blueball.gif (1613 バイト)  隋唐演義  blueball.gif (1613 バイト)


2 羅芸一家との出会い


さて秦叔宝はその後、二賢荘単雄信の屋敷で養生を続けることになった。体が良くなった後も、秦叔宝単雄信の屋敷に滞在を続け、彼と武芸の腕比べをしたり、兵法のことを語り合ったりしていたが、さすがに故郷で待つ母の顔を見たくなった。単雄信も彼の親孝行ぶりを知っているので引き留めはせず、充分な路銀を与えて見送ったのであった。

秦叔宝p角林(そうかくりん)という土地で宿を取ったが、そこでまた事件に巻き込まれることとなった。その宿の主は張奇と言ったが、土地の有力者であり、裏で様々な悪事を行っていた。そこへやって来たのが、捕盗官(盗賊を捕らえる役人)の身なりをした秦叔宝張奇は自分を摘発に来たものと思いこみ、先手を打って土地の官兵を呼び込み、彼を「偽役人だ!」と言いがかりを付けて捕らえさせてしまった。言いがかりを付けられて怒った秦叔宝は、その時に張奇を殴り殺してしまい、殺人の罪で州の刺史のもとに連行された。

その事を知った単雄信魏徴は、懸命に彼の弁護に努めた。童佩之・金国俊という旧知の役人の協力も得て、秦叔宝は罪を減ぜられて、幽州に流罪ということになった。

彼は幽州の総管である羅芸のもとで兵役を勤めることになったが、この羅芸、元々は北斉の将軍であった。北斉が滅びた後もに従うことを良しとせず、幽州を占拠し続けた。朝も羅芸の兵力が強大であったことから、そのまま彼に官職を与えて幽州を支配することを認めたのである。

羅芸は直々に秦叔宝を審問することにしたが、彼の姓名、出身地と問うているうちに深く考え込み始めた。というのは、羅芸の妻は北斉の将軍・秦彝の妹にあたり、秦叔宝がその一族ではないかと思ったからである。果たして彼に出生の事を問いただしてみると、「北斉武衛将軍秦彝寧氏との間に生まれた子で、幼名は太平郎と申します。」と答えるではないか!羅芸も自分が秦叔宝の叔父であることを告げ、妻の秦氏・幼い息子の羅成とも引き合わせ、彼を羅芸直属の将として待遇することにした。    

秦叔宝幽州の将となった記念に、羅芸配下の十万の兵の前で演武をすることになった。従弟の羅成も勉強をさぼって見学に来た。秦叔宝は双kan2.gif (136 バイト)や槍を自由自在に振り回し、皆から喝采を受けた。次に「空を飛ぶ鷹を射よ。」と羅芸から命じられたが、実は彼はあまり弓術が得意でない。羅成は「従兄に恥をかかせるわけにはいかない!」と思い、小弓を持ち出してきて、秦叔宝が射たのと同時に彼もこっそりと同じように鷹を射た。秦叔宝の矢は鷹の羽を射ただけであったが、羅成の矢は見事に急所に命中した。皆は秦叔宝が命中させたものと思い、やはり彼の武芸を褒め称えたのであった。

その後秦叔宝は一年余り幽州に滞在し、羅芸から我が子のような扱いを受けたが、さすがに故郷の母や妻のことが気になりだした。そこで羅芸一家にお別れの挨拶をし、山東に戻って母の寧氏、妻の張氏と再会を果たしたのである。

帰郷してから、秦叔宝山東の総管・来護児に仕えることになった。彼は来護児にも気に入られたが、ある日長安越公楊素に誕生日の祝いの品を届けてくれと命じられた。途中の少華山では山賊の親玉になっていた王伯当と再会し、また永福寺では、唐公李淵の娘婿である柴紹が滞在していた。三人は互いに打ち解けたが、秦叔宝李淵の命を救った恩人であるとわかると、柴紹は使者を太原に派遣して義父にその事を知らせた。

楊素の屋敷に至った秦叔宝は、李靖という人物と出会い、また楊素の子・楊玄感に仕えていた李密とも再会した。役目を果たして開放感を得た秦叔宝は、ちょうど元宵節の時期だったので王伯当柴紹長安の街に繰り出したが、そこで若者が郎党を率いて美女に狼藉をはたらいているところを目撃した。秦叔宝は悪漢達に戦いを挑み、親玉の若者を双kan2.gif (136 バイト)で撃ち殺したが、その若者は権臣・宇文述の四男である宇文恵であった。宇文氏の兵が都中に派遣され、秦叔宝の一党は間一髪で都から逃げ延びた。

その頃、宮中でも騒動が持ち上がっていた。文帝は年老いて病床に伏せっていたのだが、その看病をしていた宣華夫人を、太子の楊広が手込めにしようとしたのである。今まで彼は父母の前で猫をかぶっていたが、ようやく本性を現し始めたのである。宣華夫人が事の次第を訴えると、文帝は怒り狂い、楊広から太子の位を取り上げようとした。「これはまずい」と感じた楊素宇文述は、兵を宮中に引き入れて文帝を監禁した後に殺害し、元の太子である楊勇をも殺してしまい、楊広を皇帝として即位させた。これこそが悪名高き煬帝である。

楊素宇文述は功臣として厚く遇されたが、煬帝には楊素の態度が大きいのが気にくわない。その楊素が病没すると、何かしらの開放感を得て、煬帝は早速各地で美女狩りを行わせ、また洛陽顕仁宮という離宮を造らせた。こうして煬帝の暴虐が始まり、天下は再び動乱への道を歩み始めたのである。


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