搭乗員の大量増員のあおりを受けて、飛行予科練生の採用数も急激に増加した。甲種飛行予科練習生(以下『甲飛』と略称)についてみると1942年10月入隊の第11期生の入隊者数が1,215名であったのに対し、翌43年入隊の12期生は一次二次三次合わせて3,215名、13期生は、前期後期合わせて28,510名、44年入隊の
14期生に至っては総計41,300名
と40,000人の大台を越えるに至った。
戦局の要請に応えての大量採用ではあったが、このように大量採用された予科訓練生の全てを航空機搭乗員として教育することは当時の状況からいって到底不可能であった。人も物も不足していた。事実、飛行予科訓練生として採用された者の大部分が曲がりなりにも飛行術練習生としての教育を終え、独り立ちの搭乗員として作戦部隊に配属されたのは、甲種の場合12期までで、13期生からは、予科錬教育終了後、その一部は水中特攻兵器『回天』や、
水上特攻兵器『震洋』
等の乗員としての訓練にまわされるようになった。
さらに、14期生からは、電信員、電測員、整備員(機体発動機、兵器)等に充当する予定の要員も予め飛行予科練習生に含めて採用するようになった。表向きは、飛行術練習生として採用する前に電信術、整備術等を履修させ、時期を見て飛行術練習生に採用するというものであったが、当時の状況からみて、将来飛行術練習生に採用される可能性は皆無に近かった。
当然のことながら、このような募集・採用方法には『海軍の信用にも累を及ぼす恐れがある』と海軍内部(航空本部)からも異論がでた。しかし、飛行予科練習生の採用は人員取得上陸海軍協定以外であったため、これに拘束されることなく大量採用が可能であること、飛行予科練習生を志願する者は素質が優秀であること、などから
本土決戦に備え、海軍としての総合的な人的戦力を有利に確保する
ためにぜひ必要である。との人事局の強い要請に押し切られた形で実現をみた模様である。
基地の建設工事は地元住民の協力や近隣中等学校生徒の勤労奉仕にも支えられながら計画にしたがって坦々と進められた。明治基地と同様、飛行場を挟んで南地区(現在の安城市尾崎地区周辺)と北地区(現在の豊田市上郷町南部一帯)に士官舎・兵舎・格納庫等隊舎が建てられ、飛行場の中央部に滑走路(一本)が造られた。
1944年2月1日、南地区に建設された隊舎に、現在の知多郡河和町にあった河和海軍航空隊(整備教育練習航空隊)の岡崎分遣隊が配備され、整備教育練習航空隊としての体制造りが始められた。同年4月1日には、岡崎海軍航空隊(初代司令 宮本武大佐・機30期)として独立開隊、同時に北地区に建設された隊舎には、岡崎海軍航空隊(以下、『岡崎空』と略称)上郷分遣隊が配備された。開隊した岡崎空は、同日付で当時整備教育練習航空隊を統括していた第18練習連合航空隊(以下『18連空』と略称)の所属となり、練習航空隊の指定を受け、普通科整備術練習生の機体発動機整備教育を担当することになった。
そして、1944年5月15日には『第14期甲種飛行予科練習生』として採用され、本来ならば。飛行予科練習生教育練習航空隊に入隊して、『予科練教育』を受けるはずであった新入隊員1,436名(本隊781名、上郷分遣隊655名)が、『予科練教育』ならぬ『整備教育』練習航空隊の岡崎空へ、新しい制度による『第1期甲飛整備練習生』として入隊した。与えられた階級は『2等整備兵』ならぬ『2等飛行兵』、支給された軍服は詰め襟七つボタンの『予科練服』であった。後に
『翼なき予科練習生』とうたわれた所以である。