〔HP開設3周年記念特別企画〕・・・2002.9初版・・・ Home "B-29 English"

超・空の要塞 B-29の追憶

第3章 米兵、奇跡の生還

B-29搭乗員 & P-51マスタングのパイロットの消息


1.核心情報受信

捕虜生存者からemail
私の追憶の旅路は、2000.3に始まりました。それはITの旅路です。 そして、2年半の歳月が経ちました。 その間に、私のHPの訪問者カウンターは、10,000回近くにもなりました。

私の拙い”B-29の追憶”は地球を覆う蜘蛛巣をさまよいました。 そして、多くの方からあたたかい情報の提供をいただきB-29の真相に迫ることもできました。 そして、ついに日米から核心情報を提供しますというemailを相次いで受信しました。

2002.6.15 "B29site- very good"というemailを受信しました。 送信者は、サンフランシスコ地区に在住のRay 'Hap' Halloran氏81才(注1)です。 彼は、半年前に日本の歴史家からあなたのSiteの紹介があった。と前置きして、 自己紹介で、1945.1.27東京上空で撃墜されたB-29の捕虜生存者であり、 最初に上野動物園の檻に入れられたという。そしてあなたの助けになる情報を提供できるという。 早速お願いのremailです。そして情報交換は今なお続きます。写真はHapさん、本人提供。

2002.6.24 私のHPの掲示板(BBS)に”B29搭乗員について”と題し、詳細な核心情報が入りました。投稿者は、”中村和彦@青森空襲を記録する会”(注3)です。彼は、昭和21年4月第1復員省調整「国土防衛隊の連合軍飛行機搭乗員処置に関する調査」の中の、そだめ墜落B-29の捕虜と昭和20年7月に愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)に墜落したP-51の情報を提供してくれました。 以後、中村和彦氏からは、213頁にも及ぶ復員省とGHQ(注5)調書(英文)さらに当時の俘虜に関する処置情報の提供をいただくことになりました。

私は先ず、これらの情報をもとに、57年前に私が凝視した”P-51パイロット捕獲事件”の当時の状況を再現し、追憶の旅路の原点を訪ねてみたくなりました。

”P-51パイロット捕獲事件”
私のB-29追憶の原点は、57年前の夏の日に始まります。それは、後ろ手目隠しで郷中を引きまわされた米兵の姿が目に焼き付いたからです。当時の戦況から進めます。

時は、1945.7.15です。日本の主要な都市はB29の無差別爆撃でほぼ消滅しました。硫黄島そして沖縄も陥落しました。日本の近海には連合艦隊の艦船が空母を頭に群がっていました。米軍は硫黄島にP-51を配備し、B-29の掩護も軌道に乗せています。さらに硫黄島では東北・北海道を容易に爆撃するためにB-29の配備も進んでいました。

大本営陸・海軍は、B-29の爆撃など取るに足らない被害といい、徹底抗戦をゆずりません。そして連合軍の本土上陸に備えて、各地方軍に激を飛ばしています。7.15は、岡崎市街B-29空襲の5日前、終戦の1ヶ月前です。

1945.7.15午前7時頃からP-51マスタング(写真)が硫黄島を次々に離陸しました。 B-29の掩護に向う編隊もいます。岡崎海軍航空隊を目指す編隊は小笠原諸島上空を北上し伊良湖岬を目指し 北上します。

それを迎え撃つ第1岡崎海軍航空隊の配備状況は25mm機関銃合計25門と、 特訓中の若き訓練生60余名の機関銃員です。彼らはピラミッド型土盛り陣地で応戦の構えです。 07:30第1警戒配備、08:45第2警戒配備で機関銃員は全員配置につきました。

警戒警報発令と共に、小学校の児童は防空頭巾をかぶり運動場の真ん中に作られた防空壕へかけこみました。 その頃、伊良湖岬沖洋上を飛行中のP-51の5機編隊先導機のPaul E. Chism中尉は、 攻撃目標を航空写真で再確認しています。彼は伊良湖岬上空で真夏の日差しを浴び白く光る矢作川を確認。 岡崎上空を一旦北上して行きます。

09:20敵機来襲です。P-51の攻撃目標は岡崎海軍航空隊です。別の編隊は名鉄(当時は愛電)の車両を銃撃しています。 Chism中尉機の5機編隊は航空隊の北側から第1岡崎海軍航空隊兵舎めがけて急降下し機銃掃射を始めました。

その時なりをひそめていた岡崎航空隊の機銃が炸裂します。高度800m、射撃角度45度、撃て、の号令と共に その初弾が見事に一番機のChism中尉機に命中します。機体は一旦上昇し1回転してパイロットはパラシュートで脱出しました。 機体は、第1岡崎航空隊内のPX、酒保建物に墜落炎上しました。 Chism中尉のパラシュートは航空隊の南の端から、国道1号線、さらに私の住んでいた大字”宇頭”、 名鉄本線の上空を遊覧飛行し、蓮華寺の南側の農地に無事着陸しました。

当日は晴れで猛暑の朝9:20から昼過ぎまでP-51の3から5機編隊が執拗に機銃掃射を繰る返しました。 13時45分空襲警報解除です。 それを見届けるように、第1岡崎航空隊の兵士(医務班)が、前田軍医中尉と共に急行しました。 Chism中尉はK主計兵曹に直ちに逮捕されました。前田軍医は彼を見渡しました。たいした怪我も無く 治療の必要は無いと判断したようです。 その時のChism中尉はカーキ色のショートパンツです。そしてピンク色に思えた彼の巨体は、 後ろ手目隠しで、ロープに繋がれて兵士を先頭に隊列は進みました。 蓮華寺の坂を登り、名鉄宇頭駅東側の踏切を渡り、郷中を抜け、R-1を横断し軍用道路に入り、 航空隊の中へ消えていきます。この隊列を多くの村人は何もせずにじっと見送りました。

当日の被害は、
・第1岡崎海軍航空隊、酒保建物一棟全焼、機銃員1名腹部被弾、第2機銃陣地被弾。
・その他、近郊での被害情報、名鉄電車4両が襲撃され、木製の車体を銃弾が貫通。 その穴は大型ドリルであけた様に周囲はギザギザであったそうです。 その結果下りはストップし、単線運転となりダイヤは終日混乱しました。

後の尋問調書(注3-8)の中で、第1岡崎航空隊所属大村キヨシ少将は、墜落後、 蓮華寺に前田軍医がきて診たといっていますが、当の前田軍医は医療行為を施していないといっています。 第1岡崎航空隊の主計長の近藤ショウザブロウ中尉は尋問に立ち合い、 パイロットの名前はChismだと記憶していると証言しました。

逮捕後のChism中尉は、岡崎航空隊で処刑されることも無く、3日後の7.18には海軍の 大船収容所に護送(収容所の名簿に7.18の記載)されています。 そして彼は135人の捕虜と共に終戦を迎えています。 それは、陸軍俘虜情報局がGHQの高級副官死傷者局に提出した捕獲搭乗員の名簿とその 収容先一覧(注3-4)にChism中尉を確認出来たからです。

Chism中尉自身の調書はまだ入手していません。従って彼の開放後の足取りも分かりません。 しかし、逮捕後直に処刑されたという噂をくつがえし、 彼が無事に終戦まで生きていたことは確かです。 ”生還できたかという私の思い”は天に通じていました。 彼の情報は今後のお楽しみにしたいと思っています。

私は、P-51のパイロットを、そだめ墜落のB-29のパイロットと間違えて記憶し 半世紀を過ごしました。そうなったのも、当時のB-29の印象が如何に強烈であったかが 分かります。 そのお蔭でB-29を楽しむことができました。 Chismと言う名前を、Yahoo.comの people searchで調べると、全米で 14人と出ました(注3)。ますます楽しくなってきました。

2. そだめ墜落B-29情報

Hedges奇跡の生還

Hapさんからのemail情報です。 そだめ墜落機のパラシュート降下米兵Z□22の生存者は、Harold T. Hedges軍曹(収容所内ではHarryと呼んでいた)です。当時22才の尾部銃手です。彼はオクラホマの出身で、高校時代ボクシングをやっていたそうです。彼はHapさんと同じ大森捕虜収容所(以下大森)で終戦を迎えました。そして、1945.8.29に開放され、東京湾上の病院船に収容された。

Hapさんによると彼の生還はB-29erの中で最も奇跡的であるという。 それは、名古屋憲兵隊(以下KT)から最も残虐であった大阪KTに送致されたにもかかわらず、 斬首されずに大森に送られたことが奇跡であるいう。 Hapさんは訴えます。大阪KTは全員ひどくむごく残虐であり、 そこへ送られたB-29捕虜51人中49人を殺害したと言う。 Hedgesは何故か殺害を免れたという。 Hapさんは、われわれが生き延びたのは、大森にはMr Kamo(加茂)はじめ数人のみだらでない 礼儀にかなった人がいたお蔭という。

Hapさん達が開放された1945.8.29の大森には、556人の捕虜が生き延びたそうです。 その内のB-29捕虜32人に言及します。この32人は、1945.4.上旬にさまざまな施設から大森に 移動させられた。その32人の何人かは、1944.8.20の八幡上空撃墜の18人とさまざまな撃墜で 大阪KTに送られ生き延びた運のよい2人(Hedges他1名)です。

我々B-29er32人は、大森に留置の556人の他の捕虜とは決して混ぜることはなかった。 他の捕虜はフィリピン・シンガポール・中国で逮捕された。我々のバラック(収容所)の中には、 マリーン勤務F4U搭乗員・F6Fパイロット・マリーン銃手・B-24のパイロットがいた。 だから我々グループは計36人であった。

我々の特別隔離バラックは最前列に分断されていた。他の特別捕虜のPappy Boyington・ 潜水艦Tangの司令官O’Klaneプラス彼のクルーの8人と種々雑多な特別な捕虜を含めて18の バラックが存在した。

ところで、Hedgesは今でも健在かとHapさんに尋ねたら、その後彼との接触はないが、現在は生存していないそうです。

・・・写真上:大森捕虜収容所、下:1945.8.29開放時の捕虜歓喜、○印はHapさん、彼の巨体は開放時52kgになった。(注1)





Hedges生還を伝える地元OKLAHOMA CITY TIMES(注3-13)

彼の出身地のオクラホマでは1945.9.13木曜日の新聞でジャップ シティーボーイを銃床で殴打 の見だしでHedgesの生還を報じた。

オクラホマ8丁目のMis Zora Hedgesの息子22才のHarold T. Hedges軍曹は、”人参”を盗んでジャップに罪を問われた時に銃床で殴られた腕の傷をUSの病院船上で士官に見せた。その士官は海軍大佐のS.T.Allison (左)USNRでその艦の診療所の所長とAexandoria Vaの上級医務士官の海軍大佐 F.L.MacDanielである。Hedgesは、1月3日名古屋上空でジャップの戦闘機の自殺行為(体当たり)で撃墜されたB-29の尾部銃手であった。彼の母は解放の1945.8.29火曜日に公式に通知を受け取った。

P.S: Hedgesの供述書(注3-5)によると、上記”人参事件”は終戦日の8/15であった。彼はこの事件で左上奥歯が2本折れたと供述した。 Hapさんの供述書(注3-6)によると、7/5にもHedgesとHowordさんが一緒に”きゅうり”を食べて、同様の罪で殴打されています。若い彼らは空腹に我慢できずつい手を出したと思われます。 自分たちが作った野菜であっても、監視の目が光っていました。

8/15Hedgesさんを殴ったと告発された大森収容所の監視員木村靖軍属は、横浜裁判で懲役5年の判決です。(注3)


Hedgesの足取り(注3-1.2)

@Harold T.Hedges個人情報: 軍曹・B-29尾部銃手・22歳・独身・オクラホマ出身(注3-5)
A撃墜:1945.1.3 15:15
B逮捕:1945.1.4 降下付近(松平村大字堤立場)に潜伏中、豊橋憲兵分隊陸軍憲兵軍曹の松浦富茂が逮捕・立会者、同分隊長松本時敬少尉・同場所より岡崎憲兵分隊所長憲兵中尉に護送・1.5頃豊橋憲兵分隊憲兵曹長森脇忠士他2名名古屋憲兵隊本部を経て名古屋陸軍司令部参謀陸軍少佐山下二三男に引き渡せり。
C名古屋憲兵隊:1945.1.4〜1.7 数日後名古屋陸軍司令部より中部軍司令部(大阪)へ名古屋憲兵分隊憲兵軍曹梶田正彦が護送す。以後の処置不明(注3-2)
D大阪憲兵隊:1945.1.7〜3.7(Hedges証言、注3-5)
E大森収容所:1945.3.7〜8.29(Hedges証言、注3-5)

搭乗員名簿(注1&3-7)

《そだめ墜落B-29搭乗員名簿》
NOCrew PositionName in Full RankSerial NumberCurrent Status----
1PilotWilbur E. HurlbuttMajor 少佐0-1699361MTADeath
2Co-PilotFelix P. Omilian2nd Lt,少尉0-685171MTADeath
3BombarderGlendon M. Aitken1st Lt,中尉0-741439MTADeath
4NavigatorEdward H. Stoehr1st Lt,中尉0-738741MTADeath
5Flight EngineerGlen C. Truesdell1st Lt,中尉0-859714MTADeath
6Radio OperatorJoseph P. NighanSgt,軍曹33623699MTADeath
7Radio Operator,Paul E. DreyerS/Sgt,二等軍曹13137567MTADeath
8GunnerKarl HuntSgt,軍曹11067825MTADeath
9Gunner Harold T. Hedges Sgt,軍曹 38400804 MTA POW
10GunnerFrank J YanikSgt,軍曹33829896MTADeath
11GunnerRichard P. Steinberg Cpl,12101125MTADeath
12PassengerMarcus A. MullenLt Col,中佐0-22829MTADeath

Fainal mission: Jan 3.1945 ・ Destination: Nagoya ・ US Air Force: 20AF, 21BC, 500BG(Z □22), 882BS・Type of plane: B-29-45-BW・ Nickname:The Leading Lady ・ Crashi: Sodame ・ Serial NO: 42-24766
・・・ご冥福をお祈りします・・・


そだめ墜落機調査報告書
GHQ(注5)による調査報告書は、戦犯裁判の訴追に使われました。 その後米国防省に保管、国立公文書館を経て半世紀後の現在は、 そのCopyが国会図書館憲政資料室に所蔵されています。 墜落機に関する報告は、Missing Aircrew Report・遺体発掘報告書・関係者尋問書・ 生存者供述書からなっています。日本国内に墜落した機体は総て調書があるそうです。

資料は、東海軍関係だけでも6000頁を超える膨大なものです。 その中から私の求める資料を掘り出してくれたのが、中村和彦氏です。

GHQ法務局調査部報告書第82号は、 そだめ墜落機の調査報告です。上記の名簿もその中から確認されました。

報告書は英文B5の30頁相当です。米国からのFax転送のそのまたCopyで文字はボケて小さく 私には難解であった。下記は私が理解できた事柄の要点です。

墜落時の目撃情報で、松平警察の彦坂フクジさんは、 B-29の墜落は1月3日の15:15頃で、機体は空中火災であったが、爆発はしなかった。 一人がパラシュートで脱出した。また、墜落機の後続機のKelvin E. Neel伍長は、 Z□22を注視していた。高度7600m、右側から煙が出た。急速に高度を下げ、内陸へ旋回、 3000mからスロースピンで墜落。パラシュートは1つも開かなかった。 爆発と似た煙が上がった。クルーは消滅と判断、そしてエリアを去った。

墜落機の遺体は完全に焼けた6遺体と、機の後部から引き出した4遺体で、 計10遺体が確認され、村で火葬し、岡崎市欠町の共同墓地に埋葬、彼らは軍人の階級章から、 下士官6人、士官4人であり、彼らの所持品は集められ名古屋KTが運んだ。 それらは、軍人の認識票・リング・アメリカの硬貨、紙幣・女性の写真・ピストル4挺、 焼けたピストル2挺・パーカー万年筆とシャープペンなどであった。

遺骨は岡崎氏市欠町の共同墓地に埋葬したこと。その遺骨は 、それぞれに木箱に納められて、深さ約80cmに並べて埋まられた。 それを回収チームが全部持ち帰ったこと。墜落後のたくさんの写真・ニュース映画のフィルム・ 新聞などもあったが、B-29の空襲で総て焼けたこと。 Hedges尋問時の通訳は、岐阜医科大学のイノマタイサム英語教師が担当。 Hedgesが後に帰国した事の報告なども記述されています。

そだめ墜落機の乗員名簿は乗客のMarcus A. Mullen空軍中佐を含めて12人です。1人が助かり、 10遺体が帰国した事が確認されましたが、1人足りません。

3.岡崎海軍航空隊とP-51撃墜情報

1945.7.15(尾崎町史は7.16、注7)にP-51を5機撃墜した、

《岡崎海軍航空隊入り口》


4.俘虜の取り扱い

俘虜に関する法規(注3-14)

@俘虜取扱規則
第2条 俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ屈辱虐待ヲ加フベカラズ
第3条 俘虜ハ其ノ身分階級ニ応ジ相当ノ待遇ヲ為スベキモノトス・・・略
第4条 俘虜ハ帝国陸軍ノ紀律ニ依リ取扱ヲ為スノ外ミダリニ其ノ身体ヲ拘束スベカラズ
・・・以下略

P.S:当時日本政府としては、俘虜の待遇に関する国際条約を批准していなかったために、 アメリカ政府からの俘虜の処遇問い合わせに対して、 東郷外務大臣が「適用はしないが準用する」とスイス公使を通じて回答しています。 戦後になって多くの収容所関係者が戦犯として訴追されたのも、国際条約違反とされたためです。 東京裁判でも外務省は「適用するといっていない・・・」とし、捕虜虐待 責任を末端の現場に押し付けた。(注3)

捕獲搭乗員の処刑(注3-1)

1.東海軍司令部関係
第1高等復員裁判所による「東海地区捕獲飛行機搭乗員ニ関スル被告事件別冊」よると、 東海軍司令部が処刑した米兵は、
@1945.5.14名古屋市・津市で捕獲された11人
A同5.29静岡県志太郡東川根で捕獲された2人
B同6.5三重県度会郡島津村で捕獲された9人
C同6.10頃、三重県名賀郡名張町で捕獲された6人
D同6.22愛知県海部郡弥富町他で捕獲された9人
E同6.26三重県一志郡倭村大字上ノ村地内で捕獲された1人
・・・処刑者計:38人

2.中部軍司令部関係:42人
3.西部軍司令部関係:49人
4.この他に東京陸軍刑務所の空襲で焼死:62人

・・・処刑者合計:191人
《コメント》
@東海軍の6事例は、1945.5〜6月に集中しています。
A横浜BC級裁判では、これらの191人の処刑に係わった軍人が訴追され処刑された。

東京大空襲/1945.3.10(注3、6)
10日0時すぎから東京の東部市街地(本所・深川)に焼夷弾を投下開始。前例のない1,500m 〜2,000mの低高度で279機から、無差別に撒かれた1,665tonの焼夷弾が生んだ火の手は、強風を受けて燃え広がり、死者83,000名、東京都の2割に近い260,000戸全焼の大被害を与えた。

この戦闘で、B-29は14機を失い、42機が被弾したが、成果に較べれば問題なしと判断した。以後この方法で、1〜2日おきに名古屋・大阪・神戸・名古屋と、300機規模の無差別爆撃が続いた。

また、この爆撃の帰路、一目散に東京を離脱した彼らの中には進路を間違えた3機編隊が次々と蔵王山に激突し全員死亡する事故もあったそうです。 始めての低高度爆撃の悲劇と思われます。

”無差別爆撃への復讐”(注3-3、15、16)

米空軍は1945.3.10の東京大空襲から”市街地無差別爆撃”を敢行した。それ以前は、主として軍事施設を目標にしていた。3.10以降は大編隊での低空焼夷弾爆撃で、多数の民間人を殺戮した。以後は降下米兵の数も増え、爆撃下の各司令部では、その対応に苦慮していた。B-29による爆死者の山です。いちいち憲兵司令部に伺ってもどうにもならない状況でした。そこへ憲兵司令部の外事課長の私信が届けられました。文面は、”各司令部において適当に厳重処分せよ”というものです。

以後は、各司令部で「適当に処置=処刑」と判断し、略式裁判が行われ、そのほとんどが重要戦争犯罪者の判決で直ちに処刑(斬首)された。

その理由は、俘虜に関する規則で、俘虜とは、「帝国ノ権内ニ入リタル敵国交戦者及条約又ハ慣例ニヨリ俘虜ノ取扱ヲ受クベキ者ヲ謂フ」とありまが、彼らは、軍の手に入った以上、国際法上の俘虜であるが、一般の俘虜とは区別して”捕獲搭乗員”と呼んだ。その訳は、彼らは本土爆撃に来襲し 国際法に禁止している非軍事施設や一般民衆を爆撃して、家を焼き非戦闘員を殺傷している、国際法違反の容疑者ある。したがって、俘虜規定の俘虜でなく、犯罪者として扱った。かくして”無差別爆撃への復讐”は各地で行われた。

捕獲された搭乗員は、東海軍では憲兵の手で軍司令部まで連行するが、受領後は一切軍の手で処置していた。東部軍のように調査・収容・処置を憲兵隊にやらせたところもあった。
私はHedges,Hapさんが生き延びた訳が理解できました。彼らの逮捕は3.10前であり、爆撃目標は軍事施設に限定していました。したがって戦闘行為であり立派な捕虜です。また、P-51のChismさんも航空隊との戦闘です。彼も立派な捕虜です。米軍は捕虜になるなら海軍を選べと指導していた。

最後の武人・岡田資中将(注4)

戦後GHQ横浜BC級裁判で捕獲搭乗員処刑の責任への追及が続けられた。 「適当に処置せよ」との私信を出した、外事課長は、処刑せよという命令は出していないと逃げ切り、無罪。その結果多くの現場の責任者が有罪となった。 東海軍司令官の岡田資(たすく)中将は、捕獲搭乗員38名の処刑の責任を問われ、1948.5、B級戦犯として、横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受けた。翌1949.9.17の執行であった。

彼を”最後の武人”と崇めた大岡昇平氏は自著の”ながい旅”の冒頭に次ぎのように書いている。 岡田中将は、日蓮宗信者で、裁判を「法戦」と称した。天正7年(1579)安土城における、法華宗日bと浄土宗貞安の間に行われた「法論」をもじったものである。「組織ある一団(参謀長以下旧部下及び弁護団」をもって、余の統率の下に飽くまで戦い抜かんと考えた。(略)吾人は当初においては 、消極的な斬死案であった。然るに米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものであると判断した。(岡田中将の遺著の一部)」・・・略

公廷でも降下B-29搭乗員を調べた結果、無差別爆撃を行った者のみを処刑した、と主張した。 国際法に違反して、軍事目標でない都市爆撃を行い、多くの非戦闘員を殺傷したことを立証した。 これはA級戦犯の市ヶ谷法廷、また横浜法廷でもなし遂げられなかったことである。・・・略

彼の部下は命令通り手続きを実施し、
@軍事目標を爆撃した者⇒捕虜収容所へ廻す
A無差別爆撃を行ったかどうか疑わしき者⇒忙しい中でも、正式軍法会議にかける
B無差別爆撃の実績の明らかな者⇒略式手続きとする(重犯罪死刑)
とした。
当時、日本人が言えなかったことを堂々と主張し、法戦には勝算があったものの無差別の復讐の復讐であった戦争裁判に潰された。そして、彼は法廷で勇敢であっただけでなく、スガモ・プリズン内でも態度が最も立派であった、と多くの人が言う。最後の武人としての彼の行動が、多くの部下の命を救った。一方、西部軍では、「私は何も知らなかった。みな部下の責任だ」と叫び続ける司令官以下、9名の死刑囚を出した。

5. 捕虜収容所

Hedgesさん、Hapさん、Chismさんが収容されていた捕虜収容所の情報です。クリックしてご覧ください。
6.B-29の追憶の旅路を終えて
私はB-29の追憶の旅路をハッピーエンドで締めくくることができました。それは、日米の訪問者からの励ましと情報の提供のお蔭です。どうもありがとうございました。

私は、B-29を通して多くのことを学びました。先の大戦を締めくくった”超空の要塞”にも悲しい話しがたくさんあることも知りました。米国は何故B-29による無差別爆撃を、これほど執拗に行ったか、その理解も進みました。それは、日本帝国の息の根を止めるのに、この空爆が米国民の犠牲者が最も少ないためと思われます。

私は、これまで無差別爆撃の被害者であるという認識もなく人生を歩んできました。 しかし、追憶の旅路を終えると、何故か無差別爆撃の犠牲になった父が思われます。 それは、1945.3.10の東京大空襲に始まります。先にも述べましたが、私の家族は、当時東京の西大久保で洋服店を営む父と母と4人の子供が幸せな日々を送っていました。よく遊んだ西大久保の鬼王神社、伊勢丹デパートが思い出されます。1945.3.11、軍の徴用から帰っていた父は自転車で無差別爆撃の状況を確認に行ったそうです。その惨状を見た父は、直ちに母と幼少の私と兄を、夜行列車で東京から脱出させました。5年生の次女は単身で先に疎開していました。父と長女が店と自宅を守るため東京に残りました。

当時はさっさと脱出できない理由があったようです。苦労して手にしたその家もB-29の爆撃前に市街地は防火地帯が必要という事で消防と皆で破壊したそうです。近くに引越したところへ1945.4.13/14の無差別爆撃で新宿一帯は火の海と化しました。父と長女は、自転車で一晩中西へ西へと逃げ惑い、杉並区の池のあった公園(大宮公園?、現在の和田堀公園)で生きて朝を迎えたそうです。

まだ火が残る中をなんとか家へたどり着くと総てが焼失していましたが、何故か、蒸しカマドの中のお釜のご飯がおいしく炊けていたそうです。長女はおにぎりをつくり、父と食べたそうです。そして、父はダウンしました。鉄道も動きません。1週間後なんとか生きて母の実家へたどり着きましたが、薬もなく、1945.6.30に亡くなりました。

私達は、1945.3.10の無差別爆撃による10万人の犠牲者とそれを見た父の判断のお蔭で生き延びたことになります。 終戦後、西大久保の家の裏庭の防空壕を掘り起こしたら、父が大事にしていた、米国製のシンガーミシンが無傷で残っていました。

戦後のたけのこ生活が始まります。母は、実家の畑に小さな家を建て、シンガーミシンのお蔭で名古屋の洋装店の下請けとなり頑張りました。子供達も能力の範囲内で高等教育も受けました。 私達は、米軍からチョコレートをもらい、支援物資の脱脂粉乳と母の実家のヤギの乳で育ちました。

私は、無差別爆撃の犠牲者の子供でした。しかし、何故かB-29への憎しみはありません。敗戦国日本の国民は、一瞬の内に「一億玉砕」の愛国心を捨てました。鬼畜米英が親米となり、米国を憎むテロを起こすこともまく、民主主義を受け入れました。日本国民の最初の目覚めは、幕末(1853)に浦賀に来航したペリー艦隊の黒船であり、2回目がB-29による無差別爆撃と原爆投下のように思われます。 私のDNAには、B-29とシンガーミシンがしみ込んでいるようです。

私は、B-29を通して大戦の真相を少し残すことができました。世界平和に僅かでも役立つことを願っています。そして、皆さんのご多幸を願っています。 ◇写真:左 兄5才、右 私4才、1942年、新宿の写真館にて◇

編集 2002.9 JA2TKO



7.〔出典〕
(注1)・・Jan 27.1945東京上空撃墜B-29捕虜生存者・元航法士、Mr Ray "Hap"Halloran Mail&提供写真情報

(注2)・・”B-29日本出撃30回の実録”/潟Rネ・パブリッシング,第16章 ハップ・ハローラン航法士の虜囚譚

(注3)・・青森空襲を記録する会の編集者 中村和彦氏 提供情報
(注3-1)・・東海地区捕獲飛行機搭乗員ニ関スル被告事件別冊(そだめB-29Hedgs調書)国会図書館憲政資料室国際検事局文書

(注3-2)・・国土防衛隊の連合軍飛行機搭乗員処理に関する調査/東海軍関係(Hedges軍曹名古屋憲兵隊から大阪KT経由大森収容所へ)国会図書館憲政資料室国際検事局文書

(注3-3)・・軍律会議における敵航空機塔乗員処断顛末書(東海軍の岡田資中将がなぜ搭乗員を処刑したかの背景説明)

(注3-4)・・GHQ/SCAP Legal Section investigation Division Report No.713 Roster of Plane Crashes in Tokyo Area(連合国軍最高司令官総司令部法務局調査報告713号, 海軍省=第2復員省がGHQに提出した海軍が捕獲し、大船収容所に収容した搭乗員の名簿、Poul E. Chism中尉の記載を確認・GHQ配下の法務局がBC級戦犯の訴追を目的の関係証拠を収集)

(注3-5)・・GHQ/SCAP LS, Case File To-0. Perpetuation of Testimony of Sgt.Hedges, ASN 38400804(1946.4.18作成のHedges軍曹の供述書・極秘文書。1.7まで名古屋KT,以降3.7頃まで大阪KT、に監禁、以後大森収容所送り)

(注3-6)・・GHQ/SCAP LS, Case File To-0. Deposition of Ray Hap Halloran 2nd LT, ASN 0703246(1945.9.25作成のHap中尉の供述調書・極秘文書。この中で、Hedesが殴られた”きゅうり事件”も出ている。)

(注3-7)・・GHQ/SCAP LS Investigasion Division Reports No82(GHQ法務局調査部報告書第82号、1945.1.3そだめ墜落B-29#42-24766 The Leading Lady号の捜査報告です。Missing Air Crew Reportで搭乗員名簿と墜落の目撃情報を確認。また、Burial Reportで、7.20岡崎で墜落したP51のパイロットと乗員の遺骨回収を報告。)

(注3-8)・・GHQ/SCAP LS Investigasion Division Reports No2773(GHQ法務局調査部報告書第2773号(1945.7.15、岡崎航空隊基地に墜落したChism少尉に関する捜査報告)

(注3-9)・・GHQ/SCAP LS Investigasion Division Reports No753(GHQ法務局調査部報告書第753号(1945.1.27に東京上空で墜落したHap中尉搭乗B-29に関する捜査報告、Crash siteも地図で報告)

(注3-10)・・Joint Army Navy Intelligence Summary Airfacilites Supplement(一般にJANISと呼ばれる日本の攻撃目標の解説本の岡崎航空隊の航空写真1945.3.12米空軍撮影。左上にトヨタ自動車の工場エリアも鮮明に確認)

(注3-11)・・New York Times 5 Sep 1945(大船収容所の捕虜開放の写真入新聞)

(注3-12)・・1945.8.15現在の大森収容所と大船収容所の捕虜収容者数に関する中村和彦氏の調査メモ(外務省公開文書はCopy不可)

(注3-13)・・1945.9.13発行のOklahoma City times

(注3-14)・・1943.11調整、1945.12改正俘虜情報局発行の俘虜ニ関スル諸法規類集

(注3-15)・・1946.3.21中部地区における連合軍飛行機搭乗員取扱に関する調査其の2/国会図書館憲政資料室国際検事局文書

(注3-16)・・昭和憲兵史/大谷敬二郎著/みすず書房

(注4)”ながい旅” 著者:大岡昇平氏、新潮社

(注5)GHQ/SCAP: General Headquaters総司令部 /Supreme Cooander for the Allied Powers 連合国最高司令官

(注6)・・世界の傑作機 BOEING B-29 NO-52 1995.5 兜カ林堂、 岡崎市在住 磯谷 進氏提供
(注7)・・愛知県安城市”尾崎町史”
(注8)・・笹本妙子氏からのMail情報
(注9)・・War Crimes Office Sept 13.1945の調書、中村和彦氏提供。

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