〔HP開設5周年記念特別企画〕 ・・・安城歴史研究第24号 抜刷

第4章 岡崎基地と海軍航空隊
著者: 鈴木 丹 先生

第2次世界大戦、日本海軍戦史
旧、愛知県碧海郡矢作町・上郷村
現、安城市柿碕町・橋目町・尾崎町、岡崎市北野町・豊田市枡塚西町・福受町

1.はじめに

本誌第20号に『明治基地と海軍航空隊』と題する一文を載せていただき、太平洋戦争中に当時の碧海郡明治村(現在の安城市南部)に存在した『明治航空基地』について、その概要を紹介させていただいた。ところが、現在の安城市内にはもう一つ、市の東北部、現在の尾崎町・橋目町・柿碕町(当時の碧海郡矢作町大字尾崎・橋目丙・柿碕)を含む一帯に海軍の軍用飛行場があった。

海軍内部での正式名称は 『岡崎航空基地』であったが、この飛行場は、当時の碧海郡矢作町西北部から同上上郷村の桝塚地区にかけて展開されていたため、巷では 『上郷の飛行場』とか『桝塚の飛行場』とか呼ばれていた。

これらの飛行場の建設の経緯や配備された航空隊については、既に谷澤増雄氏(豊田市上郷町) の編纂に成る『海軍飛行場と変遷を繰り返す大地』なる著述がある。従って、今ここで改めてこの問題を取り上げることには若干のためらいがあった。しかし、前記著述は、主として当時これらの飛行場や航空隊と直接関わりをもたれた方々の回想を中心に、地元の資料を参考にしての記述が行われている。

そこで、今回は、防衛庁防衛研究所戦史部サイドの資料を主な情報源とし、明治基地との対比も交えながら若干異なった立場から記述を試み、太平洋戦争下における郷土史補綴のお役に立てたいと思う。

2.岡崎基地の建設経緯

前回にも記述したとおり、1942年6月のミッドウエイ海戦の大敗により、空母航空兵力に壊滅的打撃をうけた海軍軍令部は、急速な航空兵力の建て直しと増勢を迫られ、同年6月30日、『昭和17年度戦時航空兵力増勢及艦船建造ニ関スル件商議』をもって海軍大臣あて、その大幅な増勢を商議したが、その際、添付された計画書の中に、戦時実用航空隊の配備予定地として『明治』と並んで『岡崎』の名が挙げられていた。

商議を受けた海軍省は計画内容を検討の結果、同年8月3日付文書で『現下ノ状勢ニ鑑ミ実行上相当ノ困難ヲ伴フ点アリト予想セラルルモ極力貴意ニ副フ如ク之ガ実行ニ務ム可ク候』旨、海軍部総長あて回答すると共に、同年秋には、その実行計画をまとめあげた。世に知られる『改D計画』である。

計画推進に要する費用は、 1942年12月26日召集の第81回帝国議会に上程 されたが、この時、海軍省より提出された『第81回帝国議会、臨時軍事費説明書』の中でも『岡崎』は、練習航空隊整備の区分ではなく、『明治』と同じ甲実施航空隊(常設航空隊)整備の区分に含まれていた。従ってこの基地も当初の当初の計画段階では、実施航空隊(実用機配備の作戦部隊)の配備を予定していたものと思われる。

総面積400ヘクタール を越える土地の買収や基地の建設工事は、横須賀海軍建築部(のち施設部と名称変更)名古屋支部の監理の下、ほぼ『明治基地』と同じペースで両者並行して進められた。その経緯については、前出の谷澤増雄氏の著述に詳しい。

基地の建設工事は、大量の住民の家ごとの移転や灌漑用水路の付け替え等、多くの問題を抱えながらも粛々と進められた。しかし、その間に、海軍と基地を取り巻く情勢は大きく変わって行った。

『改D計画』では航空施設の整備にあわせて大量の航空機搭乗員の養成を計画したが、1942年8月の米軍ガダルカナル島上陸以降、ソロモン海域を中心に展開された長期のわたる航空消耗戦による航空機・搭乗員の大量喪失は、それに一層の拍車をかけた。

3.飛行予科練習生

当時、搭乗員の養成は、主に専修別に、操縦教育練習航空隊(操縦員養成)と偵察教育練習航空隊(偵察員養成)において行われ、そこで教育を受ける隊員を入隊前の学歴軍歴等のより『飛行学生』『飛行専修予備学生』『飛行術訓練生』等と称していた。

これらのうち、『飛行術訓練生』になる為には、事前に搭乗員教育を受けるに必要な基礎教育を受ける必要があった。この基礎教育を行う教育機関を『飛行予科練習生教育練習飛行隊』といい、ここで学ぶ隊員を『飛行予科練習生』と称した。『若い血潮の予科練の・・・・・・』と歌われた『若鷲の歌』で、広く世に知られたいわゆる 『予科練』とは、この飛行予科練生のことである。

飛行予科練習生は、志願する段階での学歴・軍歴により『甲種』『乙種』『丙種』等に区分され、それぞれ教育内容と教育期間が若干異なってはいたが、搭乗員教育を受けるに必要な基礎教育を受ける練習生という性格については変わりはなかった。

4.飛行予科練習生の大量採用の背景

搭乗員の大量増員のあおりを受けて、飛行予科練生の採用数も急激に増加した。甲種飛行予科練習生(以下『甲飛』と略称)についてみると1942年10月入隊の第11期生の入隊者数が1,215名であったのに対し、翌43年入隊の12期生は一次二次三次合わせて3,215名、13期生は、前期後期合わせて28,510名、44年入隊の 14期生に至っては総計41,300名 と40,000人の大台を越えるに至った。

戦局の要請に応えての大量採用ではあったが、このように大量採用された予科訓練生の全てを航空機搭乗員として教育することは当時の状況からいって到底不可能であった。人も物も不足していた。事実、飛行予科訓練生として採用された者の大部分が曲がりなりにも飛行術練習生としての教育を終え、独り立ちの搭乗員として作戦部隊に配属されたのは、甲種の場合12期までで、13期生からは、予科錬教育終了後、その一部は水中特攻兵器『回天』や、 水上特攻兵器『震洋』 等の乗員としての訓練にまわされるようになった。

さらに、14期生からは、電信員、電測員、整備員(機体発動機、兵器)等に充当する予定の要員も予め飛行予科練習生に含めて採用するようになった。表向きは、飛行術練習生として採用する前に電信術、整備術等を履修させ、時期を見て飛行術練習生に採用するというものであったが、当時の状況からみて、将来飛行術練習生に採用される可能性は皆無に近かった。

当然のことながら、このような募集・採用方法には『海軍の信用にも累を及ぼす恐れがある』と海軍内部(航空本部)からも異論がでた。しかし、飛行予科練習生の採用は人員取得上陸海軍協定以外であったため、これに拘束されることなく大量採用が可能であること、飛行予科練習生を志願する者は素質が優秀であること、などから 本土決戦に備え、海軍としての総合的な人的戦力を有利に確保する ためにぜひ必要である。との人事局の強い要請に押し切られた形で実現をみた模様である。

基地の建設工事は地元住民の協力や近隣中等学校生徒の勤労奉仕にも支えられながら計画にしたがって坦々と進められた。明治基地と同様、飛行場を挟んで南地区(現在の安城市尾崎地区周辺)と北地区(現在の豊田市上郷町南部一帯)に士官舎・兵舎・格納庫等隊舎が建てられ、飛行場の中央部に滑走路(一本)が造られた。

1944年2月1日、南地区に建設された隊舎に、現在の知多郡河和町にあった河和海軍航空隊(整備教育練習航空隊)の岡崎分遣隊が配備され、整備教育練習航空隊としての体制造りが始められた。同年4月1日には、岡崎海軍航空隊(初代司令 宮本武大佐・機30期)として独立開隊、同時に北地区に建設された隊舎には、岡崎海軍航空隊(以下、『岡崎空』と略称)上郷分遣隊が配備された。開隊した岡崎空は、同日付で当時整備教育練習航空隊を統括していた第18練習連合航空隊(以下『18連空』と略称)の所属となり、練習航空隊の指定を受け、普通科整備術練習生の機体発動機整備教育を担当することになった。

そして、1944年5月15日には『第14期甲種飛行予科練習生』として採用され、本来ならば。飛行予科練習生教育練習航空隊に入隊して、『予科練教育』を受けるはずであった新入隊員1,436名(本隊781名、上郷分遣隊655名)が、『予科練教育』ならぬ『整備教育』練習航空隊の岡崎空へ、新しい制度による『第1期甲飛整備練習生』として入隊した。与えられた階級は『2等整備兵』ならぬ『2等飛行兵』、支給された軍服は詰め襟七つボタンの『予科練服』であった。後に 『翼なき予科練習生』とうたわれた所以である。

5.飛行予科練習生の入隊状況

ただ、海軍としては、それなりの筋を通すため、昭和19年4月19日付で、『飛行豫科練習生派遣修業取扱特例』なる海軍大臣令達を発し、これらの新人隊員は辞令上予科練教育のメッカといわれた『土浦海軍航空隊』へ一旦入隊させた上、土浦空在籍のまま即日岡崎空に整備術修業のため派遣するという形をとった。無論書面上のもので、実際に隊員が土浦空の土を踏んだ訳ではない。 そして、この種の取扱を受けた練習生を 『派遣飛行練習生』と称した。
以後、6月15日に、本隊831名、分遣隊773名の計1,604名が、7月15日には、本隊680名、分遣隊783名の計1,436名が続々と入隊した。

8月15日には、上郷分遣隊が第2岡崎海軍航空隊(司令 村角安三大佐・機31期)として独立開隊した。先発の岡崎空同様18連空麾下に入り、練習航空隊の指定を受け、分遣隊の業務(整備教育)を引き継いだ。
以後、8月15日には岡崎空761名、第2岡崎空608名、9月15日には岡座空779名、第2岡崎空838名、10月15日には岡崎空734名、第2岡崎空716名と、 毎月両隊合わせて1,500名前後のペースで新隊員の入隊は続いた。

ここまでは全て甲飛14期生であったが、11月15日に入隊した岡崎空707名、第2岡崎空789名は乙飛23期相当の人達であった。そして12月15日には、乙飛24期相当の隊員624名が第1岡崎空に、770名が第2岡崎空に入隊した。これら新入隊員のほとんどが14歳から17歳の少年達であった。

以上の数字を見てもわかるとおり、入隊者は、甲飛14期生が圧倒的に多かった。甲飛14期生全採用者のうち約4割が『派遣飛行練習生』となったが、その半数余を占める機体発動機整備要員予定者のすべてがこの二つの隊に入隊している。入隊者は、ここで1ヶ月の新兵教育を受けた後、引き続き約6ヶ月の普通科整備術練習生としての教育を受けその課程を修了し、身分は飛行兵のまま各部隊に配属され、機体発動機の整備要員として活躍した模様である。

〔注記〕 第1岡崎空及び第2岡崎空において行われた練習生教育の教育課程については「予科練基礎教育3ヶ月、航空機整備教育3ヶ月」という説もある。

6.名古屋海軍航空隊の岡崎分遣隊の配備

これとは別に、1944年9月14日、 基地北東部(現在の岡崎市北野町北部から豊田市桝塚西町南部にかけての一帯)に名古屋海軍航空隊の岡崎分遣隊が配備された。名古屋空は操縦教育担当の練習飛行隊であったため、その流れを継いで飛行術練習生を対象に陸上練習機による操縦教育をおこなうことになった。そして、主に、布張り複葉の93式陸上中間練習機 (略称『93中錬』、当時『赤とんぼ』 と愛称されていた)を使っての操縦教育が開始された。

当時、練習航空隊における操縦教育は、練習機教程と実用機教程の二段階で行われ、前者を終了した者が機種別に分けられて後者に進み、後者を終了した後、実用機配備の実施航空隊(作戦部隊)に配属され、さらに作戦行動に堪え得る一人前の搭乗員になる為の練成教育(延長教育)を受けた後、実際の作戦に参加する仕組みになっていた。

1945年2月11日、名古屋空岡崎分遣隊は、第3岡崎海軍航空隊(初代司令 室井留夫中佐・兵39期 航空機定数144機)として独立開隊。操縦教育練習航空隊を統括していた第11練習連合航空隊に編入され、練習航空隊の指定を受け、分遣隊の業務を継承し、引き続き、陸上練習機操縦教育に当たった。第3岡崎空(名古屋空分遣隊を含む)で操縦教育を受けたのは、甲飛11連空・12連空(練習機及び実用機操縦教育)及び13連空(偵察教育)所属の練習航空隊を主体に第10航空艦隊(以下『10艦隊』と略称)が編成され、作戦兵力として連合艦隊に編入された。

7.特攻(体当たり攻撃)訓練

そして第3岡崎空の所属する11連空は10航艦長官の直率となった。同時に、限られた燃料を作戦用に確保するため、以後、学生・練習生の 空中教育は、特攻(体当たり攻撃)訓練等、一部の例外を除いて原則として中止されることになった。そして、予科練習生、整備練習生等の教育部隊は敵の本土上陸に備え、地域別に鎮守府あるいは警備府に編入されることになり、第1・第2岡崎空は、横須賀鎮守府麾下の第20連合航空隊に編入され、以後、航空基地の整備や陸戦訓練等に従事することになった。その結果、18連空は(整備教育)解体となった。

8.本土決戦配備・解隊

米軍の沖縄本島上陸直後の4月初頭、軍令部は、『決号作戦(本土防衛作戦)』に備えて、海軍航空兵力を戦闘機を主力とする『制空艦隊』と『特攻艦隊』とで編成する案を検討したが、その後、それらを『航空戦隊』単位で編成して各航空隊に配属することとし、5月5日付けで戦時編制の改定を行った。その結果、新たに 練習機特攻を主体とする第12・第13航空隊が編成 され、前者は5航艦に、後者は3航艦に編入された。そしてこの時、第3岡崎空は練習航空隊の指定を解除されて作戦部隊となり、第13航空戦隊に編入された。

その後の6月6日、海軍総隊は、『練習機特攻隊ノ決号作戦ニ於ケル展開配備方面』を定めるとともに、『7月上旬迄ニ展開準備ヲ完了』すべき旨を下令した。そうした中で、6月15日付けで第3岡崎空の司令は山下栄大佐(兵49期)にかわった。

6月23日には、3ヶ月に亙る激闘の末、沖縄戦は日本軍の全面敗北の形で事実上集結し、敵の本土上陸は目前に迫った。追い詰められた戦況の中で、第3岡崎空では『決号作戦』参加のため、93式陸上中間練習機による特別攻撃隊3飛行隊(各隊約18機で編成)が編成され、南九州の『笠ノ原』、四国の『西条』、近畿の『姫路』の3基地に展開、第5航空艦隊(司令部 大分、司令官 宇垣纏中将)の指揮下に入った。そして出撃態勢のまま各基地で待機したが、遂に特攻出撃命令を受けることなく終戦を(8月15日)を迎えた。 『中錬特攻』は、『決号作戦』発動時に使用する最後の特攻戦力 として温存されたものと思われる。

岡崎基地も他の基地同様再三に亘り米軍小型機の空襲を受けた。日時は定かではないが基地周辺に配備された対空機銃部隊の銃撃により P51(マスタング)1機が撃墜 され、第1岡崎空に墜落したが搭乗員は奇跡的に無傷で助かり、捕虜になったというエピソードも耳にした。

〔注記〕 撃墜された米軍機の機種は、当時、地元の多くの方がかかわり、P51(ムスタング)であったので、HP編集者が、原文「グラマン」を「P51・ムスタング」に訂正しました。

そして練習生全員の本土決戦配備により、その使命を終えた第1・第2岡崎空は1945年7月31日付けで解隊となった。 その間、第1岡崎空の司令は1944年12月30日付で山田慈郎大佐(機29期)に、翌45年5月10日付で渡辺次郎大佐(機31期)にかわっている。

9.連合軍接収部隊への引渡し

以後、基地の防衛と管理は、明治基地の場合と同様、東海地区の基地管理を統括する東海海軍航空隊の岡崎基地隊が編成され、その任に当たるとともに、戦後の残務処理や連合軍接収部隊への基地の引渡し等の業務が行われたものと思われる。戦後、岡崎基地隊が連合軍に引き渡した兵器軍需品目の中には、

・・・接収部隊に引き渡した航空機リスト(岡崎基地隊)・・・

航空機名機数
93式陸中錬24機
2式陸錬1機
零式艦戦2機
『白菊』1機
90式機上作業練習機1機
『彗星』1機
双発高錬1機

等の記載がある。

この基地には前記3航空隊のほか、第2岡崎空と第3岡崎空の間に、第2海軍航空廠鈴鹿支廠の岡崎補給工場が置かれ、当時、半田市にあった中島飛行機株式会社半田製作所で生産せれていた艦上攻撃機『天山』や艦上偵察機『彩雲』の艤装(ぎそう)をる作業である。艤装を終えた航空機は、各地の基地に空輸されて行った。当然のことながら、この工場も終戦と共にその姿を消した。 因みに、戦後この工場が連合軍に引き渡した航空機は、

・・・接収部隊に引き渡した航空機リスト(中島飛行機)・・・

航空機名機数
『彩雲』8機
『天山』3機
90機練1機

とある。

10.あとがきにかえて

またこの基地は、当時開発中の ロケット推進局地戦闘機『秋水』 の配備基地に予定されていたとの記録もある。

本文中に登場する『東海海軍航空隊』は、残された記録上は、1945年6月20日に明治基地を原駐基地として開隊したことになっているが、実際には司令部に当てる建物等、基地の受け入れ準備が大幅に遅れ、司令の着任を見ること無く終戦を迎えたというのが真相のようだ。その間、東海空の司令部は藤枝基地におかれていたと聞く。また、文中、司令名の下の兵は海軍兵学校、機は海軍機関学校の略である。

第1・第2岡崎空は整備教育部隊であったため、司令(航空隊の長)はいずれも『機関学校』出身者が充当されていた。なお、海軍では、航空機の搭乗員や整備員を養成する教育機関を『学校』

といわずに『練習航空隊』といった。そして、練習航空隊で教育を受ける隊員を、士官・準士官の場合『学生』と、下士官・準下士官の場合『練習生』と呼称し、指導に当たる隊員を教官(士官・準士官)または教員(下士官・兵)と呼んだ。岡崎基地は、いわば、飛行科(操縦科)と整備科を併設した海軍の『航空学校』であった。また、航空隊の名称は、練習航空隊には地名を、作戦部隊には三桁の数字を冠するのが例であった。

今回の執筆に当たっては、必要な情報のほとんどを残された史料と文献に頼った。しかし、兵学校の先輩で、第3岡崎空に開隊時より終戦まで飛行隊長として在隊され、特別攻撃隊編成時には自ら派遣隊指揮官として西条基地に進出された橋本功氏(兵69期、当時大尉)には、直接電話をおかけしてご指導を仰いだ。また、第42期飛行術練習生として第3岡崎空で訓練に励まれた本田勝氏(甲飛13期)には、縁あってお話を承る機会を得、当時の状況について数々の貴重なご教示を賜った。また、現岡崎市在住の高校生望月真吾君にもいろいろお力添えをいただいた。谷澤氏の文献や彼自身の手で集めた基地の図面等、貴重な資料の紹介提供を受けた。お世話になった方々のご好意に対し紙上をお借りして改めて厚くお礼を申し上げる次第である。

なお、具体的な数字については、文献ごとに相応のばらつきがあったが、筆者の判断で第1.第2岡崎空の解隊年月日については海空会編『海軍航空年表』のものを使わせて頂いた。

『岡崎航空基地』と『明治航空基地』は、いずれも太平洋戦争真っ最中の、ほぼ同じ時期に造られ、終戦によって消滅した海軍の軍用飛行場であった。そして、存在した地域はいずれも戦後安城市に合併した地域であり、合併に当たってはいずれも境界をめぐって紛争を生じ、住民投票によって決着を見た地域でもある。当然の成り行きとはいえ、戦後民主主義教育の原点ともなった二つの村の新制中学校、上郷村立上郷中学校(現在の豊田市立上郷中学校)と明治村立明治中学校(現在の安城市立明祥中学校)は、いずれも基地の建物の一部を使って開校した。歴史的必然というべきか、歴史の悪戯というべきか、なにか運命的なものを感じさせる『安城にあった二つの飛行場』ではある。

11.岡崎航空基地位置図




12.参考文献

《主な参考文献》 (防研史料)は、防衛庁防衛研究所戦史部図書館戦史史料の略

・防衛研究所編 戦史叢書 (全102巻)
・海空会編 日本海軍航空史 (全4巻)
・海空会編 海軍航空年表
・永石正孝著 海軍航空隊年誌
・薗川龜郎編 写真図説 日本海軍航空隊
・小池猪一編著 海軍飛行豫科練習生 (全2巻)
・甲飛行会全国本部編 写真集 『甲飛栄光の記録』 (全3巻)
・海軍歴史保存会編 日本海軍史 (全11巻)
・谷澤増雄編 海軍飛行場と変遷を繰り返す大地
・安城市編 安城市史 (全2巻)
・Dおよび改D計画航空軍備関係 (防研史料)
・航空基地図綴 〔本土関係〕 (防研史料)
・海軍公報 〔部内限〕 (防研史料)
・海軍航空隊主要職員 (防研史料)
・航空隊引渡目録 (防研史料)
・第2海軍航空廠渡目録 (防研史料)

岡崎第一航空隊OB・尾崎町住民の想いが、尾崎町熊野神社の境内に建てた
『予科練之碑』


写真:2003年6月、JA2TKO撮影


現存する第3航空隊施設(枡塚味噌の味噌蔵)2005.12.24取材


1.蔵元 枡塚味噌の誇り

←第3航空隊施設(活躍中の味噌蔵)
2005年12月豊田市枡塚町の野田さんが第4章 岡崎基地と海軍航空隊を 訪問されました。 彼は、 蔵元 枡塚味噌(野田味噌商店)の第3代目で、代々からの言い伝えで、 現在も活躍している味噌蔵は第3航空隊の 兵舎と格納庫などをリサイクルして活用しているという。 そして、 当時の基地の詳細情報があれば知りたい旨のemailを送ってきました。

私は、早速、著者の鈴木丹先生に岡崎航空基地の当時の配置図(青図)を問い合わせると、当時、連合軍が基地を接収した時に提出したと思われる英文施設名注記の 図面(防衛研究所より入手)があるという。

2005年12月24日、図面を持って枡塚味噌を訪問しました。 そして、店主の野田さんに味噌蔵を案内していただきました。

味噌蔵の梁→
図面から、当時の航空隊通路に沿った兵舎?の配置を確認しながら蔵の内部に入ると、大きな味噌樽すれすれに軍用施設の木製梁が確認されました。その横にも沢山の味噌蔵です。何れも、終戦後、逐次軍用施設をリサイクルして事業を拡大してきた様子がイメージできました。それらの中には、兵舎を転用した旧上郷中学の校舎も再利用しているそうです。

航空隊施設の一部は健在でした。 その兵舎の屋根は軍用規格の厚めのトタンで、その上にそのままスレートを載せて使っているという。 野田さんは、終戦後の物資難の折、先代が兵舎をリサイクルしたことに誇りを持っていました。そして、鈴木先生から頂いた図面と味噌蔵を大切にし、後世に伝えたいという。私は、素晴らしい経営者にお会いすることができました。

はかなく消え去った岡崎航空隊の施設が現在なお現役で活躍していました。 短時間の見学でしたが、ここで育成される枡塚味噌の原料は、遺伝子組換の大豆は使用せず、 蔵を建て替えることも無く、今なお、自然の条件のもとで、ゆったりと、 その年の最良の味噌を造り出す努力がひしひしと伝わってきました。

2.岡崎航空基地施設図面

この図面は、防衛研究所所蔵の図面のコピーです。滑走路、コントロールタワー、 兵舎、格納庫、爆弾庫などなどが正確に刻まれています。

再三のコピーで、文字はかすれていました。しかし、当時の施設位置は正確に判断できました。

第3航空隊アリアで、枡塚味噌の味噌蔵の位置を特定できると思われる部位の図面です。ご覧ください。


取材:2005.12.24 JA2TKO





『岡崎基地と海軍航空隊』の訪問ありがとうございました。
太平洋戦争の郷土の秘話”B29の追憶”を公開していますので是非覧下さい。・・・



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