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critical thinking



サルでもわかるクリティカル・シンキング

 私がSNSなどに書いたりする記事は(1)旅日記、(2)映画や音楽などの話題、(3)自然科学の分野を中心とした本の紹介と感想が多いです。そのうち(3)は、具体的な書名を明示することによって、他者による検証や反証を可能にしています。これは科学の手法に通じるもので、検証可能性と反証可能性を担保することによって、論じる内容の正当性・・・というか、倫理的・道徳的にどうかはさておき、少なくとも論理的な整合性を大切にしようと考えています。「本を読んで、その内容を紹介しつつ自分の考えを述べる」というスタイルですね。

 そんなワケで、以前から本をたくさん読んでいますが、トシとともに集中力が下がってしまって、一つの本を何時間も続けて読むことが難しくなりました。今では、たいてい数冊を同時並行で読んでおります。読み終えた本、読んでる途中の本、手付かずで積んである本がそれぞれ8冊くらいずつある・・・なんてことも珍しくありません。今回はクリティカル・シンキングを扱った良い本がありましたので、これをネタ一席うかがいます。

 参考書は以下の3冊です。

伊勢田哲治他編「科学技術をよく考える〜クリティカル・シンキング練習帳」

サポートサイトはこちら。
http://tiseda.sakura.ne.jp/ct_sts/

野内良三著「実践ロジカル・シンキング入門〜日本語論理トレーニング」

三浦俊彦著「戦争論理学〜あの原爆投下を考える62問」

 さて、クリティカル・シンキングとは何ぞや?。それは、他人の意見をそのまま鵜呑みにせず、批判的に吟味・評価する思考方法です。ここで「批判的」というのは「それは悪いことだ。ケシカラン!」と批判することではなく、良い部分も悪い部分もキッチリ評価することですね。

・クリティカル・シンキング(批判的思考)



科学技術をよく考える

 最初に登場するのは、伊勢田哲治他編「科学技術をよく考える〜クリティカル・シンキング練習帳」です。この本は理系・文系・芸術系・体育系を問わず、多くの方に推奨いたします。

伊勢田哲治他編「科学技術をよく考える〜クリティカル・シンキング練習帳」

・遺伝子組換え作物

・脳神経科学の実用化

・喫煙を認めるか否か

・乳がん検診を推進するべきか

・血液型性格判断

・地球温暖化への対応

・宇宙科学・探査への公的な投資

・地震の予知

・動物実験の是非

・原爆投下の是非を論じることの正当性

 これらの問題を扱っています。たとえば遺伝子組換え作物に関する問題の背景と「推進すべき」と「推進すべきでない」という意見を紹介し、それではどのように考えるべきか・・・という解説をしています。気をつけて欲しいのは、賛否両論あるこれらの大問題について「最終的な絶対の結論」を導いていないことです。あくまでクリティカル・シンキングを練習することがこの本の目的なので、ご注意ください。各テーマを議論する前提となる知識の解説が充実しており、特に関心がなかったテーマについても十分面白く読むことができます。

 「そんなの、こっちが正しいに決まってるだろ。論じたり考えたりしても仕方がないだろ。」とか「世の中、いろいろな意見があるのだよ。以上。」とか「せっかく考え方を勉強しても、自分がホントの正解に到達できるとは限らない。とっととホントのことを教えてくれ。」などと言いがちな人は、この本を読んで修行してほしいです。あるいは、手の内を曝したら負けと思っていて「じゃぁ、その本を読んだキミはどうゆう考えを持ったんだい?。」とホザくだけの人も、まず自分自身がマジメに考えるためにこの本を読んで修行してほしいです。「論争相手を完膚なきまでに撃破するのに役立てたい。」という人には、そこそこ役立ちますが、なるべくそうゆう姿勢ではなく、自分の考えをさらに高めるために読むことが望ましいと思います。

 たとえば「地球温暖化」について、「温暖化を唱える奴らは陰謀してる」という側と「陰謀論なんて、そんなのダメじゃ〜ん」という側に分かれてワァワァやりがちですが、この本ではもうちょっと高いレベルで「科学というものをどのようにとらえるか」という観点から、レギュラトリー・サイエンスとリサーチ・サイエンスの違いを解説しています。こうしたキーワードを知るだけでも、知らない状態から進歩できます。

 乳がん検診はやったほうが良いに決まってるし、血液型と性格は関係無いものと私は考えておりましたが、社会的にどうこうという切り口でとらえると、これらの課題にも意外な論点があったりします。ま、血液型性格判断はもともと論理的な意味がありませんので、なるべく多くの人に本を手にとってもらうための「サービス課題」でしょう。でも、そこそこ面白いことが書いてありますので、興味が沸いたら読んでね。

 最後の課題は「原爆投下の是非」ではなくて「原爆投下の是非を論じることの正当性」について、です。「論じることは正当だ」に対して「論じるべきではない」とする側の主張は「原爆は悪いに決まってるので、うっかり是非を論じたりすると悪い奴らに正当化する機会を与えるので良くない」というものです。そうゆう言い方をしちゃったら、クリティカル・シンキング(CT)そのものが成り立たなくなるので、これは「メタCT論」とも言える課題です。



マスコミ批判者を批判する人に文句を言う人を以下略

 ネットには様々な言論があり、その中にはかなり酷いものが混ざってます。というよりも、酷いもののほうが主流と言っても良いくらいです。新聞やTVなどの大マスコミも、昨今はネット世界で批判にさらされています。批判の動機は、概ね「その論調や方向性が自分の好みと異なること」にあります。自分の責任で自分のところで(これ重要)文句を言うぶんにはまだ良いのですが、匿名で勝手なことを書き放題の2ちゃんヤフコメなんかには問題があります。

 さて、マスコミの論調というと、たとえば保守派または革新派、右派または左派的な論調のことですね。これら4つの「〜派」を悪口としてばかり使うと、言葉の意味が混乱するのでやめてほしいです。「〜派の中にいる悪い奴らが」と表現すれば混乱しません。で、クリティカル・シンキングでは論調や方向性を云々するのではなく、あくまで論理重視で考えます。すると、マスコミにもネットにもダメ論法が溢れていることがわかります。典型的なサンプルは、こんなものです。

・マスコミに批判される対象(政治家など)

・マスコミ

・マスコミを批判する人

・マスコミ批判者を批判する人

・マスコミ批判者を批判する人に文句を言う人

・以下略

 どこまでも対象と自分を無関係に論じることができるのですね。社会全体のことを考えるときに、自分が社会の一員であることを忘れたかのように。常に神の視点で語る人がいます。こういった人は、いつまでたっても「メタ」の意識を持つことがありません。メタとはメタメタな論法のことではなく、その論自体を対象とするような議論のことです。

 日頃から、様々なダメ論法のいくつかを気にしてはいました。ですが、それが何故ダメなのかを他人に対して簡単にわかりやすく説明するのは案外難しいのです。もちろん論理的に「〜だから、〜であって、だからダメだよ」と説明することは可能です。しかし、紋切り型に「ダメだ」と断言しても、そう説明された側は「はぁ?」「だから、何なの?」という印象をもちます。ですので、時間が流れていくTVでは番組キャスターやコメンターがいちいち「アノ意見はココがダメ」「コノ意見はソコがダメ」などという論理の誤りを指摘しにくいのです。その結果、論理的にダメな論法が世間に広くまかりとおってしまいます。

 そんなときに役立つのが「テクニカルターム」というものです。専門用語ですね。「あの論法は典型的なXXだね。XXとは、たとえば○○のようなことだよ」という形で説明すればわかりやすいですし、解説された側も用語の知識を得るので嬉しいでしょう。・・・というわけで、「科学技術をよく考える」のコラムで解説されている詭弁論法をいくつか紹介しましょう。



キベン論法でディベート甲子園

 「科学技術をよく考える〜クリティカル・シンキング練習帳」のコラムで解説されている詭弁のいくつかを紹介しましょう。これだけマスターすれば、キベン学園和歌山高校とディベート甲子園で対戦しても大丈夫です。

【わら人形論法】
 相手が「喫煙は制限すべきだ」と主張しているのに、それを「どんな場合でも喫煙は禁止すべきだ」と解釈して、「何をバカなこと言ってるんだ!」と攻撃するのが典型的なわら人形論法です。本当の相手ではなくて、相手に似た形のわら人形を想定して、それをやっつけるわけですね。この詭弁は国会論戦にも頻出しています。議員さんたちがテクニカルタームを使って詭弁を封じつつ、TVを観てる人にもわかりやすく議論してくれたら、我が国の政治は「ヤジ合戦」のレベルを脱することでしょう。

【燻製ニシン】
 ある種の論点すりかえのことです。たとえば「讃岐うどんと博多うどんでは、どちらがコシがあるか」というテーマで議論している最中に「コシがなくても美味いものは美味いんだ」と言い出したり、重要法案を審議している最中に「この大臣は漢字が読めないので信用できない」などと難クセをつけることです。「俺よりも、もっとスピードを出しているあの車を捕まえろよ!」と交通取締り警官に訴えるのも同じです。これは猟犬を訓練するのに燻製ニシン(つまりニセモノ)を使うことからのたとえです。実際はそんな訓練しないらしいですけど。

【対人論法】
 交通安全の重要性を説く人が、自身ではしばしばスピード違反をしていたら「彼が主張する交通安全の重要性って、たいしたことないのでは?」とツッコミを入れるのが対人論法です。これは感情に強く訴えるので多くの人がひっかりますが、モロに詭弁です。「交通安全を重視すべし」という議論に十分な根拠があれば、それはそれで正しい主張なのです。「コイツの言ってることには説得力が無いじゃん」と感じるのも無理はありませんが、「だからコイツの主張は間違っているのでは?」と誘導されてしまったら詭弁にダマされることになります。このような対人論法を操る人は、詭弁で他人をひっかけようとしている怪しい人であると言えます。あるいは無意識にやってるのなら論理能力に問題があります。

 なお、対人論法のすべてが詭弁ではありません。たとえば医薬の専門家が特定の薬品会社から資金提供を受けている場合、その人が医薬品の安全性について語っていることの信用性を割り引いて評価するのは正当なことです。

【レッテル貼り】
 これも国会で頻出します。「レッテル貼り」はレベルが低すぎるので、この「科学技術をよく考える」という本には直接的に出てきません。ですが、上記した詭弁に「レッテル貼り」が絡むケースもあります。「××党はレッテル貼りをする集団だ!気をつけろ!」とか「我々の提案に対して無責任なレッテル貼りをする人がいる!」というのが典型的なレッテル貼りですが、そこまで低級だと一種の「メタ詭弁」に昇華して論理学の問題として興味深いものです。

対人論法の参考はこちらです。
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/20120501/p1
http://ronri2.web.fc2.com/kiben09.html

わかりやすく解説したWEBがこちらにあります。

詭弁・強弁・誤謬とは?
http://ronri2.web.fc2.com/kiben.html

詭弁にダマされやすい人の特徴を挙げましょう。

(1)
電話を使った特殊詐欺にひっかかる人は、日頃は「ジブンはそんな詐欺にひっかかるワケない。大丈夫だ。」と言ってます。いくら「気をつけてね」と言っても、マジメに忠告を聞きません。それと同じで、ジブンだけは詭弁にダマされないと思っています。マスコミ批判する人を批判する人を批判する(中略)人も同様で、メタ構造を意識できません。

(2)
自ら無意識に詭弁を弄します。



実践ロジカル・シンキング入門

 お次の教科書は、野内良三著「実践ロジカル・シンキング入門〜日本語論理トレーニング」です。この本のタイトルは「ロジカル・シンキング」ですが、実質的には「クリティカル・シンキング」の入門書になっています。

野内良三著「実践ロジカル・シンキング入門〜日本語論理トレーニング」

 最初に紹介した「科学技術をよく考える〜クリティカル・シンキング練習帳」と違って、具体的な課題を設定しない、純粋な思考訓練の入門書となっています。その特徴は・・・前半が退屈です(笑)。つまり、前半がかなり純粋な論理学の解説になっています。そのため、日頃から論理的思考トレーニングができていない人(私とか)が読もうとすると、相当な時間がかかってしまいます。システムエンジニアやプログラマと呼ばれる職業の方なら、おそらく大丈夫ではないかしら。知らんけど。

 必要条件、十分条件、逆、裏、対偶といった基礎的な事項を日本語論理でトレーニングする部分にタップリ半分近くを費やしています。その後で、レトリック、論証、誤謬推理、詭弁へと進みます。書店で立ち読みしたときは後半部分に魅力を感じて購入したのですが、いざ最初っから読み始めると、地味なトレーニング部分がたくさんあって苦労しました。ですが、苦労しただけのことはありました。

(前提1)神が存在するなら進化論は誤りである。

(前提2)進化論は正しい。

(前提3)神は存在する。

(結論)世界は週末に近づいている。

 なんと驚くべきことに、この推論は妥当なのです。

 命題全体(条件文)としては真だからです。どうして真になるかというと、前提1〜3がすべて真になることはありえないので、前提が間違っているからですね。前提が間違っている条件文は、結論が真であっても偽であってもおかまいなしに「とにかく真である」というルールなのです。「偽からは何でもアリ」というわけですね。そのようにルールを整備しておくと、より複雑な論証が可能になったりしていろいろ都合が良いらしいです。

 本の前半はこんな具合なので、ある人にとっては興味深く、またある人にとってはどうでも良いような内容ですね。ですが、後半はがぜん面白いです。この本に出てくる「わら人形論法」による詭弁を二つ紹介しましょう。

(1)言論の自由は人が考えるほど望ましいものではない。他人の秘密や国家の機密をみだりに暴露して良いものだろうか。

(2)どうしてヨソの貧しい国に日本が援助しなくてはならないのだ。国内には失業者が大勢いるのに。自国民よりも外国の国民を優先するのはおかしい。

 この2つの文章のどこが「わら人形=捏造された批判対象」で、どのように詭弁なのか、瞬間的にパッとわからなかった人は、詭弁にダマされないように要注意です。私も「えっ?どうしてこれが詭弁なの?」と感じました。そのような主張をしょっちょう目にするからでしょう。この本は2003年に出版されました。



実践クリスタル・キング入門

 クリスタル・キングとクリティカル・シンキングは似て異なるものです。というわけで、引き続きクリティカル・シンキング(CT)について。「実践ロジカル・シンキング入門」から誤謬ネタを紹介します。

 伊勢田哲治他編「科学技術をよく考える」の本について語ったときは「詭弁」を紹介しました。今回は誤謬推理を中心に、いんちき言論の例を紹介しましょう。誤謬(ごびゅう)とは、正しくない推論や論証について、それがどうして生じたかについての心理的な説明などを付け加えて述べるときの「そのような正しくない推論や論証」のことです。あるいは思考内容と対象との一致しない思惟、判断のことであって、真理の反対語ともいえます。

【不当な一般化】
 スワンは白いと思われていたが、オーストラリアで黒いスワンが発見されたので「スワンが白い」という命題は偽となりました。これは一部のサンプルのみから、全体を決め込んだ誤謬推定の例です。インチキ論法に応用すれば「医者は本当の病状を患者に告げないほうが良い場合もある。だから人はウソをついても良いのだ。」という具合です。

【インチキ非両立論証】
 「我が党を支持せよ。さもないと日本はよくならない。」この主張は選択肢を故意に狭めていて、支持と不支持しか想定していませんが、実際は態度保留や無関心という選択肢もありえます。また、命題全体を支えるべき理由が述べられていません。(ソレを言ってはおしまいですが)

【完ぺき主義者の誤り】
 「少年犯罪の刑罰をいくら重くしても、犯罪を犯す者は必ずいる。だから法律をいじることは時間の無駄である。」これも選択肢を故意に狭める例で、「完全か、さもなければ破棄」をせまる詭弁です。この詭弁を使う人は大勢います。「どんなに勉強しても一番にはなれない。だから勉強しても無駄だ。」というのは、自らを欺いて堕落させる詭弁ですね。

【両刀論法】
・人間は欲望を持つか持たないかである。
・欲望を持つと、挫折に苦しむ。
・欲望を持たないと、退屈して苦しむ。
・いずれにしても人間は苦しむ。

 これまた中間の「ほどほどの欲望」という可能性を故意に排除してますから、インチキ論法です。ですが、本当に必ず「どちらかしかない」という条件においては、相手を窮地に追い込む強力な論法になります。

【誤った二分法】
 「テロと戦わない者はテロに加担しているのだ。」これは大勢の人が言いそうで怖いですねぇ〜。もちろんこれは誤った二分法であって、「テロに加担もせず、かつ戦いもしない者」がいても良いわけです。

 「XXすることは、テロに加担することだ。」という論法は、実際に大勢がやっていました。演説放送などで一方的に話すのならば、その場で理由を質問される心配が無いので、最も簡単な詭弁論法である「理由を述べずに断言」をさりげなく使えます。たとえ質問されたとしても、とことんまでの論理性を追及されない場所(国会とか)では・・・

どうしてテロに加担することになるのですか?
→おわかりになりませんか?

わからないから尋ねています。
→子供のような言い合いはやめようではありませんか。

これこれこうだから、テロに加担することにはならないと思います。
→それはまったく当たりません。アナタはそう思うかもしれませんが、ワタシはそうは思いません。

・・・こんな具合で、いくらでも逃げることができます。これを追い詰めるには、討論の序盤から計画的に逃げ道をふさいでおいて、相手がたじろいだところを畳み掛けるような弁論が効果的です。ですが、それで万事OKなのでしょうか。

 「より多くの人に、自己の正当性をなんとなく感じさせることができれば勝ち」という価値観がどのように扱われるかは、さまざまな文明の、あるいは個々人の精神性の指標の一つになり得るでしょう。

 「実践ロジカル・シンキング入門」の少し残念なところは、最後のパートで語られる最も面白い誤謬推理と詭弁の部分が駆け足気味になっているところです。ですが、それらのついては他に多くの本がありますので、そちらでカバーできます。



戦争論理学

 クリティカル・シンキング(CT)を御題にしたシリーズの3冊目は、三浦俊彦著「戦争論理学〜あの原爆投下を考える62問」です。

三浦俊彦著「戦争論理学〜あの原爆投下を考える62問」

 オビの文句に「究極のテーマで学ぶクリティカル・シンキング」とあります。なにしろ広島・長崎への原爆投下を非難する側と、これを「やむをえなかった」と正当化する側の討論形式だけで、一冊ぶん二百数十ページです。これは重いです。

 世界的には原爆投下を「やむをえなかった」とするのが主流ですが、日本語で書かれたこの本を読む人の多くの心には「決して許されない」が、まず最初にあるわけです。そこで、この本は「やむをえなかった」を主張する側に論証責任を負わせています。原爆を非難する側は「これでもか」「まだ言うか」とばかりに攻めたてるのですが、投下正当化論者はあくまで冷静に反論を続けます。

 その結果、この本で展開されている理屈の多くは「正当化する側の論証」になっています。そのため、著者は後書きで「かなり不愉快なものになってしまった」と述べています。だったら、書かなきゃイイでしょ・・・と文句を言っても始まりません。著者は他にも「原爆投下否定論者にとっては便利な叩き台として使える」とか「本書を手がかりに第二次大戦論から世界平和論へ有意義に展開してほしい」などと述べています。

 念のために申し添えますが、「原爆投下は正当なことだったし、我々日本も、さらには全世界各国がすべて核武装すれば、いわゆるひとつの抑止力がはたらくので、全人類に永遠の平和が訪れる」といった議論をこの本ではしていません。単に「原爆投下だけを何が何でも否定する」という議論をすると、「原爆投下が正当化できてしまう状況を決して作り出してはならない」という方向の議論ができなくなるのでかえって良くない・・・という考え方などは示されています。

 実際のところ、私の場合は歴史の知識が非常に乏しいので、議論の前提となる史実が「知らないことだらけ」でした。ですが、それだけにススッと内容に入っていけました。それでもやっぱり「重い」のですね。このテーマは重過ぎます。今回同時平行で読んだ3冊のCT本の内で最初に読み始めたというのに、読了したのは最後になりました。一度に10ページも読むのが辛いのですね。それくらい重い内容です。

 クリティカル・シンキングする以前に、まず「知らなかった史実」が多いのに驚きました。たとえば・・・

 米国で行なわれた原爆実験の際、科学者の計算では「地球の大気が全部燃焼して人類が滅亡する可能性」が100万分の3以上だったそうです。これはあぶない話です。そんな危険な実験を世界各国でしょっちゅうやってたら、あっという間に滅亡しちゃいますよ。でも、実際にやる奴らは「ここだけ」「今だけ」「これっきりで、もうやらないから」「100万分の3なんて、よほど運が悪くなければ大丈夫」という感覚でやってしまうのでしょう。やめてくれい。



知らなかった史実

 三浦俊彦著「戦争論理学〜あの原爆投下を考える62問」の感想は、クリティカル・シンキングする以前に、まず「知らなかった史実」が多かったことです。その中から特に興味深いものをいくつか紹介しましょう。

 以下は、この本の参考文献が出典であって、※を付した注釈は私が加えたものです。証人インタビューや直接的な証拠を参照しての記述ではありません。あくまで「そうゆうことが何かの本などに書いてあった」ということとしてご理解ください。

 米軍の中枢であるマッカーサーらは、原爆の使用に反対していた。その理由は、そんな超絶兵器を実際に使ったら、熟練の軍人や軍組織が不要になって、戦争=単なる政治ゲームになってしまう・・・というものでした。※早い話が「自分達の時代ではなくなってしまうから、イヤだ」というものですね。

 日本に降伏をせまるポツダム宣言は「米国が原爆を実用化しつつあること」「天皇制を容認しても良いこと」「ソ連が対日参戦しそうなこと」がちゃんと書かれておらず、日本のさらなる抵抗を促して、その後の原爆投下にコトを運ぶことを意図したかのような内容だった。連合国の中にあって、英首相チャーチルは「天皇制の容認を日本に伝えるべし」と主張していた。その根拠は、一次大戦後にドイツ皇帝を廃したことがナチス台頭につながったため。※原爆投下後にポツダム宣言が発せられたと誤解している人もいますが、そうではありません。

 日本の降伏時点で、日本陸軍の戦力は本土と大陸にたくさん残っていた。千機以上残っていた航空機は、本土決戦における迎撃特攻作戦に使われるはずだった。日本が多数の航空機を温存できたのは、大本営が45年4月に戦闘機によるB29撃墜を原則禁止したため。※実動機合計が一万機以上残っていたという記録もあります。

 日本が降伏した直接的な原因は、原爆投下ではなくソ連侵攻だった。原爆はむしろ「敵がとてつもない超兵器を使ったからもうだめです」という、国内向けの説明に役立った。仮にソ連の侵攻と原爆のどちらかを欠いたら、日本は降伏のきっかけを逸し、各地で地上戦が行なわれ、ドイツと同様に首都陥落まで戦闘を続け、彼我の死傷者増は百万人単位ではすまなかった可能性がある。※これが投下正当論の中心的な論拠ですが、これに対する反論があり、さらに反論が・・・という具合に、本書ではいつ果てるともなく議論が続きます。

 ハルノートによって日本が日米開戦を決意した。鈴木首相の「ポツダム宣言黙殺声明」を受けて原爆投下が決定された。これらの解釈はいずれも間違いである。※時系列的には、ハルノート以前に「対米交渉が決裂したら開戦」が決定されています。

 戦艦大和が片道燃料だけ積んで出撃したというのは都市伝説。往復以上の燃料を余裕で積んでいて、発見されないように迂回航路をとることもできた。※早い速度を出すと余計に燃料を消費するなど、細かい議論もあるようです。

 あくまで日本が降伏しない場合に予定されていた日本上陸作戦(ダウンフォール作戦)において、米国側は50万人の死傷を覚悟しており、実際に50万個の名誉負傷勲章を製造していた。結局、本土上陸作戦は行なわれなかったが、せっかく作った勲章を捨てたらもったいないので在庫して、その後の朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争で使った。まだ12万個ほど残っている。※ホンマかいな。と思って調べたところ、12万個残っていたのは2000年代の前半のことでした。この本が発行されたのは2008年で、さらに後の2010年頃に在庫が尽きたそうです。

 最後にもう一つ。

 原爆を海上輸送した重巡洋艦インディアナポリス号が、その直後に日本軍に撃沈され、救助が遅れて大勢の死者が出ました。スティーブン・スピルバーグ監督の映画「ジョーズ」のネタですが、元インディアナポリス号乗組員のモリ師クイント(ロバート・ショウ)がオルカ号船内で「原爆部品輸送の秘密任務完了後の航路でも無線封鎖を解除していなかったので救助が遅れた」と語っています。実際のところ「沈没するような場合は、乗組員よりも積荷を優先せよ」と命ぜられていたとのことです。



誤謬あれこれ

 「戦争論理学」を元にあれこれを語っております。これがクリティカル・シンキングであって「こう考えるのが正しい」みたいな話はしにくくて、「こう考えるのが間違い」という例が多いです。今回は「誤謬」の話題を中心にお送りします。

【後件肯定の誤謬】
 Aが正しければBも正しいという条件のもと、Bが正しいとわかったからAを正しいとすること。

【前件否定の誤謬】
 Aが正しければBも正しいという条件のもと、Aが間違いだとわかったからBを間違いとすること。

↑↑↑↑↑↑↑
このような誤りを大勢の人が毎日せっせとやっています。ここから以下は、太平洋戦争における具体例があるので、また重くなります。

【アドホック仮説】
 1941年7〜8月に近衛内閣のもとで対米戦争のシミュレーションが行われ、その結果は「日本必敗」でした。そらぁ、そうでしょ。しかし、その知見は生かされませんでした。「シミュレーションには日米の精神力の差が反映されていない」という、その場しのぎの仮説をくっつけて、開戦を合理化してしまったのです。こうゆうのををアドホック仮説と呼びます。

【コンコルドの誤謬】
 膨大な開発費用をかけてプロジェクトを推進してきたので、この先いくら赤字が出そうでもプロジェクトを中止することができないようなことです。すぐやめるのが最良であっても、それができなくなってしまうのですね。大戦中の日本の様相について、あらためて述べる必要は無いでしょう。

【ポストホックの誤謬】
 ある事柄Aにたまたま別の事柄Bが隣接・共存しているだけなのに、Aの原因がBだと思い込んでしまうようなことを「ポストホックの誤謬」と呼びます。日本に対してのみ原爆を使用したのは「人種差別的な意図があったから」と言われがちだが、当時の情勢を考慮すると、そんなことはない・・・と、本書では解説されています。これについては私も「ホントか?」と感じました。

 米国内での人種差別と有色人種の国への原爆投下を結びつけて「人種偏見があったから非人道的な兵器を使ったのだ」・・・とするのは誤解であるとの説明が本書ではなされています。ただし、米国首脳が日本に対して人種的・文化的な偏見を持っていなかったという話ではありません。彼らの偏見についても少し書いてあります。どこまでも重い内容の本です。

【自然主義の誤謬】
 トルーマン大統領は広島への原爆投下後に「我々は真珠湾の報復を果たした」と演説しました。たしかに奇襲攻撃への報復衝動は当時の米国の「自然な国民感情」だったわけですが、しかし「自然だったら何でも良い」というのは間違いです。それは「自然主義の誤謬」と呼ばれるものです。しまいには「最初にこっちが酷くやられたのだから、どれだけやりかえしても正当なのだ」という議論になってしまうでしょう。

【係留ヒューリスティクス】
 第二次大戦中、米英は戦略を一にしていたと思われがちだが、英国は戦後戦略のことをコソコソと考えていて、米国のほうがマジメに戦っていた。むしろ米ソのほうが仲が良かった・・・のだそうです。これも意外な話でした。「係留ヒューリスティクス」とは、先に与えられている情報に合わせて、未知の情報も推測してしまうクセのことです。

 「ヒューリスティクス」は、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度は正解に近い解を得ることができる方法です。これは、多くの場面において素早い判断に役立ちますが、ときどき間違えて重大な結果を被ることもあるので要注意です。ちなみにソ連も戦後共産主義の拡大を目指していました。その中にあって、米国だけがナイーブに一生懸命戦っており、それにも関わらず大戦末期の米国民感情は「もういい加減にやめたい」方向に傾いていました。



バイアスあれこれ

 今回は「バイアス」について。バイアスとは誤差、歪みのことで、ここでは判断の偏りのことです。

【確証バイアス】と【現実バイアス】
 「その説が正しい」と自分が思い込んでいる仮説があって、それを重視して判断することを「確証バイアス」と呼びます。その中でもとくに「想像よりも実際に起こったことを重視して判断すること」を「現実バイアス」と呼びます。本土決戦は歴史上行なわれなかったで、それで亡くなった人はいませんが、原爆によって実際に多くの人が亡くなりました。そのことから、本土決戦の死者よりも原爆の死者を重んずることが「現実バイアス」です。

【特定者バイアス】
 原爆よりも多くの人が累計で死傷している交通事故。経済産業を維持するために、これを我々の社会は容認しています。容認というと語弊がありますが、今でも毎年数千人が死亡しています。原爆の犠牲者はその時その場に居合わせた特定の人ですが、その点を重視するのが「特定者バイアス」です。その裏返しは、(とくに将来の)交通死者が不特定なので、それをなんとなく許せてしまうことです。自分自身や家族が事故に逢っていないから許せるのであれば、それは「現実バイアスの裏返し」とも言えます。

【利用可能性バイアス】
 3文字以上の英単語で、「R」が1文字目のものと「R」が3文字目のものとではどちらが多いか?。この問いに多くの人が「1文字目」と答えますが、正解は3文字目です。パッと思いつくのは「R」が1文字目の単語が多いから、「1文字目だ」と判断しがちです。このように、すぐ使える情報が多いと「そちらの頻度が高い」と判断してしまうことです。

【正常性バイアス】
 災害や大事件が起きても「自分はたぶん大丈夫」「あわてて非難すると恥ずかしい」みたいに、状況を過小評価する傾向です。

【後知恵バイアス】
 過去の事象を全て予測可能であったかのように見る傾向です。

 このほかにも「投影バイアス」「一貫性バイアス」「認知バイアス」「動機によるバイアス」なんてものがあります。専門用語がたくさんあるにも関わらず、実際によく目にするのは「この意見はバイアスがかかっている」といった論調です。その多くは論者のイデオロギーを示唆するものです。偏りのことであればバイアスには違いありませんが、早い話が「先入観が判断に影響していること」ですね。だったらわざわざバイアスなどと言わず、先入観と言えば良さそうなものです。

 ところが「アナタの意見は先入観にもとづくものだ」と指摘しても、「先入観を廃して客観的に判断したもんね」と簡単に言い返されてしまいます。それに対してさらに「アナタには先入観があるんだよ!」とは言いにくいです。「客観的に判断」というカウンター言語が提示されたのに、再度「先入観だ」と繰り返すと、その言葉の意味がわかりやすいだけに、しつこい印象を傍聴者に与えてしまいます。

 それよりも「バイアスがかかっている」と指摘するほうが有利です。相手が思わず「バイアスなどかかってない」と安易に返答したらしめたもの。「私はバイアスがかっていると思いますよ!それはアナタが元XX派の仲間だからです!」という具合に、意図的にポストホックの誤謬を犯しつつ、レッテル貼りの対人攻撃をしたい放題です。傍聴者の多くはバイアスという言葉の様々な意味を理解しておらず、なおかつ言葉の意味をいちいち確かめようなどとしませんから。

 わかったようなカタカナ言葉を多用して傍聴者をケムに巻くのは、詭弁論者の常套手段です。



感情論はダメだ

 クリティカル・シンキングにまつわるあれこれ述べてきました。最後は「感情論」について。

 原爆投下の正当性について論じた三浦俊彦著「戦争論理学」には、「被爆者の体験談、悲惨な写真、映像を見てもなお原爆投下を肯定できるのか!」といった激しい論調もあります。それに対して「そうゆう感情論はダメだ」といった幼稚な反論は書いてありません。これまでに述べた様々な種類の誤謬やバイアスにあてはめて論じていきます。その中で詭弁・誤謬・バイアス・ヒューリスティクスなどの概念が解説されています。それらは主観的かつ定性的なものが多いので、「誤謬だからダメ」「バイアスだらかダメ」という具合にすべてを結論づけるわけではありません。

 「そんな恐ろしいことをしてはダメだ」といった感情に基づいて議論することは、感情論ではありません。恐ろしいことを避けたいのはあたりまえです。感情論とは、論理性が無いまま「だって、ボクはこう思うんだモン」とだけ主張するようなことです。

こちらの「感情論」から引用しましょう。
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/ar01s10.html

 感情論という言葉を聞くとどうしても「感情」が問題だと思いがちです。「感情論ではなく論理性を重視しろ」と言うと、無機質で暖かみがなく、つまらない机上の空論を思い浮かべがちです。そうではありません。感情があるのが問題なのではなく、論理性がないのが問題なのです。

引用ここまで。

 さて、繰り返しになりますが、この世の中には詭弁や誤謬が溢れています。ある程度の論理能力があれば、それらに触れたときに「えっ?そうなの?マジですか?ちょっとおかしいのでわ?」と感じることができます。典型的な詭弁や誤謬についての知識があれば、さらに大丈夫です。しかし、それでもダマされる危険を完全に防ぐことはできません。詭弁にダマされ、自らが詭弁を弄し、あろうことか自分自身を詭弁によって籠絡(ろうらく)する可能性は誰にでもあります。

 クリティカル・シンキングについて、ざざっとではありますが学んだ今は、どんなことが詭弁や誤謬なのか、以前よりはわかる様になりました。たとえば「バイアス」や「感情論」という言葉を曖昧な意味で使う人がいたら要警戒です。それでも、まだまだダマされる余地は十分にあります。実際、けっこう単純なトリックにダマされるのです。



典型的な悪い論法

 非常に悪い論法を操る人が大勢いるので指摘しておきます。

 ある社会的な課題に対する行動案Aについて、これに賛成する賛A側と反対する反A側の意見があったとしましょう。賛A側の意見を論じたり「行動Aを実行すべし」と主張する人は、まず自分の考えを明らかにしたうえで行動案Aの必要性と正当性を論じるべきです。しかし実際は、それをやらない人がいます。その典型例は、次の二つです。

(1)反A側の意見に対する反対意見を述べるのみの人がいます。それはダメです。「行動Aを実行すべきでない」という意見の間違った点をいくら論証しても、だからといって「行動Aを実行すべし」という結論は得られないからです。その理由は二つあります。人間の行動にはAと非Aの2種類しか無い・・・ということはなく、中間的な行動やその他の行動もあるからです。もう一つの理由は、非AがダメであってもAがもっとダメという可能性があるので、その点を論証せねばなりません。

(2)反A側の意見を表明する人の人格や行動、あるいは意見表明の方法が悪い・・・という形で意見を述べる人がいます。それをやってはいかんとまでは申しませんが、それだけではダメです。さらに悪いのは、「反A側の連中はこのようにダメだから、反A行動は良くないので、行動Aを実行すべし」などと論述することです。これはもっとダメです。その理由は、いまさら申すまでも無いでしょう。モロに「対人論法」ですね。さらに酷い人は「反A側の連中はこのようにダメだ」と難クセをつけるだけで、「行動Aを実行すべし」と述べないで終わりにする人です。自分の意見を申し述べもせずに、他人に誤謬を誘発させるだけなので、アタマが悪い論法という以前に無責任です。最悪です。

(3)非常に悪い論法をもう一つ。
・マスコミは真実を報道していない。
・ボクは真実を知っている。
・でも、その真実が何かをここには書かない。
・ボクがどうやって真実を知ったかを書かない。
・皆さん、それぞれ自分で調べて真実を知ってね。

 ここまで酷いと論法とも呼べません。



実践クリティカル・シンキング

 「サルでもわかるクリティカル・シンキング」と題して、あれこれ述べてきました。しかし考えてみると「クリティカル・シンキングとは、このように行なうのだ」という話を全然しておりません。その反対の「やってはいけないこと」ばかりを説明してきました。

 これによく似ているのが「和声学」です。連続1度、連続8度、連続5度、並達1度、並達5度、並達8度といった禁則ばっかり解説されても、とっつくことができません。実際は「やって良い事例」をたくさん学んで覚えることが大切なのですね。

 ウィキペディアには、批判的思考のガイドラインが書いてあります。

【Wadeのガイドライン】
・問いをたてる。
・問題を定義する。
・根拠を検討する。
・バイアスや前提を分析する
・感情的な推論(「私がそう感じるから真実である」)を避ける。
・過度の単純化はしない。
・他の解釈を考慮する。
・不確実さに堪える。

【Leftonのガイドライン】
・利用可能なもの、最初の思いついた答えに固執しない。
・あまりに早く一般化しない。
・楽な解決に固執しない。
・最初の答えに合致するような決定に固執しない。
・一部の利用可能なアイデアや前提の検討だけに終始しない。
・感情的にならない。
・もともともっている考えに固執せずに、オープンになること。

 これらに並べて、私なりのガイドラインを示しましょう。

【Miuraのガイドライン】
・まず、言いたいことを書く。
・それに対して、詭弁や誤謬が無いかを探し、自身で反論を試みる。
・簡単に反論できそうだったら、論じ方を変える。
・そうこうするうちに、論述内容を変えることもある。
 最初の考えを正当化することを目的にしてはいけないからだ。
 その結果、より正しい考察に到達できればヨシ。

 最も大切なクリティカルとは、自らの考えに対してクリティカルであることです。