Chism中尉はこの写真を持って硫黄島を離陸したと思われます。そこには岡崎海軍航空隊の攻撃目標(黒○、□エリア)が鮮明に写り出されています。
私はこの度の調査で、岡崎海軍航空隊の近くで4機ものP-51が撃墜されたことを知りました。終戦と共にはかなく消えた航空隊を知る人も年々いなくなります。Chism中尉の無事生還確認記念と海の藻屑と消えた海軍航空隊員の冥福を祈りこの写真と私の思い出を含めて公開します。
岡崎海軍航空隊は地元では桝塚航空隊と呼んでいました。
当初、第1、第2、第3岡崎海軍航空隊、後、名古屋空岡崎分遣隊は、終戦後米軍が接収したがまもなくして開放され、土地も農地開放された。
@場所は
現在の安城市の柿碕町から、尾崎町・宇頭茶屋の北部・橋目町、豊田市に入って、福
受町・上郷町、更に東側は岡崎市の北野町におよぶ446万平方Km
(135万坪)の広大な台地です。そこをS17年に軍が目をつけて、S19年2月に完成した。
A部隊の状況は
一時は10,000人の海軍がいた。いわゆる予科練で、全国から集めた優秀な若者をしご
いて即席(6ヵ月)で戦地へ送った。末期は、神風特攻隊になった少年もいる。
中央に滑走路があり、南部を第1岡崎海軍航空隊(安城市)、北部が第2岡崎海軍航空隊(豊田市)、
東部が第3岡崎海軍航空隊(今の三菱自工・マルヤス工業の当たり)です。
B私の記憶
終戦後すぐに米軍がR-1を岡崎方面からジープを先導にやってきた。宇頭町の坂を登
りきったところで一行は隊列をとめて道を聞いた。岡中の生徒が航空隊への道を教え
たと言う。その情景はまぶたに焼き付いている。怖くなって子供は皆逃げてそっと隠れ
て覗いた。
航空隊への道順は、私の住んでいた家(母の実家)の前がR-1で名古屋方向
に向って右斜めに旧平針街道が始まる。そこを柿碕町方向に少し入ると航空隊の兵舎
が見える。初めて航空隊の中へ入った記憶は、進駐軍が去った後で、当時と
しては広い砂利の軍用道路の両側に兵舎や格納庫があった。格納庫の中には赤とんぼ(練習
機)があった。兵舎と兵舎のあいだの広場に高射砲などの薬きょうが山積みに
なっていた。その薬莢を拾ってきて突ついたら爆発し指が吹っ飛んだ友達もいた。自分も
拾ってきた。事件後そっと防火用水に捨てた。
また放置された飛行機を壊して、部品を盗む、主に風防ガラスをたたき割って
持ってくる、停電の時ロウソクの代りになった。
また飛行機は村のお宮の東側ガケぶちの洞穴の中にも隠してあった。これらの残骸は子供
の遊び場になり終日欲しい物を剥ぎ取ったり、陣地をつくってあそんだ。私はイン
バーター(DCをACに変換するモーター)を外し何年ももっていた。無線機なども
有ったと思う。沢山持ってきて縁の下に隠した。その後暫らくして朝鮮動乱が勃発し、
これらのガラクタはクズ屋が全部買ってくれた。
当時は食糧難で、航空隊の跡地には直ち
に芋や大豆を植えた。小学生も勤労奉仕で耕したり、大豆を担いで学校まで運んだ。
学校に着くころには大豆は皆はぜてなくなっていた。
C航空隊の記念碑
豊田市の桝塚町近くの柳川瀬緑地公園には当時の予
科練の皆さんが時々集う立派な記念碑(写真)があります。
この他にも、安城市尾崎町の熊野神社に第1航空隊の立派な記念碑があります。