blueball.gif (1613 バイト)  隋唐演義  blueball.gif (1613 バイト)


7 玄武門の変


さて秦懐玉は岳父・単雄信の柩を埋葬するために二賢荘に向かったが、途中で父の旧友で、既に隠居していた賈潤甫、そして以前単雄信に世話になったという関大刀という男(彼は関羽の子孫である。)と出会い、ともに単雄信を弔うことにした。彼ら一行が二賢荘に着いた時、羅士信鄭王王世充によって騙し討ちに遭ったという驚くべき情報が入った。王世充の滅亡後、に流刑されることになったが、護送の途中で脱走し、定州に逃げ込んだのである。そしてその付近を守備していた羅士信をおびき寄せて討ち取り、定州を占拠してに謀反を起こしたと言うのである。

彼ら三人は羅士信の仇を討つことを決意し、まずは志願兵を装って定州王世充の幕下に入った。そして秦懐玉王世充に近付くや、すぐさま短剣で彼の首を斬り、関大刀らとともに賊軍を制圧した。そうしてから二賢荘に戻って単雄信の遺体を埋葬し、長安にこの一件を報告したのである。長安の宮廷はこれによりしばらく悲しみに包まれることとなった。

それから三年、に反抗する群雄も李世民にあらかた討ち取られ、天下に太平が訪れた。その頃突厥では啓民可汗が死去し、趙王が後を継いで正統可汗と号し、竜虎関に本拠を置いた。北方では羅成・竇線娘夫婦が吐谷渾(とよくこん)と戦っていたが、正統可汗の即位を聞くと、彼に会談を申し入れて吐谷渾との同盟を取り止めさせた。その際に蕭皇后が中原の風土を懐かしみ、羅成らとともに長安に帰ることになった。

その長安では、李世民と、李建成・李元吉(それぞれ李淵の長男と三男)とが対立を深めていた。二人は李世民が軍功によって権勢を得ていくのが面白くなかったのである。両派はともに兵を集め、一触即発の状態にまでなった。それを聞いた高祖は悩み憂い、三人の息子達を参内させて言い分を聞こうとしたが、逆に両軍は宮城の外、玄武門付近で小競り合いを始め、太子・李建成長孫無忌李世民の正妃の兄)に、李元吉尉遅敬徳に討ち取られた。これが世に名高い玄武門の変である。

高祖李世民を太子に任じて政務を任せ、数カ月後に李世民は父から譲位されて皇帝として即位した。これがの第二代皇帝・太宗である。その間隙を突いて突厥のもう一人の支配者・頡利可汗(きつりかかん)が攻め寄せて来たが、太宗秦叔宝・程咬金・尉遅敬徳ら六将を率いて頡利可汗を恫喝し、突厥軍を退却させたのであった。

さて更に月日が経ち、その間に突厥の臣下となり、上皇の李淵も亡くなって、太宗の治世のもとで太平が続いた。ある日太宗は夢の中で老竜に、「私は天帝の命に背いたために、魏徴に処刑されることになりました。どうか魏徴を取りなして私を助けてください!」という訴えを受けた。魏徴は現世の官僚であるとともに、冥界の官吏をも勤めていたのである。太宗はともかく魏徴を碁の相手として召しだして老竜の事を取りなそうとしたが、碁の最中に魏徴は居眠りを始め、夢の中で老竜を処刑してしまったのである。

それ以来太宗は老竜の祟りにより病に伏せった。秦叔宝尉遅敬徳が宮門の番をしている時だけは病状が良くなったので、彼ら二人の絵を門に貼り付けて魔除けとしたが、とうとう太宗は息を引き取った。その際に魏徴は主君に、彼の旧友で冥界の役人を勤めているkaku.gif (114 バイト)(さいかく)への紹介状を手渡しておいた。太宗は老竜と弟・李元吉の亡霊の訴えによって地獄に落とされたのであったが、kaku.gif (114 バイト)は両人の訴えを取り下げ、更に現世の人々の寿命を記した名簿を書き換えて、太宗の寿命を十年延ばしておいた。太宗は十人の閻魔王に引き合わされ、その後に地獄を見物して、無事に現世に戻って来れた。

太宗は皇后の長孫氏を早くに亡くし、晩年は武照という美少女を後宮に入れて寵愛した。この武照、実はかの奸雄・李密の転生である。魏徴・柴紹・尉遅敬徳といった建国の功臣達が次々と死去、あるいは引退していく中で、薛仁貴ら若い武将達が頭角を現しつつあった。彼は太宗高麗を征伐するために親征した際に、目覚ましい働きをして主君にその武勇を賞されたのである。

太宗長安に帰還後、功臣達が次々と亡くなっていくのをはかなみ、天下第一の画家・閻立本に命じて凌煙閣秦叔宝を始めとする二十四人の功臣の絵を描かせた。そして自身も再び病の床に就いた。皇太子の晋王李治は父の側について看病をしていたが、その時に武照と出会ってその美貌に惚れ込み、二人は不倫の関係を持つようになった。太宗は二人の不倫を知らなかったが、「三代の後、姓の女帝が立つ」という予言に不吉なものを感じ、武照を宮中から追放し、感業寺に放り込んで尼にしてしまった。

そのしばらく後に太宗の容態は悪化し、長孫無忌李勣cho2.gif (124 バイト)遂良に後事を託して崩御した。そして太子の李治高宗として即位したのである。高宗武照を還俗させて宮廷に呼び戻し、昭儀の位を与えた。彼女はそれに飽きたらず、同じ高宗の妃である王皇后蕭淑妃を陥れ、自らが皇后となった。長孫無忌cho2.gif (124 バイト)遂良武氏を皇后とするのに反対であったが、李勣が賛成を表明したことにより、武照は皇后となることが出来た。彼女は皇后となるや、気の弱い夫に代わって政務を取り仕切り、甥の武三思感業寺時代に知り合った怪僧・薛懐義を重用した。そして宰相の長孫無忌をも無実の罪を着せて葬ってしまった。

同じ頃、李勣薛仁貴の出征によって遂に高麗が滅亡した。宮中では政争が絶えないが、宮廷の外では太平が訪れていたのである。武后は如何にしてを断絶させ、女帝となるのであろうか?それについては次回のお楽しみ。


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