B-29の追憶・・・第3章・・・

5.捕虜収容所

@大森俘虜収容所/大森捕虜収容所/陸軍(注1, 3, 3-3、15、16)

HedgesさんとHapさんが約6ヶ月過ごした収容所の情報です。 大森俘虜収容所は正式名称を東京俘虜収容所本所(現大田区平和島)といい、 1942.9.12品川区運河建設所品川俘虜収容所として開設。1942.9.25東京俘虜収容所と改称。 1943.7.20大森区入新井町の東京第2埋立地に移転、終戦を迎えた。 外務省の当時の資料から転記したメモ情報では、1945.6.30現在の収容者数は314人。 終戦日の1945.8.15には下表に示す8ヶ国合計で606人の俘虜がいました。

HedgesさんとHapさん達は、この中で相当にひどい仕打を受けたと思われます。 そのことはHapさんのemailで、我々は、この悲しい記憶を消したいために、 帰国後はお互いに連絡をしないことにした。 我々は、収容所の農園の土地を肥沃にするために、焼け落ちた家のトイレをクリーンした。 1枚の毛布を分け合い、そして温めるために一緒に寝た。皆んなやせた。 私は114ポンド(52kg)になった。と書いています

終戦後はその仕返しで、こんどは東條英機をはじめとするA級戦犯が、 巣鴨刑務所に収容されるまでの間この収容所に入れられたことは当時有名であった。

横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐に死刑(両者ともに巣鴨で獄死)。

下右の写真が付属品川病室の有った捕虜収容所です。横浜BC級裁判で、三大猟奇事件といわれた、 トクダケース(あとの2つは九大生体解剖事件、石垣島人肉嗜食事件)の舞台です。 アメリカから言わせれば、大森俘虜収容所の徳田久吉軍医大尉が、 収容所の捕虜4人に人体実験で死亡させた現場です。 実際には、品川病室には医薬品はまったくなく、栄養失調や脚気の捕虜に豆乳を投与しており、 重患で運び込まれた捕虜4人に対し、徳田軍医が豆乳を静脈注射したあと死亡した事件です。

それぞれの捕虜の死亡原因は結核、脊髄炎、末期胃癌、肝硬変だったらしいのですが、 豆乳注射が生体実験であるとし、徳田大尉に死刑の判決が下された。 彼は巣鴨刑務所でハンガーストライキに加えて発狂を偽装して精神鑑定ののち無期に軽減された。



写真:上 開放時の捕虜歓喜(US.navy HPより)、
下左 東京第11分所(埼玉県川口市)の前で友軍機に手を振る捕虜(出典 注8参照)、
下中 開放時の病人の様子、 下右 品川病室の有った捕虜収容所(US.navy HPより)


1945.8.15俘虜収容者数/外務省記録(注3)
国名士官下士官民間人小計
12329222437
131020115
加(カナダ)0404
豪(オーストラリア)3205
諾(ポルトガル)0099
伊(イタリア)6107
和(オランダ)127028
エストニア0011
小計14642832合計606


A大船俘虜収容所/大船捕虜収容所/海軍(注3, 3-3、15、16)

Chismさんが1.5ヶ月いた大船捕虜収容所は、 1942.4.6横須賀海軍警備隊大船仮収容所として開設され、 開放後の1945.8.21海軍から陸軍に移管され東京俘虜収容所本所分遣所と改称されました。 現在の神奈川県鎌倉市大船植木129 竜宝寺(0467-46-2807)にあたります。

横浜BC級裁判では合計28人が起訴され、 秋田二郎軍医大佐の他3人に絞首刑判決がだされましたが、4人とも終身刑に減刑された。

1945.8.15俘虜収容者数/外務省記録(注3)
国名士官下士官小計
6660126
459
小計7065合計135

The New York Times Wednesday September 5,1945の捕虜開放を告げる記事の写真。
横浜から16マイルのワーストエリアと称される大船捕虜収容所で、開放された我々にお辞儀する憎むべきジャップ。


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