
私の半世紀の思いである、パラシュート降下搭乗員が無事に帰還したかという情報は確認 できません。彼ら(B-29とP-51の搭乗員)の消息を確かめる手段は米国の国防省の膨大なGHQ調書を調べるしないのかと思われます。日本軍の当時の調書は連合軍の責任追求を恐れて総て焼却したという。当時事件に関与した方はほとんど亡くなっています。万事窮すかと思われましたが、現在はIT時代です。これまでに分かった事をHPで公開し、訪問者から寄せられた貴重な情報も公開することにしました。
そこで早速米国のHPでB-29を検索すると多くの情報が公開されていました。身近な疑問から理解を深めて楽しむことにしました。
B29の搭乗員は、通常は11名、その内訳は、機長、副操縦士、爆弾投下係、航行針路係、
機関士、無線通信士、レーダー操作、中央砲手統制、左側砲手、右側砲手、後方砲手、
で、総員11名です。従って3名が不明であり、前方キャビンで任務についていた機長、副操縦士、
爆弾投下係、航行針路係の4名中3名が焼失し、その内の1人がパラシュートで降下したと推測できます。
そして、後方キャビンで任務についていた兵士が黒焦げで残存したと思われます。
〔損失5機の機体NO〕
そだめ墜落機:B29#42-24766
その他損失機:B29#42-63418, B29#42-24626, B29#42-24748, B29#42-24550(注8)
その日”American Maid”は編隊の最後尾に位置していた。この日、日本軍の迎撃は激しく、多数の 戦闘機が向ってきた。突然、胴体側面の照準窓が破裂し、クランツ軍曹は機外に吸い出された。 ”American Maid”は6方向から日本機隊の攻撃を受ける。このためクルー達はクランツ軍曹が機外 に吸い出されたことに気づかなかった。直後機内では急激な気圧低下で白い霧が発生、 銃撃された負傷者も出て大混乱であった。その後、クルーはクランツのいないのに気付き、さらにクランツ の足が割れた窓に引っかかっているのを認め、ハーネスを掴んで引き上げようとする。 この状況は、隣を飛行中のデイトン大尉がカメラに収めた。
機内に引き上げられたクランツの顔は凍った血で覆われていた。彼は顔面蒼白で、白目を剥いだ眼球 は半ば凍っていた。彼らはクランツが死んでいると思ったが、酸素マスクを当て、やがて意識をとり戻す。 クランツ軍曹は後部与圧室のベッドに寝かされて モルヒネの注射と血漿の点滴をうけた。命に別状は無かったものの、冬季装備なしで高度9600m、 −40℃の外気にさらされたため重度の凍傷となり、ハワイの病院へ送られた。
《コメント》 現実は空の上も下も地獄であったと思います。ところで、ボーイング社はこの事件の再発防止でジャンボジェットの窓を小さくしたか?
挙母工場に落ちたのは、落下点が可鍛鋳物工場と第2鋳物工場の中間の空地であったため、被害は、主として爆風によるもので、さいわい、従業員は、工場外あるいは防空壕に避難していましたので、人命の被害はなく、可鍛鋳物工場と第2鋳物工場の電気炉の電気関係装置の損害を除いては、被害はあまり大きくありません。・・・中略・・・あわせて、当時の金額で239万6千円の損失でありました。しかしこれは、挙母工場全体の2%にしかあたっておりません。
戦後、まもなく、アメリカ軍が我が社の空襲で受けた被害状況を調査に来ました。そのとき見せてくれた爆撃の計画表によると、この8月14日の爆撃を手はじめに、3〜5日間にわたって、挙母と刈谷を攻撃する予定になっていたことがわかりました。かりに8月15日をもって終戦とならず、戦争があと1週間も続いていたとすれば、挙母、刈谷地区に密集しているトヨタ系各社の工場は、壊滅したかもしれません。
自動車工業は、アメリカの日本本土爆撃目標の第1目標ではなかったため、それまで、戦闘機による機銃掃射のほかは、たいした被害を受けなかったわけです。
P.S: トヨタを訪問したB-29 3機は何れも原爆投下の特別編成部隊第509CG所属です。 投下した爆弾は、原爆の模擬弾で、通称”パンプキン”と呼ばれたものです。(注11)
僅かな開発期間での大増産です。その修羅場は、後に”カンザスの戦い”と呼ばれ壮絶であった。その「戦場」となったのはカンザス州であった。
『全く新設の工場でボーイング社の生産現場スタッフは1944年4月までに早くも97機のB-29を完成させていたが、そのうち飛行できるのは16機に過ぎなかった。残りの81機は一部の部品や装備品が届かずに取りつけられていないままだったり、 搭載されていても不具合があったりで、飛行不能であった。
B-29の生産には機体メーカーとエンジンメーカーだけだなく、装備品も含めて無数の下請け企業が関与していたが、あまりもの急速な機体量産計画の進展に、それら下請け企業が追従できずにいたのである。
とくに問題だったのはR-3350エンジンであった。機械として十分に熟成される前に量産に入ったため設計上のミスや組立不良に起因する故障が続発した。しかもその対応のために次々に設計変更や改修が加えられたため、部品供給は大混乱となった。・・中略
それでもエンジンの最大の弱点であるオーバーヒート癖は直らなかった。その原因の一つは、機体側の設計にあり、抵抗軽減のためにカウリングがエンジンの大きさぎりぎりに作られ、エンジンまわりに十分な空気が行き渡らなかったからである。・・・中略
しかしエンジン側にも問題があり、シリンダーヘッド部分の潤滑が不足気味で、これがオーバーヒートするとバルブが飛んで、火災が発生した。また9基づつ2列に放射状に並んだシリンダーの間に冷却空気を通すため、バッフルという板があるが、これが損傷したり取り付けが歪んでいたりすると、たちまちオーバーヒートして、しばしば火災に直結した。・・略』
その他数々の問題解決の為に多くの関係者は文字と通りの不眠不休の作業が開始された。 1944.3アメリカ中西部は冬がいつまでも去らず、厳しい寒さが続いていた。カンザス州の各地の基地やウイチタのボーイング社工場では、野外のエプロンでボーイング社やライト社、それに陸軍の技術員たちが雪と寒風の中で、B-29の巨大な機体に取りついて作業を行った。
その努力の結果、5週間後には100機のB-29が軍に引き渡された。これら技術員たちの苦心は、後に”バトル オブ カンザス”と呼ばれ語り草となっている。
《コメント》戦後の復興で頑張った皆さんも体験済みですよね。Me too.
B-29部隊は、第20航空軍隷下で下記の2爆撃兵団で編成。
(注): BC: Bomber Command, BW: Bomberdment Wing, BG: Bomberdment Grope, BS: Bomberdment Squadron
| 年月 | XXBC発進数 | XXBC損失数 | XXIBC発進数 | XXIBC損失数 | 合計発進数 | 合計損失数 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1944/6 | 166機 | 12機 | ---- | --- | 166機 | 12機 |
| 7 | 114 | 5 | --- | --- | 114 | 5 |
| 8 | 171 | 16 | ---- | --- | 171 | 16 |
| 9 | 217 | 4 | ---- | --- | 217 | 4 |
| 10 | 310 | 5 | 36機 | 0機 | 346 | 5 |
| 11 | 390 | 15 | 303 | 5 | 693 | 20 |
| 12 | 335 | 15 | 526 | 19 | 861 | 34 |
| 1945/1 | 466 | 4 | 565 | 27 | 1031 | 31 |
| 2 | 490 | 4 | 876 | 25 | 1366 | 29 |
| 3 | 399 | 2 | 2536 | 32 | 2935 | 34 |
| 4 | --- | --- | 3259 | 52 | 3259 | 12 |
| 5 | --- | --- | 4338 | 85 | 4338 | 85 |
| 6 | --- | --- | 5282 | 42 | 5282 | 42 |
| 7 | --- | --- | 6035 | 23 | 6035 | 23 |
| 8 | --- | --- | 3087 | 11 | 3082 | 11 |
| 合計 | 3,058 | 82 | 23,756 | 321 | 26,814 | 403 |
〔コメント〕
当時米国のB-29生産能力は増加中、この程度の損失では減る事はなく出撃機数も日増しに増加。B-29の整備・補給・海上救出体制は万全。1945.8.14の最終日の出撃は809機、1分間隔で5飛行場から離陸させた。上の写真、戦いが終わりサイパン島イスリイ飛行場滑走路に並ぶB29群。
『I saw your B-29 website and you did a tremendous amount of work. I wish you
had an English website.
Thank you,
Michael Dana Kennedy
Boston, Massachusetts
USA
』
3人の生存米兵は、救出後、軍に拘引、その日のうちに焼け野原の東京に移送され、 その内の重症の1人は皇居周辺の東京外国語学校敷地(現毎日新聞本社)で、陸軍本部将校と憲兵の6人がかりで処刑(斬首)、他の2人は1945.5.20の空襲による陸軍刑務所(現NHK本社)の火災で他の多くの捕虜とともに焼死した。 これが当時の現実であったようです。これから考えて、 ”そだめ墜落B29生存米兵が”無事に帰還できたことが事実としたらそれは非常にまれな出来事で あったように思われてなりません。
この他にも、インターネットのお蔭でB29の生々しい墜落機の2事例を、5項の”B-29関連リンク集”で紹介します。それぞれに、2〜3名の生存米兵がいた模様ですが、何れも悲惨な最期をとげています。
『日本国民に告ぐ
あなたは自分の親兄弟友達の命を助けようとは思いませんか、助けたければこのビラを良く読んでください。数日の内に裏面の都市の内4つか5つの都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米軍は破壊しますけれども爆弾には目がありませんからどこに落ちるか分かりません。ですから、裏に書いてある都市から避難してください。
アメリカの敵はあな方ではありません。あな方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。アメリカの考えてゐる平和というものはただ軍部の圧力からあなた方を解放する事です。そうすればもっと良い新日本が出来上がります。
戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか。この裏に書いてある都市だけでなくても爆撃されるかも知れませんが少なくともこの裏に書いてある都市のうち必ず4つは爆撃します。
予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難してください。』
ビラの裏には爆撃中のB29編隊の写真を背景に青森、西宮、大垣、一宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田、の11の都市の名が挙げられていた。
ビラは各都市に6万枚ずつ投下されたがが、こうしたビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、所持した場合3ヶ月以上の懲役又は10円以下の罰金、内容を第3者に告げた場合無期又は1年以上の懲役という罰則が定められ、拾っても中身を読まずに警察、警防団に提出することが国民の義務とされていた。
実際北海道庁警察部の内務省宛て報告によれば、函館に投下されたと推定される36,000枚の内、約28,000枚を回収したとしている。
1945.7.28、青森市役所が「避難者は28日までに復帰しなければ、町会台帳より削除する。したがって一般物資の配給が停止される。」と告知していた事もあり避難先から続々と戻る市民で街は久しぶりに賑わっていた。一方で「近い内に大きいのが来る」という噂も広まっていた。・・・略
21時30分、仙台湾にB-29の大編隊が来襲。B-29は牡鹿半島から秋田県男鹿半島へ本州を縦断、鮫ヶ沢から青森県を目指した。22時10分、空襲警報のサイレンが青森市に鳴り響いた。敵機の来襲を告げるラジオアナウンサーが「青森市民の皆さん、津軽魂を発揮して頑張って下さい」と悲鳴にも似た連呼を繰り返す頃には、12機の誘導機が市民の頭上に飛来していた。
誘導機は目標に照明弾を投下、目標の周囲を焼夷弾で囲み、後続部隊に爆撃範囲を指示する任務があった。それは結果として市民の逃げ道をふさぐ事になった。
灯火管制も意味をなさない真昼のような照明弾の揺らめきの中、焼夷弾は無機的にばらまかれていった。攻撃は4,230〜4,410mの高度から、22:37から23:48の71分に亘って・・・略
この結果、かって人口10万人を誇った青森市は地上から消滅した。一夜明けた市内には至る所に焼死体が散乱していた。治安維持の任にあたる海保良夫県警部長は「これくらいの被害は取るに足るものではない。県は被害に対する各措置につき万全を期しつつあるから県民各位におかれてはいよいよ必勝の信念を堅持し、徒な流言に迷うことなくあくまでも冷静沈着に各職場を守り防空に生産にその本分を尽くされんを切望す」と声明した。・・・略
敗戦直後来青した合衆国戦略爆撃調査団の報告によれば、79,116発の焼夷弾が投下され、市街地の88%が焼失していた。警告ビラには軍事施設を破壊すると明記されていたが、同調査団によれば、貨物飛行機の着陸装置と翼の部品を製造していた東洋製罐工場は見事に焼け残っていた。・・・略』
さらに、2名のB-29搭乗員の手記が日本語に翻訳され、下記のHPで公開されています。
B-29の日本本土爆撃の当初は夜間の高高度爆撃です。再三の出撃でも中島飛行機武蔵製作所などピンポイント攻撃は目標捕捉もままならず、着弾精度は劣っていました。市街地への焼夷弾爆撃でさえ成果が上がらなかったようです。そして、1945.1.20付けで登場したのが、新司令官のカーチス E ルメイ少将です。彼は、昼間爆撃さらに低高度爆撃を強行します。
諸君、酸素マスクを捨てろ、ルメイここにありが兵団の合言葉となったようです。この一言で、搭乗員は、日本の防衛隊の弾幕と迎撃機の襲いかかるのを覚悟し爆撃飛行を余儀なくされました。実際にその後の爆撃は、出撃前のブリーフィングで、1945.3.25名古屋夜間焼夷弾爆撃6,000ft(1,830m)、1945.4.7中島飛行機武蔵15,000ft(4575m)の昼間空襲などの指示が出て実行された。
そして、Chester Marshall操縦士は、自著の中で、1945.4.7の中島飛行機武蔵の爆撃飛行の状況を次ぎのように伝えています。
『この日、25番クルーが東京上空の恐るべき修羅場をいかに懸命に生き抜いたか、その経過を逐一書いた日誌から、私たちと飛行機に同乗したつもりで実相を窺われたい。
午前10時35分浜松近くの海岸線を通過して東京の目標357(中島飛行機武蔵)を目指す。第878飛行隊は、877と879飛行隊につづく第3編隊で、先行する編隊と一列になって進む。同高度前方を見ると、対空砲火の弾幕の爆煙か黒雲となっている。先頭の飛行隊がこの地獄の業火に捕まっている。我が飛行隊はその60mほど上を、第879飛行隊の直後につづいて飛んでいる。対空砲火は、 我が機の周囲で炸裂し始め、編隊が射程に段段と近づくにつれ弾幕は密度を濃くする。今は奇跡が必要だ。
先導飛行隊が対空砲火の爆煙のなかを突き進んでいるのがどうにか見える。それでも、前方の全機が編隊を維持しているようだ。日本軍邀撃戦闘機がB-29を捕捉しようと上昇してくる。だが、掩護戦闘機P-51は敵機が爆撃機に到達しないうちに叩き落とそうと急降下して行く。様々なことが急に起こってくるので何がどうなっているのか判然としない。
私たちは自分が生き残ることだけに必死に努力を集中する。左側に落下傘が幾つか開いたと射手たちが報してきたが、降下しているのがアメリカ兵か日本兵か見分けがつかない。
任務飛行指揮官機との無線通話は騒然としている。空のどこを見ても日本戦闘機だ。射手たちも 、味方のP-51と敵機の識別に難渋している。B-29の機関銃手の神経は過敏になっていて、日本上空では「超・空の要塞」に似ていない飛行機なら何でも引き金に当てた指が動いて発砲する習慣がついている。
我が機の前方で、日本戦闘機1機がB-29に体当たりしたばかりだ。翼が飛んだB-29がくるりくるりと回転しながら地上に落ちて行く。あの様子では、助かる者はなさそうだ。サザーランドから、別のB-29一機が錐揉みで落下するのが見えると報してくる。
午前11時04分。爆弾投下から2分経過したばかりだ。
日本戦闘機1機が、我が編隊の上に急速に近づいて燐性弾を投下した。一どきに何機かのB-29を叩こうという魂胆だ。その一発がチャールズ ヒッバード中尉機の第1エンジンと第2エンジンのあいだに命中し、発火した火を消しとめる方法がない。
私たちの機の右側をヒッバード機と同じ編隊で飛ぶメーローとホドスンがヒッバードに声を掛け、「火焔が翼を舐めている。翼が溶けて火が翼内ガソリンに回ると、きっと爆発を起こす」と言っている。メーローとホドスンは「乗員を脱出させろ」とヒッバードに頼んでいる。「飛行機を海岸線まで持って行ってから脱出させる」とヒッバードが答える。
わが機はコーツ少佐機の投弾に合わせて爆弾を離していたので、ヒッバード機を見守るだけだが、いつ爆発を起こすか気が気でない。焔は機体全体に回っており、ヒッバードは機の制御を失いかけているらしく編隊から少し逸脱し始めた。
ヒッバードは機首を引き起こしながら、もう2、3分操縦できれば海上で乗組員を脱出させられると頑張っている。同機が左に滑ってわが機のほんの数フィート上に来たたとき、前部隔室のヒッバードと、リーと、ローランドの顔がはっきり見えた。3人が手を振る。それが別れの挨拶だとは私たちにも分かっている。
ヒッバード機がさらに編隊の左の方に滑り出ると、この燃えている日本の戦闘機がまた攻撃を掛け始めた。アンダースン、ホドスン、メーロー各中尉機が互いに被弾機を守ろうと寄り添いながら、なおもヒッバード機に「爆発する前に脱出せよ」と呼びかける。わが機の射手たちから「3、4人が脱出し落下傘が開いた」と報告がある。火焔がますます大きくなっている。
コーツ少佐機が僅かに右旋回している。コックスが増速してぴったり付いて行こうとしていると、日本戦闘機の一編隊が銃火を閃かせてわが機の機首めがけて急降下してくる。射手が一斉に応射する。コーツ機が被弾し、急に出力を失っている。コックスが少佐機の前にのめり出ないように機を懸命に操作する。
ヒッバード機の方を見ると、ちょうど機体が大爆発とともに空中分解し、火の玉となったところだ。 われわれは海岸線を出てまだ二分の位置だ。コーツ少佐から、「機の制御に問題あり、エンジン2機停止」と知らせがある。隊長機が硫黄島まで辿り着けるか、かなり疑わしい。銚子ポイント近くの 海岸を通過して基地に向いながら、私は例になく悲しい思いにとらわれた。私は、身近な戦友数名の死を至近距離で目撃したばかりだった。助けようにも手の下しようがなかった。
ヒッバードと私は、戦前ケンタッキー商科大学で学生時代を共にした友人同士であった。 数日前に、彼は新しく父親になったという知らせを受け取ったばかりだ。彼の喜びようは、隊内で見せていた満面の笑みに顕われていた。・・・略』
Chester Marshall操縦士は、その時の心境を「もし、目標上空で深刻な事態に陥ったら、燃える市街地に脱出しても生き延びられる可能性はまずないので、落下傘ははずしておこうと考えているのだと話した。脱出して降着でき、焼け死なずにすんだしても、きっと激晃した市民に嬲り殺されると思うのだ。そんなことなら、いっそ墜落する飛行機に身を任せる方がいい。少なくとも、その方がひと思いに死ねるだろう。」と語ったと言う。
出撃30回で無罪放免、B-29搭乗員は、通常11名の運命共同体です。Chester Marshall操縦士のCrewは何回も被弾しながら、後何回、後何回と無事を祈りながらギリギリで、爆撃任務飛行30回を1945.6.8に達成した。そして、日本軍の相次ぐ玉砕を尻目に祝杯をあげての帰還であった。彼らのギリギリは生還への希望であり、日本軍のギリギリは片道燃料がギリギリの絶望への出撃です。
第3章では、日本上空で被弾した墜落機の捕獲搭乗員は、どのように取り扱われ、処置されたかを究明していく予定です。そして、彼ら(B-29&P51パイロット)の情報に迫ります。ご期待下さい。
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