7.終わりに −「わたしは信じた。それでわたしは語った。」−
ブラームスが、自作の『レクイエム』に『ドイツ語の』という語を加えたのは、勿論、この曲がラテン語によるカトリック典礼文によらない『レクイエム』であり、用いた聖書もルター訳の聖書であることを強調するためであったことは言うまでもないが、ブラームス自身の「生と死の哲学」は、ドイツ語でなければ語れないという切実さの故ではなかったか。ブラームス自身は決して宗教性を表面にもってくる作曲家ではなかったが、オルガンによる「コラール前奏曲」は勿論、聖書の言葉を歌詞にした合唱曲、歌曲を数曲書いている。合唱曲では、『アヴェ・マリア』(Op.12)を初めとし、『4つの歌』(詩編13)『勝利の歌』(『ヨハネ黙示録』)がある。聖書の言葉ではないが、ヘルダーリンの宗教的な詩を用いた『運命の歌』シラーの詩による『哀悼の歌』ゲーテの『タウリスのイフィゲニー』から『運命の女神の歌』なども彼の性格に似合っている。歌曲では、彼の最後の作品番号(Op.121)をもつ『バスのための4つの厳粛な歌』Ver ernste Gesange fur eine Bastimme(1896)(57)は絶対に欠かすことのできない作品である。ここでは、第1曲に『コヘレトの言葉(伝道の書)第3章19-22』「人の子らに臨むところは」、第2曲に『コヘレトの言葉(伝道の書)第4章1-3』「わたしはまた顔を向けて見た」、第3曲に『ベン・シラの書(集会の書)第40章』「おお、死よ、何という苦痛なことよ」、第4曲が『コリントの教会への第1の手紙:第13章1-3,12-13』「たとえわたしが人々の言葉や…(「愛の賛歌」)」というように、クラーラの死と自分の最後を想い、人生の最後にふさわしい歌曲集を作った。ブラームスは、プロテスタントの人であったが、旧約に馴染んでいたようで、それも《続編》APOKRYPHENと呼ばれている諸書に馴染んでいたようである。《新約》から一つだけ選んだ第4曲で、パウロの言葉を用いているのは、生涯を通じて自分の生き方にした「愛」を自分の遺言として語りたかったからであろう。愛がなければ知識も信仰も無に等しい。信仰、希望、それに優る愛こそは人生最大のいのちである、とはブラームスが終生求め、かつ、自分もその生き方を貫いた人なればこそ、最後の歌を愛で集約したかったと思われる。この4つの歌の中で、私は第3曲の「おお、死よ」が好きだ。O, Tod,という言葉が三度現れるのだが、はじめの「おお、死よ」は、強い呼びかけである。その日その日を満ち足りた生活を送っている人にとっては死は辛く悲しいことであろう。しかし、と言って、二度目の「おお、死よ」は、年老いた人、貧しい人、期待を失った人にとって必ずしもそうではない、と静かな詠嘆調で歌われる。最後、三度目の登場では、「おお、死よ」は、親しい友への呼びかけのように死を身近にに考えるものの諦念が歌われる。十分に死と向かい合ったブラームスの告別の歌であった。もともとこの曲は、エリーザベト・フォン・シュトックハウゼンの思い出とクラーラへの敬愛に寄せて作曲したと言われている。しかし、私にはどう見てもブラームス自身の遺言のように思えてならない。二人の女性はブラームスが深く愛した女性であった。この曲はクラーラに届かなかった。クラーラは既に卒中で倒れていたからである。ブラームスはクラーラのために嗄れた声で歌ったと言われる。(58)クラーラには聴くことが出来なかったが、ブラームスの青春との訣別でもあった。クラーラが亡くなって、5ヶ月後、意見を異にして周囲のものが和解に苦労した相手のブルックナーはウイーンで亡くなった。葬式には参列したが、カール教会の隅の暗がりになった柱の影に人目を避けるようにしてブラームスが立っているのをベルンハルト・パウムガルトナーが見ている。膵臓頭部に出来た癌(《ブラームス病》と言うそうだ)のため、「痩せた両頬を伝って涙が(よく知られている彼の)ひげの中に流れ落ちていた」(59)という。ブラームスはクラーラの死の翌年(1897)亡くなった。ブラームスは辛い青年期までの暮らしの中でも人を愛しつづけた。酒場でのアルバイトをしているときに、若者を集めて合唱指揮をしている。彼の作品の中で合唱曲が多いのも若いときからの積み重ねがあるからだ。普通なら辛い生活と言うところでも、そのような言葉を言っていたかどうか、私は知らない。ただ、推察できるのは両親が別居しているのを悩み、益々老いていく母のために慰めていたところから、弱いもの、はかないものへの愛を忘れず、静かに生きたということだけである。彼にとって大切なものは、今、ここに、権力や支配欲に無関係に生きている人々への切実な愛である。人生が苦しいから、はかないから死後の世界を望むことではない。むしろ、はかない努力を続けている人々が、それにもかかわらず無常を感じさせる生の世界で懸命に生きている姿に共感と信頼を寄せている態度が『ドイツ・レクイエム』作曲の基本的態度だったのである。それが生きていることの証であった。そのために典礼文からでなく、聖書から、ブラームスにとって主体的に理解できる言葉が選ばれた。それはラテン語でなく、それによって生かされ、考え、働き、最後にそれによって死へ導かれるべきドイツ語でなければならなかった。これまでの『レクイエム』が死を怖れ、恐怖から逃れるために生を考えるという立場から、避けられない死から逃れず、死は拒絶できないにしても、今を如何によく生きるかについて考え、そのために人として義しく生きることに眼を向けさせたのである。それ故に『ドイツ・レクイエム』は『生者のためのレクイエム』であった。いってみれば、ブラームスは『ドイツ・レクイエッム』や『厳粛な歌』を作ることによって神に結ばれる人生を信じたのであった。
「《わたしは信じた。それでわたしは語った》と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊をもっているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいまっす」(60)というパウロの言葉はブラームスにも、彼の『ドイツ・レクイエム』を聴く私たちにも本当の生き方を考えさせてくれる。人は何時か死ぬ。しかし、人の死によって、生きる人は何かを得る。人は失うことによって、さらに大きなものを得ることがあるのだ、と確信する。
(ブラームス生誕170年に当たって)
【註】
1.スタシモン:ギリシア悲劇で、舞台上にコロス(合唱隊)だけが残って、
歌や舞踊を演ずること。
2.南部エジプトのコントラポリノポリスの器楽曲断片パピルス(紀元2or3世紀?)
(リラ・金属の打楽器)
3.デルポイのアポロン讃歌(前138?)デルポイ神殿のオリュンピア祭で
アポロンを讃える競演の一つ。大理石断片。(笛・三角形の撥弦楽器・リラ)
4.ムーサへの讃歌(リラ)
5.ピュティア祝勝歌(リラ・キタラ・三角形撥弦楽器・12弦の撥弦楽器)
6.ホメロス讃歌(ピタゴラスが発明した単弦楽器・木琴・水力オルガン)
7.道徳詩(シンバル・バス・フルート)
以上の演奏は、グレゴリオ・パニグワ指揮:アトリウム・ムジケー古楽合団
(LP.Vic.VIC-28067)
8.聴け、イスラエルよ”shema’ysrael”(『申命記』6:4-9)
9.モーセの召命=燃えるいばら『出エジプト記』3:1-14
10.『詩編』第123篇
以上の演奏は、モーリス・ベナムー指揮声楽・器楽合奏団(LP.Vic.VIC-28127)
11.『神々の音楽』 明治神宮で収録。
12.十種祓詞 が奏上される。 石上神宮で収録。
以上の録音は、『神々の音楽』「神社神道の祭祀」より。 (東芝TW-80004-7)
13.『高砂族の音楽』 東洋音楽学会(台湾現地録音:昭和18年)
(LP.Vic.SJL-78~9M)
14.ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則 第8章種々の目的のための
ミサと祈願、死者のためのミサ 335-341 カトリック中央協議会
15.1960年に録音された『グレゴリアン・チャント』のLPは、発売当時は
反響がなかったが、89年にCDで発売されるや爆発的に売れ出し、
ポピュラー音楽並に「ヒット・チャート・ベスト」入りを果たした。
スペインに始まり、ヨーロッパからアメリカへ、さらに日本の若者に
拡がったことがあった。
ドン・ガジャール神父指揮:サン・ピエール・ド・ソレーム 修道院聖歌隊
(KING KICC131)
16.グレゴリオ聖歌を記譜するために用いられた記号。もともとは言葉の
高低を表すアクセント記号。
17.昇階唱:ミサで使徒書簡と福音朗読の間で歌われる栄唱。福音書朗読台に
昇るときに歌われるのでこの名がある。
18.詠唱:ミサにおいて慎み、悲しみを表すとき、アレルヤ(ハレルヤ)の
代わりに歌われる典礼文。
19.続唱:ミサで福音朗読の前に歌われるアレルヤ唱に続いて歌われる聖歌。
「怒りの日」は5つある続唱のうちのひとつ。
20.奉納唱:ミサにおいて、パンとぶどう酒が奉献される前に歌われる聖歌。
21.聖体拝領唱:ミサで聖体拝領している間に歌われる聖歌。通常のミサでは、
詩篇を歌うが、「死者ミサ」では死者の安息のために祈る。
22.応唱:ミサにおいて、司祭が詩編から引用した聖句を唱えるのに対して
聖歌隊がこれに応えるように歌う聖歌。
23.交唱(アンティフォーナ):アンティフォーナとはオクターヴの意味。
二音程合唱。左右に分かれた聖歌隊が交互に詩篇を合唱する交互唱。
24.ガブリエル・フォーレ『レクイエム』:カルロ・マリア・ジュリーニ指揮
フィルハーモニア・オーケストラ及び合唱団;
キャスリーン・バトル(Sop.)(DGG F35-20085)
25.ヴェルディ『メッサ・ダ・レクイエム』:カラヤン指揮ウイーン・フィル、
ウイーン国立歌劇場合唱団・ソフィア国立歌劇場合唱団;
アンナ・トモア・シントウ(Sop.)
(DGG F66G-50096/7 )
26.フォーレ『レクイエム』(24)の演奏に同じ。
27.『宗教教育研究所紀要第9号』参照「中世に生きたある女性音楽家
−ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの音楽−」
28.オケゲム『レクイエム』ヒリアー指揮ザ・ヒリアード・アンサンブル
(Virgin VER561292)
29.ラッスス『レクイエム』ブルーノ・ターナー指揮
プロ・カンツィオーネ・アンティカ
(EMICC33-3830)
30.ヴィクトリア『レクイエム』フィリップス指揮タリス・スコラーズ
(GIMELL CDGIM012)
31.シュッツ『音楽による葬儀』ヘレヴェッヘ指揮シャペル・
ロワイヤル・オーケストラと合唱団(Har.mundi HMC901261)
32.カンプラ『笑みて歌いつ帰る』(参考曲として)
《ノートル・ダム寺院800年祭》ジュアン・ルベール指揮
ノートル・ダム少年聖歌隊・同聖堂聖歌隊及びアルマン・ビルボーム指揮
コンセール・ラムルー・オーケストラ (Phi.SFL-5529)
33.モーツアルト『レクイエム』ハンス・ヘルマン・グロール枢機卿司式、
ショルティ指揮ウイーン・フィル及びウイーン国立歌劇場合唱団
1991.12.5.ウイーン聖シュテファン大聖堂での収録。
(Lon.POLL-1032 LD)
34.ベルリオーズ『レクイエム』サー・コーリン・デイヴィス指揮
バイエルン放送交響楽団・バイエルン放送合唱団、
キース・ジャレット(Ten.)(Pioneer PILC1165 LD)
35.ヴェルディ『レクイエム』アバド指揮ロンドン交響楽団、エジンバラ
音楽祭合唱団
(PIONEER SM068-3213 LD)
36.ドヴォルジャーク『レクイエム』カレル・アンチェル指揮
チェコ・フィル及びチェコ・フィル合唱団 (DGG SLGM 1343/4)
37.デュリュフレ『レクイエム』クロウバリー指揮イギリス室内管弦楽団・
ケンブリッジ・キング図・カレッジ合唱団(ERATO WPCC-5050)
38.ブリッテン『戦争レクイエム』ブリッテン指揮ロンドン交響楽団
及びロンドン交響合唱団・バッハ合唱団・ハイゲート学校合唱団・
メロス・アンサンブルサル・ローレンス・オリヴィエ(nar.) (Lon.WOOZ-25024)
39.ウェッバー『レクイエム』マゼール指揮イギリス室内管と
ウインチェスター大聖堂合唱団
(EMICC33-3281)
40.三善晃『レクイエム・詩篇・響紋』(「詩篇」「響紋」の作詩は宗左近)
(VictorVDC-1049)
41.『和解のレクイエム』作曲者は、ベリオ、ツエルハ、
ハインツ・ディットリッヒ、コペレント、ハービソン、ノールヘイム、
ランズ、アンドレ・ダルバヴィ、ウエイア、ペンデレツキ、リーム、
ロジェストヴェンスキー、湯浅譲二、クルターク。演奏は、
ヘルムート・リリング指揮イスラエル・フィルとゲッヒンゲン聖歌隊、
クラクフ室内合唱団
(hanssler COCO-78776/7)
42.ジム・サムソン 三宅幸夫監訳「西洋の音楽と社会8 市民音楽の台頭」
後期ロマン派T 音楽之友社
43.同上書
44.P.ベッカー 武川寛海訳
「ベートーヴェンからマーラーまでの交響曲」音楽之友社
45.J.ブリュイール 本田脩訳「ブラームス」p.236
46.同上書 p.236
47.Z SYMPHONIE Edur ANTON BRUCKNER GESAMTAUSGABE
48.末尾の「ディスコグラフィー」参照
49.Brahms ” Rinald ” Op.50マイケル・プラッソン指揮
ドレスデン交響楽団・合唱団、エルンスト・ゼンフ合唱団
(EMI 7243 5 56983 2)
50.ガイリンガー 山根銀二訳「ブラームス」p.364 芸術現代選書
51.Schumann ” Requiem ” Des-dur Op.148 サヴァリッシュ指揮
バイエルン交響楽団・合唱団 (BMG BVCC-38200)
52.Schumann ” Requiem fur Mignon,” Op.98b
サヴァリッシュ指揮バイエルン交響楽団・合唱団 (BMG BVCC-38200)
53.J.ブリュイール 本田脩訳「ブラームス」p.16 白水社
54.吉田秀和「ブラームス」吉田秀和全集2 p.206 白水社
55.末尾「ディスコグラフィー」Hから判断すると、カラヤンは
倍管(木管楽器を倍にすること)で演奏していることで演奏スタイルが分かる。
彼以外でもガーディナーを除いて、多くのディスク録音は倍管編成と思われる。
56.『マタイによる福音書』11:28
57.Lieder mit Vier ernste Gesange Op.121
『四つの厳粛な歌』テオ・アダム(バス) (Vic.VX-175)
58.J.ブリュイール 本田脩訳「ブラームス」p.16 白水社
59.H.A.ノインツイヒ 山地良造訳「ブラームス」p.190 音楽之友社
60.『コリントの信徒への第二の手紙』4:13
【使用楽譜】
BRAHMS EIN DEUTSCHE REQUIEM Opus 45 Peters Nr.3671a
BRAHMS EIN DEUTSCHE REQUIEM Op.45 Dover
【聖書】
聖書 新共同訳(旧約聖書続編つき)
DIE BIBEL mit Apokryphen LUTHER-UBERSETZUNG 1999 Deutsche Bibel
Gesellschaft, Stuttgart
【参考文献】
ガイリンガー・山根銀二訳「ブラームス−生涯と芸術」芸術現代社
ブリュイール・本田脩訳「ブラームス」ソルフェージュ選書3 白水社
ノインツィヒ・山地良造訳「ブラームス」音楽之友社
吉田秀和全集2「ブラームス」の章 白水社
井上太郎「レクイエムの歴史−死と音楽の対話−」平凡社
皆川達夫「西洋音楽史 中世・ルネサンス」 音楽之友社
門馬直美「ブラームス」春秋社
(いいづか しげとし 前聖母被昇天学院宗教教育研究所主任研究員)