斉の歴史
太公望、斉の国を開く
斉の国の開祖は、太公望呂尚である。(注1)呂尚の祖先は、五帝の一人・舜の賢臣であった伯夷という人物だったとも、あるいは舜や禹の時代に四嶽(しがく)の官に就いていた者であるとも言う。その一族は元々姜姓を名乗っていたが、呂の地を領土としたので、呂氏を名乗るようになった。しかし呂氏一族は、殷末にはすっかり没落し、呂尚も晩年に至るまで貧しいくらしをしていた。そんなある日、彼は周の西伯、後の文王と出会った。呂尚と文王の出会いについては、以下の三つの説が伝わっている。
1.文王が猟をしていた時に、偶然、渭水(いすい)のほとりで釣りをしていた呂尚と出会った。呂尚の話を聞いた文王は、これこそ祖父の太公が待ち望んでいた賢人・すなわち太公望であるとして、彼を車に同乗させて城へと連れ帰り、彼を師と仰いだ。
2.呂尚は元々殷の紂王に仕えていたが、紂王が暴虐なのに嫌気が指し、殷を離れて周の西伯のもとへ身を寄せた。
3.呂尚は閑人であり、海辺に隠れ住んでいた。西伯が紂王によって里(ゆうり)の地に監禁された折に、西伯の部下であり、呂尚の知り合いである散宜生と
夭(こうよう)が彼の家へ訪ねて来た。呂尚は二人に薦められて西伯に仕えることにした。三人は紂王に美女や珍しい品々を献上し、西伯を釈放させてもらった。
西伯は「文王」と称し、殷の天下を覆そうと考えた。文王が亡くなると息子の武王が後を継ぎ、やはり呂尚を師と仰いだ。武王は、数多くの諸侯が自分を支持していることを知り、また紂王が暴虐なのを見て今こそ殷を伐つ好機であると考え、亀の甲羅で占わせたところ、結果は「不吉」と出た。おまけに突如として大風が吹き、大雨が降り出した。群臣・諸侯がこれは天の戒めであると脅える中で、呂尚だけは占いの結果を気にせずに殷を討つべきだと主張し、武王もこの意見に従って兵を挙げる決心をしたのである。
武王の11年正月・甲子の日(注2)、武王は牧野の地(注3)で諸侯と誓いを交わし、殷の都へと攻め入った。紂王はここに至って全てを諦め、自焚したのだった。これにより武王は周王朝を開闢し、新たな王となったのである。武王は都を鎬京(注4)に移し、一族や功臣を諸侯に任命した。呂尚も斉の国に封建された。
注釈
(1) 太公望の名については諸説ある。『史記』斉世家本文ではその氏名を呂尚とするが、三家注に呂望とする部分があり、『史記』本文にも白起王翦列伝等では呂望としている。諸子の書を見ても、『荀子』解蔽篇、『呂氏春秋』尊師篇等では呂望とし、『孫子』用間篇では呂牙とする。
一般的には、太公望の姓は姜、氏は呂、名は尚、字は子牙もしくは牙、尊称して師尚父とし、文王の祖父・太公が待ち望んだ人物ということで太公望と称された、とされている。滝川亀太郎『史記会注考証』の説によると、名は望であり、字は尚父であろうと言う。師尚父は官名の師に字を連ねた呼び方であり、太公望は周公旦・召公と同様に、斉君の諡号としての太公に名の望を連ねた呼び方であるとする。
また氏名ばかりでなく、その出身地も謎である。斉世家冒頭では「東海のほとりの人」とし、その部分の正義の注には「蘇州海監県に太公の旧家と廟がある。その海監県が海に臨しているので、東海と呼んだ。」としている。『史記会注考証』では、『呂氏春秋』当染篇・首時篇等より「太公は河内の汲の人」とする説を引いている。汲は今の河南省汲県である。
(2) 周本紀では「二月甲子の明け方」とする。殷暦の正月は周暦の二月にあたり、斉世家は殷暦で、周本紀は周暦で記しているということになる。『史記』の中の牧野の戦いについての記述は、『尚書』牧誓を引用したと思われるが、現行の『尚書』では「時は甲子の明け方」と書いてあるのみである。
(3) 殷の都・朝歌の南の郊外に位置する。今の河南省淇県の南。
(4) 宗周とも言う。あるいは単に鎬と呼ぶこともある。今の陝西省長安県の西南。