〔HP開設1周年記念特別企画〕・・・2000.3.29初版・・・2020.8.16 最終更新・・・ Home "B-29 English"

超・空の要塞 B-29の追憶

第4章 B-29情報&リンク集


B-29:米陸軍航空隊重爆撃機(第2次世界大戦)


1.B-29関連情報

1) 新聞情報など

(1)愛知学院大・草間教授が記念碑/2001.9.18中日朝刊


1945.3.10東京大空襲で、茨城県伊那町狸穴(まみあな)に墜落したB29や生き残った米軍搭乗員を、幼少時に目撃した愛知学院大草間教授(64)=日進市=が記念碑「戦争の悲惨さを忘れず世界平和を願うシンボルに」と私費で伊那町に「B29墜落平和の碑」を建立した。

草間教授は、「B29墜落米兵を救った日本人」(総論社)の著者です。

(2)エノラ・ゲイ復元作業開始/2001.9.6(木)中日夕刊

新聞記事をご覧下さい。


(3)よみがえった幻の戦闘機/2001.12?.19?中日


三菱重工業は18日、名古屋航空宇宙システム製作所(愛知県豊山町)で復元作業した第二次世界大戦末期のロケット戦闘機「秋水」を、報道陣に公開した。

秋水 高温高圧ガスを動力に、高度10000mまで3分30秒で到達する。高空からの攻撃で、第二次世界大戦時に旧日本軍がなすすべもなかったB29を迎撃するため、三菱重工業が開発に着手し11ヶ月で、終戦直前の1945年7月の試験飛行にこぎ着けた。しかし実戦には間に合わず「幻のロケット戦闘機」と呼ばれる。

毎週月曜日、同製作所資料室で一般にも2002年1月から公開中、予約が必要。 0568-28-1112




(4)B29墜落碑を米機関紙紹介


太平洋戦争末期の1945年1月、米軍の爆撃機B29が愛知県の旧松平(現豊田市坂上町)の山中に墜落し、乗員10人が死亡した。現場には10ほど年前に、地元の人が慰霊のために木製の記念碑を建立。この碑の存在を豊田市のアマチュア航空史研究家が米オハイオ州の航空博物館に伝えたところ、最近発行の同博物館「フレンズ・ジャーナル」夏号デ紹介された。

紹介者:豊田市保見ケ丘 会社員 丹羽八十氏




(5)エノラ・ゲイ無線士死亡/2003.2.7 中日夕刊

新聞記事をご覧下さい。


(6)陸士4名がB-29体当たり無名戦士之墓を供養・『偕行』情報

『偕行』:旧陸軍士官学校のOB誌・平成16年5月号60Page関係分転記
情報提供者:愛知県安城市東端町在住の鈴木一之氏(陸士60期)、
同令室 鈴木チヅ子氏(編集者恩師)

旧陸軍士官学校57期同期生会で組織する『無名戦士之墓に応える会』は2月29日、 今井五十二世話人代表(80)ら4人が紀伊長島町の同墓を訪れて墓参りをし、同期の故阿部司郎、日比重親両中尉の墓を建立して世話をしてくれたことに感謝して奥山始郎町長と同町遺族会(北村博司会長)に感謝金30万円を送った。

同町を訪れたのは、今井代表=東京都のほか、小島千海さん=横浜市、前田恒夫さん=津市、小林宇三郎=伊勢市。

『無名戦士之墓』墓前で奥山町長をはじめ、同町遺族会関係者、町民らも参列して法要を営み、両中尉の冥福を祈った。

今井代表は『陸士卒業以来60年ぶりに共に学び共に戦った青春の日々に思いを馳せ、感無量』 だと述べた。

同期生等は、墓を無償で建立した同町の石材店・山口茂さんや、遺体を収容した同町本町東正巳さん、遺体を運んだ漁船の元船主東才八さんら地元関係者宅を歴訪し、長年墓を世話してくれたことに感謝の気持ちを伝えていた。

同墓は、太平洋戦争末期の昭和20年6月5日、神戸空襲から帰途するB29爆撃機に紀伊長島町沖で体当たりして撃墜、戦死した日本陸軍戦闘機乗員2人を身元不明のまま町民が埋葬し供養していた。昨年本誌報道をきっかけに判明した。

旧陸軍士官学校で共に学んだ児島さんは、両中尉と同じ第111戦隊に所属し、エンジントラブルで 10分ほど遅れて明野基地から出撃したが、僚機も敵機も見つけられないまま、燃料切れのため基地に帰還したと、感慨深げに話していた。

”写真は墓前法要の陸士同期生の『応える会』代表と奥山町長ら=紀伊長島町営墓地”



(6)被爆米兵2人の遺影を登録 元捕虜ハロランさん代理で

情報:Yahoo News 社会・共同通信 2004.6.21Web news関係分転記

 登録する被爆米兵2人の遺影を手にする元捕虜レイモンド・ハロランさん=21日、広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館    太平洋戦争末期、日本上空で搭乗していたB29爆撃機が撃墜され、捕虜となった元米兵レイモンド・ハロランさん(82)=米カリフォルニア州在住=が21日、広島で被爆死した2人の米兵捕虜の遺族代理として、広島市の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪れ、2人の遺影を登録した。  登録されたのは、元海軍兵ノーマン・ブリセットさん=当時(19)、マサチューセッツ州出身=と、元陸軍兵ジュリアス・モルナーさん=当時(20)、ミシガン州出身=の遺影。  遺影登録は遺族やハロランさんと親交のある広島市西区の歴史研究家森重昭さん(67)の呼び掛けで実現。米兵捕虜の遺影登録は計5人となった。  森さんによると、ブリセットさんとモルナーさんは1945年7月28日、別々の爆撃機で出撃し、砲撃を受け墜落。広島市中心部の中国憲兵隊司令部などに拘束され、被爆した。(共同通信) [6月21日19時36分更新]

《写真の説明文》 登録する被爆米兵2人の遺影を手にする元捕虜レイモンド・ハロランさん=21日、広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館



(7)エノラ・ゲイ出撃基地テニアン島で追悼式典

情報:2005.8.6中日新聞夕刊関係分転載

  1945年8月6日エノラ・ゲイが広島に原爆を投下した60年後の同時刻に、テニアン島でも追悼式典が行われた。 中日新聞の夕刊をご覧下さい。

エノラ・ゲイ:
B-29原爆搭載機

B-29 Serial No:
45-MO-44-86292

Victor No: 82

Aircraft Name:
Enola Gay

Crew No: B-9

Airplane Commander:
Robert A.Lewis



(8) B29機密、旧日本軍入手 本土爆撃激化前に旧満州で

asahi.comトップ>社会>2005年08月26日17時25分

第2次大戦 で米軍による国内への空襲が本格化する直前、旧日本軍が新型爆撃機B29の編隊の運用方法などの 機密情報を入手していたことが明らかになった。 愛知県立大の倉橋正直教授(中国近現代史)が中国・吉林省の公文書館にあたる「档案館 (とうあんかん)」が保存していた関東軍憲兵隊の内部文書を入手、分析した。

1944年12月に旧満州国で撃墜され、捕虜になった搭乗員らが、 照準合わせは先頭の機がすることや帰路は電波誘導で最短距離を飛ぶなどの機密事項を詳述していた。 この内部文書は関東軍憲兵隊がソ連参戦で新京(現在の長春)から撤退する際、 焼却しきれなかったものを同館が保管していた。

文書は44年12月7日と同21日、旧満州国の奉天(現・瀋陽)にあった満州飛行機の工場に対する 空襲の際に撃墜された2機の搭乗員計12人の調書など。 B29は当時、中国・四川省の成都を出撃拠点にしていた。 調書によれば、午前3時に出撃した機は約1500キロ飛行した後、高度1万5000フィート (約4570メートル)で12機ごとに編隊を組み、攻撃目標に向かった。 イニシャルポイント(IP)と指定された地点で先頭の機が照準器の作動を始め 照準合わせのため時速約320キロの比較的低速で10分間程度の直線飛行を続ける必要があった。 攻撃目標に達したら12機が一斉に爆弾を落として左回りに方向を変え、 成都からの誘導電波で一直線に帰路についた――など、爆撃の手法が詳細に語られていた。

「照準器は速度、高度、風向、風速などの数値を入力すると投弾のタイミングを知らせる形式。 先頭だけが使うのは衝突を避けるためで、他の機にはタイミングを無線で伝えた」 「レーダーはもっぱら飛行に使われ、爆撃の照準用としては精度は低い」など、 装備の性能について詳述。飛行機同士や基地との交信には統一の周波数を使い、 毎日変更する▽敵襲と区別するため、帰路は基地の640キロ手前で爆撃の概略を無線で報告する ▽尾翼に描かれた所属部隊を表す図形や数字の解読方法――など、 漏れれば重大な損害につながる情報もあった。

調書は44年12月10日、11日、27日付のガリ版刷り文書にまとめられており、 国内の関係機関に配布されたとみられる。B29の出撃拠点は年明けの45年から 太平洋のテニアン島に移り、国内の都市への空襲は同年1月から激化した。 2月には本土防衛部隊が再編されて太平洋沿岸に高射砲部隊が次々つくられたが、 調書の情報が活用されたかどうかはわかっていない。 旧日本軍の装備や組織に詳しい軍事評論家の辻田文雄さんは 「本土防衛部隊の幹部らに情報が周知された形跡はない。 情報が周知されていれば、迎撃や被害の抑止に利用できた可能性がある。 ただでさえ縦割りの軍の組織が、『本土決戦』を叫ぶ末期の段階で、 より柔軟性を失っていたためではないか」と指摘している。

写真説明:
発見されたB29の資料。 機密事項だったはずの機体の記号の意味などが解説されている (倉橋正直・愛知県立大学教授提供)


(9)長崎原爆投下の指揮官、アシュワース退役中将が死去

asahi.comトップ>おくやみ>2005年12月07日10時25分

アシュワース退役中将 長崎に原爆を落とした米軍B29爆撃機ボックス・カーの投下指揮官だったフレデリック ・アシュワース退役中将(93)が死亡していたことが6日、明らかになった。 親族によると3日、アリゾナ州フェニックスの病院で心臓手術の最中に死亡した。 葬儀は8日、ニューメキシコ州サンタフェ国立墓地で。 米国の原爆開発計画、マンハッタン計画に航空・爆弾管理技術者として加わり、 45年8月9日、原爆「ファットマン」を投下するかどうかを状況判断する責任者として搭乗した。 戦後60年の今夏、発行された米タイム誌では「あの状況下で、やらねばならなかったことをしただけだ。 終戦にもつながったし、参加できて幸運だった」と語っていた。


(10)大峰山からB-29のエンジンが下山

奈良新聞・社会トップページ2006年7月21日

墜落B29のエンジンを沢から回収-「平和考えて」天川村が仮展示へ  (2006.7.21 奈良新聞)
戦時中、天川村の山中に墜落した米軍機B29のエンジンの一部が、村を中心としたチームによって、長年埋まっていた沢から引き上げられた。戦争を伝える貴重な遺物として村は、8月15日の終戦記念日までに、同村洞川の村立資料館で仮展示する方針だ。  引き上げられたのはB29のエンジン内のシリンダー部分で、上下に9つずつピストンがついている。墜落したのは昭和20年6月1日。目撃者がいたため、はっきり日付まで分かっている。長らく同村山上ケ岳東部、上多古川上流の阿古滝付近で沢に埋もれていた。  村役場職員や村山岳救助隊、営林署員など約15人が…
なお、天川村役場の情報によると、8/1から仮展示を行うなどの準備が進められている。

詳細は、下記のSiteを、 『墜落したB-29の乗組員の情報』

下記は、天川村役場から入手した写真です。山中から掘り出し、吊り上げ、へりで運び、お経を上げてから展示されました。


(11)原爆投下「戦争終結のため必要…エノラ・ゲイ元機長

読売新聞 -2006年 8月7日14時42分更新

 【ラスベガス(米ネバダ州)=古沢由紀子】広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ元機長(91)が8月6日、米ラスベガスで読売新聞のインタビューに応じ、「広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だった」と、その正当性を主張した。  一方で、「私が戦ったのは日本の一般市民ではなくサムライ(旧日本軍)」と表現するなど、現場の当事者としての複雑な思いものぞかせた。  ティベッツ元機長は母親の名エノラ・ゲイを爆撃機に付けたことでも知られる。戦後60年の昨年、乗組員2人と共同で「当時原爆投下は必要であり、我々は後悔していない」との声明を発表したが、日本のメディアの取材には一切応じていなかった。


(12)ポール・ティベッツ氏が死去、広島に原爆を投下したB-29の機長

【Technobahn 2007/11/2 18:40】 1945年8月6日に広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」の機長を務めたポール・ティベッツ米空軍退役准将(当時は大佐)が1日、米オハイオ州コロンバスにある自宅で死去した。92歳だった。  死亡を伝えた空軍の声明文では死因は自然死だったと伝えている。

 ティベッツ氏はフロリダ大学とコネティカット大学で化学を専攻した後、1937年2月25 日に陸軍に入隊。陸軍では主にヨーロッパと北アフリカでパイロットとして経験を積んだ後、米軍が進めていたB-29計画に配置換えとなり、1945年8月6日の原爆投下につながった。  原爆投下後は米空軍の原子爆弾計画(通称、マンハッタン計画)に参加し、テストパイロットの立場から爆撃機による原爆の戦術面からの運用方法に関する研究に従事。1966 年9月1日付けで退役。退役後は航空運輸関連の企業で幹部として勤めていた。

 ティベッツ氏は1975年に行われたインタビューで原爆を投下したことに関しては「8万名もの人命を奪ったことは誇れることではない、が、何もないところからスタートして計画通りに完璧に成しえたことに関しては誇りに思っている」と発言。また原爆の犠牲者に対してどういう感情を持っているのかという問いかけに関しては「毎晩、ぐっすりと眠っている」などと気丈な受け答えをしていた。  しかし、原爆投下を巡る様々な意見の渦中に置かれる存在となったことにより精神的にはかなり疲弊。そのこともあり、ティベッツ氏は生前、親しい友人に対して自分の葬儀は執り行わないこと、また、原爆投下に対する抗議集会の場などに使われることを避けるために墓地には自分の墓碑は設けないでほしいと伝えていたという。


(13)モリス・ジェブソン氏が死去、広島に原爆を投下したB-29、エノラ・ゲイ搭乗員

【2010/4/9  中日新聞 夕刊 13面掲載 】
(広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイに搭乗していた元陸軍電子専門家)
3月30日、米ネバダ州ラスベガスの病院で死去、87歳。 妻が明らかにした。死因は不詳。8日付のニューヨーク・タイムズ紙が伝えた。 22年ユタ州生まれ。43年に陸軍入りした後、原爆製造のマンハッタン計画の科学者らを支援した。 46年に退役した後、一時、米国立ローレンス・リバモア研究所(カリフォルニア州)で核関連プロジェクトに従事。 その後は電子調理器を製造する企業創設した。
ニューヨーク・共同


(14)B29爆撃機の全貌解明(1945.1.3 撃墜のThe Leading Lady号 関連記事)

【情報:2010/12/9 新三河タイムス 2面記事】

第二次世界大戦末期の1945.1.3、名古屋市を空襲したB-29爆撃機が豊田市松平地域の山中に墜落したThe Leading Lady号 の全貌を豊田市在住の『B-29の追憶』Website編集者が解明した。



(15)B29航法士ハロラン氏、89歳でご逝去(編集者とも8年間文通・交流・ご冥福を祈る)

【情報:2011.6.16 朝日新聞朝刊他各紙一斉に報道】

第二次世界大戦末期の1945.1.27、中島飛行機武蔵野工場爆撃任務中、日本軍機に撃墜された、元日本軍捕虜生存者)



(16)ハロランの東京大空襲(B29捕虜の消せない記憶)・早乙女勝元氏が出版

【情報:2012.5 B29 Friend から早乙女勝元氏がハロラン氏の追悼本発行の知らせ】

早速、市内の書店に注文し一読する。早乙女氏がハロランと約束した戦争(東京大空襲)の記憶を後世に語る。日米双方の視点もあり、 戦争には勝者も敗者もない、東京大空襲・戦災資料センターへの支援を願う。

ハロランの東京大空襲(B29捕虜の消せない記憶):20122.25初版、著者:早乙女勝元、出版社:発行者:小桜 勲、(株)新日本出版社



(17)B-29 The Leading Lady号搭乗員の16mmカメラ展示 (2013.8.20 新三河タイムズの渡久地政司氏提供)

【情報:1994.8.11 中日新聞朝刊 社会面で報道された過去情報】

1945.1.3 撃墜当時の警防団員が、後日山中で拾得、1991年に警防団員の遺族から岡崎市のカメラコレクターが取得し『'94あいち・平和のための戦争展』で展示公開



(18)松平米軍B-29墜落・後日談、奇跡の生還 上・中・下 (新三河タイムズの渡久地政司氏提供)

【情報:2014.2.6/13/20 新三河タイムズ紙 二面連載記事】

新三河タイムズ紙は、1945.1.3 撃墜されたB-29の唯一の捕虜生存者 Harold T. Hedges 軍曹の”奇跡の生還”特集記事を
後日談として3回にわたり報道





(19)旧/・日本軍が撃墜 B29の残骸

【情報:2014.4.13 中日新聞・朝刊 Page 27 掲載記事より】

名古屋・南区 見晴台資料館で、1945.3 名古屋上空で撃墜されたB29の尾翼の残骸を初公開



(20)豊田市旧足助町で、B-29 の残骸『ジュラルミンの下敷・大河原寛爾』

【情報:1997(H19).3. 6 新三河タイムス掲載記事より】

2014.4.21、新三河タイムス社 渡久地政司様より、表記記事”B-29のエピソード”の提供あり、掲載



(21)日本各地の空襲死者数

【情報:2014(H26).4.21 中日新聞(朝刊)7面 ニュースがわかる A to Z 日本の空襲より】

日本の空襲による犠牲者は、開戦4ヶ月後の1942.4.18のドーリットル 中佐率いるB25爆撃(死者125,重軽傷462)に始まり、 B29による本土空襲は、1944.6に本格化し、軍需施設から市街地無差別爆撃が終戦当日まで続いた。

死者は、全都道府県に及び、民間人だけで20万人に上る。

戦後も空襲被害者の苦しみは続く。国は旧軍人らには補償する一方、爆撃による一般市民には何もしなかった。

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(22)原爆投下の爆撃機・最後の搭乗員死去

【情報:2014(H26).7.30 中日新聞(夕刊)11面 の記事掲載】

AP通信によると、広島に原爆を投下したB-29 エノラ・ゲイの搭乗員12人の最後の生存者、セオドア・バンカーク氏が、7月28日に死去した。93歳だった。

翌日の、中日一面『中日春秋』もに関連情報あり、掲載する。



(23)B-29 搭乗員 Edwin D, Lawson 読売新聞デビュー

【情報:2015.2.25読売朝刊全国版”戦後70年空襲”特集記事より】

エドウィン・ローソン(Edwin D, Lawson) 紹介:1945.1.3 豊田市松平地区に墜落した”The Leading Lady 号のオリジナルクルー、
1945.1.2 日本軍のサイパン島空襲で負傷し、撃墜日の1945.1.3に搭乗せず、快復後含めて29回出撃経験の生還者、
The Leading Lady遺族会会員、編集者のB-29 Friend、彼のmail アドレスを読売の吉永記者 へ、訪米取材し、92歳の近況を報告、



(24)旧日本軍の飛燕戦闘機、復元公開

【情報:2016.11.19 中日新聞朝刊記事より】

現存する唯一の飛燕が修復され”かがみがはら航空宇宙博物館”で公開された。
そだめ墜落のB-29 は、小牧飛行場から出撃した代田中尉機操縦の飛燕が体当たり攻撃で21945.1.3 に撃墜した。

2020.8.15 FaceBook投稿写真より


(25)語り継ぐ戦争・くわや鎌を手に現場へ

【情報:2016.8.5 朝日新聞朝刊記事より・記事提供者:豊田市水本さん】

撃墜B29 の米軍捕虜遭遇

終戦71年目の8月5日の朝日新聞は、大島鎮雄さん(91)の戦争体験を掲載した。
彼は、1945.6のB29撃墜捕虜(注)遭遇と、浜松での米軍戦艦からの艦砲射撃の体験を語った。

(注)該当B29 は、1945.6.22 313BW(爆撃航空団)テニアン北飛行場から49機出撃、内34機が川崎航空機岐阜工場を爆弾攻撃、米軍機損失1機、
   当時9名が捕虜(当時は戦争犯罪者扱い)となり全員処刑された。

・・・ 写真クリックで拡大 ・・・


(26)軍紀に反し市民逃がす・大垣空襲 元少年兵が証言

【情報:2016.11.8 中日新聞朝刊記事より・】

撃墜B29 の米軍捕虜遭遇

終戦71年目の11月8日の中日新聞は、1945.7.29の大垣空襲時で元陸軍二等兵・吉田正巳さんは軍紀違反でしたが人命が大事と思い市民を逃し 被害拡大を防いだ戦争体験を報じた。


(27)東京大空襲もっと救えた命

【情報:2020.3.4 中日新聞朝刊記事より・】

東京大空襲75年目の3月10日を前に中日新聞は、”話題の発掘 ニュース追跡”の特報記事で『東京大空襲もっと救えた命』を報じた。




(28)名古屋空襲慰霊の日制定難

【情報:2020.7.26 中日新聞朝刊記事より・】

戦後75年目を前にして7月26日の中日新聞は、”名古屋空襲の記念日”の制定難について報じた。



(29)戦後75年・B29の中で日本の降伏を待った・元搭乗兵証言

【情報:2020.8.15 中日新聞朝刊記事より・】

戦後75年目の8月15日の中日新聞は、”B29元搭乗兵・デービット・フィシャーさん(94)の証言”を報じた。






2. B-29関連リンク集


  1. B-29操縦マニュアル
  2. B-29暗号の解読
  3. Hap's Victory a POW's Story(Please click Hap Halloran of Site index.)
  4. B-29 Museum
  5. 本土空襲墜落B-29調査・全データ(青森空襲を記録する会)

  6. 米軍資料にみる神戸大空襲(神戸市文書館)
  7. 硫黄島探訪
  8. A級裁判(東京裁判)

  9. 旧日本軍の指揮と階級の関係
  10. 捕虜・日米の対話
  11. 林弥一郎の史跡探訪
  12. 親子で訪ねる横浜空襲

  13. NHK戦争証言アーカイブス
  14. 東京大空襲・戦災資料センター
  15. 東京大空襲・戦災資料センター取材スライドショー
  16. 上空からの恐怖・B-29搭乗員からみた戦争と捕虜についての大局観

  17. The Last Bomb 1945(動画・36分)
  18. 日本を敗戦に追い込んだB-29爆撃機
    (戦略爆撃機B-29 ディビィト・A・アンダーソン著 大出健訳 昭和58年刊 p6-39)

  19. ボーイングB-29スーパーフォートレスの誕生-1945
    (B-29の生産工程・動画 13分)



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