三ヶ根山のエンジン   第 6 章 三菱重工 訪問

   展示エンジンの謎解きを記念して、日米・電縁合同チームで、A18のふるさと三菱重工鰍フ史料室訪問を提案しました。 三菱OBのアレンジで、訪問場所は愛知県小牧市にある三菱重工鰍フ

・名古屋誘導推進システム製作所の ”名誘ギャラリー” AM
・名古屋航空宇宙システム製作所の ”名航史料室” PM

2010.6.22、これまでの調査結果をまとめ、三菱重工のOBと史料室長への報告・検討会を行ないました。

1)”名誘ギャラリー”訪問
  ”名誘ギャラリー”は、一般公開はしていません。OBの配慮で、応接室に案内され、三菱関係者と初対面です。

”名誘ギャラリー”には、三菱発動機初期の航空機用エンジンから、H2ロケットの推進エンジン実物までが展示される。 しかし、大戦中に活躍した当時の苦難のエンジン、我々が見たいA18系などは見当たらない。 B-29の空爆と敗戦で、全てを失った三菱発動機の苦悩を知る。

@ ”名誘ギャラリー” 訪問記念

 自己紹介の後、ギャラりを見学、空冷星型エンジンの理解を深めてから報告検討会に入る。

報告内容は、第3章 展示エンジンの調査結果です。関係者全員にA18Aであると納得していただきました。

結果の報告は、日米合同・電縁チームとし、三菱側OBにも執筆分担をお願いし、 HP編集と一般公開は編集者が行なうことで合意した。

報告後の技術談義のなかで、シリンダーの冷却フィンが話題になり、当時の冷却フィンは、腕利きの旋盤職人が多段バイトで 削り出したという。これは、驚きです。私は、調査の過程では鉄板を重ねた鋳ぐるみと想像した。

そして、名誘ギャラリーの堤室長からA18のシリンダー設計図のコピーをお土産にいただきました。

写真:後列左から、堤さん、林さん、岡さん、内本さん、前列左から、Mr Brian  岡田(編集者)、後方に、金星1型 830馬力 エンジンが展示される、

A A18のシリンダー設計図
設計図を見て、三ヶ根山のエンジンのむきだしのシリンダーを再確認したくなりました。

そこには、 シリンダー内径:150ΦH2 + 0.046 -0, 冷却フィン:ピッチ 3mm, 29枚 と記される。フィンは、1.5°の勾配で削り出され、先端の厚さは0.5mm です。

鉄製(後日、クロム・モリブデン鋼と判明)の筒に360°の櫛歯を削るという極限の加工をさせた人も、した人も大和魂のなせる技か?、

当時、米国人なら、これは無理だといい、あっさりあきらめ、別の方法を考えると思う。

そして、0.5mmの冷却フィンが、戦後65年たった現在、三ヶ根山頂で潮風に吹かれ白錆びに守られ唯一現存する。

・2010.7.7 A18のシリンダーの再調査
当日、三菱重工OBの零戦エンジンの調査に誘われた。 私は、シリンダーの設計図を持参して、合同再調査に参加した。

A18Aの削り出された冷却フィンの枚数を数えると、29枚で図面の注記と同じであった。 更に、上端部の肉厚は、3mm相当、上端面からフィンまでの寸法は、53.3相当で、何れも設計値相当であった。

シリンダー上部のシリンダーヘッドとの結合部の外周には幅31mmの間に三角溝が加工され、シリンダーヘッド焼嵌めの強固な インローの役割であると思われた。この三角溝も図面通りであった。 戦時下の三菱は、図面通りの物を造っていたことが、65年後に再確認されたことになる。

・2010.7.8 A18のシリンダー材質調査
シリンダー外周の冷却フィンを数え、触っていたら、この材質は何か?解明したくなった。 破片を三菱重工で分析する方法もあるが、終戦記念日に間に合わない。そこで、 先輩の回顧録を調べることにした。

中島航空機の伝記で恐縮だが、”悲劇の発動機『誉』天才設計者中川良一の苦悩”、前川孝則著 草思社 を読むと直ぐに判明した。 当時、各社ともシリンダーとピストンの焼付きなどの問題を抱えその対策に悩まされていた。 第六章 シリンダーとピストン、冷却の盲点、の記述を転載する。

三菱のシリンダー材質は、『特殊鋼のクロム・モリブデン鋼で、かつ焼入、または窒化処理』との記述を確認した。

詳細は、下記をクリック、
『シリンダー材質に関する記述』
P284,文中のシリンダーとは、シリンダーとシリンダーヘッドで構成する部分を意味し、バレルとは、気筒(シリンダー)のことである。

・何故、シリンダーとその冷却フィンにこだわるか、
それは、冷却フィンの冷却効率が高ければ、エンジンの性能を上げることが出来るからです。 上げなければ、米国の戦闘機の餌食です。 ピッチを詰めれば、造りにくいし、広げれば冷却効率は下がります。中島航空機伝記は、アルミの冷却フィン採用に至る苦難の 過程を詳細に伝える。

B 三菱空冷星型エンジンのルーツ

 下記の説明を読んでください。1930.4から開発が進められ、英米の航空エンジンを 参考に、2年の歳月で試作を成し遂げ、以後、4年でものにしたいう。しかし、その間に携わった三菱OBの苦闘が偲ばれる。



C金星1型 のカットモデル

1930.4に、このように複雑な、空冷星型複列14気筒を選び、あえて困難を省みず、 将来を見通し挑戦した先達の開拓者魂が偲ばれる。

全面の放射状に突き出すパイプは、14気筒分の排気管のようだ、

出力軸の先端には、木製のプロペラのボスを嵌めて締め上げるボルトが10本、



D巨大なコネグティングロッド

良く見ると、R-3350(B-29のエンジン)の記号がある、BrianがB-29のマスター・コネグティング・ロッドと驚く、

室長の説明は、戦後しばらくして、B-29エンジンの修理・オーバーホールをしていたという。 その時に、三菱で製造したものという。

一列9気筒の星型エンジンは、このようなマスター・コネグティング・ロッド1個と、 その大端部に結合される8個のサブ・コネグティング・ロッドで成り立つ。

その作動の状況は、次のイラスト動画でご覧ください。



E星型9気筒の作動

このイラストは星型9気筒4サイクルの作動です。

クランク軸1回転で、4.5回の爆発行程をご覧ください。

このイラスト動画は、 『星型エンジンの構造』のHPよりお借りしました。クリックしてご覧ください。

2)名航史料室訪問

 午後は、三菱名誘で、昼食をご馳走に成り、県営名古屋空港近くの名航史料室の見学となりました。

”名航史料室”のアプローチには、三菱が戦後関与した軍用航空機がずらりと並ぶ。 そこは、曜日限定週2日の予約制で一般公開しています。 史料室には、長大な年表が三菱重工の歴史を告げ、開戦当時、日本が誇った”零戦”と数年前に復元したB-29撃墜用に開発したロケット戦闘機 ”秋水”の復元機が展示されています。

”零戦”は、三菱製であり、三菱の自慢です。しかし、搭載するエンジンは、中島航空機製の”栄”です。 当時は、自社のエンジンを搭載すべく頑張ったと思いますが、軍上層部の判断を覆すことは出来ず、ライバルの”栄”となった。

@名航史料室訪問記念

 左端が、岡野室長で、三菱技術史の語り部です。後方は、ヤップ島で収集した零戦の残骸の復元機、

一回り見学した後で、室長は、当時の分厚い『金星発動機・取扱説明書・海軍航空本部』を展示ケースから取り出して 見せてくれました。
戦時下の、エンジン修理部隊のバイブルでしょうか?

その中味を、チョッピリ報告し、訪問記とさせていただきます。



Aクランクケース

クランクケースは、3分割の軽合金製です。
外周には、シリンダー取り付け用のスタットボルトが並ぶ、

R-3350は、試作は軽合金であったが、強度上の理由から鋳鉄とし、信頼性確保に努めた(Brian)。



B往復運動部品の構成
 ピストン&コネクチングロッドの理解が進む、

当時、ピストンリングは、ガス止め用3本、油掻き用3本であることが分かる。(現在の自動車用エンジンの多くは、全部で3本)



C三菱エンジン運転許容温度
・現在、皆さんが運転している自動車のエンジンは、水冷式で、その水温をモニターして警告する。

当時の、軍用機は、 三菱空冷エンジン取説に明記される許容温度(下表)、シリンダーの温度と油温をきめ細かく定めて、 エンジンのピストン焼付き事故を防ぎ、かつパイロットは性能の限界に挑んだと思う。

その許容温度は、R-3350は、シリンダーヘッド(シリンダーヘッドアッセンブリーと解釈すると同じ場所と思う) であるが、日米ほぼ同等で面白い。これは、空冷エンジンの常識で、当時の世界標準と思う。

『飛龍』の運転許容温度は、戦闘時であっても、 シリンダー温度:260℃で5分以内、230℃では、30分以内、200℃なら長時間飛行OKとなる。 この温度を、戦闘時に守れるか?守って敵戦闘機の餌食になるか、 守らず、B-29に体当たりして二階級特進を選ぶか?

DR-3350(B-29)運転許容温度

この許容温度は、B-29操縦マニュアルで、パイロットと機関士の遵守事項といて指示されていた。

その許容値は、三菱空冷エンジン取説に明記される許容温度と概ね同じである。

B-29の搭乗員には、標準化された操縦マニュアルが渡され効率的な訓練が行なわれた。

それに引き換え、日本陸軍は、各戦隊がそれぞれに、ガリ版刷りマニュアルがあったり、なかったりという。

さらに、エンジン開発の数年の遅れもあり、総力戦の優劣は決定的となった。

しかし、戦後は、その失敗の体験が、 米国の品質管理と標準化を貪欲に学び、高品質で経済大国にのし上った。

・E”秋 水”
”秋水”は、B-29撃墜専用に大戦末期の11ヶ月で開発、試作にこぎつけたという。 その技術は、3分で10,000mまで上昇可能なロケット戦闘機です。

その開発物語は、近年、最終決戦兵器科『秋水』設計者の回想/牧野育雄著 などがある。

この本は、終戦60周年にして上梓された。その謹呈本が、一ヶ月前にB-29 Friend 経由で編集者の手元に届いた。 私は、当時の開発の辛苦を拝読後の見学となった。

史料室長は語りました。当時、ドイツのMe163ロケット戦闘機の僅かな情報を手がかりに、11ヶ月で成し遂げた大和魂が 現代の経営者の指針になる。

その一例が、トヨタのプりウスの開発を早めよ!というトップの指示に、 当時の開発責任者は、それは無理といった。トップは、”秋水”は11ヶ月だぞ、と一喝したという。 そして、当時の開発責任者は副社長に栄進した。トヨタも秋水効果を享受したことになる。


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