blueball.gif (1613 バイト)  飽くなき三国志マニアへの道  blueball.gif (1613 バイト)


思えば、三国志のマニアックな登場人物やエピソードを紹介したサイトは数あれど、
三国志について何を知っておればマニアと言えるのかという基準を示したサイトは無かったように思う。
思うところあって、その三国志マニアの基準について述べてみることにした。


項目

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【初級編】    【中級編】    【上級編】   


初級編

三国志初心者が中級者になるためにやることは、ただ一つ。『三国志演義』の大体のストーリーの流れを把握し、主な登場人物を覚えることである。別にそれは小説であってもかまわないし、コミックやテレビ番組からでもかまわない。

小説であれば吉川英治の『三国志』(講談社文庫等)がスタンダードである。コミックでは横山光輝『三国志』(潮出版社・希望コミックスor潮漫画文庫)李學仁・王欣太『蒼天航路』(講談社・モーニングKC)あたりが代表的。NHKで数年おきに再放送されている「人形劇三国志」(ビデオ版あり)や、コーエーの「三国志」シリーズなども入門用のかっこうの素材である。もちろん三国志のホームページというのもオーケー。

上記の作品のうち、『蒼天航路』は、それまで悪役として描かれていた曹操を主役に据え、三国志主用キャラクターの新しい人物像を描ききった画期的な作品である。しかし、この作品から三国志の世界に入った人にとっては、その画期的な所が問題となるのだ。取り敢えず三国志は『蒼天航路』でしか知らないよという人は、他の資料で「劉備は仁徳に厚い人物・曹操はこずるい悪人・諸葛孔明は不正出の大軍師」というような、『三国志演義』における伝統的な人物像もチェックしておいてほしいのである。

三国志にはまった中高生あたりだと、歴史の教科書の「三国時代」の項を開いてみて、あまりに記述が少ないのでガッカリするというのはありがちな事である。また、多くの人は、ガイドブックなんかを見て三国志には歴史書としての『三国志』と、物語としての『三国志演義』があり、『演義』は正史を元にして書かれた事を知るのである。そこら辺りのことに興味を持ち始めたら、いよいよ中級者へのステップアップということになる。

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中級編

三国志中級者のやるべき事は大きく分けて3つある。『演義』と正史との比較・『演義』、正史を問わずマニアックな登場人物やエピソードを知る・中国史の他の時代や物語を知る、の以上である。まだこの段階では、正史を一旦脇に置いて『演義』は『演義』でその良さを楽しむとか、枝葉のエピソードや人物は置いといて、史実としての三国時代の時代観をつかむという視点は生まれてこない。

その理由は、山のように出版されている三国志の解説本の多くが、『演義』と正史との比較とか、別に三国志を理解するうえで知ってても何の足しにもならないマイナーな人物の紹介といったことに終始しているからである。そうでなければ、「三国志に見る処世訓」とか、ビジネスに三国志を生かすといった観点で書かれているかどっちかである。正史『三国志』の翻訳(ちくま学芸文庫)を買ってしまうのもわりとありがちな事である。

一般向けの解説本は、大体がそんな調子であるし、かと言って専門書は買うのも読むのも難しい。三国志の研究は、レベル的にはここで一旦停止を迫られるのである。そこで、三国志マニアの目は自然と中国史の他の時代や、他の物語に注がれることになる。他の時代は、春秋・戦国時代や、項羽と劉邦の戦いといった『史記』に描かれている時期、他の物語は『封神演義』『水滸伝』なんかが矛先としては有力である。三国志を究めていく上では寄り道のようにも思えるが、これも大事なステップの一環なのである。

そうは言っても再び三国志に戻って来ることもある。その時に運良く、金文京『三国志演義の世界』(東方選書)なんかを読めば、物語としての『三国志演義』と、歴史書としての正史『三国志』とでは研究の方法が異なること、羅貫中によって『演義』が書かれる以前に『三国志平話』『花関索伝』なるものがあったこと、『三国志演義』を含めた白話(口語)小説は、当時のサブカルチャー(つまり今で言ったらマンガとかゲームにあたる)であり、その作者もたいした教養を持っていなかったこと、また話を面白くするために平気でフィクションを織り交ぜたりするので、『演義』と正史に違いがあるのはむしろ当然といったことに気づくはずである。そうして今までの三国志へのに接し方に疑問を持ち始めたら、上級者への道が開けてきたことになる。

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上級編

上級編の入口は、歴史学からのアプローチと文学からのアプローチの2つに分かれる。

歴史学からのアプローチは、三国志の群雄が活躍した後漢末から三国時代は、実は古代から中世への移り変わりの時期であると知る事から始まる。つまり、秦・漢王朝によって築かれた古代的秩序が、後漢末の黄巾の乱をかわぎりとした戦乱によって崩壊し、群雄による分裂の時代に入っていったのである。その余波として、貨幣経済は崩壊し、各国では土着の豪族から出た貴族達が代々幅をきかせるようになった。そして司馬炎の建てた晋の時代、中国のゲルマン民族大移動とも言うべき八王の乱(※1)によって、中国は本格的に中世の時代を迎えた。

これは、宮崎市定『中国史』(岩波全書)あたりを見ればもう少し詳しい説明が書かれている。また、マルクス主義の唯物史観(奴隷制の古代・農奴制の中世といった具合)からすれば、三国志の時代はまだ古代ということになる。しかし現在では、三国志の時代を中世の入口と見る見方が有力である。

文学からのアプローチは、実は正史『三国志』を直接参考にして『三国志演義』が書かれたのではなく、正史と『演義』の間に、正史の注に引かれている稗史(はいし)・野史の類(2つとも民間の学者が著した歴史書のこと)、戯曲、講談、『三国志平話』などの先行小説といった色々なものが挟まっており、こういった長い間の発展を経て『演義』が書かれたという事を知ることから始まる。取り敢えず『三国志平話』コーエーから訳注が出ているし、正史『三国志』の翻訳(ちくま学芸文庫)は、稗史・野史を引用している注釈も訳してあるので、これを読むことから始めればいいだろう。

三国志マニアも上級者ともなれば、これらの事を基本として踏まえた上で研究を進めねばならない。この段階に至って、始めて中級編で身に付けたマニアックな知識が生きてくるのである。また、他の時代や物語についての知識も、三国時代・『三国志演義』との比較材料として重要であることは言うまでも無い。むしろ三国志を理解するために、積極的に他の時代や物語を見ていかなければならない。先に述べた、三国志の時代が中世の入口云々といった事も、他の時代と比較して始めて分かる事なのである。

また、いたずらに正史や史実にこだわることなく、『三国志演義』のストーリーや、ステロタイプな人物像を余裕をもって楽しめるのも上級者の特権と言えよう。一応、安能務『三国演義』(講談社)はそういった観点から書かれている。改めて岩波文庫の『三国志』を読んでみるのもいいだろう。

ここから研究を先に進めようとすると、読む本も一般向けから学術書になり、漢文史料や白話文(昔の口語文)を直接読むということも充分有り得るが、これも物事を究めていく上での試練というものである。

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以上が、三国志マニアの基準についての私の考えである。蛇足ながら付け加えておくと、この文章は、三国志マニアは中級レベル程度で満足しておってはいけないとか、初心者は中級レベルになるために必ず努力しなければならないとか、そういった事を言っているのではない。(もちろん中級レベルに留まろうがどうしようが個人の自由である。)あくまでも三国志マニアの基準について、段階別に提示しただけである。

また、上級編の基準が低すぎるとか、高すぎるというような反論もあるだろう。そういった意見や反論があれば、こちらまでお寄せください。


※1 八王の乱とは、晋の皇族による勢力争いから起こった内乱である。(西暦290年〜306年)諸王がこの時に、五胡と総称される騎馬民族を援軍として中国内地に入れたのだが、彼らは諸王の統制を離れて華北に彼らの国々を建て、晋王朝や漢民族の貴族たちを南方に追いやった。後に中国を統一した隋・唐の皇帝たちも、この五胡の一つ、鮮卑族の貴族の出身ではないかと考えられている。