blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


王建、秦に降伏す


襄王に帰還すると、田単を宰相とした。また襄王孟嘗君の勢力をはばかり、彼と改めて講和を結んだ。孟嘗君bin.gif (122 バイト)の死後、に籠もって諸侯の間で中立を保っていたのである。彼はその後ほどなくして亡くなったが、息子達が跡目争いを始めた。はその隙に連合し、を攻め滅ぼしてしまった。

襄王の十四年(前270年)、秦・楚剛・寿の地を攻めた。襄王は即位十九年にして没し、君王后kyo.gif (107 バイト)太史kyou1.gif (124 バイト)の娘)との間に生まれた、息子のが即位した。これが王建である。

王建が即位すると、母の君王后が政務を取り仕切った。君王后は賢婦人であり、秦王には恭しく仕え、諸侯には信義をもって交わった。そのため王建の即位以来十余年もの間、の侵攻を受けなかったのである。

ある時、秦王に使者を遣わし、玉連環(玉製の知恵の輪)を贈った。使者は言う。「には賢人が多いと聞きますが、果たしてこれを解ける者がおりましょうか?」君王后は群臣に玉連環を見せたが、誰も解くことが出来なかった。そこで君王后は椎を持ってこさせて玉連環を打ち砕き、使者に言った。「秦王に、確かにお解きしましたとお伝え下さい。」

しかし肝心の王建はと言えば、あんまり賢明な王ではなかった。王建の六年(前259年)、を攻め、斉・楚が共同でを救うことになった。は食糧が欠乏してきたのでに穀物の援助を頼んだが、は拒絶してしまった。周最王建に次のように諫めた。「斉・秦に位置し、を歯とすればは唇のようなもの。『唇滅べば歯寒し』の例え通り、が滅べば次はの番です。王はどうして穀物を惜しみ、を勢いづけるようなことをなさるのか!」しかし王建は彼の言葉を聞き入れなかった。

これによって軍の士気は落ち、長平の地で軍四十数万の兵は白起の軍に散々に破られ、更に邯鄲に包囲されることとなった。

君王后王建の十六年(前249年)に没し、今度は王建の后である后勝が政務を執るようになった。同じ年に東周を滅ぼし、以後三十年程の間に韓・趙・魏・燕・楚といった国々を次々に滅ぼしていった。そして王建の四十四年( 前221年)、とうとう秦王政の兵がに侵攻したのである。

それに先立ち、后勝に多額の賄を贈り、に仕えている賓客を多数に送り込ませた。賓客達はやはり秦王から賄を受け、みなのために働くことを誓った。彼らはの間諜となり、王建に、に入朝し、他の五国と連合してと敵対しないようにと進言するようになった。王建后勝や賓客の言いなりとなり、と和して戦の備えを怠るようになった。

その間には五国を滅ぼし、遂に軍がshi2.gif (125 バイト)に至ると、王建は家臣が諫めるのも聞かず、戦わずしてに降伏してしまったのである。王建軍の虜囚となっての地に遷され、その地にあった松柏の間に幽閉されて餓死した。を滅ぼして郡とし、ここにによる天下統一が成し遂げられたのである。秦王政が皇帝と称し、天下を治めることになった。

斉人は王建が賓客の言いなりになって国を滅ぼしたことを恨み、次のように歌ったと言う。「お前が松柏生い茂る、に押し込められたのも、これみなすべて客のせい。」


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