渡刈村の医学生が見たB-29撃墜事件メモ

戦後80周年記念

1、まえがき

・メモ公開の経緯  2025.10.27 豊田市渡刈町の服部歯科医院の服部昌義様から生前父・服部義明が
大切に保管していた『松平村 B-29撃墜事件の体験メモと拾得品』を私に提示いただいた、
当時・80年前 父は渡刈村(注1)の医学生で帰省中に松平B-29事件を目撃したという。その内容は貴重であり、
戦後80年を記念してメモを公開し事件の背景を後世に伝えるために遺族と相談して公開することになった。
 注1)渡刈村・愛知県碧海郡上郷村大字渡刈・現在の愛知県豊田市渡刈町

2、昭和20年1月3日(1945.1.3)の 松平B-29事件の概要

・太平洋戦争末期の1945年1月3日午後3時頃、名古屋市の軍需工場を爆撃し帰還中のB-29 7機編隊の先導機を
名古屋海軍航隊の戦闘機”飛燕”が、現在のみよし市上空で待機し急降下体当たりで撃破、B-29は煙を吐きながら
豊田市南部を飛行しながら村積山上空あたりで左旋回で松平村の山中に墜落炎上、その状況を西三河の多くの人が
見た見たと語り伝える。墜落地点は、現在の”豊田市坂上町の”そだめ”の山中、乗員11名焼死、尾部銃手1名が
墜落直前に脱出し落下傘で炮烙山麓へ着陸捕虜となった、当時、近郷の人が大勢見物に出かけた。
残骸は軍が回収し、岡崎市と名古屋市で戦意高揚のために展示した。
・松平B-29事件の詳細は、HP 『B-29の追憶』をご覧ください、

3、渡刈村の医学生・服部君のB-29体験メモおよび現地取得物と墜落後の新聞記事

体験メモ・その1

1945.1.3 午後、渡刈村でB-29の撃墜の状況を目撃した様子の1月7日付のメモ、
内容は、撃破した状況を事細かく記述し、通説は、飛燕戦闘機1機での撃破を称えるが、実際は複数の友軍機も追撃した様子が伺われる。

私・編集者は見た見たという多くの方に当時の撃墜の状況を尋ねたが、撃破した地点はどこか表現がまちまちで定まりませんでした、
このメモはその理由を明らかにしています、当時、下山村でも日本の戦闘機が墜落しパイロットがさかさまで田んぼに突き刺さり足だけ出ていたという証言もある。


体験メモ その2

このメモは、撃墜2日後の1月5日に墜落現地(東加茂郡松平村大字そだめ)へ出かけ、
見学記念として取得した物について説明する、 取得物はジュラルミンの破片、赤い布製の袋など、
医学生・彼が訪ねたのは撃墜2日後で、近郷の多くの方が弘法さんのお参りの行列のように”そだめ”をめざしたと伝えられ、 残骸は軍が近くの畑へ運び出し残骸の山がいくつも出来たという村人の確かな証言がある、


拾得物・赤色布製の長い袋

この袋は何か?、医学生は早速翻訳にとりかかったようだ、


拾得物・赤色布製の長い袋、英文7項目拡大

内容は、下記の翻訳メモをご覧ください、


英文7項目の翻訳メモ

1から4項目の翻訳準備


5から7項目の翻訳準備


1から7項目の翻訳完了、

AI 翻訳でおさらすると、
1.Unfurl sail
セールを展開する
2.Attach forward guy line to "D"ring at bow,
前方ガイラインを船首のDリングに取り付ける
3.Fit wooden thwart.
木製スワートを取り付ける
4.Attach lwer half of weater apron,
 ウェザーエプロンの下半分を取り付ける
5.Fully extend mast and and fit to thwart on spot indicated on weathrapron,
 マストを完全に伸ばし、ウェザーエプロンに示された 位置にスワートを取り付ける
6.Attch and adjust side guy lines,
 サイドガイラインを取り付け、調整する
7.Sailing instructions printed on sail,
 セールに印刷されたセーリングインストラクションを確認する

これらの内容は、搭乗機が被弾、故障などで太平洋着水時にB-29乗員を救命するために 使う装備品を入れた袋に書かかれた操作手順と思われる、

拾得物・その他

左・軽合金の破片

右・何かの破片、弾丸の破片のように思われたが、B-29装備の機銃の弾丸は12.7mmと20mmであり該当しない。


4、医学生1月5日墜落現地へ・自転車で15Km

当時、渡刈村から足助街道(R39)へは、明治用水の旧水源堰堤の上を自転車を引いて渡り、 巴川を渡り、北上し九久平過ぎ、王滝渓谷入口を過ぎ、最初の道を右折し半里ほどの坂を上り”そだめ”の集落をめざしたと思われる。


墜落当時の配置図(坂上町誌より)
この図より機体は墜落前にプロペラなど破損してばらばらになって頭から墜落炎上した。
機体の前半分は跡形もなく、乗員4名の遺体も焼失し確認されていない。


5、大事に保管されていた当時の新聞記事

体当たりで撃墜されたB-29の残骸・垂直尾翼のみが原型をとどめる、
尾翼の部隊識別記号Z□22を調べた結果、所属部隊は73BW(サイパン島イスリイ飛行場の部隊)500BG、822BSであり、 該当機は、Boeing社製造の Boeing B-29 Superfortress 1620台中の1台で機体No.224766あることが判明した。



昭和20年2月9日の毎日新聞記事、
B-29に体当たりした代田中尉の猛勇を称える記事、立派な親孝行としみじみ語る母親を紹介している、当時の世相を今に伝える。

代田中尉は体当たりのあと落下傘で脱出し,西加茂郡保見地内の山林に落下したが 、受傷のため翌4日に戦死されました。



陸軍省は、昭和20年2月8日付けで代田中尉他2名に感謝状



2016.4.29の中日新聞記事、
元 医学生は晩年・91歳当時も松平B-29事件に関心を寄せ新聞記事を切り抜き保存した。
墜落現地は、このような『B29友好碑』と搭乗員の名簿などの掲示板をたて平和学習や訪問者に戦史を伝える。



6、赤色の布袋から、B-29乗員の救命配慮に驚く!

左記の二つの写真提供者は、部隊識別記号Z□22のニックネイム The Leading Lady(主演女優)のオリジナルクルーのEdwin D.Lawson氏です、 彼は出撃前日の飛行場警備中に日本軍の爆撃で破片が足に当たり1月3日の搭乗を免れ生き延びた、
彼らは、B-29の搭乗訓練で生きて帰れるための訓練を受け出撃している。 この写真で太平洋に着水しても1週間生き伸びるための装備品・食料、水、医薬品などをご覧ください、

B-29 海上不時着時の救命設備の写真下の英文コメント
1、グループ用装備の写真、左側救命設備
(レーダーコーナー反射板とコーナーの救命胴衣)



2、個人用装備の写真
「一人乗り」救命いかだおよび救命設備が写っている。


この説明図は、着水時に無事に救命いかだに乗り移るための手順、注意事項を図解する(出典:B-29操縦マニアル)
B-29操縦マニアルを読み解くと、徹底した操作手順の訓練、墜落時でも生延びるための訓練をして出撃している。
洋上には、彼らを救助するための複数の潜水艦、戦艦、救命艇が待機した。


7、The Leading Lady 記念写真など・ご参考

機体に大きく表示されるThe Leading Lady(主演女優)は部隊識別記号Z□22のニックネイムで、そのオリジナルクルーの記念写真です、提供は、Mr Kennth Fine で、彼の父はオリジナルクルーの一員でしたが、 出発直前に交代し記念写真を持参して復員した。この写真は出陣を記念して撮影したと思われます。左から一人目が生存者のハロルド ヘッジス



唯一の生存者・ハロルド ヘッジスの情報
この写真は、GHQ調書に添付されていた新聞記事のコピーです、
彼の出身地のオクラホマでは1945.9.13木曜日の新聞でジャップ シティーボーイを銃床で殴打 の 見だしでHedgesの生還を報じた
オクラホマ8丁目のMis Zora Hedgesの息子22才のHarold T. Hedges軍曹は、 ”人参”を盗んでジャップに罪を問われた時に銃床で殴られた腕の傷をUSの病院船上で士官に見せた。 その士官は海軍大佐のS.T.Allison (左)USNRでその艦の診療所の所長と Aexandoria Vaの上級医務士官の海軍大佐 F.L.MacDanielである。
Hedgesは、1月3日名古屋上空でジャップの戦闘機の自殺行為(体当たり)で撃墜されたB-29の尾部銃手であった。 彼の母は解放の1945.8.29火曜日に公式に通知を受け取った。


この名簿は、連合軍のGHQ調書から搭乗員を確認し編集した、B-29の定員は通常11名、 当日は Marcos A.Mullen大佐が敵前視察のために同乗12名となった、
赤字は生存者の尾部銃手のHarold T. Hedges軍曹、


8、渡刈村の医学生服部義明さんの紹介

・略歴
  出生:大正14年10月26日・(1925〜2021)
  昭和 18年3月 金沢大学医学専門部入学
  昭和 23年4月 金沢大学医学専門部卒業
  昭和 29年1月 服部医院開設
  平成 16年12月 閉院
  平成 24年5月 春の叙勲で『瑞宝双光章』を受け、陛下の拝謁を賜る
  令和 3年12月6日 自宅にて逝去・96歳
 ・社会奉仕
  畝部小学校、上郷中学校、畝部保育園、柳川瀬保育園の校医
  豊田市高齢者施設 豊寿園の嘱託医 勤務
 ・趣味
  読書、写真、パソコン(回顧録を編集保存)など

9、編集を終えて思うこと

医学生の残したメモを紐解くと、米軍は搭乗員を『B-29操縦マニュアル』に基づき訓練し、 被弾、故障、火災時などが生じ太平洋に着水しても生還するために、救命装備、医薬品、食料、水など限りない努力と配慮がなされた、

一方、当時の日本軍は、15歳の少年をしごき特攻に駆り立て、南方の前線では多くの若者が玉砕し、補給を絶たれ部隊の多くが病死、餓死した。 当時の母親の嘆きが想われてならない。

身近でお世話になった、服部義明氏に生前にお会いし、その後わかったB-29事件の真相を報告し、往時を偲び語り合えなかったことが残念でならない。

10、参考文献など、

 ・私が調べ編集したHP『B-29の追憶』
 ・B-29操縦マニュアル・米地陸軍航空隊編、光人社 1999.7.30 発行
 ・ボーイングB-29 No.52 19955・文林堂発行
 ・B-29 OB Edwin D Lawson 提供写真
 ・交代で生存した搭乗員の息子 Kenneth Fine提供写真
 ・豊田市坂上町史,など



松平B29事件を詳しく知りたい方は、 『B29の追憶のHP』をご覧下さい

爆撃機B29を詳しく知りたい方は、 『B29写真博物館のHP』をご覧下さい

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