blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


夾谷の会


景公三十二年(516年)、に凶兆を示す彗星が出現した。景公は楼台に登ってその彗星を見て、「この楼台もやがては他人の物となってしまうのか。」と嘆いた。しかし晏嬰はそれに笑って答える。「我が君はこのような高い楼台を築かせたり、深い池を掘らせるために民から税を搾り取っておられます。このような事を為されていたのでは、彗星どころか、それよりなお悪いhai.gif (115 バイト)星(はいせい)が現れてもおかしくありませんな!」景公は心配になって晏嬰に尋ねる。「お祓いをさせれば災厄を逃れられようか?」「こういった凶星は、何万もの民の苦しみや恨みに応じて現れるのです。我が君一人がお祓いをさせたところで、どうして大勢の民の恨み辛みに勝てましょうや?」当時景公は自分の贅沢のために民から重税を取り立てていた。晏嬰は彗星を利用してそれを諫めたのである。

さて、その前年に昭公は重臣の三桓孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)に国を追われ、に出奔していた。孔子孔丘)もまたを来訪し、重臣の高昭子高張)のもとに身を寄せていたのである。その孔子が、高昭子のつてで景公に謁見することになった。

景公孔子に政治について問うと、「君は君、臣は臣、父は父、子は子としての道をそれぞれ尽くすことが政治の肝要でございます。そして財政に於いてはひたすら倹約に努めなければなりません。」と答えた。景公はこの言葉に感心し、孔子に領地を授けての大夫として登用しようとしたが、晏嬰は次のように言って反対した。「儒者というものは一様に滑稽多弁で、その言葉は全く信用なりません。この者らはみな傲慢不遜にして、いたずらに煩瑣な礼儀にこだわるばかり。この者を登用しての習俗を改めようとすることは、貧しい民に更に負担をかけるだけでございますぞ!」これによって景公孔子を登用しようとする気持ちは急速にしぼんでしまい、孔子は失望してに帰ることとなる。

景公四十八年(前500年)、景公定公と、夾谷(きょうこく)の地で両国の友好のための会盟を開くことになった。定公とともに、大司寇の地位に収まっていた孔子も会盟に参加すると聞き、大夫のsho.gif (126 バイト)(りしょ)は景公に言った。「孔丘は礼には明るいですが、勇には欠けています。の夷人どもに武器を持たせて魯公を脅かせば、会盟はこちらの思い通りになりましょう。」景公孔子を登用して国力を強大化させていくことを恐れていたので、この計略を実行することにした。

会合が一段落したところで、「四方の音楽を奏したい。」と言って、計画通りにの人々が鼓を鳴らし、手に武器を持って踊りながらの主従の前に現れた。孔子はそれを見て、血相を変えて「諸侯の会盟の場に蛮夷の舞楽を奏するとは何事か!」と叫び、の人々を処罰しようとした。景公は泡を食っての人々を下がらせた。さて、しばらくするとやはり「宮中の音楽を奏したい。」と言って、今度は俳優や侏儒(小人)が現れて戯れの踊りを披露した。孔子はやはり激怒し、今度は役人に命じて俳優たちをその場で処刑させてしまった。景公はこれに恐懼し、定公に非礼を謝罪して、更に以前から奪った土地を返還することを約束したのだった。

この年、長年景公を支えた晏嬰が亡くなった。


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