斉の歴史
田単の火牛計
王の三十九年(前285年)、秦が斉に侵攻し、九城を占領した。燕を始めとする諸侯はみな
王が驕慢であることを不満に思っていた。翌四十年(前284年)、燕の昭王は将軍・楽毅に斉を討つことを命じた。楽毅は韓・魏・趙の三晋、楚、秦との合従を取りまとめ、連合軍の総大将として斉に攻め込み、済西で斉軍を大いに打ち破った。他国の軍が引き揚げた後も楽毅は単独で臨
に攻め込んで陥落させ、斉の伝国の財宝・宝器を尽く奪い去った。
王は命からがら衛に亡命したが、楽毅はその後も燕に帰還せず、五年がかりで斉の七十余城を制圧した。彼は昭王から昌国君に封じられた。
王は衛に亡命してからも傲慢な態度で振る舞ったため、衛人に嫌われて居づらくなり、鄒・魯・
と亡命地を転々とした。楚の頃襄王は家臣の悼歯(とうし)を
に派遣し、彼は斉の宰相として迎えられたが、変心して
王を弑殺してしまい、斉から奪った宝物や土地を燕と分け合った。
王が殺されると、その子の法章は名前を変えて奉公人に身をやつし、
の太史
(きょう・太史
とも)の植木係となった。太史
の娘(後の君王后)は法章が貴人であると察して彼をよくもてなしたが、二人は次第に情を通じるようになった。
さて悼歯はその後もに居座り続けたが、主君を殺したということで
人の評判は悪かった。幼くして
王に仕えていた王孫賈は主君の仇を取ろうと決意し、市に赴いて群衆の前でこう呼びかけた。「悼歯は斉国を乱し、王を手に掛けた。私と共に奴を誅殺しようと思う者は右の片肌を脱げ!」彼の呼びかけに四百人もの人々が応じ、王孫賈は彼等と共に悼歯を刺殺した。王孫賈ら斉の遺臣や
人は相談の結果、
王の遺子を捜し出して斉王として建てることにした。
法章はその時になって初めて太子として名乗り出て、斉王として即位した。これが襄王である。そして同時に太史の娘を王后として建てた。襄王は五年もの間
に立て籠もった。
楽毅は斉の七十余城を制圧したが、襄王のいると、いまひとつ即墨の二つの都城が攻め落とせないでいた。即墨を守っていたのは田単という男である。彼は斉王の一族であったが遠縁であり、小役人に過ぎなかった。燕軍が都に攻め上って来た時に、田単は一族を率いて安平、次いで即墨に逃げ込んだ。他の者が次々と燕軍に捕らえられたのに、田単の一族だけは燕軍の魔手を逃れられたので、その手腕を買われて、彼は即墨の防衛軍の総大将に抜擢された。
時に燕では昭王が死に、恵王が即位した。田単は楽毅と恵王が不仲であることを知ると、「楽毅がと即墨をいつまでたっても陥落させないのは、戦争を長引かせて斉に居着き、斉の民を懐柔して自身が斉王になろうと企んでいるからである。そのため斉の人々は楽毅が更迭されることを恐れている。」と流言を流させた。恵王は簡単にその流言を信じ、楽毅を罷免して騎劫(ききょう)に即墨を攻めさせることにした。楽毅はこの処置に怒って趙に亡命してしまった。
田単は城内の兵の士気を高めるように努め、燕軍に対しては偽の降伏を申し出るなどして油断を誘った。そして城内の牛千頭を集め、赤い絹に竜の紋様を描いたものを着せ、角に刃をくくりつけ、尾には葦を縛り付け、油をそそいで火をつけ、夜になってから城壁に開けた数十カ所の穴から放し、その背後に壮士五千人を従わせた。所謂火牛の計である。
尾を焼かれた牛は怒り狂って燕の陣に突入し、敵兵をなぎ倒した。燕兵は驚くばかりで何も出来ず、泡を食って即墨から敗走し、騎劫はその途中で斉兵に殺された。田単は勢いに乗じて燕軍を北へ北へと追撃し、楽毅に奪われた七十余城をあっと言う間に取り戻した。そこで田単は襄王をから臨
へと迎えて政務を執らせた。襄王はその功績を鑑みて田単を安平君に封じたのである。