斉の歴史
崔杼の破滅
さて、崔杼には元々成と彊(きょう)という二人の息子がいたが、彼らの母が死んだ後に新たに東郭氏の娘(棠姜…前章を参照)を娶り、彼女との間に明という息子が生まれた。そして崔杼は棠姜の連れ子である棠無咎と、彼女の弟に当たる東郭偃(とうかくえん)を崔家の執事としたのである。
景公の元年(前547年)、二人の執事は崔成に替えて、自分達の血を引く崔明を崔氏の後継にしようと企んでいた。そんな折りに崔成が罪を犯し、棠無咎と東郭偃とが彼を取り調べることとなった。二人はこれ幸いと、崔成に後継の資格無しと崔杼に報告した。その結果、崔成は後継の座から外され、崔明が跡継ぎに任じられたのである。崔成はせめて崔の地に隠居させてほしいと父に訴えたが、執事たちは「崔は崔氏の宗廟のある土地ですから、聞き入れてはなりませんぞ。」と反対した。結局崔成のせめてもの願いもかなわなかったのである。
崔成と、その弟の彊は東郭氏の者たちの専横に激怒し、父とともに政権を握っていた慶封に相談を持ち掛けた。慶封はいずれ崔杼を除いて自分一人が政権を握ろうと考えていたので、二人に棠無咎と東郭偃を殺せばよいとそそのかした。
慶封の助言を得て気を強くした成と彊の兄弟は、崔杼の屋敷で棠無咎と東郭偃を殺した。崔杼は怒り心中に達したがどうしようも無く、よりにもよって慶封に助けを求めた。慶封は盧蒲(ろほへつ)に崔氏の屋敷を攻撃させ、成や彊も含めて崔氏の一族を皆殺にし、その家財を奪ったのである。棠姜は首をくくって自殺した。崔杼自身もこの状況に絶望を感じて自殺してしまった。崔明は何とか魯へ逃げ延びたが、事実上崔氏は滅亡したのである。
崔杼が死んだことで慶封は政権を一手に握ったが、気が緩んだのか酒宴や狩猟ばかりして政治を省みなくなった。そこで息子の慶舎が代わりに政務を行うこととなった。
景公の三年(前545年)、田氏(陳氏)・高氏・鮑氏・欒氏(らんし)といった大夫たちは、慶氏の専横を快く思っていなかった。そこで彼らは慶氏を倒すために密かに集まって謀議を重ねたのである。ある時、慶封が莱の地に狩りに出たのを好機として、大夫の鮑国や陳須無らはそれぞれ兵を率いて慶氏の屋敷を攻撃し、慶舎を殺した。慶封は猟から戻って屋敷に入ろうとしたが果たせず、魯国、次いで呉へと亡命した。慶封は呉の君主から朱方の地を与えられ、一族を住まわせて、その財産は何と斉にいた時よりも多くなったと言う。しかし後に楚の軍が攻めてきた時に一族ともども処刑されてしまった。
これにより、崔氏の乱をきっかけにして他国に亡命していた公子や家臣たちが斉に戻ってきた。斉の人々は先君・荘公の遺骸を新ためて葬り、崔杼の屍を市でさらし者にしたのである。