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超・空の要塞 B-29の追憶
第8章 B29友好碑


B-29:米陸軍航空隊重爆撃機(第2次世界大戦)
墜落地点:愛知県豊田市坂上町”そだめ”の友好碑除幕式 2010.11.14


1.はじめに

友好碑建立の知らせ(写真をクリックすると、説明版が読めます)

2010年は終戦65周年です。私が『B29の追憶』を公開し10年が経過しました。 B29の里の情報は遺族に伝わり、遺族の想いも里へ伝わりました。 そして、里の梅便りとともに、坂上町の中根区長から懸案の友好碑建立の知らせが入りました。

当時、遺族の一人が今年は是非訪問したいという情報があり、 この知らせは、直ちにB29 Friend のMr Brian Cody(東京在住26歳)と米国の遺族の元へしらせました。

そして、2010.11.14の朝、その後の事情で出席したいけれども、出席出来ずに申しわかないという 遺族からのメッセージを抱いて、Brianカップルとともに坂上町へ向かいました。

以下の取材記は、私とBrianカップルの合同で行い、日本語版は、私が担当し、遺族向けの英語版はBrian、 写真撮影はRosieが担当しました。”B29友好碑”に相応しい日米合同の取材報告です。



2、除幕式(概要は、6項の朝日新聞夕刊を参照)

除幕(写真:NHK-TVニュース画面より)

式典は、坂上町自治区の中根浩樹実行委員長の司会で始まり、

快晴下、両国の国旗、米国空軍旗とその後大きくなった杉木立ちが見守る中で、 名古屋米国領事館、自衛隊愛知地方本部、豊田市、地元の市会議員により厳か進められました。

祝辞

祝辞は、下記の4名の方にいただきました。

写真左から、
・自衛隊愛知地方協力部長代理、星野浩幸氏
・名古屋米国領事館 首席領事、ジョナス・D・スチュワート氏
・豊田市市長代理、社会部長 加藤武雄氏
・豊田市市会議員、B29友好碑除幕式典実行委員会会長 中根大 氏

・豊田市坂上町区長、B29の里整備実行委員長 中根浩樹 司会進行

スチュワート主席領事(写真:NHK-TVニュース画面より)

《祝辞全文》

皆さま、おはようございます。私は在名古屋米国領事館のジョナス・ステュワートと申します。

本日は、B-29友好碑 除幕式典にお招き頂き、まことにありがとうございます。これまでの日米関係の歴史における最も暗い時代に、母国に命を捧げることとなった人々を追悼する記念式典に参加することができ、大変光栄に思っています。

アメリカと日本がほんの65年前まで戦争で戦った、いわゆる不倶戴天の敵同士であったとは、今日の私たちにとっては信じ難いことです。

第二次世界大戦が終わってから、日米の関係は世界で最も強固な二国間関係のひとつへと開花しました。世界で最も絆の深い通商関係の他に、国際平和、そして科学研究の分野などにおける両国の協力関係は、人類史上でも前例を見ないほどです。

日米の政治家や私のような外交官は、日米関係の今日の成功を自分たちの手柄にしたいところですが、私たちにそれはできません。

我々が携わる政府やその他ハイレベルでの関係は大変重要です。しかし、現在の日米の二国間関係は、アメリカと日本の多くの人々の間で築き上げられたきた、草の根レベルでの関係を基礎にしています。 堤立(そだめ)村の人々が協力し、大戦の終盤にここで亡くなったB-29「リーディング・レイディ」の搭乗員を追悼するためにしてくださったことに、私は大きな感動を覚えます。このたびの戦死者を弔う皆さまのご努力は、日米両国それぞれにおいて犠牲となったすべての人々に対して、哀悼の意を表すものです。

今回の記念碑の建立を可能にした皆さまのご努力は、私たちに「人間に対する尊厳」が何よりも真に重要であることを教えてくれます。アメリカ人も日本人も共に、戦後の日米関係を実際のところ決定づけた、平和と、自由、そして人間の尊厳を大事にしてきました。両国が経験した戦争の恐ろしさにもかかわらず、我々の人道主義が優先され、私たちは今これまで以上に近い関係を築くことができました。

これまで、このB-29友好碑建立のためご尽力され、今日の行事を実現された、「B-29の里」整備実行委員会 中根浩樹会長はじめ、関係者の皆さまに心より御礼を申し上げたいと思います。

どうもありがとうございました。

Brian Codyが遺族メッセージ
Brianは、二日前に届いたレーダーオペレーターのPaul E, Dreyerの娘Pauletteさんからの”B29の里”へのメッセージを 日本語に訳して伝えた。

彼は、私のB29 Friendで、かつ、Pauletteさんの息子の友人、東京在住の米国青年27歳、

Pauletteさん(右の写真)からのメッセージ
市民の皆様へ、記念すべき日に出席できませんが、日米友好碑への感謝と区長以下関係者へ私の思いをつたへたいと思います。

私たち遺族は、勇敢であった彼らの命を取り戻すことは出来ませんが、敬意を持って感謝し思い出すことが出来ます。

私は、これら軍人の霊を記念するために日本の皆様にお世話になると思います。この記念碑がどうか私たちが感じる痛みをやわらげ安らかな心を与えますよう。

皆様の、記念碑建設と情報をいただいた岡田邦雄様に、心からの感謝の気持ちを受け取ってください。

二等軍曹Paul E Dreyerの娘、Paulette Dreyer Websterより、 メッセージ代読、Brian Cody


読経

松平地区の仏教会の僧侶、名刹『高月院』の住職以下4名が友好碑の前で読経(観音経)です。

お経は、死者を敬い、霊を安らかにし、平和を祈ります。読経の流れる中で、参列者全員の焼香が行なわれた。

参列(写真:NHK-TVニュース画面より)

当日のNHK-TVニュース画面から、約100名の参列です。

焼香(ひまわりTV・とよたNOW総集編画面)

100名の参列者全員が、The Leading Lady(主演女優:墜落機のニックネーム)の乗組員の遺影写真の前に出て 祈ります。

中根ミツエさま(写真:NHK-TVニュース画面より)

至近距離(約200m)での目撃者中で唯一の生存者、中根ミツエさまです。


3、日米交流

←乗組員と遺族会記念写真

Kenneth F. Fine少尉の息子のKenneth Fineが送ってきた写真を首席領事、ジョナス・D・スチュワート氏に説明した。

B29の情報マン初合流→

右から、Brian Cody, 丹羽八十氏、草間秀三郎氏と私(編集者)、

ランチタイム→
Brianカップルと名古屋領事館の皆さん(右)、

除幕式の後で、坂上町の区民会館へ移動して、町民手作りの五目飯と味噌汁をいただきました。  ご馳走様、

講演会終了後は、町内の子供会の皆さんがつくった『みたらしだんご』とミソスープが振舞われました。  ありがとう、  


4、講演会

←中根浩樹氏
彼は、坂上町区長でB29友好碑建立の実行委員長です。 何年もかけて町民の意見をまとめ、わくわく事業(地域活性化の市予算申請)を立ち上げ推進した。

講演会に先立ち、経過報告とご挨拶です。

坂上町(さかうえちょう)のシンボルマーク→
坂上町は、天下峰(360m)、焙烙山(684m)の麓の町で、王滝渓谷沿いの坂の上にある長閑な山村です。



←講演会場
講演会場は、坂上町の区民会館です。約60名の方が出席されました。

語り部、中根ミツエさん(坂上町)→
中根ミツエ様は、墜落地点から西方へ約200mの自宅での目撃者です。 墜落時の状況、鎮火後の惨状を、遺体の火葬場への運搬の状況などを語り告げました。

←語り部、河合隆さん(楠南町・せきなんちょう)
河合さんは、当時小学校5年生、1Km北の隣村での目撃者です。当時の村の子供の暮らしや、墜落後現地へ駆けつけ 惨状を目撃した当時の状況をつぶさに話されました。

高月院住職、田中祥雄さん(松平町)→
田中さんは、名刹高月院の住職です。彼は、江戸時代(1590)の松平の古文書から、”そだめ”について話されました。 そだめ村の漢字は、 で、 木ヘンに是という字と立つを書き、そだめと読む。江戸時代のそだめは、石高21石、戸数6件であった。
21石 X 180リットル(=150kg)=3150kg、高率の年貢を納め残りで暮らした。
終戦時は7軒、現在は9軒で、当時の末裔が住む、


丹羽八十氏(豊田市久保ヶ丘)
彼は、名古屋航空史研究協会の防衛懇話会の会員で、 航空機に詳しく、2002年に”そだめのB29墜落碑”を米国空軍機関紙に紹介した。

当日は、自作のモデルとイラストでB-29と飛燕を、さらにC130輸送機と対比し、B29の大きさを分かりやすく説明した。

←岡田邦雄(”B29の追憶”編集者・豊田市渡刈町)
私は、そだめの情報を米国の遺族へ伝えたWebsite”B29の追憶”のCDを準備して出席した。 講演は、PCの操作をBrianが担当し、第1章から第7章までの”電縁(ITでの情報交換の威力)”の発展の経緯をコメントした。

草間秀三郎氏(日進市五色園)→
彼は、国際関係論、県立愛知大学名誉教授です。 B29の里への訪問は、今回3度目で、よく管理された案内板を見て、 地域住民のやさしい思いを感じていた。

先生は、関東の方で、9年前に筑波山麓のB29撃墜機の『墜落平和の碑』建立で、 町の関係者に呼びかけたら協力者は現れなかった。 しかし、戦後60年も経過し、日米友好の時代となり自費で進めた。建立に向けて動き始めると、思わぬ協力者が次々に現れて なんとか建立にこぎつけた。

坂上町の『B29友好碑』は、『歴史認識の伝承と戦争の悲惨さの発信基地』 ということで、 全国にも例をみないすばらしいもの、また、各地の碑文のほとんどが”追悼碑、慰霊碑、平和の碑”などで、『友好碑』は、 全国初で、21世紀に相応しい日本人の主体性を感じる と お褒めの言葉をいただいた。

先生の著書:B29墜落 米兵を救った日本人/論創者、 日米相互イメージの変遷 B29墜落機をめぐって/南窓社 他多数、

聴講者

講演会は、豊田市のHPで予告され、聴講者は、町民の他にも新聞社、京都から参加したという捕虜問題の権威者、 市教育委員会なども含まれた。



5、友好碑への想い

最初の訪問者

帰路、Brianと私たちは、”B29友好碑”に立ち寄った。 式典の跡はきれいに片付けられ、”B29友好碑”は夕陽を浴び、子供ずれの訪問者の兄が妹に、 昔戦争があったと説明する。友好碑は21世紀の世界平和に向けて役目を果たしていた。 素晴らしい光景であった。和んだ、

記念碑建立に当たっては、多くの方のご苦労があったと思う。当日は、早朝から機材の搬入、駐車場の準備誘導など 町民総出で対応されました。  ありがとうございました。



記念写真(左:編集者 175cm 72歳、右:Brian 204cm 27歳)
この友好碑を見て、参列者全員がそれぞれに平和のありがたさを痛感したと思う。

Brianも前日に千円高速の渋滞の中を6時間かけて、東京から駆けつけた。 彼は、この日をグレートデーといい、来てよかったという。彼の人生にとって生涯忘れ得ない出来事であると思う。

そして、彼は帰京後、直ちにこの日の出来事と遺族に向けた思いを編集し、写真集を添えて、遺族の元へ送った。

10年間、そだめB29の日米連絡員をしてきた72歳の私にとっても同様にグレートデーであった。 このような記念すべき日に参画できて嬉しかった。 今日の出来事を、より多くの方々に知っていただくことは、世界平和に寄与すると思う。 この思いを、『B29の追憶・第8章』に編集し、全世界に発信します。 この章の英語版は、ネイティブ イングリッシュのBrianが担当し、全世界に発信します。

私は、この日の思いをFriendの皆さんへ伝えました。在米35年の鶴亀彰氏からのremailです。
素晴らしいイベントをなさいましたね! 皆さんの長年のご努力が実った瞬間だったのではない でしょうか? 大きな感銘と共に全ての写真をじっくり見せて頂きました。ありがとうございます。

それにしても日米は何のために戦い、相互に多くの犠牲を出したのでしょうね。来月は日米開戦から 69年を迎えますが、その思いを私はずっと持ち続けています。

彼の父は、元日本海軍の士官で、潜水艦の機関長、マラッカ海峡でオランダの潜水艦を撃沈し、英国の潜水艦に沈められ、 今なお潜水艦とともにマラッカ海峡に眠る。彼は、行動し世界を巡り、 『日英蘭 奇跡の出会い ー 海に眠る父を求めて』GAKKEN を執筆した、私のB29 Friendです。

このような思いは、世界共通と思う。”B29友好碑”はそのような思いを後世に伝える素晴らしい贈り物と思う。  ありがとう、

6、新聞、TVニュース(翌日の朝日夕刊記事)

マスコミの取材・報道

当日の、マスコミの対応状況です。

・終日がんばったのが、朝日新聞豊田支局の小渋晴子記者、

・次に、夕刻のNHKローカルニュース用の半日取材、

・ローカルのひまわりネットTVが、翌週のとよたNOWのニュース取材、

・B29そだめ事件に関心がある新三河タイムス社は、社長自ら終日取材

・矢作新報社の記者も終日取材、

7、豊田地区CATV・とよたNow特集で”そだめ”を紹介

2010.12.13放映『B29の記憶』再生をクリック(動画・2年間有効)

訪問ありがとうございました。
次ページで、B-29写真写真博物館を公開しています。 是非訪問して下さい。



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