blueball.gif (1613 バイト)  隋唐演義  blueball.gif (1613 バイト)


8 武韋の禍


高宗は在位三十四年にして崩御し、太子の英王が代わって即位した。これが中宗である。しかし政治の実権は母である武后が掌握していた。ある時中宗は、皇后・韋氏の父である韋元鼎を侍中の位に就けようとしたが、斐炎武后の寵臣)が強く反対した。中宗は怒り、「何たる無礼!朕は天子なるぞ。例え韋元鼎に天下を与えようと、それは朕の勝手というものじゃ!」

この事は即座に武后の知るところとなり、中宗は「天下を韋元鼎に与えようとした」ことを罪に問われ、退位を強要された。代わって中宗の弟・予王睿宗として即位した。武太后は破戒僧・薛懐義や甥の武三思のほかに張易之・張昌宗という美少年の兄弟を寵愛するようになり、彼らとともに歓楽を追い求めた。また来俊臣・索元礼・周興といった酷吏を登用し、密告を基本とした恐怖政治を敷いた。彼らは太后の意を受け、皇族や大臣であろうと太后に逆らう者は、容赦なく捕らえられ、残忍な刑罰によって殺されていった。その一方で武太后狄仁傑・宋m・安金蔵といった名臣も登用した。

李勣の孫で眉州刺史李敬業武后の専横に怒り、志を同じくする者たちと兵をまとめて反乱を起こした。この時駱賓王(らくひんのう)という人物が檄文を書き、これを読んだ武后が「千古の名文じゃ!この者をなぜ今まで登用しなかったのか?」と惜しんだと伝えられる。しかし李敬業の乱は短期間で平定され、駱賓王も戦乱の中で行方不明となった。宰相・狄仁傑はこれを機に来俊臣の一派が多くの無辜の人々を殺傷してきたことを武太后に訴えた。武后もこれ以上来俊臣らをかばいきれず、彼らは尽く処刑された。

李敬業の乱の鎮圧により、機が熟したと見て取った武太后は、遂に睿宗を廃して自ら皇帝となり、聖神皇帝と称して国号をと改めた。そして武三思・武承嗣ら一族の者や、愛人の兄弟を重職に就けた。薛懐義は傲慢な態度を取るようになり、女帝の愛娘・太平公主の計略によって撲殺されてしまった。この頃、武則天は民間に肉食禁止令を敷いた。しかし秦懐玉は双子の孫が生まれたことを記念して宴を開き、肉饅頭をこっそりと客に振る舞った。

客の一人である傅遊芸杜蕭はこの事を女帝に密告した。しかし武則天は自ら秦懐玉を審問し、「お祝い事だから」と特別に罪を許し、「今後はもっと招待する客を選ぶがよい。」と声を掛けた。傅遊芸杜蕭はこれによりすっかり面目を失った。この直後、寧夫人が世を去り、母を追うように秦叔宝も亡くなった。程咬金も既にこの世の人ではなく、凌煙閣二十四功臣は全て亡くなったことになる。

その後しばらく太平の世が続き、宮中では武則天武三思兄弟、あるいは娘の太平公主・安楽公主中宗の娘)、才媛として知られた上官婉児といった人々とともに遊び暮らした。張柬之ら五人の忠臣は氏の専横を快く思わず、廃帝となった中宗を担ぎ上げ、宮中に兵を引き入れて張易之・張昌宗の兄弟を殺し、武則天上陽宮に軟禁し、中宗を再び帝位に就けて王朝を再興させた。武則天は衝撃のあまり病となり、間もなく息を引き取った。享年七十八歳であった。しかし氏一族の中で、武三思中宗韋后に取り入って、処刑を免れた。

張柬之らはそれぞれ王に封じられて五王と称されたが、武三思の讒言により、五人とも謀反の罪に問われて処刑されてしまった。

それ以後、韋后武則天に倣って実権を掌握した。彼女はやはり武三思・太平公主・安楽公主・上官婉児といった人々と遊び暮らした。そのうち韋后は夫が邪魔になり、中宗を毒殺してしまった。そして温王李重茂を新帝に立てようとしたが、睿宗の第三子・李隆基は叔母の太平公主と結び、宮中に乗り込んで韋后の一党を尽く誅殺し、父の睿宗を復位させた。李隆基はその功績により、皇太子となった。

太平公主は幼い頃から兄の睿宗と仲が良く、それを頼みにして専権を振るうようになり、太子の李隆基と対立を深めた。太平公主はしきりに兄に讒言し、太子を失脚させようとしたが、張説・姚崇といった忠臣が太子をかばい、逆に自ら李隆基に譲位して太上皇となった。この李隆基こそが有名な玄宗である。この時彼は二十八歳であった。玄宗は即位するや張説・姚崇・宋m・張九齡といった名臣を登用して国政を一新し、謀反を企んでいた太平公主の一党を滅ぼした。

玄宗の即位前半は姚崇・張説ら名臣に支えられて善政が敷かれたが、やがて彼らも次々と没していった。彼らに次いで宰相となったのは李林甫である。彼は有能ではあるが陰険で、自分の地位を脅かす恐れのある人物を次々と陥れた。

玄宗は在位が長くなるに連れ政務に興味を失い、奢侈に耽るようになった。最初彼は武恵妃を寵愛したが、彼女は早くに亡くなっててしまった。玄宗はお気に入りの宦官・高力士に命じて、後宮に入れるべき新たな美女を捜させることにした。

さて、その美女とは一体誰であろうか?それは次回のお楽しみ。


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