〔開設5周年&終戦70周年記念版・2016.7.11〕・・・ Home "B-29 English"

超・空の要塞 B-29の追憶

第5章 The Leading Lady(B-29続編) New,2021.8.27

B-29:米陸軍航空隊重爆撃機(第2次世界大戦)
墜落地点:現 愛知県豊田市坂上町”そだめ”



1.B-29続編 ”The Leading Lady”公開ついて

1945.1.3”そだめ墜落のB29” The Leading Lady(主演女優)の調査結果を公開して5年の歳月が経過しました。 そして、2005年の終戦60周年を記念して、The Leading Ladyに関するその後の情報を公開します。
その内容は、The Leading Lady記念写真による乗組員の紹介、その遺族と米国人の思い、 当時サイパンで戦争日誌を書き続けたB29砲手John Ciardi(後、米国で著名な詩人)を紹介します。

2.乗組員の紹介


この記念写真は、 1944.12末に撮影されました。撃墜された日の数日前です。写真の提供者は、 Kenneth Fine氏で、The Leading LadyのオリジナルクルーのKenneth F Fine少尉(ナビゲーター)の息子さんです。 彼の父は、1945.1.3以前のThe Leading Ladyの総ての任務に就きました。 そして、35回の爆撃飛行を終え戦争を乗り切りました。その父が大切にしていた写真です。

乗組員の紹介です。 The Leading Ladyの乗組員(#201)のオリジナルメンバーを示します。 その乗員を左から右へ順に説明します。(赤字は、 1945.1.3の搭乗者者、名前は、Kenneth Fine氏調べ)

@Harold T.Hedges軍曹・・・後部砲手、唯一の生還者(B29捕獲搭乗員:捕虜)
AFrank J.Yanik軍曹・・・砲手
BEdwin D.(Levin)Lawson 軍曹・・・CFC砲手、彼は、1月3日には搭乗せず。現在は、Edwin D.Lawsonとして知られ、2005.3現在この写真の唯一の実在の人物です。彼は、心理学の教授になり、名誉負傷勲章、空軍殊勲十字章など受賞。
CPaul E.Dreyer軍曹・・・レーダーオペレーター
DJoseph P.Nighan軍曹・・・無線通信士
EKarl Hunt軍曹・・・砲手
FGlenn C .Truesdel中尉・・・航空機関士
GGlendon M.Aitken中尉・・・爆撃手
HKenneth F.Fine少尉・・・ナビゲーター、彼は、1月3日には搭乗せず。 Fine少尉は35回の任務を終了して戦争を乗り切り、空軍殊勲十字章など受賞。
IFelix P.Omilian中尉・・・副操縦士
JWilbur E.Hurlbutt少佐・・・機長

この写真にいなくて、1月3日の搭乗員は以下の3名です。
KEdward H.Stoehr中尉・・・ナビゲーター、 彼は、Kenneth F Fine少尉と入れ替わり、1月3日に初めて、この乗組員と共に飛んだ。
LRichard P.Steinberg伍長・・・砲手、彼は、1月2日のサイパン島への 日本軍空襲で負傷したEdwin D.(Levin)Lawson 軍曹の後任になりました。
MMurcus A.Mullen中佐・・・1月3日に作戦観察者として搭乗した。


この記念写真は、 彼らがサイパンに到着する前に、そして、まだトレーニング中であった時に、 カンザスで撮影したLeading Lady乗組員の記念写真と思われます。

そうだとすれば、この航空機はThe Leading Ladyではありません。 この乗組員は、米国からサイパンまでB29の42-63429を操縦しました。 そのB29は、多分”Pacific Queen:太平洋の女王”であろうとKenneth Fine氏は言います。、

乗組員は、上の写真と同じです。
《前列の左から右へ、赤字は、 1945.1.3搭乗者・名前は、Kenneth Fine氏調べ》

Paul E.Dreyer軍曹・・・レーダーオペレーター
・Edwin D.Levin(Lawson)軍曹・・・CFC砲手
Karl F.Hunt軍曹・・・砲手
Harold T.Hedges軍曹・・・後部砲手(POW)
Frank J.Yanikk軍曹・・・砲手

《後列の左から右へ、赤字は、1月3日搭乗》
Felix P.Omilian中尉・・・副操縦士
Glendon M.Aitken中尉・・・爆撃手
Wilbur E.Hurlbutt少佐・・・機長
・Kenneth F.Fine少尉・・・ナビゲーター
Glenn C .Truesdel中尉・・・航空機関士


悲運の初搭乗者3名を紹介します。
(写真は、何れもKenneth Fine氏からの提供)

1945.1.2の日本軍のサイパン空襲で、負傷者もでました。翌日のThe Leading Ladyの乗組員は、 負傷者の砲手Edwin D.(Levin)Lawson 軍曹の代わりに、 Richard P.Steinberg伍長(写真右)に入れ替わりました。


何故か、ナビゲーターのKenneth F Fine少尉はEdward H.Stoehr中尉(左)と入れ替わり、 突如、砲手とナビゲーターが変わりました。





そこへ、Murcus A.Mullen中佐(右)の搭乗観戦です。
狭い機内に、中佐が加わりました。しかも、Wilbur E.Hurlbutt少佐機は、7機編隊の 先導機です。後続機への爆弾投下などの指示も必要です。 4名の砲手の守りもついに手薄になったと思われます。
B29の日本の戦闘機への備えは完璧です。 前後、左右、上下に2連装式の電子機銃が構えています。 常時、彼らが照準を向けていたなら、単独飛行で接近攻撃する”飛燕”を事前に飛行不能に出来たと、 後の詩人で、彼らと同じかまぼこ型のプレハブ兵舎で寝食を共にした、元B29砲手John Ciardiは言います。 彼の死後、発行された『Saipan:The War Diary of John Ciardi』は語ります。 戦争における生死を、”ギャンブル・水物そして運”とみなすよう導いたと。

3.遺族の思い(email情報)

B29Website訪問者は、日米がほとんどです。 そして、B29関係の情報をemailで受信しながら、 まだまだ忘れられなWWUの悲劇を回想しながら、”そだめB29情報を”世界に向けて発信し続けています。 その中で、The Leading Lady号の遺族関係者がB29Websiteを訪問し、 私に直接emailを送信した方は次の3名です。

@Wilbur E.Hurlbutt少佐(機長)の甥のRuss Hurlbuttさん
2003.1.21 3:03Russ Hurlbuttさんからの便りです。
こんにちは、私の名前は、ロックウェル・テキサスのRuss Hurlbuttです。 墜落機の生存者は、オクラホマ市のWalter(Harold) T.Hadges尾部銃手あった。 私は、今、彼の居場所を探している。あるいは、彼がもし生存していれば、 彼が60年代にオクラホマで生活していたことが知られている。 私のために他の5人が探した私立探偵に私は援助し協力した。

B29の機長は、私のおじのWilbur E.Hurlbuttであった。Websiteのあなたの情報の総てに感謝します。 その情報のいくつかは、私と彼の子どもは知らない。あなたの名前と電話が分かりません。 あなたからの便りを楽しみにしています。近い将来あなたにお会いしたい、 そして、あなたのWebsiteで見た墜落地点を訪問したい。 あなたの助けに感謝です。Russ

このMailから、Wilbur E.Hurlbutt少佐の子どもさんにも私のB29の 思いが伝わったと判断しています。彼とは、今後とも連絡を保つようにしていきたいと思っています。

AMurcus A.Mullen中佐(作戦観察者)の息子のMarc Mullenさん
2004.5.22 7:43Marc Mullenさんからの便りです。
拝啓、私は、あなたの”B29の追憶”のWebsiteを読み終えたところです。 私は、物凄い感激の中で、あなたに書いています。 なぜならば、1945.1.3に墜落した、Z□22、私の父が、その飛行機にいたのです。 彼の名前は、Murcus A.Mullen中佐です。 私は、あなたとの情報交換を切望します。
私は、この日まで、あなたが書いた情報が存在しえたことすら全く知りませんでした。 私は、あなたがしたことを、あなたとあまたの家族に非常にありがたく思っています。 このemailが正しい人に届いたかどうかを私に知らせてください。
私は、私が決して会わなかった父の運命を学ぶことに関して非常に興奮しています。 ありがとうございます!!!。
Marc Mullen California U.S.A.

このemailを受信して、遺族に私の気持ちが伝わったことに、私も大変に感激しました。 なにしろ米空軍中佐の子息さんです。早速、こちらの気持ちを丁重に伝えます。

2005.3.22 8:33Marc Mullenさんからの便りです。
私は、あなたからのemailを受け取りました。 そして、あなたからの新しいアドレスを聞いて非常に幸せです。 私は、最近、私の人生でいくつかの大きな変化があったことを知って欲しいです。 最初は、私が26年間していた仕事を引退する準備をしています。

次に、私の妻と、私がワシントン州のシアトルの北100マイルの島に、家を買った後に 私は仕事から引退して、およそ3ヶ月後にそこで退職する計画です。 そこは、私の父のB29が造られたボーイング社の航空機工場から遠くありません。 我々は、荷造りと引越しの準備で非常に忙しいです。

私は、いくつかの重大な思いを日本を訪問するという考えに与えています。 その主な理由は、あなたを訪問し、そして、飛行機が墜落した森を見ることです。 このプランはあなたで可能でしょうか? 我々が一たん引越しすると、私が旅行をするのに何をしなければならないかを調べ始めるでしょう。 あなたからの連絡を楽しみにしています。
敬具, Marc Mullen

PS:あなたのWebsiteに私の父の写真を入れていただけませんか? それは、大きな喜びを私に与えるでしょう。

私からの、remailです。遺族の”そだめ”B29訪問は、”そだめ”の村人も私も大歓迎です。 皆さんの訪問を心からお待ちしています。と伝えました。

BKenneth F Fine少尉の息子のKenneth Fineさん
2005.2.24 5:28"Sodame B29 Crash"
私の名前はKen Fineです、そして、元々、私の父はSodame B-29の乗組員のメンバーでした。 彼はW.E.Hurlbutt少佐(機長)と、その飛行機の墜落前の任務のすべてを飛んだ。 私の父は1945.1.3にナビゲータのEdward H. Stoehr中尉と入れ替わった。 他の1人のオリジナルクルー、 E. Levin軍曹CFC銃手も、また1945.1.3にRichard P. Steinberg.伍長 に入れ替わった。 その乗客、Marcus Mullen中佐は、Hurlbutt少佐の前のいずれの任務飛行でも飛びませんでした。

私は、あなたのウェブサイトを楽しんで、私の質問の多くの答えの覆いを取ることができました。 ところで、私の父は日本上空の35回の任務を終了した後に戦争を乗り切りました。 私は不思議であった、あなたが、Sodame B-29で撃墜したクルーの乗員名についてどこでリストを入手したかを私に言うことができますか? 私は、それには名前だけではなく、乗組員のポジション、ランク、軍籍番号、および状態(生死)もあったのに気付きました。 私はこの情報の一次資料をとても見つけたいです。 あなたの助けは感謝されるでしょう。

さらに、私には、Sodame B-29クルーの乗員のほとんどすべての写真があります。 あなたはそのコピーに興味を持っているでしょうか? どうぞ私に知らせてください。
私は日本で1988年8月から2000年11月まで働いていました。 私は千葉の成田空港のヤマト運輸(株)と共に働いていました。 その時、あなたを知っていたら、私が、Sodame事故現場を訪問し、 そして、あなたに会うのを楽しみ願ったでしょう。 私はあなたから連絡をもらうことを楽しみにしています。

敬具, Ken Fine. Blue Springs Mo 64015 USA

私は、このmailを読んで、 運命の不思議を痛感しました。そして、彼の父上のラッキーを祝し、 写真の提供をお願いしました。 その写真が、”The Leading Lady記念写真”です。 しかし、彼は、父の無事に反して、父の戦友と身代わりになった交代者への思いが、 ”そだめ墜落B29”の遺族との情報交換と収集を進めています。 60年経った今も!私のWebsiteの情報も役立っているようです。

《遺族の思いと私の思い》
私のWebsiteは、遺族にとって、半世紀以上前の出来事を蘇らせるに十分であったようです。 反面、Siteの表現に失礼がなかったか心配もしています。 しかし、私の”そだめB29”の情報は、米国内のB29関係者の多くに伝わり、 そして、遺族の元へと伝わっていったと思っています。

遺族の思いは、何時の日にか”そだめB29”の現地を訪問して、 なき父、戦友の霊を弔うことのように思います。 この気持ちは、人類の財産です。そして、世界平和につながる架け橋になると信じています。

《遺族の再会2006.4》
Mr.Kenneth FineからのThe Leading Lady遺族会のニュースです。 73BW(爆撃兵団)の戦友会がテネシー州メンヒィス市で2006.4.3から6に行なわれました。 その会に集まったThe Leading Lady遺族会関係者の集合写真を公開します。 写真の左から、
@Paulette Webster-daughter of Radar Operator Sgt. Paul E. Dreyer.
AMrs.Geneva(Dreyer)Hamilton-widow of Sgt. Paul E. Dreyer.
BRuss Hurlbutt-nephew of A/C Maj. Willbuer E. "Barney" Hurlbutt.
CEd(Levin)Lowson-original CFC Gunner and not on Jan 3.1945 flight.
DJim Farrell-retired Lt.Col(USAF) who was the A/C on his on his fiest mission, later was A/C of the Frisco Nannie.
EKenneth Fine-son of 2nd Lt.Kenneth F Fine Navigator, not on the flight of Jan 3.1945.
FMandy Cohen-daughter of Jim Farrell.

彼らは、The Leading Lady の遺族と1945.1.3以前の搭乗員とその家族です。 61年の歳月は過ぎましたが、運命共同体としてのThe Leading Ladyの絆は永遠です。
彼らが持っているThe Leading Ladyのイラストは、英国の航空イラストレーターのMark Stylingが製作し、Mr. Kenneth Fineが入手して持参した記念のボードです。

4.米国人の思い(email情報)

米国のB29関係者は、大勢います。その絆は、B29戦友会のWebsite"B-29 Superfortress Then and Now"で知られています。 これまでは、グアム島やサイパン島で全国から多くのB29のOBが集まり,拡大の戦友会(Union)が開催されていました。 しかし、準備する人も、参加する人もだんだんと高齢です。 彼らは、昨秋の大会が最後になると伝えてきました。
日本も同じです。戦友会の機関紙も年々薄くなっているようです。 そのような時期の米国からの便りをお伝えしようと思います。

@Neysa McNeley.Picklumさん
2003.1.29 13:08"Peace between us ・我々両国間に平和を"
あなたのSiteをHapから聞いた。それを読んで嬉しかった。 私は、1945.6.5の神戸空襲の後に捕虜となったB29のひとりの男の姉です。 彼は、終戦直前の8月に大阪憲兵隊で処刑執行された。
私は、アメリカと日本が、今では友人となることができてとても嬉しい。 それは、あなた方にとってもつらい時であった。そして、恐ろしい戦争は、我々総てに、全世界のためにつらい。 私は、今では、アメリカと日本が友達になり嬉しい。
数人の日本の方が、B29乗員の私の弟に何が起こったかについて調べ私を助けた。 私は、彼らの援助に感謝しています。
David F. McNeley の姉, Neysa McNeley.Picklum

私は、彼女の弟の冥福とNeysaさんの長寿を願うremailです。 そして、パソコンの操作はどのようにして習ったかと聞いてみました。 すると、米国では、多くの老人がemailを使う。なぜなら、 かれらは、図書館か、シニアー活動センターで使うことが出来る。 emailを使う多くの私の友人はリタイアされてから習う。 彼らは、学校(パソコン教室)で使い、リタイアの後で使い続ける。

日本のシニアーも頑張らないと!

AKatieさん
2003.2.14 6:52"B29"
貴下、私はあなたのSiteより、あなたを賞賛します。写真も、英語もVery Goodで賞賛します。
私の父は、パールハーバー攻撃の後で空軍に志願し、あなたの国を爆撃した。彼は、B29の航空機関士で、最初の飛行機であった。 彼は、日本爆撃35回の任務飛行をした。その間の男の戦いの結果は決してハッピーでなかった。 私は、彼が軍務に奉仕したところのよき人であり、勇気ある父を大変に誇りに思う。
アメリカが他の戦争にまた直面しているように、私は、WWUを振り返って思う。 そして、総ての戦争が終わることでなかったことに失望を感じている。
私の近所に日本人とのハーフがいます。彼の父はGIであった。彼の母は、長崎の出身です。 我々は、共に戦争について学んだ。私の父は、彼の母の故郷をB29で爆撃したように思う。 その戦いが続いている時に彼女はその丘に生活していたのがその理由です。 私は、彼の小さな息子と娘の面倒を見た。彼らは、私の家とより親しくしていた。 しばしば彼らの罪のない寝顔を見た。私のまた友人であるところの彼らの親愛な祖母と 勇気ある私の父のために、私は神へ感謝です。どうぞ、より一層の世界平和のために あなたが何かすることを続けてください。総ての人の理解なしでは決して出来ません。

謹んで、Katie

2003.2.17 6:29"Re:B29"
あなたの親切と、よいメッセージありがとう。あなたと私がこのように話すことは素晴らしいことです。 今日、再び、父親の唯一の願いが平和のためであったことを、あなたが実感することを正しく認めます。 我々は、イラクの戦争にとても反対である。私は、ブッシュ大統領の支持者ではありません。 私は、父と多くの人々を信じます。 私達がそれを支持すると同様に、私達の政府に反対する権利を持つように。

謹んで、Katie

BHisanagaさん(日系二世?)
2005.1.15 1:00 "We hate B29・我々はB29が嫌い"
アメリカ政府は、B29に莫大なお金を使いました。だれかが言いました、 アメリカはB29に助けられ、役に立ったと。 なぜならば、そのB29で、アメリカは敵国の日本を破ることができた。

他方では、多くの日本人がこの飛行機によって殺されました。 それは兵士だけではなく、汚れを知らない子供もいました。 WWU時点で、私の母は子供でした。彼女はもう少しで殺されるところでした。 彼女の両親はB29によって殺されました。彼らは軍人ではありませんでした。 もちろんB29のパイロットは故意にそれらを殺しませんでした。 彼らには、日本人を殺すことへの如何なる選択の自由もありませんでした。

とにかく、我々はこのB29を正当化するべきではありません。 我々は犠牲者と彼らの遺族のために哀れむべきです。 我々はどんな兵器も如何に削減させるか、どんな戦争も如何に止めるか思うべきです。 正当化されるために、どんな兵器もありません。

《米国人と私の思い》
Mailの送り主は、WWUでB29に関わった父親を尊敬しています。 当時の米国は、正義の、民主主義のための戦争であり、父親の勇気をたたえます。 しかし、彼らの本心は、これで戦争は終わった、二度と戦争はしたくない、 そして世界平和を願っています。

私は、米国もB29の日本本土爆撃作戦を正当化させる必要はないと思っています。 しかし、人類が起こした最大級の悲劇であったことは事実です。 そのような愚かな行為を未然に防止できなかった、日米のおごりに問題があったと思います。 21世紀になって、米国のおごりが、気になります。追従する日本も気になります。

21世紀は、戦争の経験のない、戦争を知らない世代が中心です。 彼らにもB29を伝承し、このWebsiteを訪問してもらい、 世界平和のエネルギーになることを願っています。

5.アメリカ人の詩人・John Ciardiの紹介

私は、このたび、 The Leading Ladyの縁で、Kenneth Fine氏にお会いしました。 彼は、私にアメリカの"詩人John Ciardi"を知っているか?と尋ねました。

Kenneth FineのmailとEdwin D (Levin)Lawsonのコメント(注1)によると、 彼(John Ciardi B-29砲手・詩人・1915-1986)は非常に面白い男であった。 彼は、同じ882飛行隊(注2)に所属し、Leading Lady号の乗組員のようであったという。

Ciardiは、サイパンで、軍曹Levin(Lawson),Hedges,Yanik,Dreyer,Hunt and Nighanと 同じかまぼこ型のプレハブ宿舎に住んでいた。そこで、1944.11.5から1945.3.10まで日誌を付けた。 この日誌は、彼の死後に編集され、 『Saipan: The War Diary of John Ciardi』として、 University of Arkansas Press,Fayettavill,Ar & Londonにより1988年に出版された。

その記述の多くは、行った戦いとCiardiの自己の内側の戦いです。 彼は、また生前に、40冊の詩の本に書いた。そのうち2冊がサイパンを扱います。

私は、彼らの情報から、Ciardiの日誌は、The Leading Ladyと同じ7機編隊で1945.1.3の 名古屋空襲に出撃した当時の状況の一部始終を正確に描写していると判断しました。 あたかも、彼が機内に居たかのようにな記述という。 Ciardiは、The Leading Ladyの後続機にいて、B29の銃座から日本の戦闘機に銃口を向けていたと思われます。 持場の銃を点検し、銃座に鼻を付けていれば、日本の戦闘機は近づけないという。

私は、1945.1.3のThe Leading Ladyの真相は 『Saipan: The War Diary of John Ciardi』を読むことであると確信しました。 そこで、オンライン通販の 『amazon.co.jp』 の洋書をクリックすると、その本は英文の原書で、3から5週間で配達するという。 早速、注文しました。

注1: Ciardi and Chance: Comments on Sipan: War Diary of John Ciardi/Edwin D.Lawson/心理学名誉教授
注2: 21爆撃兵団/BC・73爆撃航空団/BW・500飛行連隊/BG ・882飛行隊/BS(Hurlbutt少佐/機長先導の7機編成の飛行隊)

6. 蘇れ”The Leading Lady”

The Leading Ladyが”そだめ”の山林に撃墜され、 WWUが終わり、60年の歳月が経ちました。 私のB-29の追憶も、60年のタイムトンネルをくぐり抜けた思いです。

"そだめB-29"をWebsiteで公開し、5年が経過しました。 その間に、日米から入信したMailは、数百件を超えました。 Website訪問の皆さんと、多くの情報の提供者に感謝しています。 The Leading Ladyの遺族からのmailもいただきました。 ”そだめ”に散った乗組員の写真も公開できました。亡くなった11名の乗組員も、ITの旅路に出発出来ました。 どうぞ、思う存分に、60年後の世界を見てください。そして、問題点を指摘してください。 私は、終戦60周年の今年を、The Leading Ladyが蘇った年にしたいと思っています。

米国のThe Leading Ladyの遺族をはじめ、関係者も熱い思いを寄せてきます。 私は、”そだめB-29”の事件を学びました。超・空の要塞といわれたB-29であっても このような悲しい事件が400機以上にも及びます。

一方、当時の日本の国民は、無防備の船舶に載せられ、米海軍の魚雷の標的になりました。 現在も、僅かな生存者が団長となり、南方洋上で戦友の遺骨を探し求めています。 WWUが終わり、B-29乗組員は、二度と戦争が起きないと期待しましたが、 その6年後の”朝鮮戦争では、B-29が大活躍し、延べ23.000機が出撃し、 日本本土爆撃に匹敵する重量の爆弾を投下しました。 朝鮮半島の200万人が犠牲になったと言われています。

最後に、ご訪問の皆さんにお願いです。B-29の悲劇に学び、 武器のない地球、戦争が起きない地球になりますように、世界の平和を願い、 行動していただければと思っています。 それが”そだめ”で散った11名の霊を弔うことになり、”The Leading Lady”が蘇ることになると思います。  

7. ”The Leading Lady”乗組員の墓標

2008.5.27 米国オハイオ州在住のJeff DanbyさんからのMailです。 ルイビル、ケンタッキーのザッカリー・テイラー国立墓地で2008年5月11日に私が撮影した墓標の写真を送るという。 その理由は、米陸軍機甲師団(戦車大隊)の南フランス戦線で1944.8.27に戦死した祖父の墓の近くの墓が気になり調べ、 あなたのSiteを知ったという。

私は、謹んで”The Leading Lady”乗組員の墓標の写真を掲載します。 墓標には、乗組員12名中戦死した11名の氏名と階級さらに戦死日JANUARY 3.1945が刻まれています。

《Jeff Danbyさんの紹介》
彼が、編集運営しているWebsiteを紹介します。

彼が祖父に奉げて執筆した
機甲師団の日(Day of the Panzer)

彼の祖父が従軍した
第756戦車大隊(The 756th Tank Battalion)

8."The Leading Lady"唯一の生存者 Harold T Hedges の続報(孫娘からemail)

2012.4.14 孫娘から"My grandfather was Harold T Hedges"というemailが入信しました。 なんと、B-29 Websiteを公開してから12年の歳月が経っていました。
その間、彼に関する情報は、
@2002.6.15 Ray 'Hap' Halloran 氏(2011.6ご逝去)から、  終戦まで彼と共に大森捕虜収容所にいた。終戦後無事に帰国、
A1964 までオクラホマで生存していた。
というものでした。

この度、 孫娘からのemail情報を紹介します。

・1st mail (2012.4.14)
私の祖父は Harold T Hedges です。 祖父はテキサス州の癌病院で1979年11月にガンで死亡(56歳)した。
祖父は二度結婚し、最初の妻に子供2人、 二度目の妻にも子供二人がいる。私は、二度目の妻の長男の子供です。
祖父は、生前には食品取引業を営んでいた。

・2nd mail (2012.4.15)
私はむしろ、Websitの情報がより一層正確であると思った。
あなたがWebsitを更新したい場合は孫娘からの提供情報として私は許可します。
私は祖父の飛行機のニックネイム(The Leading Lady)を検索した後に偶然に祖父の情報を見つけました。
私がWebsiteで見つけたあらゆる情報で祖父への近親感を感じた。
私は1986年生まれで28歳ですので、他の如何なる方法でも祖父のこの様な内容を知ることは出来ませんでした。 私は、これまで、しばしば祖父の墓前で祖母からただ昔話を聞くだけでした。

・3rd mail (2012.4.19 )
私は現在一時的にドイツに住んでいます。
家族の写真アルバム(祖父と家族の写真)はオクラホマに保管してあるので直ちに送ることができません。
私の夫は、現役の軍人で間もなく米国のどこかの州に駐留のため帰国します。 そして、私は写真を見つけますが、それまで写真はお待ちください。

9."The Leading Lady"もう一人の生存者 Edwin D.Lawson(Levin) の紹介  〔終戦70周年記念〕

"The Leading Lady"のオリジナルクルー であった、Edwin D. Lawson(CFC砲手・軍曹)が、生死を分けた
サイパン飛行場への日本軍の奇襲爆撃(2 Jan.1945)事件を、彼が主管するHP 500th Bomb Group B-29 Memorial >
第500 爆撃飛行連隊の日記" 戦闘の日々・Day by Day-Combat"を翻訳し紹介します。

はじめに、終戦70周年・ワシントンDCでのマリアナ諸島 B-29 退役軍人会の記念写真をご覧ください。

前列右端が Edwin D. Lawson 92 歳/2016.5です。彼は、終戦までの間、延べ29回出撃し、除隊後は復学し心理学の教授となり教育界に貢献し、 現在はニューヨーク州立大の名誉教授、また、晩年は、退役軍人として、教育者としての社会貢献が認められ各種功労賞を授賞し、 現在は、B-29 500BG 戦友会のHPを主管するなど社会貢献をしています。

この写真は、70年前にB-29 の搭乗員としてマリアナ諸島から日本出撃の任務を果たし生還し、今に生存する退役軍人の皆さんです。 戦勝国の彼らもまた、日本出撃30回のノルマがあり、出撃の度に死の恐怖をくぐり無事生還を祈りつつ指折り数えて終戦を迎えた。

この写真から、彼らの終戦70周年の思いを想像下さい。彼らは、終戦を迎えた時、もうこれで戦争は終わったと大喜びで 帰郷したが、その後の朝鮮動乱、ベトナム戦争勃発を非常に残念がったという。

とりわけ、"The Leading Lady"のオリジナルクルーであった Edwin D.Lawson は、帰らぬ仲間への思いは消えることはありません。 B-29の乗組員は運命共同体と言われ、彼らの絆は永遠です。

私は、終戦70周年を記念して、このページに彼を紹介し、彼の思いを戦死者に伝えたいと考えました。

次に、読売新聞の特集『戦後70年 空襲』 2015.2.25の新聞記事を紹介します。 この記事は、Edwin D.Lawsonの戦争と仲間への思いが記述されていますので読んでください。 また、この記事は取材記者に私が彼を紹介し、2015.2.25 の朝刊に掲載されましたので末尾に掲載します。

写真出典:HP 500th Bomb Group B-29 Memorial >より、
HP管理者・Edwin D Lowson & 写真提供者 Sandra Ann Gillard 許可済み、


彼は、2項 乗組員紹介で触れたように "The Leading Lady"が、サイパンから名古屋空襲へ出撃する前夜滑走路警備(輪番制)に当たり、 日本軍の奇襲爆撃で爆弾の破片が左足首を貫通したため病院送りとなり、後任は、Richard P.Steinberg 伍長(砲手)となった。

彼が生死を分けた 2 Jan 1945・日記”戦闘の日々”より、

 ヘイル ヘイズ機長の乗組員の爆撃手(#228)、少尉(2/ LT)ハロルド・ハル・タウナーは、 自らの日記に1945年1月2日の夜について次のように短く記録している。 「ジャップが今夜再びやってきて、大きな爆弾を一つ落として逃げて行った。

ハル・タウナーにとってはこの出来事は連絡事項以上の意味は無かったが、 Hurlbutt機長の搭乗員(#222)でCFC(中央火器管制)の砲手である若い軍曹エド・レビン(Edwin D.Lawson(Levin))にとっては、 いろいろな意味で生死に関わる事件であった。

 レビンはその夜、下士官兵がローテーションで担当する通常業務である対航空機守備兵の任務についていた。 だから彼は、3時45分頃に空襲警報が鳴りだし、高射砲の砲撃が始まったその夜の飛行経路を知ることとなった。

 レビンの言葉によれば、「その時我々は多くの曳光弾を見た。空に一筋の光が生じた。 私は日本の爆撃機一機が撃ち落とされたと思った。 それは私がいた所の近くに落ちてくるように見えた。 以前の日本の飛行機が撃墜された場合には、 何人かの人は記念の品を手に入れていた。私も一つ欲しいと思っていた。

 私は、日本がロケット爆撃機?を持っていたことを知らなかった、 そして、私は笛の音を聞くまで、それが現れるまで平然と見ていた。 その時、私は撃墜された飛行機がヒューっという音を出さないことを思い出した。 私は、防空壕に入ろうとした。私は完全には入ることはできなかった。  人々によって私は遮られた。恐らくその壕は小さすぎた。

その結果、私の両足首は壕から突き出ていた。 その爆弾(私は後にそれが1800ポンド(666Kg)級であると知った)は我々に極めて近いところに着弾した。

 その爆弾は100〜200フィート(30〜60m)離れたところで爆発したと思う。 それは私の人生で聞いた最も大きな音だった − 後にも先にも。 私は炎が燃え上がる光景を覚えている。

 結果として、爆弾の破片が私の左足首を貫通し、ひどい出血が生じていた。 レビンには出血を止めるための応急処置が施され、その後病院に搬送された。、 そこで医者が彼の切断された腱に治療を施した。

彼はやがて完全に回復し最終的には任務に戻るだろうが、しばらくは戦争から離れることになるだろう。

 しかし戦争は誰かを待ったりはしなかった。 Hurlbutt機長の乗組員は1945年1月3日に名古屋を攻撃する任務の予定となっており、彼らは出撃したのであろう。

伍長のリチャード P.スタインバーグがレビンに代わってそのフライトに搭乗した。 その乗組員は決して戻らなかっただろう。

 乗組員達が撃ち落とされたことをエド・レビンが知ったときの、彼の胸中に広がった感情を言葉にするのは不可能であろうし、 私も言葉にするつもりはない。ただ、そこに生存者の罪悪感が確かにあったと言うこと以外には。 確かにそこにいくつかの遺族の罪悪感があったと言うことを除いて、私は、しようとはしません、

 エドは戦争から帰宅した後に、勇気を出して、可能な限り多くの亡くなった乗組員仲間の家族を訪問することに時間を費やした。 これは、いくつかの厄介な状況のためにぴったりで、それは悪いと、エドは彼がしなければならなかったと感じたものだった。

 このことはいくぶん気まずい状況を生み出すことがあったが、それがエドが自らが行わなければならないと感じたことであった。 彼はいい人です。

B-29 搭乗員 Edwin D, Lawson 読売新聞デビュー

【情報:2015.2.25読売朝刊全国版”戦後70年空襲”特集記事より】

エドウィン・ローソン(Edwin D, Lawson) 紹介:1945.1.3 豊田市松平地区に墜落した”The Leading Lady 号のオリジナルクルー、
1945.1.2 日本軍のサイパン島空襲で負傷し、撃墜日の1945.1.3に搭乗せず、快復後含めて29回出撃経験の生還者、
The Leading Lady遺族会会員、編集者(私)のB-29 Friend、彼の情報・mail アドレスなどを読売の吉永記者へ提供、


編集後記:
 この記事を編集中(2015.5.26〜27)には、伊勢志摩市でG7 サミットが開催され,終了日の午後には米国のオバマ大統領が 広島平和公園を訪問した。彼の任期があと8ヶ月と迫る中、原爆資料館を見学(約10分)し、原爆慰霊碑に献花、 犠牲者を悼み、核軍縮と核の脅威の無い、核兵器のない人類の未来を切望した。

このニュースは、世界に流れ、核無き世界へつながることを、訪問の皆様とB-29ベテランと共に切望する。岡田邦雄 2016.5.27

10.Edwinの Z-22への思い・第二次世界大戦70年後(メッセージ全文&訳文掲載)

  (私は、2016.6 Edwin さんから貴重なメッセージを戴きました。
彼のZ-22 と平和への思いを是非お読みください)

-----It is over 70 years since the end of WWII. Kunio Okada has devoted a great deal of time and skill to describing the role of the B-29 during World Two. He has prepared several websites that are in Japanese and English that describe the crew of Z Square 22 and what happened on January 3, 1945 near Toyota. Among many other contributions, he shows the shrine erected for the crew members. His sites are sympathetic and non-judgmental.

第二次世界大戦が終わってから70年以上になります。 第二次世界大戦の間のB-29の役割の記述に、岡田邦雄は多くの時間と技術をささげました。 彼はZスクエア22の乗組員と、1945年1月3日に豊田の近くで何が起こったかについて日本語と英語で記述したいくつかのウェブサイトを作成しました。 多くの貢献の中でもとりわけ、彼はその乗組員のために建てられた神社(友好碑)について説明しています。 彼のウェブサイトは、共感できるもので、中立的です。

-----Now, he has invited me to write something to the bereaved families of Z Square 22, the aircraft that went down over Nagoya on January 3, 1945. I have suffered from survivor syndrome since that date. Almost every day, I think of the crew that I trained with for so many months, that was lost. After the war, when I returned home, one of first things I did was to visit six of the families to offer my condolences.

今、彼は私に、1945年1月3日に名古屋で墜落した航空機であるZスクエア22の、亡き仲間に対して何か書くよう誘っています。 私はあの日以来、生存者症候群に苦しんできました。 何カ月も一緒に訓練をし、そして死んだ仲間のことを、ほとんど毎日考えてきました。 戦争が終わって帰郷した時、私が最初にしたことの一つは、哀悼の意を伝えるために6家族を訪問したことでした。

-----About ten years ago, I learned about the World War II Memorial in Washington. I immediately looked for the names of the men on Z Square 22. The National Archives are linked to the World War II Memorial. I also looked there. Much to my chagrin, I found a few of the men were listed in both places, as they should have been, but some were in one and not in the other. There was one, at least, that was on neither.

約10年前、私はワシントンの第二次世界大戦記念碑について知りました。 私はすぐにZスクエア22の乗組員の名前を探しました。 国立公文書館データは、第二次世界大戦記念碑について記載しています。 私はそこも確認しました。 非常に残念なことに、数人は両方の場所に適切に記載されていましたが、何人かは片方のみに記載されていてもう一方には記載されていませんでした。 どちらにも記載されていない人が少なくとも一人いました。

-----I contacted the people with the WWII Memorial add the proper entries. I had limited success, very limited. The National Archives staff was also of little help. From fellow veterans, I learned that there were many other men who were not listed. Perhaps, much of the incomplete records situation is due to the disastrous fire in St. Louis in 1973 where most WWII Servicemen’s’ records were destroyed. Or, was it bureaucracy?

私は、第二次世界大戦記念碑の管理者に、正しく登録するよう連絡しました。 それはほとんどうまくいきませんでした。 国立公文書館のスタッフもほとんど応じてくれませんでした。 仲間の退役軍人から、私は他にも多くの人がリストに記載されていないことを知りました。 恐らく、記録が不完全になっている理由の多くが1973年のセントルイスの壊滅的な火災なのでしょう。 その際、第二次世界大戦の軍人の記録の大半が消失しました。 あるいはお役所仕事のせいでしょうか?

-----Working with Donald Thurow, a fellow veteran from the 882nd and two sons of veterans of our squadron, James Bowman and Kenneth E. Fine, we formed the 500th Bomb Group Memorial Association to remember the fallen. We began building a data bank. That data bank became a website that gave much detail on all the men of our original bomb group. The website features the Honor Roll, citations for medals, crew photos (air crew, ground crew, and others) as well as many other photos. Another project of the Associaton was to add the names of all members of the 500th who went down included in the World War II Memorial.

第882チーム出身の仲間の退役軍人であるドナルド・サローと、我々の部隊の退役軍人の二人の息子であるジェームズ・ボウマンとケネス E.ファインと共に、 戦死者達を記憶にとどめるために、我々は第500爆撃チーム記念協会を設立しました。 我々は、データバンクの作成を始めました。 そのデータバンクは、我々の最初の爆撃チームの全員についてたくさんの詳細情報を提供するウェブサイトになりました。 そのウェブサイトの特徴として、優等生名簿、勲章の表彰、スタッフの写真(搭乗員、地上スタッフ、そして他のメンバー)や、それ以外にもたくさんの他の写真が掲載されています。 その協会の別のプロジェクトとして、墜落した第500チームのすべてのメンバーの名前を第二次世界大戦記念碑に加えることをしています。

-----What lessons can be learned from World War II and the terrible losses on both sides? Our sons and daughters, and their sons and daughters, must learn more about the causes of war and how to prevent them. But is that enough? I would say no. I would say that it is necessary as citizens to be active and vigilant to be informed about what our leaders are doing. We should express our feelings for peace to our leaders. Only then, will the loss of World War II gallant soldiers not be in vain.

第二次世界大戦と、敵味方の膨大な犠牲者から何の教訓を学んだのでしょうか? 我々の子どもたち、さらに彼らの子どもたちは、戦争の原因と、それをどのように防ぐのかについてもっと学ばなければなりません。 しかし、それで十分でしょうか? 私はそうではないと言いたいです。 市民として、我々のリーダー達がしていることについて知ることができるように、活動的で用心深くなることが必要だと言いたいと思います。 我々は、我々のリーダー達に対し、平和を求める気持ちを示すべきです。 そうすることのみによって、第二次世界大戦の勇敢な兵士たちの犠牲が無駄にならずにすむのです。

-----Kunio Okada is one of those who has stepped forward to work for peace and reconciliation. He has inspired and continues to inspire others. I thank him for giving me the opportunity to send this msg. May his work continue.

岡田邦雄は平和と和解のための作業を進めてきた人々のなかの一人です。 彼は他の人に対してこれまでそのような活動を広めてきましたし、今も広め続けています。 このメッセージを送る機会を私に与えてくれたことに対し、私は彼に感謝します。 彼の活動が続くことを祈っています。

寄稿者 : Edwin D. Lawson , Jun 2016

Edwin さんへ,

貴重なメッセージありがとう。

私は、あなたからの貴重な平和のメッセージがZ-22の戦死者と遺族にも届くことを願っています。

私は、あなたの健康と世界の平和を願っています。

HP:編集者 岡田邦雄 2016,7.11

11.Edwin D.Lawson(Ed)さんの訃報・1923.12〜2021.7.3 97歳

私はEdさんのFace bookを拝見し、家族の投稿文であなたの訃報を知りました。 あなたは15歳年下の私を旧知の友のように接し、B-29を通してたくさんの情報を提供してくださいました。 また、私はあなたから世界平和のために必要な行動指針を教えていただきました。 本当にありがとうございました、安らかにお眠りください。 下記に、Edさんの写真を掲載し、あなたの97年間の人生を称えたいと思います。


・・・ご冥福をお祈りしています・・・


終戦60周年記念編集版 2005.6.5 JA2TKO・K.Okada,
Kenneth Fine氏提供情報・写真追加版 2006.2.19 JA2TKO・K.Okada,
Jeff Danby氏提供の墓標の写真追加版 2008.6.1 JA2TKO・K.Okada,
"The Leading Lady"唯一の生存者 Harold T Hedges の続報(孫娘からemail)追加 2012.4.30 JA2TKO・K.Okada,
終戦70周年記念"The Leading Lady"もう一人の生存者 Edwin D.Lawson さんの紹介 2016.5.27編集 JA2TKO・K.Okada,
Edwin さんからのメッセージ追加   2016.7.11 編集 JA2TKO・Kunio.Okada

Edwin さん訃報掲載・お悔やみのメッセージ追加   2021.8.27 編集 JA2TKO・Kunio.Okada 83歳誕生日


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