1.まえおき


 音楽が宗教性から生まれたというのは、宗教が音楽を生みだしたというより、古代社会において宗教は、文化のすべての領域に関わっていたからである。宗教はその本質において文化を超える概念であるが、それ故にこそ、かえって文化の諸領域に宗教性が内包されていた。
 ギリシャにおける音楽は、悲劇の中で俳優の対話の間に「コロス(合唱隊)」が楽器の伴奏で歌うところから始まった。語りが自然に歌い始めたのであった。スタシモンστασιμον(1)と言われた歌う部分は、旋律化し、音楽として独立していく。それが器楽曲(2)に独立し、もっとも古いものでは「デルポイのアポロン讃歌」(3)がある。ギリシャ語のイントネーションがそのまま旋律化していった典型的なもので、詩神ムーサに呼びかける語り、祈り、願いが自然に歌となっていったのである。このほか、「ムーサへの讃歌」(4)、「ピュティア祝勝歌」(5)、「ホメロス讃歌」(6)、さらに初期キリスト教会音楽の遺品とされる『道徳詩』(7)等、つぶやき、語りから祈り、讃え歌として音楽化していった。
 ユダヤ教音楽の最初期も同様であった。ただ、ギリシャの場合と異なるのは、言葉が『詩編』から採られたものが多く、他には当然『モーセ五書』から選ばれたものがユダヤ教会音楽の起源となった。従って、ここでは《ユダヤ教会音楽》というより、《旧約(聖書)の音楽》と言うべきかも知れない。古代イスラエル人は、モーセの第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」という教えに従って、神、及び神によって造られたすべてのものの視覚的表現を行わなかった。造形に代わって音楽が重要な役割を持った理由である。他の宗教に比べて、視覚芸術に頼らず、聴覚芸術のみで神に仕えたのである。《旧約(聖書)の音楽》を中心に神殿で行われる儀式が音楽によって荘厳になったのは当然であったろう。それに独立した音楽家集団として、モーセが聖別したレビ人の存在も大きい。レビ人は祭司を兼ね、聖歌隊(成人男性と少年)及びほぼ同数の器楽合奏団(弦楽器、ハープ、タンバリン、シンバル、雄羊の角笛=現在はトランペット使用)が伴奏した。古代イスラエルの音楽は聖書朗読から始まった。キリスト教会音楽の起源となったグレゴリオ聖歌も『旧約(聖書)』の朗読、朗唱から始まったのと軌を一にする。彼らは芸術性のみならず、信仰心に裏付けられた聖書朗読によって、民族の歴史への共感と神への賛美を感動的に歌うところから音楽が生まれた。「聴け、イスラエルよ」(8)はもっともイスラエル的な音楽となった。『出エジプト記』の朗読から「モーセの召命=燃えるいばら」(9)は古代ヘブライ語特有の喉の奥、舌根の付近で発せられる発音などをよく響かせて聞かせてくれる。聖書を感動的に朗読し、朗読すると同時に信仰心を吐露するイスラエル人の民族性を感じる。ほか、当然私たちが聴くことが多い『詩編』では、とくに第123篇「我、山に向かいて目を挙ぐ」(10)など感銘深い。イエスの時代も勿論、古代イスラエル人の音楽、『旧約(聖書)』の音楽を聴き、歌い、神を賛美していたであろう。
この音楽的状況は日本、台湾でも同様であった。神道に音楽があったか、と問われるかも知れないが、自然崇拝的な神道においては、風の音、小鳥の囀り、木の葉のふれあい、浅沓を履いた神官が一列に並んで玉砂利の参道を進む音も神と共に生きる古代人にとって心洗われる音楽(11)であったろう。雅楽の《音取》、《警蹕》の「おー」という声も《祝詞》も神々に捧げる音楽になった。もっとも代表的な「大祓」の祝詞奏上、なかでも「十種神宝」(12)などは、のちの《謡曲》、《語り物》への流れをつくったように思える。その後、仏教の伝来によってもたらされた《声明》は、平安時代に《宴曲》や《今様》に影響を与えたが、基本的には古代社会からの日本語の発声と祝詞奏上のイントネーションを基礎とし、《仏教歌謡》と《流行歌謡》を生み、《平曲》、《能楽》を発展させた。しかし、これらも基本的には神道、仏教の伝統から超えるものではなかった。《能楽》は、仏教的世界観と時代精神を中軸に中世社会で総合芸術として発展した。《能楽》の基本こそは日本人の宗教観そのものであった。《平曲》も同じで、その精神性も語り口においても古代日本人の節回しが根底にある。日本に伝来した《声明》も、何時しか日本化されて民謡や芸能にも近似性を感じることがあるのは、外来文化をすべて日本化することに馴れた民族性だからであろうか。
 日本以外でも事情は似ている。戦前の録音しかないが、台湾の山地に生活する高地人(戦前は高砂族と呼んでいた。)の音楽でも、収穫を祈る祭の音楽、聖霊を迎え、祈願する祈りの歌、《出草》(他部族との戦い)の歌などいずれも宗教性をもったものが歌の始まりとなっている。(13)「出草の歌」は、荒々しさを歌うよりは迎神、送神、手柄を競うより死を忘れない魂の歌であった。台湾の最高峰玉山(戦前は新高山)の西部一帯に住むツォウ族(Tsous)の人たちは、日本人と祖先を共通すると信じている。戦前では、義勇奉公、祖先崇拝、長幼の序など信義観を挙げ、祖神が玉山に降り、東に降りたのが日本人となり、西に降りたのがツォウ族になったという伝説がある。この山地に住む人々の歌には《アメリカン・スピリチュアル》にも共通する精神性があると思うのは言い過ぎであろうか。
 このようにすべての古代民族は、各々の宗教性に基づいて独自の音楽を創造してきた。それは生きること、死ぬことと切り離しては考えられない。真剣に生きるからこそ真剣に生と死を考えるのである。非宗教的傾向が有力になった近代・現代においても人間が生きていく上での精神性の必要は否定できない。 いま、音楽における生と死について考えるとき、キリスト教の音楽との結びつきをおいて他に考えることは出来ない。とりわけ死について真剣に考え、生きるものが死者をどのように送るか、それを音楽によって、より宗教的なものにし、同時に人間の精神性そのものを掘り下げていったのがキリスト教であったと考えるからである。