斉の歴史
王建、秦に降伏す
襄王は斉に帰還すると、田単を宰相とした。また襄王は孟嘗君の勢力をはばかり、彼と改めて講和を結んだ。孟嘗君は王の死後、薛に籠もって諸侯の間で中立を保っていたのである。彼はその後ほどなくして亡くなったが、息子達が跡目争いを始めた。斉と魏はその隙に連合し、薛を攻め滅ぼしてしまった。
襄王の十四年(前270年)、秦・楚が斉の剛・寿の地を攻めた。襄王は即位十九年にして没し、君王后(の太史
の娘)との間に生まれた、息子の建が即位した。これが王建である。
王建が即位すると、母の君王后が政務を取り仕切った。君王后は賢婦人であり、秦王には恭しく仕え、諸侯には信義をもって交わった。そのため王建の即位以来十余年もの間、斉は秦の侵攻を受けなかったのである。
ある時、秦王は斉に使者を遣わし、玉連環(玉製の知恵の輪)を贈った。使者は言う。「斉には賢人が多いと聞きますが、果たしてこれを解ける者がおりましょうか?」君王后は群臣に玉連環を見せたが、誰も解くことが出来なかった。そこで君王后は椎を持ってこさせて玉連環を打ち砕き、使者に言った。「秦王に、確かにお解きしましたとお伝え下さい。」
しかし肝心の王建はと言えば、あんまり賢明な王ではなかった。王建の六年(前259年)、秦が趙を攻め、斉・楚が共同で趙を救うことになった。趙は食糧が欠乏してきたので斉に穀物の援助を頼んだが、斉は拒絶してしまった。周最は王建に次のように諫めた。「趙は斉・秦に位置し、斉を歯とすれば趙は唇のようなもの。『唇滅べば歯寒し』の例え通り、趙が滅べば次は斉の番です。王はどうして穀物を惜しみ、秦を勢いづけるようなことをなさるのか!」しかし王建は彼の言葉を聞き入れなかった。
これによって趙軍の士気は落ち、長平の地で趙軍四十数万の兵は秦の白起の軍に散々に破られ、更に邯鄲が秦に包囲されることとなった。
君王后は王建の十六年(前249年)に没し、今度は王建の后である后勝が政務を執るようになった。同じ年に秦は東周を滅ぼし、以後三十年程の間に韓・趙・魏・燕・楚といった国々を次々に滅ぼしていった。そして王建の四十四年( 前221年)、とうとう秦王政の兵が斉に侵攻したのである。
それに先立ち、秦は后勝に多額の賄を贈り、斉に仕えている賓客を多数秦に送り込ませた。賓客達はやはり秦王から賄を受け、みな秦のために働くことを誓った。彼らは秦の間諜となり、王建に、秦に入朝し、他の五国と連合して秦と敵対しないようにと進言するようになった。王建は后勝や賓客の言いなりとなり、秦と和して戦の備えを怠るようになった。
その間に秦は五国を滅ぼし、遂に秦軍が臨に至ると、王建は家臣が諫めるのも聞かず、戦わずして秦に降伏してしまったのである。王建は秦軍の虜囚となって共の地に遷され、その地にあった松柏の間に幽閉されて餓死した。秦は斉を滅ぼして郡とし、ここに秦による天下統一が成し遂げられたのである。秦王政が皇帝と称し、天下を治めることになった。
斉人は王建が賓客の言いなりになって国を滅ぼしたことを恨み、次のように歌ったと言う。「お前が松柏生い茂る、共に押し込められたのも、これみなすべて客のせい。」
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