blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史   blueball.gif (1613 バイト) 


太公望、莱侯と営丘を争う


呂尚は、の都となるべき営丘(今の山東省昌楽県の東南)へとのんびり旅をしていた。その様子を見た、とある宿の主人はこうつぶやいた。「時は得難く失いやすいものと聞いているが、あのお客はたいへんのんびりと休んでなさる。お国に向かわれる方とは思えないな。」呂尚はこれを聞くと、夜中に慌てて服を着て出立し、明け方に領国へ到着した。

時はまさに、莱侯(らいこう)が営丘を我が物にしようとしていたのであった。は、の人から見れば異民族の集団である。彼らは当時、の国がある山東半島に住地を広げていた。ある者は彼らをの末裔と言うが、ある者は姓の部族と言う。ともかくも呂尚莱侯の軍と営丘の地をめぐって争い、彼らを見事追い出したのである。(注1)しかしとの争いはこれで終わったわけではない。はこの後数百年に渡って軍を派遣し、族の領土を削り取って自らの領土を増やしていく事になるのである。(「莱国の滅亡」を参照。)

さて、呂尚との戦いを終えると、領地の経営を開始した。まずは土地の習俗に従い、礼制を簡略にし、商工業の発展に力を注ぎ、魚や塩の流通を良くした。そのかいあって人々が国に集まり、斉は大国となった。

領国に着いて五ヶ月後に呂尚は、武王の弟で宰相である周公旦のもとへ政治の報告をしに行った。周公旦は、呂尚が国に着いてから早い段階で報告に来たので驚いた。呂尚はすました顔で、「礼制を簡単にし、民の習俗に従ったので統治がうまくいったのですよ。」と答えた。一方、周公旦の長男・伯禽(はくきん)は、領国であるに入ってから三年後に、ようやく父のもとへ報告にやって来た。伯禽が言うには、「国の風俗を変え、礼制をきちんとしたものに改め、喪は三年してから終わることにしました。それで遅くなったのです。」周公旦はこれを聞いて、はいずれ臣下となってに仕えることになるだろう。」と嘆息した。(注2)

その後、武王は病にかかって亡くなり、その息子が王となった。すなわち成王である。しかし彼はまだ幼かったので、叔父にあたる周公旦が摂政として代わりに政治を行った。これに武王の弟である、管叔鮮蔡叔度は不満を持った。彼らは三監としての遺民の統治にあたっていたが、の都であった朝歌で祖先の祭祀を続けている武庚禄父(ぶこうろくほ=紂王の息子)を担ぎ上げ、更には異民族の淮夷(わいい)を味方につけ、「周公は自分が王となろうとしているのだ」と流言して反乱を起こした。これが西周初期の大事件・三監の乱である。(注3)

呂尚は、王命により五侯九伯(注4)の討伐の権利を得た。これによっては諸侯を征伐する権利を得たのである。それはともかく、三監の乱呂尚の尽力もあり、無事平定された。呂尚はこの後、百余歳で亡くなったと言われる。

太公(呂尚)の後、斉侯の位は丁公・乙公・癸公・哀公に継がれたが、(注5)哀公国の君主の讒言により夷王に煮殺されてしまった。そして夷王哀公の弟・胡公斉侯とした。この胡公と、哀公の同母弟・献公の系統による跡目争いがしばらく続いたが、結局は献公の系統が勝利したのである。


注釈

(1) この段の説話について、『史記会注考証』では、『説苑』権謀篇に同様の話が見えるが、そちらでは主人公が桓公に入れ替わっていると指摘している。『説苑』の方では桓公釐何(りか)と領土を争ったことになっている。釐字は、金文や他の文獻でも莱字と音通している例が多々見られ、この釐何とは莱侯の仮借であると思われる。これによって『史記』の方が『説苑』の方の元ネタになっていることがわかる。

参考文献…上原淳道「斉の封建むの事情、および、斉と莱との関係」88〜92頁(『中国古代史研究 第二』所収)

(2) この段の説話は、魯周公世家よりここに挿入した。

(3) 三監は一般的には管叔・蔡叔・武庚の三人を指すとされるが、管叔・蔡叔・霍叔(かくしゅく=武王の弟)を指すとする説もある。

(4) 五侯九伯の解釈については諸説あり、定まっていない。『左伝』僖公四年に、管仲の言葉として、太公五侯九伯の討伐権を与えられたことに触れている。(「桓公、封禅の儀を行わんとす」を参照。)『左伝』杜預の注では「(公・侯・伯・子・男の)五等の諸侯、九州の方伯」の意とする。楊伯峻『春秋左伝注』では三つの説を挙げ、いずれも細かい点では異なるが、五侯九伯を天下の諸侯の総称とする点では変わりがないとしている。竹添光鴻『左氏会箋』でも、やはり五侯九伯を天下の諸侯の総称とし、五等爵の中の侯・伯に、中ぐらいの数である五と、多数を示す九を冠したのだとしている。

(5) 丁公・乙公・癸公はいずれも十干を諡号として用いている。他国の例を見ると、の四代目に丁公がいる。夏・殷の王は、太庚・帝履癸のこと)、盤庚・小辛といったように、多く王名に十干を冠している。では癸公まで古い諡制を用いていたのであろう。金文でも作冊大鼎等、代の銘文に父祖の名を祖丁といったように記している物があり、全般的に以降も十干を父祖の号として用いる風習が残っていたことがわかる。 

参考文献…貝塚茂樹「中国古代史学の発展」102〜103頁(『貝塚茂樹著作集』第四巻所収)

また陳直『史記新証』では、『説文解字』玉部に丁公tei.gif (108 バイト)と記してあることを指摘している。これは盂鼎文王・武王bun.gif (118 バイト)王・bu.gif (128 バイト)と表記してあるのと同例で、丁公斉王であることを示していると解釈している。


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