草間教授は、「B29墜落米兵を救った日本人」(総論社)の著者です。
秋水 高温高圧ガスを動力に、高度10000mまで3分30秒で到達する。高空からの攻撃で、第二次世界大戦時に旧日本軍がなすすべもなかったB29を迎撃するため、三菱重工業が開発に着手し11ヶ月で、終戦直前の1945年7月の試験飛行にこぎ着けた。しかし実戦には間に合わず「幻のロケット戦闘機」と呼ばれる。
毎週月曜日、同製作所資料室で一般にも2002年1月から公開中、予約が必要。 0568-28-1112

紹介者:豊田市保見ケ丘 会社員 丹羽八十氏
旧陸軍士官学校57期同期生会で組織する『無名戦士之墓に応える会』は2月29日、
今井五十二世話人代表(80)ら4人が紀伊長島町の同墓を訪れて墓参りをし、同期の故阿部司郎、日比重親両中尉の墓を建立して世話をしてくれたことに感謝して奥山始郎町長と同町遺族会(北村博司会長)に感謝金30万円を送った。
同町を訪れたのは、今井代表=東京都のほか、小島千海さん=横浜市、前田恒夫さん=津市、小林宇三郎=伊勢市。
『無名戦士之墓』墓前で奥山町長をはじめ、同町遺族会関係者、町民らも参列して法要を営み、両中尉の冥福を祈った。
今井代表は『陸士卒業以来60年ぶりに共に学び共に戦った青春の日々に思いを馳せ、感無量』 だと述べた。
同期生等は、墓を無償で建立した同町の石材店・山口茂さんや、遺体を収容した同町本町東正巳さん、遺体を運んだ漁船の元船主東才八さんら地元関係者宅を歴訪し、長年墓を世話してくれたことに感謝の気持ちを伝えていた。
同墓は、太平洋戦争末期の昭和20年6月5日、神戸空襲から帰途するB29爆撃機に紀伊長島町沖で体当たりして撃墜、戦死した日本陸軍戦闘機乗員2人を身元不明のまま町民が埋葬し供養していた。昨年本誌報道をきっかけに判明した。
旧陸軍士官学校で共に学んだ児島さんは、両中尉と同じ第111戦隊に所属し、エンジントラブルで 10分ほど遅れて明野基地から出撃したが、僚機も敵機も見つけられないまま、燃料切れのため基地に帰還したと、感慨深げに話していた。
”写真は墓前法要の陸士同期生の『応える会』代表と奥山町長ら=紀伊長島町営墓地”
登録する被爆米兵2人の遺影を手にする元捕虜レイモンド・ハロランさん=21日、広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
太平洋戦争末期、日本上空で搭乗していたB29爆撃機が撃墜され、捕虜となった元米兵レイモンド・ハロランさん(82)=米カリフォルニア州在住=が21日、広島で被爆死した2人の米兵捕虜の遺族代理として、広島市の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪れ、2人の遺影を登録した。
登録されたのは、元海軍兵ノーマン・ブリセットさん=当時(19)、マサチューセッツ州出身=と、元陸軍兵ジュリアス・モルナーさん=当時(20)、ミシガン州出身=の遺影。
遺影登録は遺族やハロランさんと親交のある広島市西区の歴史研究家森重昭さん(67)の呼び掛けで実現。米兵捕虜の遺影登録は計5人となった。
森さんによると、ブリセットさんとモルナーさんは1945年7月28日、別々の爆撃機で出撃し、砲撃を受け墜落。広島市中心部の中国憲兵隊司令部などに拘束され、被爆した。(共同通信)
[6月21日19時36分更新]
《写真の説明文》
登録する被爆米兵2人の遺影を手にする元捕虜レイモンド・ハロランさん=21日、広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
1945年8月6日エノラ・ゲイが広島に原爆を投下した60年後の同時刻に、テニアン島でも追悼式典が行われた。
中日新聞の夕刊をご覧下さい。
エノラ・ゲイ:
B-29原爆搭載機
B-29 Serial No:
45-MO-44-86292
Victor No: 82
Aircraft Name:
Enola Gay
Crew No: B-9
Airplane Commander:
Robert A.Lewis
第2次大戦 で米軍による国内への空襲が本格化する直前、旧日本軍が新型爆撃機B29の編隊の運用方法などの 機密情報を入手していたことが明らかになった。 愛知県立大の倉橋正直教授(中国近現代史)が中国・吉林省の公文書館にあたる「档案館 (とうあんかん)」が保存していた関東軍憲兵隊の内部文書を入手、分析した。
1944年12月に旧満州国で撃墜され、捕虜になった搭乗員らが、 照準合わせは先頭の機がすることや帰路は電波誘導で最短距離を飛ぶなどの機密事項を詳述していた。 この内部文書は関東軍憲兵隊がソ連参戦で新京(現在の長春)から撤退する際、 焼却しきれなかったものを同館が保管していた。
文書は44年12月7日と同21日、旧満州国の奉天(現・瀋陽)にあった満州飛行機の工場に対する 空襲の際に撃墜された2機の搭乗員計12人の調書など。 B29は当時、中国・四川省の成都を出撃拠点にしていた。 調書によれば、午前3時に出撃した機は約1500キロ飛行した後、高度1万5000フィート (約4570メートル)で12機ごとに編隊を組み、攻撃目標に向かった。 イニシャルポイント(IP)と指定された地点で先頭の機が照準器の作動を始め 照準合わせのため時速約320キロの比較的低速で10分間程度の直線飛行を続ける必要があった。 攻撃目標に達したら12機が一斉に爆弾を落として左回りに方向を変え、 成都からの誘導電波で一直線に帰路についた――など、爆撃の手法が詳細に語られていた。
「照準器は速度、高度、風向、風速などの数値を入力すると投弾のタイミングを知らせる形式。 先頭だけが使うのは衝突を避けるためで、他の機にはタイミングを無線で伝えた」 「レーダーはもっぱら飛行に使われ、爆撃の照準用としては精度は低い」など、 装備の性能について詳述。飛行機同士や基地との交信には統一の周波数を使い、 毎日変更する▽敵襲と区別するため、帰路は基地の640キロ手前で爆撃の概略を無線で報告する ▽尾翼に描かれた所属部隊を表す図形や数字の解読方法――など、 漏れれば重大な損害につながる情報もあった。
調書は44年12月10日、11日、27日付のガリ版刷り文書にまとめられており、 国内の関係機関に配布されたとみられる。B29の出撃拠点は年明けの45年から 太平洋のテニアン島に移り、国内の都市への空襲は同年1月から激化した。 2月には本土防衛部隊が再編されて太平洋沿岸に高射砲部隊が次々つくられたが、 調書の情報が活用されたかどうかはわかっていない。 旧日本軍の装備や組織に詳しい軍事評論家の辻田文雄さんは 「本土防衛部隊の幹部らに情報が周知された形跡はない。 情報が周知されていれば、迎撃や被害の抑止に利用できた可能性がある。 ただでさえ縦割りの軍の組織が、『本土決戦』を叫ぶ末期の段階で、 より柔軟性を失っていたためではないか」と指摘している。
写真説明:
発見されたB29の資料。
機密事項だったはずの機体の記号の意味などが解説されている
(倉橋正直・愛知県立大学教授提供)
アシュワース退役中将
長崎に原爆を落とした米軍B29爆撃機ボックス・カーの投下指揮官だったフレデリック
・アシュワース退役中将(93)が死亡していたことが6日、明らかになった。
親族によると3日、アリゾナ州フェニックスの病院で心臓手術の最中に死亡した。
葬儀は8日、ニューメキシコ州サンタフェ国立墓地で。
米国の原爆開発計画、マンハッタン計画に航空・爆弾管理技術者として加わり、
45年8月9日、原爆「ファットマン」を投下するかどうかを状況判断する責任者として搭乗した。
戦後60年の今夏、発行された米タイム誌では「あの状況下で、やらねばならなかったことをしただけだ。
終戦にもつながったし、参加できて幸運だった」と語っていた。
墜落B29のエンジンを沢から回収-「平和考えて」天川村が仮展示へ (2006.7.21 奈良新聞)
戦時中、天川村の山中に墜落した米軍機B29のエンジンの一部が、村を中心としたチームによって、長年埋まっていた沢から引き上げられた。戦争を伝える貴重な遺物として村は、8月15日の終戦記念日までに、同村洞川の村立資料館で仮展示する方針だ。
引き上げられたのはB29のエンジン内のシリンダー部分で、上下に9つずつピストンがついている。墜落したのは昭和20年6月1日。目撃者がいたため、はっきり日付まで分かっている。長らく同村山上ケ岳東部、上多古川上流の阿古滝付近で沢に埋もれていた。
村役場職員や村山岳救助隊、営林署員など約15人が…
なお、天川村役場の情報によると、8/1から仮展示を行うなどの準備が進められている。
詳細は、下記のSiteを、
『墜落したB-29の情報』
下記は、天川村役場から入手した写真です。山中から掘り出し、吊り上げ、へりで運び、お経を上げてから展示されました。
【ラスベガス(米ネバダ州)=古沢由紀子】広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ元機長(91)が8月6日、米ラスベガスで読売新聞のインタビューに応じ、「広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だった」と、その正当性を主張した。 一方で、「私が戦ったのは日本の一般市民ではなくサムライ(旧日本軍)」と表現するなど、現場の当事者としての複雑な思いものぞかせた。 ティベッツ元機長は母親の名エノラ・ゲイを爆撃機に付けたことでも知られる。戦後60年の昨年、乗組員2人と共同で「当時原爆投下は必要であり、我々は後悔していない」との声明を発表したが、日本のメディアの取材には一切応じていなかった。
ティベッツ氏はフロリダ大学とコネティカット大学で化学を専攻した後、1937年2月25 日に陸軍に入隊。陸軍では主にヨーロッパと北アフリカでパイロットとして経験を積んだ後、米軍が進めていたB-29計画に配置換えとなり、1945年8月6日の原爆投下につながった。 原爆投下後は米空軍の原子爆弾計画(通称、マンハッタン計画)に参加し、テストパイロットの立場から爆撃機による原爆の戦術面からの運用方法に関する研究に従事。1966 年9月1日付けで退役。退役後は航空運輸関連の企業で幹部として勤めていた。
ティベッツ氏は1975年に行われたインタビューで原爆を投下したことに関しては「8万名もの人命を奪ったことは誇れることではない、が、何もないところからスタートして計画通りに完璧に成しえたことに関しては誇りに思っている」と発言。また原爆の犠牲者に対してどういう感情を持っているのかという問いかけに関しては「毎晩、ぐっすりと眠っている」などと気丈な受け答えをしていた。
しかし、原爆投下を巡る様々な意見の渦中に置かれる存在となったことにより精神的にはかなり疲弊。そのこともあり、ティベッツ氏は生前、親しい友人に対して自分の葬儀は執り行わないこと、また、原爆投下に対する抗議集会の場などに使われることを避けるために墓地には自分の墓碑は設けないでほしいと伝えていたという。
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| EX-POW Biography (Hapさんの伝記) | 茨城県岩井市B29墜落記(1945/5/25) | B29搭乗員の記録 | Backward into Battle |
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| B-29元捕虜、1945.1.27中島飛行機武蔵野工場爆撃・東京上空墜落機V□27の生存者、80才健在 | 戦後50年語られなかった戦後(1995/8/15毎日茨城版)、空中爆発のB29から2人がパラシュートで脱出生存その運命は? | 元第314航空団330大隊レーダー観測員の出撃手記、翻訳家:萩野谷敏明氏提供 | 後尾機銃手Andy Dotyの記録、翻訳家:萩野谷敏明氏提供 |
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