blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


呂氏の滅亡


簡公の四年(前481年)、簡公田常田成子田恒)とともに監止子我)という男に政治を執らせた。監止簡公が父の悼公に亡命していた頃からのお気に入りで、田常といえどもうかつに手を出せなかった。簡公の御者の田鞅は主君に「氏と氏は並び立つことが出来ません。我が君はどちらか一方をお選びになりますよう。」と忠告したが、聞き入れられなかった。

さて、氏一族も一枚岩というわけではなかった。一族の一人・田豹はかつて、田常の政敵・監止に仕えていたのである。監止田豹を利用して氏の勢力を弱めようと考え、彼にある企みを持ち掛けた。「わしは氏の嫡流を滅ぼし、お前を新たな宗主に立ててやろうと考えているが、どうであろう?」しかし田豹は、「私は氏の中でも傍流にあたり、宗家を継ぐ資格はありません。」と言ってその申し出を断った。そしてその足で田常のもとに駆け込み、監止の陰謀を全て告白してしまった。田常はそれを聞いて、遂に監止を倒す決心を固めたのである。

その年の夏に、田常田豹田逆といった一族の者を取りまとめて簡公のもとに攻め入った。田逆が自分達に刃向かう宦官を殺していき、楼台で女と酒を飲んでいた簡公を捕らえた。簡公の怒りは凄まじく、自ら戈(か)を手にとって田常に襲いかかろうとしたほどであった。「我らは我が君に危害を加えるつもりはなく、ただ奸臣を除こうとしているだけです。」と説得しても聞き入れない。その剣幕に恐れをなして、田常は「これからの事を考えると他国に亡命した方が良いのかもしれない。」とこぼした。すると田逆がこれまた怒って言った。「今更怖じ気づくとは何事です!あなたがあくまで亡命するとおっしゃるなら、祖先に誓ってあなたを殺してしまいますぞ!」田常はようやく亡命を思い止まった。

一方の監止も軍をまとめて氏に対抗したが敗北し、逃亡の果てに結局は氏の手の者に捕らえられ、郭関で処刑されてしまった。また田常は、監止の一党である大陸子方東郭賈)をも殺そうとしたが、田逆が命乞いをしたので死罪は取りやめにした。更に彼が雍門から他国に亡命しようとすると、田豹がやって来て彼に馬車を与えると言う。しかし大陸子方はそれを断って言った。「お気持ちはありがたいが、これ以上氏の方々からご厚意を受けることは出来ません。子我様に仕えていながら仇の氏から恩を受けたとなれば、亡命先のの人々合わせる顔がなくなります。」

簡公はその後、都から出奔したが、徐州で捕らえられた。「田鞅の忠告に従っておれば、こんな事にはならなかったのに。」と嘆息したが、覆水盆に返らず。簡公田常に処刑されてしまった。 

田常簡公の弟を新たな国君に立てた。これが平公である。これ以後田常国の政治の実験を手中に収め、公室の土地を奪って氏の領地としていった。斉侯の位は平公の後、宣公康公と受け継がれ、氏も田襄子田盤)・田荘子田白)と代替わりし、政権を専らにした。

康公の十九年(前386年)、田常の曾孫・田和(でんか)は、酒色に耽って国政を省みないことを理由に康公を浜辺の町に移し、そこで氏の祖先の祭祀を行わせることにした。そして田和の国君の位を簒奪して即位した。これが田斉太公である。彼はの天子にも根回しをし、周王や他の諸侯からも正式に斉侯として認められるようになった。

それから七年の後(前379年)、康公が亡くなり、かくて太公望以来の氏の血統は滅亡した。から分かれ出た韓・魏・趙が正式に諸侯と認められてから既に二十四年の歳月が過ぎていた。この田斉の成立により、中国は本格的に戦国時代に突入していったのである。 


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