載)のおいても取り上げた
『油缶倉庫』
と、明祥中学校東を通る道路沿いに残る
『格納庫の跡(コンクリートの基礎)』
、それに明祥中と農村公園の間に残る
『爆弾庫跡(赤レンガの側壁)』
くらいしかない。
『油缶倉庫』については、海軍部内で正式にはどう呼ばれていたのか、当時の隊員にお聞きしてもはっきり答えは返ってこなかった。追い詰められた戦況下、海軍としてはとっさの思い付きで急遽造った応急施設、取敢えず付けられたであろう名称も末端まで徹底しなかったのかも知れない。
しかし、幸い、防研史料『第210空現状報告綴』にファイルされていた『昭和20年1月1日調』分の中の『施設・前月中工事竣成ノモノ』の欄に次の記載があった。『燃弾庫(第一期分)・掩体(第一期分)』。いうまでもなく『掩体』は飛行機格納庫の掩体壕、そして
『燃弾庫』
が問題の油缶倉庫を示すものと思われる。この名称は他の基地の位置図の中でも使われていたのでまず間違いはない。
以後、本稿においてはこの名称を使うことにする。
前出の植松昇氏からお聞きしたお話を一つ、『敵小型機の空襲を受けたある日、燃弾庫近くに造られた待避壕の中から庫内の様子を見守っていたところ、敵機が燃弾庫の入り口目掛けて機銃掃射を始めたので、とっさに壕を飛び出し、入り口付近の燃料入りドラム缶を奥に移動しようとしたところ
、部下の隊員がすぐ飛び出してきて手伝ってくれたのを覚えている。』と。ドラム缶を1メートル動かすのも命懸けの時代であった。
また、当時、艦爆(彗星)隊の整備しをしてみえた小山敏夫氏(当時中尉・機54期)のお話によると、当時、航空燃料は、燃料廠から米津駅まで鉄道で送られ、米津駅でドラム缶のまま軍用トラックに積み替えて基地に移送し、現在東端農村公園になっている場所に一旦集積した後、燃料車(タンクローリー)に詰め替えて各飛行隊の飛行機に給油していたとのことであった。
筆者も、当時、八剱神社東の林の中(今、農村公園になっているところ)で、整備兵がドラム缶から燃料車に青色に着色された航空ガソリンを移しているのを見た記憶がある。
燃弾庫の残骸が農村公園の周辺に見られるのはその為であり、これらはいずれも航空燃料入りドラム缶の保管に使用されたものと思われる。
しかし、燃弾庫はその名の示すとおり、もともとは、燃料と弾薬(爆弾・機銃弾等)を収容する目的で造られたものと思われ、根崎町石谷に残る一つは、あるいは爆弾の保管場所として利用されたものかも知れない。しかし、それを証する隊員の証言は得られていない。
また、コンクリートの基礎の残る格納庫は、最も早い時期に建てられたもので、この基地を最初に使用した345空の飛行隊が飛来した日、この格納庫の前(北側)に銀色に輝くピカピカの『紫電』
が整然と並べられて居たのを見た記憶がある。210空となってからは、甲戦(零戦)隊の整備用格納庫として、専ら『零戦』の整備に使用された模様である。なお、赤レンガの側壁の残る建造物は
、爆弾の保管に使用した『爆弾庫』であったと伝えられるが、詳細は不明である。
これらのほか、遺構・遺跡の範疇からは漏れるが、現在南紀白浜の『零パーク』に一機の『零戦』
が展示されている。この機は1976年1月、琵琶湖の湖底に沈んでいた機体を引き揚げ復元したものであるが、尾翼に記された数字は『210-118』、終戦間近の1945年8月初頭、明治基地を飛び立った210空附の搭乗員吾妻常雄中尉(兵73期)操縦の『零戦』であったと伝えられる。
〔琵琶湖から引き上げられた零戦〕
〔追記1〕
本文中に紹介した「南紀白浜の零パークに展示中の零戦」は、その後広島県の呉市に買い上げられ、現在、2005年春、呉市宝町にオープン予定の「呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)」へ展示を予定して機体の本格的な復元作業が進行中である。
〔追記2〕
零戦は、2005年春、予定どおり開館した
『呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)』
に展示され公開した。下記の写真は、鈴木先生が今夏、同館を訪問された時に撮影した写真二葉です。
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また、当時の北地区兵員居住区域一帯は戦後の区画整理で地名を東端町『用地』と名付けられ、『海軍用地』の名残を止めている。