blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


田単の火牛計


bin.gif (122 バイト)の三十九年(前285年)、に侵攻し、九城を占領した。を始めとする諸侯はみなbin.gif (122 バイト)が驕慢であることを不満に思っていた。翌四十年(前284年)、昭王は将軍・楽毅を討つことを命じた。楽毅韓・魏・趙三晋との合従を取りまとめ、連合軍の総大将としてに攻め込み、済西軍を大いに打ち破った。他国の軍が引き揚げた後も楽毅は単独でshi2.gif (125 バイト)に攻め込んで陥落させ、の伝国の財宝・宝器を尽く奪い去った。bin.gif (122 バイト)は命からがらに亡命したが、楽毅はその後もに帰還せず、五年がかりでの七十余城を制圧した。彼は昭王から昌国君に封じられた。

bin.gif (122 バイト)に亡命してからも傲慢な態度で振る舞ったため、人に嫌われて居づらくなり、鄒・魯・kyo.gif (107 バイト)と亡命地を転々とした。頃襄王は家臣の悼歯(とうし)をkyo.gif (107 バイト)に派遣し、彼はの宰相として迎えられたが、変心してbin.gif (122 バイト)を弑殺してしまい、から奪った宝物や土地をと分け合った。

bin.gif (122 バイト)が殺されると、その子の法章は名前を変えて奉公人に身をやつし、kyo.gif (107 バイト)太史kyou1.gif (124 バイト)(きょう・太史kyou2.gif (135 バイト)とも)の植木係となった。太史kyou1.gif (124 バイト)の娘(後の君王后)は法章が貴人であると察して彼をよくもてなしたが、二人は次第に情を通じるようになった。

さて悼歯はその後もkyo.gif (107 バイト)に居座り続けたが、主君を殺したということでkyo.gif (107 バイト)人の評判は悪かった。幼くしてbin.gif (122 バイト)に仕えていた王孫賈は主君の仇を取ろうと決意し、市に赴いて群衆の前でこう呼びかけた。「悼歯国を乱し、王を手に掛けた。私と共に奴を誅殺しようと思う者は右の片肌を脱げ!」彼の呼びかけに四百人もの人々が応じ、王孫賈は彼等と共に悼歯を刺殺した。王孫賈の遺臣やkyo.gif (107 バイト)人は相談の結果、bin.gif (122 バイト)の遺子を捜し出して斉王として建てることにした。

法章はその時になって初めて太子として名乗り出て、斉王として即位した。これが襄王である。そして同時に太史kyou1.gif (124 バイト)の娘を王后として建てた。襄王は五年もの間kyo.gif (107 バイト)に立て籠もった。

楽毅の七十余城を制圧したが、襄王のいるkyo.gif (107 バイト)と、いまひとつ即墨の二つの都城が攻め落とせないでいた。即墨を守っていたのは田単という男である。彼は斉王の一族であったが遠縁であり、小役人に過ぎなかった。軍が都に攻め上って来た時に、田単は一族を率いて安平、次いで即墨に逃げ込んだ。他の者が次々と軍に捕らえられたのに、田単の一族だけは軍の魔手を逃れられたので、その手腕を買われて、彼は即墨の防衛軍の総大将に抜擢された。

時にでは昭王が死に、恵王が即位した。田単楽毅恵王が不仲であることを知ると、「楽毅kyo.gif (107 バイト)即墨をいつまでたっても陥落させないのは、戦争を長引かせてに居着き、の民を懐柔して自身が斉王になろうと企んでいるからである。そのための人々は楽毅が更迭されることを恐れている。」と流言を流させた。恵王は簡単にその流言を信じ、楽毅を罷免して騎劫(ききょう)に即墨を攻めさせることにした。楽毅はこの処置に怒ってに亡命してしまった。

田単は城内の兵の士気を高めるように努め、軍に対しては偽の降伏を申し出るなどして油断を誘った。そして城内の牛千頭を集め、赤い絹に竜の紋様を描いたものを着せ、角に刃をくくりつけ、尾には葦を縛り付け、油をそそいで火をつけ、夜になってから城壁に開けた数十カ所の穴から放し、その背後に壮士五千人を従わせた。所謂火牛の計である。

尾を焼かれた牛は怒り狂っての陣に突入し、敵兵をなぎ倒した。兵は驚くばかりで何も出来ず、泡を食って即墨から敗走し、騎劫はその途中で兵に殺された。田単は勢いに乗じて軍を北へ北へと追撃し、楽毅に奪われた七十余城をあっと言う間に取り戻した。そこで田単襄王kyo.gif (107 バイト)からshi2.gif (125 バイト)へと迎えて政務を執らせた。襄王はその功績を鑑みて田単安平君に封じたのである。


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