6.『ドイツ・レクイエム』の心を探る


第1楽章
 1.Selig sind, die da Leid tragen, denn sie sollen getrastet werden.
          Das Evangelium nach Matthaus 5:04
      悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
      『マタイによる福音書5:4』
 2.Die mit Trannen saen, werden mit Freuden ernten
                   Der Psalter 126:5.
      涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。
      『詩編 126:5』
 3.Sie gehen hin und weinen und tragen edlen Samen, und kommen mit 
  Freuden und bringen ihre Garben.
                   Der Psalter 126:6
      種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を
      背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
      『詩編126:5,6』
 『ドイツ・レクイエム』は、クラリネット、トランペット、ヴァイオリン(第1,第2)をはずしたオーケストラが、華やかさを拒否した落ち着きのある響きではじまる。むしろ暗いというべきか。チェロとコントラバスの4分音符の刻みはディスクではなかなか聞き取りにくいものだが、1947年の録音以来カラヤン(55)は几帳面に荘重に響かせる。カラヤン5種のディスクでは、録音の点では一番貧しい最初の録音が好ましいと思う。戦前では全曲盤はなく、ゲオルク・シューマンの指揮でベルリン・ジング・アカデミー合唱団が歌っている第1,第2,第5楽章だけがあったが、初めて全曲盤を聴いたからであろうか。悲しむ人々。何故悲しむのか。
 「山上の垂訓」のキーワードを「心の貧しい人々」に置いて考えている。常に自分を顧み、神の御心に叶う生き方が出来るだろうかと思い反省する。思えば思うほど我が身の至らなさを自覚する。謙虚にならざるを得ない。自分の無力を知ると同時に、そのように生きている人のいのち、暮らしに悲哀を感じる。生きているということは悲しいもの。心の貧しい人々は柔和な人々にも通ずる。柔和とは自分を低くする人々であり、優しい。暴力、権力に関わらず、無力だが人に優しく生きる人々だから人の悲しみを深く感じるのである。そんな人たちが、自分の人生が決して無駄なものでなく、労苦は重いが決して恨まない。「涙と共に種蒔く人」だから「束ねた穂を背負い喜びの歌」で漸く明るくなり、味わい深くなる。悲しむ人が何時か慰められる日の到来を望む序曲である。この楽章は、ブラームスにおける「入祭唱」にあたる。

第2楽章
 4.Denn alles Fleisch ist wie Gras und alle Herrlichkeit des Menschen  
  wie des Grases Blumen. Das Gras ist Verdorret und die Blume  
  abgefallen.
                   Der Erste Brief des Petrus 1:24
      「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、
      草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」
      『ペトロの第一の手紙1:24』
 5.So seid nun geduldig, lieben Bruder, bis auf die Zukunft des 
  Herren. 
  Siehe, ein Ackermann wartet auf die kostliche Frucht der Erde 
  und ist geduldig daruber, bis er empfahe den Morgenregen und
  Abendregen.
                   Der Brief des Jakobus 5:7
      兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。
      農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、
      大地の尊い実りを待つのです。
      『ヤコブの手紙5:4』
 6.Aber des Herrn Wort bleibet in Ewigkeit.
                Der Erste Brief des Peter 1:25
      「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
      『ペトロの第一の手紙1:25』
 7.Die Erloseten des Herrn werden wieder kommen,
  und gen Zion kommen mit Jauchzen; ewige Freude wird uber 
  ihren Haupte sein; Freude und  Wonne werden sie ergreifen und
  Schmerz und Seufzen wird weg mussen.
                    Der Prophet Jesaja 35:10
      主に贖われた人々は帰ってくる。
      とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。
      喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは去る。
      『イザヤ書35:10』
 「人は皆、草のごとく」は、『ドイツ・レクイエム』のキーワードだ。ブラームスは自分の半生を集約してこの句に暗示しようとしたように思う。決して恵まれた幼児期とは思えない。世間的には目に見えない、声として聞こえない中傷や蔑みに耐えるしかなかったのではないか。理由は分からないでもないが、子どもとして何が出来たろう。母親は決して悪い母親ではない、それは分かりすぎるくらいに分かっているが、父親は幸福そうな顔をしない。貧しい家計を助けるためにピアノを弾いてアルバイトをした。子どもには決して良いとは言えない港町の酒場。そこでひたすらキーボードに目を注ぐが煙草の煙、アルコールの匂い、好き勝手に飛び交う会話。自分を含めて草のように生きる悲哀に満ちた生き方があった。しかし、美しい花々も永遠ではない。いつか枯れ、地に落ちる。無慮の人々の葬送の列が通る。しかし、その苦は決して無意味ではない。次に来る言葉が重要である。すなわち、「主の言葉は永遠に変わることがない。」人の世の無常を知ることは主の御言葉によって生きるいのちの力となることを。「喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る」のだから。この第2楽章は『ドイツ・レクイエム』全体のテーマそのものになっている。ブラームス自身が、この曲の創作を企図し、最初に手がけたのは第2楽章の葬送行進曲であった。第1部再現が終わった後に鳴るトロンボーンの響きは、「ラッパは鳴り響く」を連想させる。そうするとこの第2楽章は、カトリック典礼の『死者のためのレクイエム』「怒りの日」だったのだろうか。その点で私は、クレンペラー盤を第一に推したい。クレンペラーは剛直な音づくりで終曲まで衒いがない。第2楽章での金管楽器の鳴らし方、とくにトロンボーンを他を圧して響かせる。言い方によってはバランスが悪いということになるだろうが、この楽章では積極的な意味で賛成だ。

第3楽章 .
 8.Herr, lehre doch mich, das ein Ende mit mir haben mus,
  und mein Leben ein Ziel hat, und ich davon mus.
                   Der Psalter 39:5
      「教えてください、主よ、わたしの行く末を
      わたしの生涯はどれ程のものか、
      いかにわしがはかないものか、悟るように。」
      『詩編 39:5』   
 9.Siehe, meine Tage sind einer Hand breit vor dir,
  und mein Leben ist wie nichts vor dir.
  Ach wie gar nichts sind alle Menschen, die noch 
  so sicher leben.
                   Der Psalter 39:6
      ご覧ください、与えられたこの生涯は、
      僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。
      ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの。
      『詩編 39:6』
 10.Sie gehen daher wie ein Schemen, und machen ihnen
  viel vergebliche Uhruhe;
  sie sammeln und wissen nicht wer es kriegen wird.
                   DerPsalter 39:7
      ああ、人はただ影のように移ろうもの。
      ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に
      渡るとも知らずに積み上げる。
      『詩編 39:7』
 11.Nun, Herr, wess soll ich mich trosten? Ich hoffe auf dich.
                   Der Psalter 39:8
      主よ、それなら何に望みをかけたらよいの
      でしょう。わたしはあなたを待ち望みます。
      『詩編 39:8』
 12.Der Gerechten Seelen sind in Gottes Hand und
  keine Qual ruhret sie an.
                Die Weisheit Salomos 3:1
      神に従う人の魂は神の手で守られ、もはや
      いかなる責め苦も受けることはない。
      『知恵の書 3:1』
 第3楽章のキーワードは「無」であり「空」である。あるいは、「はかなさ」であり、「影」である。「わたしは口を閉ざして沈黙し、…心は内に熱し、呻いて火と燃えた。」私の生涯ははかなく、人生も無に等しい。すべて空しく、人は影のように移ろうもの。何に望みをかけたらよいのか、「人間の無常」der menschliche Verganglichkeit に、主はどんな望みを与えて下さるのか。バリトン独唱が入って「主よ、私の行く末を、わたしの生涯はどれほどのものか、いかにわたしが、はかないものか悟るように。」と問いかける。それに対して、『ソロモンの知恵』は、神に従う義しき人には悩むことはないと教える。通称ソロモン王として知られるこの人物は、学識と弁論の才に優れたアレキサンドリアの改宗者アポロスであるらしい。知恵を誉め称えるとは、神の偉大さ、神の愛、万人の平等、怖れることの愚かさを知ることである。「神に従う人の魂は神の手で守られ」るということは、魂の不死の思想の反映である。生死を超えて、生きてあるこの人生を神の愛を信じて生きよ、ということではなかったか。これを「新約」の時代まで下ろして考えると、〈心配しないでいいよ、わたしが傍にいる〉という優しさのように思う。第3楽章練習番号Fからのフーガがはじまる。特徴的なのは、ティンパニとコントラバス、それにオルガンが加わるときもあるが、低音がニ音の持続音を鳴らし続けるところは、人の命を支える御手の力であり、それが安息の心に響く。

第4楽章
 13.Wie lieblich sind deine Wohnungen, Herr Zebaoth!
                    Der Psalter 84:2
      万軍の主よ、あなたのいますところは、
      どれほど愛されていることでしょう。
      『詩編 84:2』
 14.Meine Seele verlanget und sehnet sich nach den Vorhofen des 
  Herrn; mein Leib und Seele freuen sich in dem lebendigen Gott.
                    Der Psalter 84:3
      主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
      命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
      『詩編 84:3』
 15.Wohl denen, die in deinem Hause wohnen, die  loben 
  dich immerdar.
                    Der Psalter 84:5
      いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、
      まして、あなたを賛美することができるなら。
      『詩編 84:5』
 第4楽章は『ドイツ・レクイエム』の中心楽章である。そかし、それは三部形式のトリオに当たる。第1,第7楽章が対応し、第2,第6楽章、そして第3,第5楽章がそれぞれ対応し合う。それ故、第4楽章はこの曲全体の中心点になり、三部形式のトリオという意味はこの曲の構成に基づく。しかし、決して居丈高になるどころか、むしろ穏やかでブラームスの心情を象徴しているようである。7つの楽章を通じて最も短い楽章である。ブラームスを評して「秋の感覚」と言われるのが理解される。神の家こそ幸せの家。ブラームスが『レクイエム』を創作しようとした目的はここにあったのだろうか。神はいのちの神、いのちの神に向かって、身も心も歓喜する二重フガートはつつましい喜びの声である。それは苦難の道を生きる人の最終の目的である「平和」でもある。
 
第5楽章
 16.Ihr habt nun Traurigkeit; aber ich will euch wieder sehen 
  und euer Herz soll sich freuen, und eure Freude soll niemand 
  von euch nehmen.
            Das Evangelium nach Johannes 16:22
      今はあなたがたも、悲しんでいる。
      しかし、わたしは再びあなたがたと会い、
      あなたがたは心から喜ぶことになる。
      その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
      『ヨハネによる福音書16:22』
 17.Ich will euch trosten, wie einen seine Mutter trostet.
                    Der Prophet Jesaja 66:13
      母がその子を慰めるように、
      わたしはあなたたちを慰める。
      『イザヤ書66:13』  
 18.Sehet mich an: Ich habe eine kleine Zeit Muhe und 
  Arbeit gehabt und habe grosen Trost funden. 
                 Das Buch Jesus Sirach 51:35
      目を開いて見よ。わずかな努力で、わたしが
      多くの安らぎを見いだしたことを。
      『シラ書(集会の書)51:27』()
 ガイリンガーによれば、「真の母性愛の理想化に没頭しているこの楽章が、彼自身の母親の死の怖そるべき日から一定の距離を置くにいたるまでは始められなかったということは、個人的感情のすべての事柄におけるこの作曲家の控えめな態度の特徴というべきである」という。まさにブラームスにとってこの楽章こそは作曲にいたらせる動機であったのである。あえて不遜な言い方をさせていただくなら、「母性愛の理想化」とは母クリスティアーネとあるいはそれ以上の存在だったかも知れないクラーラを重ねていなかったか。10年を超える長い期間に亘ってレクイエムの作曲に当たってきたブラームスは、第5楽章抜きで一旦は発表しているのである。ブレーメンでの初演は成功であった。しかし、その上で第5楽章を加えることを絶対に必要としたことは、ブラームスにとってこの楽章の存在理由を確かなものにしていると考えるのは当然であろう。15小節にわたるソプラノ・ソロで始まるこの楽章は、終始「母性的な慰めの気分のうちに構想」された。静謐なメロディは人は諦観を悟り、いま、生きてあることに静かな喜びを味わう。この楽章のテーマは「慰め」、母親自身の生きた道は決して幸福なものではなかっただろうが、息子のヨハネスにとって、母親の存在は大いなる慰めであった。母クリスティアーネとクラーラだけでない。何人かのヨハネスを慕った女性がいる。あるいは、少年の日、アルバイトをしているときにヨハネスに声を掛けた酒場の女性も入っているかも知れない。理想の女性像には気高い聖母のような存在ばかりでなく、むしろ正反対と思われている女性が見え隠れしているかも知れない。イエスの傍らに過ごした「マリア」と呼ばれた何人かの女性のように、いろいろの立場の女性がおり、それらすべてを含めての「理想像」ではなかったか。中ほどソプラノ・ソロで「目を開いて見よ。わずかな努力で、わたしが多くの安らぎを見いだしたことを。」と歌うと、合唱は、それに応えるように「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。」と歌う。出典の『シラの子イエスの知恵(集会の書)』のイエスは、ヘブル語のヨシュアがギリシア読みになったもの、エルサレムのエレアザルの息子、そのシラの息子と言われる。ヘブル語ではベン・シラということになる。母を慕う子ども、いや、子どもに限らない、すべての人は母性に憧れる。理想は高みにおいて仰ぎ見るだけのものではなく、「私たちの母よ」と身近に呼びかけるものなのである。母の慰めの最大の力は、泣く子とともに泣く母の愛である。子は共に泣いてくれる母の愛に心が救われる想いをもつのである。総じてブラームスは合唱において女声のパートがメロディも響きもいいのだが、派手にならず落ち着いた歌わせ方なのでふさわしい。
 しかし、それだけに難しいことは確かだ。フルトヴェングラーの演奏は、ストックホルム音楽祭のライブ録音だが、そのせいもあって音は重く、ぼやけている。第1,第4楽章まで演奏は恐れ入るが、第5楽章で、ソプラノ・ソロが入るところから変わる。ここでのソプラノがすばらしい。リンドバーク・トールリンクというソプラノについてほとんど知らないが、透明な声は理想の女性像を求めたブラームスの意思にもっとも叶った声ではなかったか。フルトヴェングラーの指揮も第5楽章から目が覚める思いである。ソプラノは唯一、第5楽章しか歌う場所はないが、ソプラノ・パートはブラームスが丹念に音づくりをしたと思われる。歌う側にとって歌いやすいわけではないだろうが、ここにこの曲の成否がある。実は、フルトヴェングラーのレコードが日本で発売されたのは1971年である。(録音は1948年であるが発売が遅かった)。その半年前に、これも発売が遅れて登場したワルターのレコードがあった。フルトヴェングラーにワルター、一度に両方を買えない私にとって、この時の選択は、フルトヴェングラーに落ち着いたが、ワルターのソフトな演奏がブラームスにどう響くか、不明だったことによる。しかし、これはその後、私の浅知恵だったことがわかる。ワルター盤を聴いて、私の危惧は晴れた。ワルターの演奏はブラームスにおける19世紀ウィーンの雰囲気を教えてくれたように思う。解釈上の問題ではない。両者に共通するブラームスへの敬愛が音に表れたのである。それがこの第5楽章が持っている音楽の魂でもあった。

第6楽章 
 19.Denn wir haben hie keine bleiben de Statt, sondern die
  zukunftige suchen wir.
             Der Brief des an die Hebraer 13:14
      わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、
      来るべき都を探し求めているのです。
      『ヘブライ人への手紙13:14』  
 20.Siehe, ich sage euch ein Geheimnis:
  Wir werden nicht alle entschlafen,
  wir werden aber alle verwandelt werden; und dasselbige 
  plotzlich, in einem Augenblick, zu der Zeit 
  der letzten Posaune.
       Der erste des Paulus an die Korinther 15:51-52
      わたしはあなたがたに神秘を告げます。
      わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。
      わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
      最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
       『コリントの信徒への第一の手紙15:51-2』
 21.Denn es wird die Posaune schallen, und die Toten werden 
  auferstehen unverweslich, und wir werden verwandelt werden.
          Der erste des Paulus an die Korinther 15:52
      ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、
      わたしたちは変えられます。
      『コリントの信徒への第一の手紙15:52』
 22.Dann wird erfullet werden das Wort, das geschrieben steht: 
  Der Tod ist verschlungen in den Sieg..
         Der erste des Paulus an die Korinther 15:54
      次のように書かれている言葉が実現するのす。
      「死は勝利にのみ込まれた。」
      『コリントの信徒への第一の手紙15:54』
 23.Tod, wo ist dein stachel? Holle, wo ist dein Sieg?
       Der erste Brief des Paulus an die Korinther 15:55
      死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
      死よ、お前のとげはどこにあるのか。
      『コリントの信徒への第一の手紙15:55』
 24.Herr, du bist wurdig zu nehmen Preis und Ehre und Kraft, 
  denn du hast alle Dinge geschaffen, und durch deinen 
  Willen haben sie das Wesen und sind geschaffen. 
                 Die Offenbarung des Johannes 4:11
      「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、
      栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
      あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、
      また創造されたからです。」
      『ヨハネの黙示録4:11』 
 再びバリトン・ソロが入る。後半の二重フーガは作り方としてはカトリック典礼の「怒りの日」を思わせるが、ブラームスは最後の審判の恐怖を取り除いた姿において「永遠のいのち」を歌う。審判を告げ知らせるラッパ(トロンボーンとテューバ)の響きは恐怖の告知ではなく、すべての恐怖を取り除かれた「復活」の告知であった。それは神の栄光を讃えるための二重フーガで締めくくられるが、第6楽章のテーマは「甦り」であり、それ故の「成就」を明らかにするものである。この復活の勝利は、万物が神によって創造されたときに約束されたものであり、栄光と誉れと力をそなえられた神なればこそ、神によってすべてのものに、人々に成就されると歌う大フーガは、この曲中で最高のスコアであることを証明する。それ故に、この楽章は圧倒的なパワーで私たちに迫ってくる。『ドイツ・レクイエム』中でもっとも大きな楽章(演奏時間で言うのではない)である。

第7楽章
 25.Selig sind die Toten, die in dem Herrn sterben, von nun an.
 26.Ja der Geist spricht, das sie ruhen von ihrer Arbeit; 
  denn ihre Werke folgen ihnen nach.
               Die Offenbarung des Johannes 14:13
      『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』
      ”霊”も言う。「然り、彼らは労苦を解かれて、
      安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
      『ヨハネの黙示録14:13』
 第7楽章は、この曲のフィナーレであると同時にブラームスの求めた人生の究極の解決が示される。最終楽章のテーマは、「安息」、それは「主にありて死ぬる者は幸い、と第1楽章の冒頭のテーマに対する解答として示される。キリスト者として死ぬ人は幸い。人は地上の生を離れても、それで終わりではなく、最終的には審判を待たなければならないというのがヨハネの思想である。原文を直訳すると「死ぬ死人」ということになるが、「死人」とは最終審判を待つ人のことで、審判によってすべての労苦から解放されるのである。信徒としての牢苦には、迫害の中で信仰を貫いたヨハネ時代の苦しみがあったと思われるが、肉体的、精神的な労苦の全体は現代の私たちにも通ずる。しかし、「死」そのものが答ではない。苦難を通して生きた人々への愛と勇気の贈り物としての「死」なのである。その人生の途次に体験する多くの労苦は主によって解かれる、と「霊Geist」も言われる。これこそ「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(56)というイエスの言葉になって完結する。しかし、ここでもブラームスは決して大声を上げない。静かにSelig sind die Totenと繰り返し歌われて全楽章を閉じる。死への恐怖は消えて、永遠の憩いに敬虔に向かおうとする心をはぐくんでくれる。第1楽章のリズム、メロディとは異なるが、同じ雰囲気がある。第7楽章から再び第1楽章に回帰する。この曲で、ハープは第2,第7楽章でしか使われないが、第7楽章に来て、それも最後の9小節でアルペジオで静謐な音階を奏でる。山の端に沈む落日が空を虹色に染め上げて芸術的法悦を彩る。死の恐怖から解放され、今しばしの人生を勇気をもって生きようとする平安と諦観の境地に導く音楽が『ドイツ・レクイエム』の求めた道標であった。ヘレヴェッヘ盤は、この終曲を美しく締めくくる。
【ブラームスの用いたドイツ語聖書の言葉は、現在、私たちが見ている「ルター版」(1999年版)と異なる箇所がいくつもあるが、それは一々挙げなかった。ブラームスのスコアに従ったことをお断りする】