blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


司馬穣苴の兵法


話は晏嬰の死より少しさかのぼる。がそれぞれの城や領地に攻め込んでこれを奪い取ったことがあった。景公はこの知らせを聞いて思い悩んだ。そこへ晏嬰が「氏(氏)の一族の穣苴(じょうしょ)に軍を授けて、晋・燕の軍を討伐させれば良いでしょう。」と進言した。景公は早速穣苴を召し出して軍事について問うてみると、的確な答えを返してくる。これは有能な人物であると見て、彼を将軍に任じ、荘賈をその目付役とすることにした。

穣苴荘賈と「明日の正午、軍門で会おう。」と約束したが、翌日の正午になっても荘賈はやって来ない。夕方になってようやく姿を現した。遅刻の理由を問うと、大夫や親戚が送別の宴を開き、引き止められていたのだと言う。これを聞いて穣苴は激怒した。「今は国の危急存亡の時であり、士卒は身を風雨にさらして国境を守り、君主ですら国の事を思って食事は喉を通らず、夜は安眠できないというありさま。そんな状況下で送別の宴のために出陣に遅れて来るとは何事か!」穣苴は軍法に照らし合わせ、荘賈を斬罪に処した。この激烈な処分を目の当たりにし、三軍の将兵は震え上がった。

さて、荘賈は元々高位にある貴族で、景公の覚えがめでたい。景公荘賈を処刑させてはならんと軍中に使者を遣わしたが、穣苴は「将たる者は軍中にあっては、君主の命令も聞かない場合がある。」と言って取り合わない。あまつさえ、景公の使者が馬車に乗って陣中に飛び込んで来たのを罪に問うた。その使者も本来は軍法によって処刑されるところであったが、君主の使者ということで特別に、その馬車の御者や副馬(そえうま)の首を斬るだけで済ませた。彼はやはりその首を全軍に見せ、綱紀の粛正をはかった。

しかし一旦出陣すると、穣苴は士卒の宿営や飲食のこと、更には病兵・傷兵の手当にも気を配って見て回った。また自身の給与は全て士卒に振る舞い、食事は兵士のものと同じものを食べた。そうして三日もたつと全軍の士気が高まり、病気の者までもがみなと一緒に戦地に向かいたいと申し出るようになった。の軍はこの事を聞いて穣苴の手腕を恐れ、退却を始めた。穣苴はすかさず退却の軍を追撃させてこれを打ち破り、晋・燕に奪われた領土も全て取り返したのである。

景公は穣苴の働きに大変満足し、彼に大司馬(国軍を司る最高の官)の地位を授けた。これより彼は司馬穣苴と呼ばれるようになった。こうして氏の地位はますます高くなったが、譜代の氏・氏・氏がそれを妬むようになった。彼らは景公穣苴の悪口を吹き込み、景公もそれを信じて穣苴を罷免したのである。彼はそのショックが元で病にかかり、死んでしまった。

田乞陳無宇の息子)や田豹といった彼の親戚たちは、この件が原因となって氏や氏を深く恨むようになった。その後、田乞の息子・田常田恒)は主君の簡公を弑した時に高・国の一族も皆殺しにした。そしてその子孫が氏から国君の位を奪い、更に田因斉威王として即位すると、古の司馬の法を書物にまとめ、その中に司馬穣苴の兵法も書き入れさせた。これが今にも伝わる兵法書・『司馬法』である。代にはこの書は百五十五篇あったと言うが、現在ではそのうちの五篇しか伝わっていない。


戻る    「斉の歴史」トップへ    次へ