東周拾遺伝
子貢、五カ国に変事を起こす
端木賜(たんぼくし)は字を子貢といい、孔子の弟子の一人である。彼は衛国の富裕な商人の家に生まれた。生来口が達者なことで有名であり、いつもその事を師からたしなめられていた。
さて斉国では、重臣の田常(桓公の時に陳から亡命してきた公子完の子孫)が政治の実権を我が手に握りたいと思っていたが、高氏・国氏・鮑氏・晏氏といった譜代の臣に阻まれて果たせないでいた。そこで隣国の魯と戦争を起こして彼らの注意をそちらに向けさせ、その間に政変を起こしてしまおうと考えた。斉が魯を伐つという報を聞くと、孔子は故国が戦場となることを憂い、「斉の侵攻を止めることが出来る者はいないか?」と弟子達に問うた。すると子貢が田常を説得してみせると言う。孔子も子貢ならばと、彼に全てを任せることにした。
子貢は早速斉に赴き、田常に会見した。子貢は、「魯は城壁が薄く、君主や大夫は嘘つきばかりで、しかも人民は戦を好まないから討伐はやめたがよろしいでしょう。代わりに呉をお伐ちなさい。呉は城壁が厚く、将兵は精鋭揃いで士気も高いとのことで、誠に討伐にうってつけですぞ。」と勧める。田常は「なぜそんなあべこべの事を言うのか!」と怒るが、子貢は落ち着き払って話を続ける。「よくよく考えてごらんなさい。仮に魯を滅ぼしたとしても、政敵の高・国氏らが恩賞を受けるだけであなたの得にはなりますまい。これが強国の呉を伐ったとしたらどうでしょう。敵国に攻め込んだ兵卒は次々に死んでいき、大夫たちも戦死を免れても戦争の被害から勢力が弱まることは間違いなし。つまりあなたはうるさい大夫や民の反対を受けることなく、主君を孤立させて政権を握ることが出来るというわけです。」
田常は一理あると納得したものの、兵は既に魯国へと発っている。そこで子貢は、呉王を説得して魯を救援し斉を伐たせるので、それを機会に魯へ向けた兵を呉軍と戦わせよと助言した。田常はこれを承諾し、子貢は南方の呉王夫差のもとに赴いた。
子貢は「斉は今まさに魯を攻め滅ぼし、呉と雌雄を争おうとしています。お国の為に何としてもこれを阻止せねばなりません。また理不尽にも斉に滅ぼされようとしている魯を救うことは、立派な大義名分となります。首尾良く斉を倒せば諸侯からの信望を得ることができ、それだけ殿の覇業の成就も近くなります。」と呉王を説得したものの、彼は不穏な動きのある隣国の越を伐ってから斉を伐ちたいと言う。「それならば越の兵も呉軍に従軍させ、越国をもぬけの空にしてしまえばよろしい」と提案し、今度は子貢、越王句践を説得に向かう。
越王句践はかつて呉王夫差と戦って大敗し、会稽山に引きこもっていた。子貢は越王に呉王との会見の内容を明かし、「どうも呉王は越国を滅ぼしたがっているようだ。」と耳打ちした。越王はただでさえ呉王を恨んでいるのに、これを聞いたら激怒せずにはおれない。そこで「どうすれば夫差の鼻を明かしてやれようか?」と子貢に問うた。「呉王は生まれつき凶暴な性格で、功臣の伍子胥でさえ殺してしまいました。しかしおべっかには弱いという単純な人物です。だから殿がへりくだって斉国討伐のために越の兵を差し出せば、留守の間に越が呉を攻める気遣いは無いと安心して斉を伐ちに行くことでしょう。」
子貢は更に続けて言う。「呉王は斉に勝てば、調子に乗って晋にまで攻め上りましょう。殿は斉・晋と戦って疲弊した呉を不意打ちすれば、大勝利は間違いなしです。」越王は喜んでこの策に乗ることにした。子貢は呉に戻り、夫差に「越王も喜んで援軍を送ると申しております。」と報告した。その後彼は晋国まで足を延ばし、晋君に、斉と呉の戦いがもうすぐ起こるということ、そして場合によっては呉軍が晋を侵略するかもしれないということを知らせ、充分に軍備を整えておきなさいと忠告した。
果たして呉王は斉軍と艾陵で戦い、これを大敗させた。そしてやはり晋国まで攻め上り、黄池で相対したが、今度は呉軍が大敗してしまった。越王は敗報を聞くやすぐさま呉の都に攻め込んだ。呉王は泡を食って本国に引き返し、越軍と三度戦ったが勝利を得ることが出来なかった。越軍は呉の城門を破り、呉王夫差を捕らえて殺してしまった。越王句践はその後、呉王に代わって覇者となった。また斉の田常も、主君の簡公を殺して政権を握った。かくて魯は救われたのである。
子貢はただ一度の遊説で魯を救い、斉に動乱を起こし、呉を破滅させ、晋を強め、越を覇者にした。合わせて五つの国で変事を起こしたことになる。その後、その手腕が評価されたのか、子貢は魯と衛の宰相を務めた。一生の間で千金にもなる財産を築き、最後は斉で死んだと言う。