〔B-29Website開設8周年&終戦63周年記念・続Paul情報追加 2008.3.29・Paul訃報 2014.7.12追加〕
Paul Chism News Letter 追加 2015.7.15
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超・空の要塞・B-29の追憶

第6章 P-51パイロットの消息 New!!

P51:米海軍戦闘機(第2次世界大戦)

墜落地点:現 愛知県安城市尾崎町


・・・『岡崎海軍航空隊とP-51撃墜情報』は下記のPage参照・・・

『岡崎海軍航空隊とP-51撃墜情報』

1.Paul Chism中尉情報の再確認

GHQ調査報告書

はじめに、60年前の夏の日の岡崎海軍航空隊のP-51(マスタング)撃墜事件で、 パラシュートで脱出し、日本海軍の捕虜となったChism中尉の情報を再確認します。

右の文書は、終戦後のGHQ/SCAP(連合軍最高司令官総司令部)調書の概要で、 報告NO2773の一部です。
タイトルは、『1945.7.15岡崎航空基地で撃墜不明のP-51犠牲者Ronald E. Jhonston少尉』です。 該当日には、複数のP-51が撃墜されていて、 Jhonston少尉機の調査で、該当機の情報は得られず、基地へ帰還途中に海中に墜落と判断され 調査終了しています。

しかし、11名の岡崎海軍航空隊の関係者を尋問した調書は、 その日、航空隊の付近で一機が撃墜され、 終戦後帰還したパイロットのPaul E. Chism中尉は、1945.7.15に撃墜され逮捕された。 また、近藤さんは、1945.7.15の航空隊の攻撃で、 一機がトラブルで煙を引きずって頭から突っ込んだと証言した。

したがって、P-51撃墜事件は、1945.7.15と判断されます。逮捕後のChism中尉の足取りは、 岡崎海軍航空隊の司令部で取り調べを受け、東海道線で大船海軍捕虜収容所に移送された。 捕虜収容所の名簿には、1945.7.18捕獲とありますが、1945.7.18に大船海軍捕虜収容所に収監された と判断されます。 また、後のChism中尉の証言で、移送中に列車の中で民間人に殴られたと述べています。

終戦後の、1945.9.5付けのThe NewYork Timesは、 大船海軍捕虜収容所の捕虜解放を報じていますので、9月上旬には開放されたと思われます。

また、1945.9.8付けの戦争犯罪局(War Crimes Office)の調書の中に、 Paul Edwerd Chism/中尉/軍籍番号 0-716062/Lambert Mississippi/大船捕虜収容所の記述がある。


2.Paul Chism中尉の消息

孫娘からe-mail
P-51のパイロットChism中尉の情報を公開してから4年の歳月が経過しました。 その間、彼に関する情報は入信しませんでした。

その後、私のB29 Websiteは、在米ジャーナリスト徳留絹枝女史が、 日米の学生向けに昨年末公開した、 捕虜・日米の対話 のHapさんの捕虜体験記に紹介されるなどで、Hit数も少しづつ上昇してきました。
したがって、近いうちにChism中尉の関係者がきっとWebsiteを訪問することを 楽しみにしていました。

間もなくして、 2005.1.26 件名 Paul E. Chism というmailが入信しました。
送信者は、Elizabeth Chismで, 文面は、"My grandfather is Paul E. Chism POW "です。

その後、彼女との情報交換は成立していませんが、 お孫さんからのMailであることは確かのようです。したがって、Chism中尉は無事に生還され 、結婚され、戦後の人生を歩んだことになります。

この情報も、私の”B-29の追憶”を締めくくるのに相応しい朗報と思っています。 私は、Elizabeth Chismさんが、B-29Websiteを読んだことで、 私の気持ちがChism家へ伝わったと信じています。Chism家の皆さんのご多幸をお祈りします。2005 JA2TKO

3.Paul Chism中尉の情報続編

Mark Stevensさんからe-mail
その後、約3年間Paul Chismさんの情報は途絶えていましが、
2007.11.21 私は、第20空軍協会と 第7戦闘機司令部の歴史家で、PaulとHapは共に私の友人である。 Paulは、第15戦闘機飛行連隊(15FG)の第78飛行隊(78FS)で、その日(1945.7.15)の出撃No:137であった。
Paulはアラバマ州バーミンガムに住んでいる。そして、彼への連絡のための住所、更に戦友会で撮ったPaulの写真が添付されていました。

私は、このe-mailを読んで嬉しさのあまりブラボーと叫び飛び上がりました。 彼が無事に生還したかという半世紀の思い、Websiteで彼の情報を求めてから8年の歳月がたっていました。 なんと、62年と4ヶ月の歳月です。一通のe-mailですが、私には待ちに待った情報でした。

私は、早速、お礼のメールでPaulさんの近況を尋ねました。翌日のMarkさんからの返信は、最後の戦友会で話した時は まあまあ元気(reasonable health )であった。Paulは、これまで私の戦友会に何回も出席し、非常に素晴らしい紳士と伝えてきました。

続編のe-mailです。私が最後に会ったのは1年前であった。彼は、1924年生まれでおよそ83歳、送った写真は4年前に撮ったと知らせてきました。

この知らせから、1945.7.15のマスタング撃墜でパラシュートで脱出した時の彼は21歳ということになります。 同じ日、4機のマスタングが撃墜されていますが、生存者は彼以外にいません。 私は、彼の生存を確認できました。

2007.11.24 私は、63年間の思いを圧縮した手紙と、当時のGHQ調書、撃墜マスタング(愛機)のプロペラの写真、捕虜Paulが連行されたルート地図などを添えて航空便でアラバマの彼へもとへ届けました。

2007.12.19 Jackie Rolloさんからのe-mailです。
私は、Paulとバーミンガムの同じオフィスで働いています。 あなたの手紙はPaulと私は共有している。Paulに関する連絡は私に書いてください。

私は、ドイツのニュルンベルク生まれで、およそ30年間米国に住んでいます。私は、第二次世界大戦中に生まて、その間に起こった総ての出来事に何時も非常に関心があります。私は、およそ10年間Paulを知っていて、彼を高く評価しています。

以後、何回もJackieさんのお世話になっています。Jackieさんありがとう。

2008.1.12 Paul Chismさんからのe-mailです。
あなたがより早く連絡してくれたが、ちょうどクリスマス休暇と旅行で時間がなく遅れてすみません。 私は、タイプがうまく出来ない。誤りがある私のe-mailを我慢して読んでください。 私は、あなたの手紙を受け取って、うれしく、驚かされた。
私は、あなたが私のオフィスのJackieに連絡していて、 私の家族に関して彼女にいくつかの質問をしたことを知っています。
私の家族は、娘Laurie、息子Paul Jr(故人)、2人の孫 Eric および Elizabethから成っています。 現在は、妻と2人で暮らしています。 私には、あなたに尋ねたい多くのことがあります。しかし、私は、このe-mailとタイプでは良く出来ません。 そして、さらに後で試みるでしょう。 Paul

2008.3.17 私から、Jackie & Paul へのe-mailです。
私は、63年前のマスタング撃墜事件の真相をPaulから聴きたい思いです。しかし、63年前の情報交換は困難を極めます。 そこで、彼の愛機が被弾してパラシュートで脱出し、着陸した地点の写真を彼に送りました。

@着陸地点近くの森

Paul中尉は、63年前に、この森の近くの農地に着陸したと思われます。 この森の中には、皇室ゆかりの御陵と蓮華寺があり、概ね63年前の原型をとどめています。

当時は、森の周辺に民家も幼稚園もありません。森以外は総て農地であった。Paulは、この周辺で逮捕されたと思われます。 彼は、逮捕後目隠しをされたようで、この森を見た時間は多くはなかったと思われます。

A蓮華寺の山門

これが、森の中にある蓮華寺の山門です。 当時は、岡崎海軍航空隊の臨時の診療所として使われていました。

同じ日に、撃墜され現在の安城市内に機体と共に墜落し即死したマスタングのパイロットJoe walker中尉は、 この寺の墓地に埋葬された。 したがって、この寺は、マスタングパイロット達のゆかりの寺でもある。

私は、これらの写真をJackie 経由で Paul へ届けてもらいました。

2008.3.19 Jackieからのre-mailです。今朝、その写真をPaulに見せました。しかし、かれは良く覚えていなかった。 私は、Paulの良い写真を明日送る予定です。

B捕虜Paulの連行ルートマップ

Paulは、逮捕後目隠しされ、両手を縛られて、このルートで岡崎海軍航空隊司令部へ連行された。

私は、中間点(R-1へ出る手前の白○印)でPaul連行の隊列を凝視した。写真をクリックすると拡大します。



CPaul Chismさんとの再会

この記事は、翌朝のJackieからのe-mailに添付されていました。彼女は、この写真をWebsiteで使ってくださいという。 私は、この写真を見て、この記事を読んで、63年経った今、Paulと再会した思いです。

これらの情報交換で、私の思いはPaulに通じ、彼の思いも、その後の彼の人生も私に届きました。 この記事は、彼の人生と人柄を仕事を通して紹介しています。日本語訳は下記の通りです。 写真をクリックすれば、英文を読むことも出来ます。

私は、63年後に彼と再会できた記念に、この記事を掲載し、彼の戦後の活躍を称え、B29の追憶を締めくくりたいと思っています。

彼は、ミシシッピー州の農家の生まれで、1941年に高校を卒業後ミシシッピーを脱出し、叔父の経営するキャタピラー販売代理店で働き始め、WW2では、マスタングのパイロットとして硫黄島から出撃しB29の擁護と日本本土攻撃で活躍した。 そして、撃墜されて日本海軍の捕虜となり、その1ヶ月後に終戦を迎えました。その後の大活躍の様子は、この記事を読んでください。

彼は戦後の米国経済に貢献しました。現在の彼は、優雅なリタイアメント生活です。クリスマス休暇は長期間フロリダへ、そして、暫らくして、バージンアイランドへのクルージング旅行へと奥さんと2人で人生を楽しんでいます。

私は、63年前の思いをハッピーエンドで締めくくることが出来ました。 反面、先の大戦では多くの軍民が犠牲になっています。それぞれ、このように素晴らしい人生があったはずです。 戦場で、生死を分け、生き残ったPaulの戦後は、戦死した戦友の分まで頑張ったと思われます。

Paul Chism:
右腕の男(信頼できる男) 日本語訳      4 評言

「顧客に完全に誠実で、彼らの資産に最大限の価値を与えるのが我々のやり方でした。 そうすれば顧客は我々の所に戻ってきます。 真実を語って下さい、そうすれば自分が言ったことを覚えているのはたやすいことです。」 トムソン家が事業を始めるおよそ16年前にタスカルーサのオフィスでキャタピラ販売業を始めたときのことのほぼすべてを、 ボール・チズムは知っています。

「私は高校卒業後の最初の列車でミシシッピから抜け出しました。私は農夫にはなりたくなかったのです。」とポールは語り始めました。 「私は、1941年に私のおじ、J.D.ピットマンの販売代理店に働きに行き、1991年12月に退職しました。数えてみると、退職の年は私の50周年になります。」

そうです。 支店長から営業部門長、副社長、社長へ、そしてついに会長へと、会社の様々なポジションを歴任することによって、 チズムはトムソントラクターの成長を一から十まで支えました。 会社の主な顧客が請負業者であった初期の頃を、彼は覚えています。 彼は、いい時も困難な時も覚えていますが、とりわけ会社を特別なものにした人々のことを覚えていることでしょう。 「我々はいつも善良な人々を雇いました。彼らは自分たちが何をしているのかを知っていたので使いやすかったのです。」とポールは言います。

金利の上昇、石炭と原子力の需要の増加、 Tenn-Tombigbee Waterwayのような巨大プロジェクト、 そしてアラスカの石油パイプラインが需要を大きく増減させた、気まぐれな1970年代の間、その「善良な人々」は特に貴重になりました。

ホール・トムソンが引退した1983年にジュディ・トムソン、ジョージ・トムソン、マイク・トムソンが家業を引き継いだ過渡期の時代も、彼が取り仕切りました。 彼は今でも、ホールの子供たちにビジネスを教えたことについてジョークを言います。 「その雑用には十分な報酬はありませんでした。日記をつけておけばよかったですね。もちろん、その一部はプリントなんかできませんけれどね。」と、 彼は苦笑いをして言います。 ジョークが好きな男が言う「マイクはトムソントラクターの社長で、私は後見人です!」というのは、恐らく本当でしょう。

トムソントラクターの定住者としての彼の地位は「タフ・ガイ」といったところでしょうか? 確かに、ポールはきっちりと仕事をすることを要求しました。 例えばトムソンの修理トラックが一か所に2台以上置かれることがないよう要求しました。 というのは、彼の言葉によれば、「2台のトラックが一か所に置かれていることは、誰かが働いていないことを意味します。」 今、彼はそのことについて笑います。 「彼らは単に私を無情と思ったでしょう。」と、彼はニヤッと笑って付け加え、彼が要求したことはすぐに誇張されたという「タフ・ガイ」の評判に言及しました。

ルーシー・トムソンは同意します。 「あるとき、私は彼に言いました。 『ポール、非常に多くの人があなたを恐れているけど、あなたは私が知っているとてもいい人の一人だわ。私がわかっていないだけね。』と。」

そしてルーシーは続けて説明しました。 「彼は私を見て微笑み、『ルーシー、それは私があなたに私の良い面だけを見せているからだよ。』と言いました。」 今ではこのことを誰もが笑いますが、退職から15年以上経ってもポールからは未だ仕事の倫理観が感じられることが、 彼のジョークと上機嫌なおふざけから理解されます。 彼の眼はしっかりと一つのものを見つめ、・・・を確かめるというただ一つのこと......

4.情報提供者へのお礼

2008.3.29、『B29の追憶』第6版を公開できました。 私が『B29の追憶』を公開した2000.3.29からちょうど8年の歳月が流れました。その間には、多くの日米の訪問者からの情報の提供や激励のe-mailを頂きました。

Paul Chism情報に関しては、青森空襲を記録する会の中村和彦氏から、Paul Chismに関するGHQ調書の探索提供をはじめ、 この度の米国の歴史家Mark Stevensさん、情報中継のJackie Rolloさん、3年前にe-mailを送った孫のElizabeth Chismさん、 マスタング墜落当時の情報提供をいただいた地元の方々の協力のお陰です。

私は、63年前の1945.7.15にPaulさんに出会い、B29の搭乗員と間違えて記憶し、そのお陰でB29を学び、戦争を反省するささやかな日米親善を行いました。これは、Paulさんのお陰です。Paulさんありがとう。お元気で、

さらに、多くの皆さんのWebsite訪問と激励のe-mailをいただき感謝しています。 ありがとうございました。 2008.3.29 JA2TKO Kunio Okada

5.中日新聞の報道記事

2008.4.28中日新聞夕刊の愛知県内版とインターネット版に下記の記事が出ましたので紹介させていただきます。 紙面は、夕刊の1面の紙面紹介欄の『夕刊の言葉』に紹介され、14面に写真入で大きく報道された。




このニュースの反響は、翌日に県内始め、米国の関係者からも励ましのe-mailをいただき驚きました。
その一部を紹介します。

《その1》県内在住の当時 勤労学徒、岡崎中学2年の先輩より、

1945.7.15に墜落した戦闘機P51のその瞬間を私は目撃しました.当時岡崎中学(現岡崎高校)2年生で学徒動員のため美合日清紡にて三菱の下請けキー77(爆撃機)を造っていました.

空襲のため裏山へ退避したとき,30機ほどのP51が,枡塚飛行場へ低空攻撃をしておりました.勿論山の陰でよくは見えませんが方角からして間違いないものです.かなり長い時間がたってから,敵機はいっせいに上空に上がり,編隊を組んで帰投しはじめました.

その後から1機がよたよたと現れたかと思ったら,そのまま斜めに墜落しました.瞬間黒煙がまっすぐ上に立ち上がったのがなんとも不思議に思いました.斜めに突っ込んだので爆炎は斜めに起きると思ったからです. その後すぐにもう1機が少し南の方へふらふらときてやはり斜めに突っ込んできました.これも同じく爆煙が炎と共に真っ直ぐ上に上がりました.

ポールさんはこのどちらかの機から脱出したのでしょう.私たちはまさか生存者がいたとは夢にも思えませんでした.当時の記憶がまだ鮮明にのこっていて,貴殿の記事に懐かしくも悲しい思い出で,ついメールを送らせていただきます。

《その2》在米の ”捕虜 日米の対話”の代表者 徳留絹枝様より、

岡田様
 今回は、素晴らしい記事で岡田さんの活動が紹介され、本当におめでとうございます。同じような思いを抱いて活動している私たち全員にとっての、励ましになりました。

Wes Injerd さんは、福岡に25年以上住んで日本人の奥様と4人のお子さんと、5年ほど前にオレゴンに帰っていらした方です。福岡に住んでいたころ、九州地区の連合軍捕虜収容所に関心を持ち、お仕事の合間にこつこつとリサーチをしておられました。

 私のウエブサイトの役員をして頂いているレスター・テニーさんご夫妻と私が、1999年12月に大牟田を訪問したときも、彼の家に泊まりました。(テニーさんは戦時中ここで強制労働に就かされていて、この訪問は54年ぶりでした。) オレゴンに帰られてからも、お仕事の合間に、元捕虜やその家族から依頼されるとボランティアでリサーチをしてあげています。

私のウエブサイトの「捕虜体験記」のピーター・ハンセン氏のページに彼の短い文章を入れてあります。ところでマリーアンさんとウエス夫妻は、最近マリーアンさんのお父様が死んだ捕虜収容所跡地や、その建築のために強制労働させられた佐世保のダム(このダムについても私のウエブサイトにニュースがあります)を訪ねてきたそうです。

ウエスはインターネットで捕虜関連のニュースを見つけるとすぐ送ってくれるのですが、日本語も完璧にできますので、日本の記事もあっという間に見つけてしまいます。今回もそうでした。捕虜や日本関連のキーワードを入れた自動検索を毎日しているのだと思います。

岡田さんも、ポールさんを訪ねてアメリカにいらっしゃることがあれば、是非ロスにお立ち寄りください。鶴亀さんと一緒に歓迎いたします。

徳留

6、Paul E, Chismさんの訃報(2014年7月9日に逝去、90歳)

2014.7.11、『孫娘から祖父の訃報』が入信しました。”合掌”
email 訳文
私の祖父が死亡したことをお知らせしたいと思います。私は、長年のあなたと祖父が交流がができたことを幸運と思っています。 彼はしばしば、あなたとmailで連絡できたことについて私に話しました。

Best of luck to you !!! ごきげんよう、、
Elizabeth Chism Granddaughter of Paul E. Chism,

返信:
Dear Elizabeth Chism
祖父の逝去の連絡ありがとう。 祖父Paul E. Chism の訃報に接し、私どもも深い悲しみに包まれています。 私が少年時代に出会ったあなたの祖父との奇跡のmail 交換は私の人生にとって大変に素晴らしい出来事でした。 理由は、 私の思いが祖父に伝わったことが非常にうれしいのです。 衷心よりお悔やみ申し上げます。

Kunio Okada from Toyota Japan,

Elizabeth Chism が、Mail で知らせたバーミンガムのHP紹介、クリックし、さらに翻訳をクリックしてご覧ください)
Paul E. Chism 死亡記事

要約:
Chism氏、1924年5月19日 - 2014年7月9日、アラバマ州バーミンガムにて2014年7月9日(水曜日)に永眠、90歳は、 彼は陸軍/ AirCorpパイロットとして第二次世界大戦で奉仕、捕虜、

彼は、長い間Vestavia Hills United Methodist 協会、元捕虜の組織、ベスタビアヒルズカントリークラブ、アラバマ州ビルダー協会のメンバーであった。

彼は40年間トンプソントラクター会社に勤務後にゼネラルマネージャーとして会社を退職した。 彼は、妻にみとられ先だった、子供たち、沢山の孫達の紹介、
追悼式は、Vestavia Hills United Methodist 協会で午前11時2014年7月11日(金曜日)に開催されます。
花の代わりに、記念碑はVestavia Hills United Methodist 協会、または選択した慈善団体に行うことができる。

7、Paul E, Chismさんを偲ぶ

私が、あなたに出会ったのは、1945.7.15 の午後で、あなたがP-51・マスタング戦闘機で岡崎海軍航空隊を攻撃し、撃墜され、捕虜となり郷中引き回しの時である。 当時、7歳の少年が初めて遭遇した外国人であった。後ろ手に縛られ目隠され、連行されるあなたを村中総出で見つめ、後を追った情景がありありとよみがえる。

そこは、私たちの疎開先で、その16日前に、父は、B-29の東京無差別爆撃がもとで死亡した。やがて終戦となり、親米となり、 当時の捕虜は生きて帰ったか?という思いが少年の心に芽生えた。私はその捕虜はB-29から落下傘で脱出したと思いつつ半世紀を過ごした。

この出来事が、『B29 の 追憶』の出発点となり、近郷に墜落したB-29の伝説を解き明かすためにHPを開設し、The Leading Lady撃墜情報を世界に公開しました。

やがて、GHQ調書の提供、米国の多くのB-29er の知るところとなり、戦友会のChismさんの知人・Mark Stevensさんを介して、 あなたの消息を得た、それは、7年前のこことである。

そして、バーミンガムのあなたの自宅へ半世紀の私の思いを書き留め航空便に託した。無事に届くか、奇跡の文通の始まりです。

最初のremal は、中継秘書役のJackei Rollo さんから、あなたの近況を伺いました。キーボード操作が難儀あなたからの驚きのemail, 孫のElizabethからの便り、 何れもバーミンガムからの心ときめくの便りでした。

あなたの戦後を伝える『評伝』もいただきました。私は、あなたに直接お会いしていませんが、何故か、あなたの90年の歳月が偲ばれます。

第二次世界大戦では、多くの人が生死を分けました。生きて帰ったあなたと疎開して生き残った少年の奇跡の再会をありがとう。

あなたのお蔭で、B-29を学び、HPを通して友人も出来,日米親善も出来ました。

戦争をしない世界と、Chismさんのご冥福を願っています。2014.7.12 Chism さん追悼式の日、 JA2TKO ・ Okada Kunio、

8.中日新聞の報道記事

2014.7.19 中日新聞朝刊の豊田版とインターネット版に下記の記事が出ましたので紹介させていただきます。





9,P-51 撃墜(Shot Down) / 故 ポール チズム(Paul Chism)の体験談/70周年記念/5015.7.15 up

終戦70 周年を記念し、ポール チズムの体験談を公開します。

Paul Chism は、第7戦闘飛行隊(硫黄島)に所属し、1945,7,15 に岡崎海軍航空隊を攻撃中に撃墜された。 それは、今からちょうど70年前の今日であった。

私は小学校一年生のその日に彼と出会った。その出会いは私にとって衝撃的であり、終身忘れがたい記憶となった。

2015、7.7 に、その彼が撃墜時の状況を詳しく語ったニュースが私に届いた。

送り主は、Vancouver, WA, USA のTerrence Popravak さん53歳です。 彼は、Website ”大阪空襲・Osaka Kusyu” の編集者である。

私は、Paul Chismの撃墜70周年の節目に彼の貴重な体験を公開します。

出典:
SUNSETTER’S GAZETTE
Newsletter of the
Seventh Fighter Command Association
Winter 2005 VOLUME XXIV NUMBER 1
4Page - Shot Down -
"7thfighter.com"
7th Fighter Command Newsletters
"News Letter"

・・・ 体験談の4 Page 日本語訳全文 ・・・

以下の記述は、撃ち落とされ、あるいは緊急着陸したパイロットについて私がお話しする多くの話の中で、2番目のものである。 彼らの運命は、捕獲されるか、救出されるかのいずれかであった。

- 1945年7月15日機銃掃射ミッション -
第7戦闘飛行隊 - ポール チズム による

離陸時刻はおよそ午前9:30。我々は、日本に飛び立つB-29 飛行隊に加わった。

それは、天候のため28機の飛行機と27人のパイロットを失った6月1日とは真逆の、美しい日だった。日本まで平穏無事なフライトだった。 ターゲットは名古屋の近く(岡崎)の海軍航空基地だった。

私は先発隊の飛行隊の小隊長で、機銃掃射攻撃を開始した。 私は滑走路から離れていくように見えた双発爆撃機に狙いを定めた(後になってみれば囮のダミーだったと思われる)。

私はしばらく機銃掃射攻撃を行い非常に多く命中したが、その爆撃機は炎上も爆発もしなかった。 私が機銃掃射攻撃を終えた後、大きな爆発があり私のコックピットは炎に包まれた。

5〜8秒で私は機外へ脱出した。キャノピー(操縦席のカバー)を取り外し、操縦かんを引き、安全ベルトを外し、 飛び降りるというすべてを一つの動作のように一瞬に行った。

私は飛行機から脱出した直後にパラシュートのコードをひき、地表に降りるまで漂った後、飛行場の滑走路の端を少し過ぎたところに着地した。 他の航空機は未だ機銃掃射をしており、一機は近くを通り私に手を振った。 私は、肩、腕、両脚の火傷以外に傷は負わなかった。

私は行くところがある訳でもなく、ただそこに座り、次に何がおこるのだろうかと思った。 およそ10〜15分後に約50人の日本兵が私のところにやってきた。

彼らは私のナイフと銃を取り上げ、私に目隠しをし、それからお楽しみが始まった。 彼らは私を殴り気絶させた。 私の意識が戻ったとき、ほぼ暗くなっていて、そこは別の場所だった。

多くの会話をした後は、彼らのなすがままであった。私はトラックに載せられ三つの檻のある建物に運ばれた。 彼らは檻の一つに私を入れ、私の体の前で両手をロープで縛り、ロープの反対の端を檻の柵に縛り付けた。 その基地の全員が見に来たと思う。 彼らは私を鉄格子に引き寄せ、つばを吐き、殴り、蹴った。

その2日後、私は1人の将校と2人の護衛とともに列車に乗せられ、東京近郊(大船)の捕虜収容所に移送された。 到着すると、私は数日間独房に入れられた。 この間、私は殴られ尋問された。

それが終わったとき、私は床にマットを敷いただけの家具の無いおよそ1.8 m X 2.4 mの独房に入れられた。 我々の食事は1日に小さな椀に2杯の米と、時折与えられる魚の頭だった。

その収容所に収容されていたおよそ110人には、医療は施されなかった。 長くそこにいた男の大半は体調不良だった。 私は、戦争が終わるまでのおよそ26日間、大船にいた。その間に私は16 kg痩せた。

1945年8月16日、朝起きると監視が全員いなくなっており、収容所にいたのは二人の将校だけだった。 フェンスは取り壊され、私は撃墜されてから初めて風呂に入った。

食糧は日本人だけでなく米軍からも与えられ、豊富だった。 海軍は、魚雷爆撃機で我々の周囲のいたるところに食料を投下した。 我々のほとんどが、食べ過ぎとタバコの吸い過ぎで病気になった。

数日後、イギリス人がやってきて英国人と3人のノルウェー人を連れて行ったが、他の者については連れて行かなかった。 2日後に海軍がやってきて、海軍メンバーを連れて行ったが我々はそこに残された。

8月30日、陸軍によって我々はようやく連れ出され、厚木飛行場に連れて行かれ、そこから9月1日にフィリピンに飛び立った。 1945年10月17日、私はようやく帰宅することができた。

・・・ ポール チズム(Paul Chism) 情報総括 ・・・

ポール チズム(Paul Chism) 関連情報は、この度の本人体験談を含めて一層明らかになった。 これまでの情報は、戦後GHQの命で、日本の復員省(戦後処理)が岡崎航空隊関係者から聴取した情報と当日戦闘にかかわった少年兵の記述と 私が目撃した捕虜連行の行列の記憶に基づく者であった。

この度、撃墜されたパイロット本人の体験談が加わり、真相が一層明らかになったと思われる。

双方の当事者は全て故人なったと思われる終戦70周年の今、これらの調査結果をWebsite に書き留め、今しばらく後世に伝え 謙虚な日米親善効果による平和を願っています。

・・・ 2015.7.15 JA2TKO ・・・

・・・ 体験談の4 Page PDF英文のCopy全文 ・・・

謙虚な日米親善で平和を願う!



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