blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


晏嬰、国の行く末を憂う


氏・氏が滅びた後、晏嬰が宰相となって景公を補佐することとなった。晏嬰の滅亡に功績のあった晏弱の子で、夷維の出身と伝えられている。その身の丈は六尺(約140センチ)に満たなかったが、家では倹約に励み、国政の場では主君にへつらうことなく諫めの言葉を発したので、彼の名声は諸侯の間にも広まっていた。彼の最大の心配事は、氏(氏)が着々と勢力を伸ばし、公室を凌ぐほどの勢いになっていることであった。

景公九年(前539年)、晏嬰の公女と晋侯との婚約を取りまとめるため、に派遣された。婚約を済ませた後の宴の席で、晏嬰の大夫の叔向羊舌kitsu.gif (120 バイト)=ようぜつきつ)と雑談を交わした。「我が国はいずれ氏のものになるでしょう。公室が重税を取り立てて、一向に民にそれを還元しないのに対し、氏は民に恩恵を与えてしきりに私恩を売っていますので、民は氏を慕っています。」それに対して叔向、「我が国も似たようなものです。民は日々の生活に苦しんでいるというのに、我が君は贅沢に耽って政治を省みません。また、政権は氏・氏といった貴族によって握られており、公室の衰微は明らかです。」二人の予想通り、の二国は後に家臣に君主の座が奪われることとなる。

これより以前、景公晏嬰の屋敷が市場に近くて人々の喧騒がうるさい土地にあることを知り、別の土地に屋敷を建ててはどうかと勧めた。晏嬰は、「新しい屋敷を建てるのは私には過ぎた待遇でございます。また市場に近いと朝夕の買い物に便利なのです。」と言って断った。景公、「市場の近くに住んでいるなら、どんな物が高くてどんな物が安いかを知っておろうな?」晏嬰、「はい。市場では義足が高く、普通の履き物が安うございます。」当時、景公は刑罰を乱発したため受刑者の数が増え、従って足切りの刑を受けた者のための義足もよく売れたのである。景公晏嬰の言葉に諷意を感じ取り、刑罰を減らすことにした。

しかし晏嬰に赴いている間に、景公は彼の新しい屋敷を無断で建築し、周囲の民家をみな取り潰した。彼は帰還すると新しい屋敷を壊して元の住民を呼び寄せ、自分は前の屋敷へと戻った。

景公十六年(前532年)、恵公の子孫である欒施(らんし)と高彊は、氏と氏が勢力を伸ばしているのが気にくわず、結託して二氏を滅ぼそうと計画を練った。しかしその計画は陳無宇に知られてしまい、彼は鮑国と協力して逆にこちらから欒・高二氏を攻めることにした。思わぬ襲撃を受けて窮地に立った高彊欒施は、国君を自分達の手中に収めて劣勢を挽回しようと考えた。

これを阻止しようと陳無宇鮑国も、景公のもとに向かった。晏嬰の四氏からそれぞれ景公を引き渡すよう求められたが、いずれにも取り合おうとはしなかった。結局この争いは陳・鮑二氏が勝利し、欒施高彊へと亡命した。陳無宇鮑国二氏の財産を分け合ったが、晏嬰に諫められてそれを全て景公に差し出した。景公陳無宇kyo.gif (107 バイト)(きょ)の付近の邑を領地として授けようとしたが、彼はそれを辞退した。しかし公の母の穆孟姫陳無宇高唐の地を与え、それによって氏は更に強大化し始めたのである。


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