第6章 P-51パイロットの消息
New!!
はじめに、60年前の夏の日の岡崎海軍航空隊のP-51(マスタング)撃墜事件で、 パラシュートで脱出し、日本海軍の捕虜となったChism中尉の情報を再確認します。
右の文書は、終戦後のGHQ/SCAP(連合軍最高司令官総司令部)調書の概要で、
報告NO2773の一部です。
タイトルは、『1945.7.15岡崎航空基地で撃墜不明のP-51犠牲者Ronald E. Jhonston少尉』です。
該当日には、複数のP-51が撃墜されていて、
Jhonston少尉機の調査で、該当機の情報は得られず、基地へ帰還途中に海中に墜落と判断され
調査終了しています。
しかし、11名の岡崎海軍航空隊の関係者を尋問した調書は、 その日、航空隊の付近で一機が撃墜され、 終戦後帰還したパイロットのPaul E. Chism中尉は、1945.7.15に撃墜され逮捕された。 また、近藤さんは、1945.7.15の航空隊の攻撃で、 一機がトラブルで煙を引きずって頭から突っ込んだと証言した。
したがって、P-51撃墜事件は、1945.7.15と判断されます。逮捕後のChism中尉の足取りは、 岡崎海軍航空隊の司令部で取り調べを受け、東海道線で大船海軍捕虜収容所に移送された。 捕虜収容所の名簿には、1945.7.18捕獲とありますが、1945.7.18に大船海軍捕虜収容所に収監された と判断されます。 また、後のChism中尉の証言で、移送中に列車の中で民間人に殴られたと述べています。
終戦後の、1945.9.5付けのThe NewYork Timesは、 大船海軍捕虜収容所の捕虜解放を報じていますので、9月上旬には開放されたと思われます。
また、1945.9.8付けの戦争犯罪局(War Crimes Office)の調書の中に、 Paul Edwerd Chism/中尉/軍籍番号 0-716062/Lambert Mississippi/大船捕虜収容所の記述がある。
その後、私のB29 Websiteは、在米ジャーナリスト徳留絹枝女史が、
日米の学生向けに昨年末公開した、
捕虜・日米の対話
のHapさんの捕虜体験記に紹介されるなどで、Hit数も少しづつ上昇してきました。
したがって、近いうちにChism中尉の関係者がきっとWebsiteを訪問することを
楽しみにしていました。
間もなくして、
2005.1.26 件名 Paul E. Chism というmailが入信しました。
送信者は、Elizabeth Chismで,
文面は、"My grandfather is Paul E. Chism POW "です。
その後、彼女との情報交換は成立していませんが、 お孫さんからのMailであることは確かのようです。したがって、Chism中尉は無事に生還され 、結婚され、戦後の人生を歩んだことになります。
この情報も、私の”B-29の追憶”を締めくくるのに相応しい朗報と思っています。
私は、Elizabeth Chismさんが、B-29Websiteを読んだことで、
私の気持ちがChism家へ伝わったと信じています。Chism家の皆さんのご多幸をお祈りします。2005 JA2TKO
私は、このe-mailを読んで嬉しさのあまりブラボーと叫び飛び上がりました。 彼が無事に生還したかという半世紀の思い、Websiteで彼の情報を求めてから8年の歳月がたっていました。 なんと、62年と4ヶ月の歳月です。一通のe-mailですが、私には待ちに待った情報でした。
私は、早速、お礼のメールでPaulさんの近況を尋ねました。翌日のMarkさんからの返信は、最後の戦友会で話した時は まあまあ元気(reasonable health )であった。Paulは、これまで私の戦友会に何回も出席し、非常に素晴らしい紳士と伝えてきました。
続編のe-mailです。私が最後に会ったのは1年前であった。彼は、1924年生まれでおよそ83歳、送った写真は4年前に撮ったと知らせてきました。
この知らせから、1945.7.15のマスタング撃墜でパラシュートで脱出した時の彼は21歳ということになります。 同じ日、4機のマスタングが撃墜されていますが、生存者は彼以外にいません。 私は、彼の生存を確認できました。
2007.11.24 私は、63年間の思いを圧縮した手紙と、当時のGHQ調書、撃墜マスタング(愛機)のプロペラの写真、捕虜Paulが連行されたルート地図などを添えて航空便でアラバマの彼へもとへ届けました。
2007.12.19 Jackie Rolloさんからのe-mailです。
私は、Paulとバーミンガムの同じオフィスで働いています。
あなたの手紙はPaulと私は共有している。Paulに関する連絡は私に書いてください。
私は、ドイツのニュルンベルク生まれで、およそ30年間米国に住んでいます。私は、第二次世界大戦中に生まて、その間に起こった総ての出来事に何時も非常に関心があります。私は、およそ10年間Paulを知っていて、彼を高く評価しています。
以後、何回もJackieさんのお世話になっています。Jackieさんありがとう。
2008.1.12 Paul Chismさんからのe-mailです。
あなたがより早く連絡してくれたが、ちょうどクリスマス休暇と旅行で時間がなく遅れてすみません。
私は、タイプがうまく出来ない。誤りがある私のe-mailを我慢して読んでください。
私は、あなたの手紙を受け取って、うれしく、驚かされた。
私は、あなたが私のオフィスのJackieに連絡していて、
私の家族に関して彼女にいくつかの質問をしたことを知っています。
私の家族は、娘Laurie、息子Paul Jr(故人)、2人の孫 Eric および Elizabethから成っています。
現在は、妻と2人で暮らしています。
私には、あなたに尋ねたい多くのことがあります。しかし、私は、このe-mailとタイプでは良く出来ません。
そして、さらに後で試みるでしょう。 Paul
2008.3.17 私から、Jackie & Paul へのe-mailです。
私は、63年前のマスタング撃墜事件の真相をPaulから聴きたい思いです。しかし、63年前の情報交換は困難を極めます。
そこで、彼の愛機が被弾してパラシュートで脱出し、着陸した地点の写真を彼に送りました。
Paul中尉は、63年前に、この森の近くの農地に着陸したと思われます。 この森の中には、皇室ゆかりの御陵と蓮華寺があり、概ね63年前の原型をとどめています。
当時は、森の周辺に民家も幼稚園もありません。森以外は総て農地であった。Paulは、この周辺で逮捕されたと思われます。
彼は、逮捕後目隠しをされたようで、この森を見た時間は多くはなかったと思われます。
これが、森の中にある蓮華寺の山門です。 当時は、岡崎海軍航空隊の臨時の診療所として使われていました。
同じ日に、撃墜され現在の安城市内に機体と共に墜落し即死したマスタングのパイロットJoe walker中尉は、 この寺の墓地に埋葬された。 したがって、この寺は、マスタングパイロット達のゆかりの寺でもある。
私は、これらの写真をJackie 経由で Paul へ届けてもらいました。
2008.3.19 Jackieからのre-mailです。今朝、その写真をPaulに見せました。しかし、かれは良く覚えていなかった。
私は、Paulの良い写真を明日送る予定です。
Paulは、逮捕後目隠しされ、両手を縛られて、このルートで岡崎海軍航空隊司令部へ連行された。
私は、中間点(R-1へ出る手前の白○印)でPaul連行の隊列を凝視した。写真をクリックすると拡大します。
この記事は、翌朝のJackieからのe-mailに添付されていました。彼女は、この写真をWebsiteで使ってくださいという。 私は、この写真を見て、この記事を読んで、63年経った今、Paulと再会した思いです。
これらの情報交換で、私の思いはPaulに通じ、彼の思いも、その後の彼の人生も私に届きました。 この記事は、彼の人生と人柄を仕事を通して紹介しています。日本語訳は下記の通りです。 写真をクリックすれば、英文を読むことも出来ます。
私は、63年後に彼と再会できた記念に、この記事を掲載し、彼の戦後の活躍を称え、B29の追憶を締めくくりたいと思っています。
彼は、ミシシッピー州の農家の生まれで、1941年に高校を卒業後ミシシッピーを脱出し、叔父の経営するキャタピラー販売代理店で働き始め、WW2では、マスタングのパイロットとして硫黄島から出撃しB29の擁護と日本本土攻撃で活躍した。 そして、撃墜されて日本海軍の捕虜となり、その1ヶ月後に終戦を迎えました。その後の大活躍の様子は、この記事を読んでください。
彼は戦後の米国経済に貢献しました。現在の彼は、優雅なリタイアメント生活です。クリスマス休暇は長期間フロリダへ、そして、暫らくして、バージンアイランドへのクルージング旅行へと奥さんと2人で人生を楽しんでいます。
私は、63年前の思いをハッピーエンドで締めくくることが出来ました。 反面、先の大戦では多くの軍民が犠牲になっています。それぞれ、このように素晴らしい人生があったはずです。 戦場で、生死を分け、生き残ったPaulの戦後は、戦死した戦友の分まで頑張ったと思われます。
Paul Chism:
右腕の男(信頼できる男) 日本語訳 4 評言
「顧客に完全に誠実で、彼らの資産に最大限の価値を与えるのが我々のやり方でした。 そうすれば顧客は我々の所に戻ってきます。 真実を語って下さい、そうすれば自分が言ったことを覚えているのはたやすいことです。」 トムソン家が事業を始めるおよそ16年前にタスカルーサのオフィスでキャタピラ販売業を始めたときのことのほぼすべてを、 ボール・チズムは知っています。
「私は高校卒業後の最初の列車でミシシッピから抜け出しました。私は農夫にはなりたくなかったのです。」とポールは語り始めました。 「私は、1941年に私のおじ、J.D.ピットマンの販売代理店に働きに行き、1991年12月に退職しました。数えてみると、退職の年は私の50周年になります。」
そうです。 支店長から営業部門長、副社長、社長へ、そしてついに会長へと、会社の様々なポジションを歴任することによって、 チズムはトムソントラクターの成長を一から十まで支えました。 会社の主な顧客が請負業者であった初期の頃を、彼は覚えています。 彼は、いい時も困難な時も覚えていますが、とりわけ会社を特別なものにした人々のことを覚えていることでしょう。 「我々はいつも善良な人々を雇いました。彼らは自分たちが何をしているのかを知っていたので使いやすかったのです。」とポールは言います。
金利の上昇、石炭と原子力の需要の増加、 Tenn-Tombigbee Waterwayのような巨大プロジェクト、 そしてアラスカの石油パイプラインが需要を大きく増減させた、気まぐれな1970年代の間、その「善良な人々」は特に貴重になりました。
ホール・トムソンが引退した1983年にジュディ・トムソン、ジョージ・トムソン、マイク・トムソンが家業を引き継いだ過渡期の時代も、彼が取り仕切りました。 彼は今でも、ホールの子供たちにビジネスを教えたことについてジョークを言います。 「その雑用には十分な報酬はありませんでした。日記をつけておけばよかったですね。もちろん、その一部はプリントなんかできませんけれどね。」と、 彼は苦笑いをして言います。 ジョークが好きな男が言う「マイクはトムソントラクターの社長で、私は後見人です!」というのは、恐らく本当でしょう。
トムソントラクターの定住者としての彼の地位は「タフ・ガイ」といったところでしょうか? 確かに、ポールはきっちりと仕事をすることを要求しました。 例えばトムソンの修理トラックが一か所に2台以上置かれることがないよう要求しました。 というのは、彼の言葉によれば、「2台のトラックが一か所に置かれていることは、誰かが働いていないことを意味します。」 今、彼はそのことについて笑います。 「彼らは単に私を無情と思ったでしょう。」と、彼はニヤッと笑って付け加え、彼が要求したことはすぐに誇張されたという「タフ・ガイ」の評判に言及しました。
ルーシー・トムソンは同意します。 「あるとき、私は彼に言いました。 『ポール、非常に多くの人があなたを恐れているけど、あなたは私が知っているとてもいい人の一人だわ。私がわかっていないだけね。』と。」
そしてルーシーは続けて説明しました。 「彼は私を見て微笑み、『ルーシー、それは私があなたに私の良い面だけを見せているからだよ。』と言いました。」 今ではこのことを誰もが笑いますが、退職から15年以上経ってもポールからは未だ仕事の倫理観が感じられることが、 彼のジョークと上機嫌なおふざけから理解されます。 彼の眼はしっかりと一つのものを見つめ、・・・を確かめるというただ一つのこと......
Paul Chism情報に関しては、青森空襲を記録する会の中村和彦氏から、Paul Chismに関するGHQ調書の探索提供をはじめ、 この度の米国の歴史家Mark Stevensさん、情報中継のJackie Rolloさん、3年前にe-mailを送った孫のElizabeth Chismさん、 マスタング墜落当時の情報提供をいただいた地元の方々の協力のお陰です。
私は、63年前の1945.7.15にPaulさんに出会い、B29の搭乗員と間違えて記憶し、そのお陰でB29を学び、戦争を反省するささやかな日米親善を行いました。これは、Paulさんのお陰です。Paulさんありがとう。お元気で、
さらに、多くの皆さんのWebsite訪問と激励のe-mailをいただき感謝しています。 ありがとうございました。 2008.3.29 JA2TKO Kunio Okada

このニュースの反響は、翌日に県内始め、米国の関係者からも励ましのe-mailをいただき驚きました。
その一部を紹介します。
《その1》県内在住の当時 勤労学徒、岡崎中学2年の先輩より、
1945.7.15に墜落した戦闘機P51のその瞬間を私は目撃しました.当時岡崎中学(現岡崎高校)2年生で学徒動員のため美合日清紡にて三菱の下請けキー77(爆撃機)を造っていました.
空襲のため裏山へ退避したとき,30機ほどのP51が,枡塚飛行場へ低空攻撃をしておりました.勿論山の陰でよくは見えませんが方角からして間違いないものです.かなり長い時間がたってから,敵機はいっせいに上空に上がり,編隊を組んで帰投しはじめました.
その後から1機がよたよたと現れたかと思ったら,そのまま斜めに墜落しました.瞬間黒煙がまっすぐ上に立ち上がったのがなんとも不思議に思いました.斜めに突っ込んだので爆炎は斜めに起きると思ったからです. その後すぐにもう1機が少し南の方へふらふらときてやはり斜めに突っ込んできました.これも同じく爆煙が炎と共に真っ直ぐ上に上がりました.
ポールさんはこのどちらかの機から脱出したのでしょう.私たちはまさか生存者がいたとは夢にも思えませんでした.当時の記憶がまだ鮮明にのこっていて,貴殿の記事に懐かしくも悲しい思い出で,ついメールを送らせていただきます。
《その2》在米の ”捕虜 日米の対話”の代表者 徳留絹枝様より、
岡田様
今回は、素晴らしい記事で岡田さんの活動が紹介され、本当におめでとうございます。同じような思いを抱いて活動している私たち全員にとっての、励ましになりました。
Wes Injerd さんは、福岡に25年以上住んで日本人の奥様と4人のお子さんと、5年ほど前にオレゴンに帰っていらした方です。福岡に住んでいたころ、九州地区の連合軍捕虜収容所に関心を持ち、お仕事の合間にこつこつとリサーチをしておられました。
私のウエブサイトの役員をして頂いているレスター・テニーさんご夫妻と私が、1999年12月に大牟田を訪問したときも、彼の家に泊まりました。(テニーさんは戦時中ここで強制労働に就かされていて、この訪問は54年ぶりでした。) オレゴンに帰られてからも、お仕事の合間に、元捕虜やその家族から依頼されるとボランティアでリサーチをしてあげています。
私のウエブサイトの「捕虜体験記」のピーター・ハンセン氏のページに彼の短い文章を入れてあります。ところでマリーアンさんとウエス夫妻は、最近マリーアンさんのお父様が死んだ捕虜収容所跡地や、その建築のために強制労働させられた佐世保のダム(このダムについても私のウエブサイトにニュースがあります)を訪ねてきたそうです。
ウエスはインターネットで捕虜関連のニュースを見つけるとすぐ送ってくれるのですが、日本語も完璧にできますので、日本の記事もあっという間に見つけてしまいます。今回もそうでした。捕虜や日本関連のキーワードを入れた自動検索を毎日しているのだと思います。
岡田さんも、ポールさんを訪ねてアメリカにいらっしゃることがあれば、是非ロスにお立ち寄りください。鶴亀さんと一緒に歓迎いたします。
徳留
***
*******